生い立ちは誰も健やか龍の玉(化石)

【三山春秋】 片品村の山道を歩いていたら「ポポッ、ポポッ」と鼓を打つようなツツドリのさえずりが聞こえた。春から夏にかけて日本に飛来し、托卵して他の鳥に子育てしてもらう習性がある。姿を見つけるのは難しいが、鳴き声ですぐ分かる▼草津町の国立ハンセン病療養所「栗生楽泉園」でさえずりにじっと耳を澄ませていたのが俳人の村越化石さん(1922~2014年)である。〈筒鳥や山に居て身を山に向け〉。第4句集を『筒鳥』と名付けた▼本県ゆかりの俳人としては村上鬼城と並び、全国で最も名の知られた一人だろう。角川俳句賞や蛇笏賞、山本健吉賞など俳壇の名だたる賞に輝き、紫綬褒章を受章している▼16歳のときハンセン病を宣告された。東京で治療するよう促され、拒むと母から「それなら私と一緒に死んでくれますか」と迫られた。故郷を離れ、療養中に出合ったのが俳句だった▼本名を名乗ることができず、世の中に出て暮らすこともかなわない。俳号の化石は「生きながらにして土に埋もれ、石と化した物体のような自分をなぞらえた」。〈生い立ちは誰も健やか龍の玉〉。苦難の果てにたどり着いた境地をこう詠んだ▼「魂の俳人」と呼ばれ、ふるさとの静岡県藤枝市に02年、句碑が建立された。除幕式に出席するため帰郷したのは60年ぶりのこと。〈望郷の目覚む八十八夜かな〉。碑には尽きぬ思いが刻まれた。(上毛新聞・2021/06/01)

 ・よき里によき人ら住茶が咲けり 

 ・茶の花を心に灯し帰郷せり

 ・望郷の目覚む八十八夜かな (以上は化石作)

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 望郷の八十八夜(2020年5月1日配信『北海道新聞』-「卓上四季」)

 初夏を感じさせる薫風の5月だ。きょうは立春から数えて88日目に当たる八十八夜。「八十八夜の別れ霜」は遅い霜を警告すると同時に、これを過ぎれば気候も安定してくることを教える▼一年で最も気持ちの良い季節のはずが、新型コロナウイルスの影響で、多くの人が晴れ晴れしない日々を強いられている。外出自粛で帰省できない人、故郷で子や孫との再会を待ち望む人、双方にとって我慢の連休となった▼唱歌にも歌われた茶摘みの最盛期を特別な思いで過ごした俳人がいる。「望郷の目覚(めざ)む八十八夜かな」と詠んだ村越化石さんだ。静岡県の茶どころで生まれた村越さんは16歳でハンセン病と診断され、古里を離れた。強制隔離で追われるように去った故郷を慕う心が切々と伝わる一句である▼79歳の時、この「望郷」の句碑の除幕式に出席するため故郷を訪れる。実に、60年ぶりの帰郷だった▼ハンセン病は戦後、特効薬が開発され、完治する病気となったのに、その後も誤った隔離政策が半世紀近く続き、元患者と家族は激しい差別にさらされた。感染症が差別や偏見と結びつきやすい典型的な例と言えよう▼誰もが新型コロナウイルスの感染者となり得るにもかかわらず、ネットなどで感染者への誹謗(ひぼう)中傷がやまない。感染者への攻撃は、行動履歴調査への協力をためらわせ、感染を助長するだけでなく、社会に癒え難い傷痕を残す。

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 上毛新聞については、どこかで触れました。当人(ぼく)の許可を得ないで勝手に記事にされたので、取り消しを求めたという件でした。写真付きで掲載してやるのだから、文句を言う筋かということだったかもしれません。当方の申し出には応じてくれなかった。それはともかく、草津の栗生楽泉園。この道筋は何度通ったかもしれませんが、ついに一度も園を訪ねることはしなかった。入所者の方とはほんの少しばかりの交流がありました。村越さんとは面後はもちろんありませんでしたけれども、その作品は早くから目にしていました。

 近年「ハンセン病文学全集」が刊行され、安野光雅さんの装丁になる素晴らしい作品群にまみえるのを楽しみにして、熟読に努めたことでした。この国における「ハンセン病の歴史」に関してはいくつもの勝れた研究が見られます。その多くに目を通したうえで、今日、いったいこの病に対してどれだけの施しがなされて来たであろうかと思うと、実に暗澹として気分に襲われてしまうのです。国の厚生行政がどんなに非道なものであったか、それは現下のコロナ禍にも、否定し得ない事実として、連綿として続いているのです。無責任で無慈悲な政治家の心根を、ぼくたちは許すことが出来ないし、その尻馬に乗っかってきた、多くの人民大衆もその責めを免れないと、ぼく自身の悔いと無為無策を恥じつつ、それでもそのように、いうほかありません。

 東京都下の多摩全生園にも何度か伺ったことがあります。若い人たちに是非訪問するようにと、しばしば声をかけたことでした。今ではとても遠い記憶の彼方に隠れてしまったような出来事もありました。「風の舞」という映画が完成した時です。監督の宮崎信恵さんと映画の中で詩を朗読された吉永小百合さんと、いっしょに舞台に立ったことがありました。詩人の塔和子さんの生涯を、彼女の書かれた詩作品の朗読を交えて淡々と記録した映画で、改めて観たいと、今も強く願っているほどです。塔さんの作品が全集になりました。すでに、そのほとんどを所有しているはずですのに、また求めようとしています。読み直すことを楽しみにしているのです。

 また、熊本の菊池恵楓園(だったと記憶しています)を舞台にした、実際の事件を扱った中山節夫監督の映画「厚い壁」を観た際にも、監督と親しく話をすることが出来ました。この菊池の事件では、ぼくの友人が実際に遭遇した「無癩運動」の最中に起った、理不尽極まりない、痛ましい事件が扱われていました。

 右の詩は塔和子さんの「胸の泉に」で、この詩をもとにして素敵な歌を作られ、それを自身で歌っておられるのが、澤知恵さん。(左下の写真)「かかわらなければ」がそれです。彼女は、教会の牧師だった父に連れられて、幼時の頃から大島青松園に通われていたと言います。今なお、彼女の青松園でのコンサートは続いています。そのためでしょうか、以前は千葉県佐倉市の隣町に住んでいたのですが、近年は広島だかに転居されたそうです。その貴重な活動に対して、ぼくは敬意を表するものです。(かなり前になります、彼女からハガキをいただいたことがあります。それだけでのこと。

 右下の写真の神(こう)美智宏さんにも親しくお話を伺ったことがありました。神さんは、長く「入所者」の生活の改善や福祉政策の立案などを要請するために精力的に働かれてきた方でした。もう何年か前に亡くなられました。塔和子さんも、数年前になりますが亡くなられた。

 関係者が姿を消してしまえば、その問題は存在しないという、驚くべき発想や政治的判断が、どんな懸案に対しても、この島社会では働いてきました。やがて「ハンセン病問題は終わった」ということにしてしまうのです。原爆被爆者に関してもその姿勢は一貫ていました。福島原発被害はすでに終わったことであり、被害者も存在しない、だから五輪は開催だという、二の句が継げない挙措をどうするのか、ぼくたちは歴史の側から問われているのです。

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○ 村越化石=1922-2014 昭和-平成時代の俳人。大正11年12月17日生まれ。ハンセン病をわずらい群馬県草津の栗生楽泉園に入園,栗の花句会(のち高原俳句会と改称)に入会する。昭和24年から大野林火に師事し,28年「浜」同人。49年「山国抄」で俳人協会賞,58年「端坐」で蛇笏(だこつ)賞。平成20年「八十路」で山本健吉文学賞。平成26年3月8日死去。91歳。静岡県出身。本名は英彦。句集はほかに「八十八夜」など。(デジタル版日本人名大辞典+plus)

○ 塔和子 とう-かずこ=1929-2013 昭和後期-平成時代の詩人。昭和4年8月31日生まれ。昭和18年ハンセン病により国立療養所大島青松園に入園。26年歌人の赤沢正美と結婚して短歌を詠みはじめ,のち自由詩の創作をはじめる。36年第1詩集「はだか木」を出版。「第一日の孤独」「聖なるものは木」がH氏賞候補になり,平成11年第15詩集「記憶の川で」で高見順賞を受賞。平成25年8月28日死去。83歳。愛媛県出身。(同上)

○ 神 美知宏氏(こう・みちひろ=全国ハンセン病療養所入所者協議会会長)9日死去、80歳。連絡先は東京都東村山市青葉町4の1の1の多磨全生園。お別れの会は13日午後0時30分から同園。ハンセン病の元患者として、療養所入所者の尊厳回復の運動をけん引。同協議会の事務局長、会長を務めた。(日経新聞・2014年5月10日)

 かかる「病」に罹患した人の生涯、それを、ぼくたちはいかにして受け止めることができるのか。あるいは、受け止めることを求められているのか。歴史に学ぶと言いますが、なまなかな態度からは何も学べないことだけは確かです。ぼく自身の怠惰や退廃を棚に上げないで、自分の心と向き合う中で考えていきたいと願うのです。

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。