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今でも大方には名前も仕事も知られず、生きた証もわずかの人の記憶に留められている、そんな生涯を送る人はほとんどだろうし、それこそがまっとうな生き方でもあると、ぼくなどは考えてきました。できれば、そのような人生を過ごしたいと念じても来ました。「一隅を照らす、これ則ち国宝なり(「照于一隅此則国宝」)」(「山家学生式」・818‐819)といったのは最澄さん、伝教大師です。ぼくは空海もよくわからないけれど、最澄はもっとわかりません。でも、この言葉だけはよく胸に刻んできました。「名を成す」「名を挙げる」「世に出る」などという生き方は、それも一つの流儀ですが、ひそかに「一隅を照らす」人間になれればなりたい、それこそ本望だと願い続けてきたのです。ぼくのような怠惰きわまりない人間にも、かかる生き方を示し得た人というのは、世にいくらもいるというものではありませんが、小笠原登氏は、まさにその一人でした。亡くなられた岡部伊都子さんは、しばしば小笠原さんのことを話されていましたから、なおさらぼくには印象が深い人となったのです。文字通りに「一隅を照らす人」だったのではなかったか。

上に掲げた記事は中日新聞(2018/11/24・朝刊)のものです。小笠原さんの履歴や生涯は書かれている通りです。この国における「ハンセン病治療」の門を開いたのは、いうまでもなく光田健輔氏でした。未知の病として恐れられていた時代、果敢に医学者としての義務を果たされ、一躍救いの神の如き評価を受けられてきた人でした。ハンセン病は不治の病だから子孫を残さない、そのために断種手術や卵巣摘出手術を実行した人でもありました。隔離政策が国策となったことも彼の指導が大きかった。彼の業績を含めた人となりは「小島の春」(女医であった小川正子さんの著書の映画化です)という映画によくあらわされています。

○ 光田健輔(みつだけんすけ)(1876―1964)=日本の救らい事業に尽くした医師。光田反応など、ハンセン病(旧称、癩(らい))医学の面での業績も多い。山口県生まれ。済生学舎を卒業(1896)し、医術開業試験に合格。帝国大学医科大学の選科で病理学を修めたのち、1898年(明治31)より東京市養育院に勤めたが、ここでハンセン病の患者に接したことより、ハンセン病に関心をもつようになり、同院内にハンセン病患者専用の「回春病室」を設営したのをはじめとして、行政・有識者などにハンセン病予防について提言。1909年(明治42)に創立の公立らい療養所全生(ぜんせい)病院(東京)の医長、1914年(大正3)には同院長となり、さらに1931年(昭和6)、岡山県下、瀬戸内海の島に前年設立された最初の国立らい療養所長島愛生(あいせい)園の園長として赴任し、1957年退官するまでその地位にあり、全国のハンセン病療養所の充実に努め、ハンセン病の患者数を減少させるのに貢献した。朝日社会奉仕賞、文化勲章(1951)を受けた。著書に『癩病理図譜』などがある。渋沢栄一がその事業を支援し、優れた女医や看護師を育てた。[長門谷洋治]『藤楓協会編・刊『光田健輔と日本のらい予防事業』(1958)』▽『青柳緑著『癩に捧げた八十年――光田健輔の生涯』(1965・新潮社)』▽『内田守著『光田健輔』(1971・吉川弘文館)』(日本大百科全書・ニッポニカ)
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「ぶれずに信じる道」 ハンセン病隔離に抵抗した医師の映画完成
厳しい偏見と差別にさらされたハンセン病患者に戦前から寄り添って治療を続け、国策の「患者隔離」に抵抗した医師で僧侶の小笠原登(1888~1970)。その生き様を描いたドキュメンタリー映画「一人になる」(1時間39分)が完成した。プロデューサーの鵜久森典妙(うくもりのりたえ)さん(72)=兵庫県西宮市=は「現在の新型コロナウイルスでも感染者や家族、医療従事者への偏見や差別が問題になっている。小笠原の生きた時代、生き方に学ぶことは現在にも通じる」と話す。6月4日から京阪神で順次公開される。
国策や医学界に一人で抵抗

ハンセン病は感染力が弱いが、国は96年に「らい予防法」を廃止するまで約90年間、「強烈な伝染病、不治の病」と誤って患者や家族の人権を無視する強制隔離や断種手術を続けた。/ これに対し、真宗大谷派の「円周寺」(愛知県あま市)に生まれ、1915年に京都帝大医科大(現京大医学部)を卒業した小笠原は京大病院で患者に寄り添う治療を実践。「感染力が弱く、治る病気。隔離は不要」とし、療養所への入所を望まない患者のカルテには病名を書かなかったり、「皮膚炎」など別の病名を記したりして国策や医学界に一人で抵抗した。戦後、京大病院を退いた後も国立豊橋病院(同県豊橋市)に勤務しながら円周寺で患者の治療を続け、国立療養所「奄美和光園」(鹿児島県奄美市)にも赴任。82歳で亡くなった。

2019年6月の熊本地裁判決は、隔離政策で差別を受けた元患者家族に対する国の責任を認め、家族への賠償を命じた。この年は小笠原の五十回忌に当たり、功績を知る人たちが、老朽化した円周寺が建て替えられる前に映像で残したいと念願。記録映画「もういいかい ハンセン病と三つの法律」を作った鵜久森さんと、監督の高橋一郎さん(67)=神戸市須磨区=に相談した。/ 高橋監督は「家族訴訟の熊本地裁判決は人権啓発教育の不在も指摘し、私たちも重く受け止めた。ハンセン病差別の実態と、群れず、ぶれずに信じる道を歩んだ医師の存在を伝える映画にしたい」と快諾したという。/ 小笠原の治療を受けた元患者やハンセン病研究家らの証言、日記に基づく再現ドラマなどを19年9月末から撮影。20年秋の完成予定がコロナ禍の影響で遅れたが、21年3月に女優の竹下景子さんの語りの録音を済ませて完成した。/ 6月4日、大阪市のシアターセブン(06・4862・7733)で上映会と、ハンセン病の元患者や高橋監督らによるシンポジウムを開催。4日から京都市の京都シネマ(075・353・4723)▽5日からシアターセブン▽12日から神戸市の元町映画館(078・366・2636)で上映する。問い合わせは映画製作委員会(072・845・6091)。【北出昭】(毎日新聞 2021/5/27)
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神谷美恵子という人が書かれた「生きがいについて」(1966年4月刊)というエッセイはよく読まれました。神谷さんは医師でもあり、光田氏に導かれてハンセン病治療にも当たられていました。幼児の頃、教会で教えられた病気のことに関心を持ち、さまざまな経験を重ねて、後年には療養所にも通われた方でした。彼女は父の仕事の関係で小学校は欧州で送る。心理学者だったピアジェの学校に入られたと言います。兄はパスカル研究の前田陽一氏。
「生きがい」とは何か、今でもぼくには難しい問題ですが、神谷さんは「それは葛藤から生まれる」と言われます。苦悩の果てに「生きがい」が見いだせるのでしょうか。「生きがいがある」「生きがいがない」というのは人間ですが、「生きがいは」人が作れるものではなさそうです。むしろ「与えられる」というべきでしょう。「恩恵」というほかないようにも思われます。「健康になる、健康でない」と言います。確かに人の健康は、その人の意識に依るのでしょうが、さらにそれを深く考えていくと、健康もまた「恩恵」であると思われてくるのです。恩恵とは「恵まれる」という意味です。

神谷さんは、光田氏の指導を受け、ハンセン病者と積極的にかかわられたのでした。今となれば、光田氏のハンセン病に対する学識や治療法は、まったく間違いであったことが明らかであります。その時、彼の周囲に集まった人々(神谷さんや小川正子さんを含めて)、そのハンセン病者とのかかわり方には何らかの困難な事態が生じているともいえるのです。取り戻せないからこそ、やっかいでもあるのですが。「善意」や「信念」から、というだけでは看過できない問題が残されています。
そのことを含めてなお、小笠原登さんの医師としての業績、人間としての情愛の深さには敬意を表するばかりです。何時の時代にも、どんな場所にも「一隅を照らす」人が求められているし、その必要は必ず満たされるのではないでしょうか。ただ、ぼくたちにはいつでもそれが理解できたり、意識できたりするとは限らないのです。「一人になる」というのは、好き好んでという意味ではなく、きっと最後には一人になるということでしょう。徒党を組むな、というのも、汲むとか組まないという状況を越えてしまうから、「一人になる」なんでしょうね。「一人になる」、それを恐れる理由も、必要もないんだとも言えますね。

○ 神谷美恵子【かみやみえこ】精神科医,著述家。東京生れ。父前田多門はILO日本代表,のち文部大臣,兄前田陽一は東大教授(フランス語・文学)。津田英学塾を卒業後,米国コロンビア大に留学し,ギリシア文学と医学を学ぶ。帰国後,東京女子医学専門学校に学び,東大病院精神科医局に入る。神戸女学院大に勤務するかたわら,1958年−1972年瀬戸内海のハンセン病国立医療所〈長島愛生園〉で医療活動に従事。この施設で患者と生活をともにするなかで,《生きがいについて》や《こころの旅》を執筆。1963年−1976年津田塾大教授。マルクス・アウレリウス《自省録》の翻訳なども残した。著作集(全5巻)がある。(百科事典マイペディア「神谷美恵子」の解説)
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