
【有明抄】コロナの波とサーフボード 朝か夜、その日の気分で近くの川沿いを歩いている。ここ数日は迷わず夜を選ぶようになった。天候によって姿を見せる蛍が目当て。川面に目を向けると、数匹の蛍が明滅を繰り返し、散歩の楽しみが倍増する◆〈夏は夜。月のころはさらなり。やみもなほ、蛍の多く飛びちがいたる。また、ただ一つ二つなど、ほのかにうち光りて行くもをかし。雨など降るもをかし〉(枕草子)。平安の女流作家と同じではないかと独りごちて、夜をさまよっている◆清少納言の時代から約千年。現代社会に生きていると、昔の人よりも優れているような錯覚に陥るが、感性は鈍ってこそすれ、勝っているわけではない。まあ、人間はそう変わらないと思えば面白くもある◆新型コロナ感染の最初の波を越えた頃だろう。歌人の俵万智さんは〈第二波の予感の中に暮らせどもサーフボードを持たぬ人類〉と詠んだ。今は第4波のただ中にある。緊急事態宣言は延長が決まり、佐賀県も「医療機関を守る非常警戒措置」を延ばした。ワクチン接種が収束への光なのだが、日本ではまだ蛍のように淡い点滅である◆人間の感性は変わらずとも、科学技術は間違いなく進歩している。開発されたワクチンと、接種を加速する態勢づくり。この二つがセットになってこそサーフボードは役割を果たす。人類の進歩に光あれ。(知)(佐賀新聞Live・2021/05/29)
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「 現代社会に生きていると、昔の人よりも優れているような錯覚に陥るが、感性は鈍ってこそすれ、勝っているわけではない。まあ、人間はそう変わらないと思えば面白くもある 」とコラム氏は書く。確かに「錯覚」だと思いますね。「感性は鈍ってこそすれ」というところがなんだか変だ。「鈍っておりこそすれ」かな。それはともかく、「人間はそう変わらないと思えば面白くもある」という、その「面白さ」はどんな内容でしょう。今時の人間も、千年前の時代人とちっとも変わらないなあ、でも、まあいいか」というのか。「蛍を愛でる」に昔も今もないと見れば、今が昔で昔が今だという、なんと可笑しいことよ、でもないか。ちょっとしっくりこないねえ。俵万智氏とも、因縁がありました。それはどうでもいい。「サーフボードを持たぬ人類」という表現はどうでしょう。サーフボードが救命ボートになるのに、持たないのが悔しいというのか、あるいはサーフボードに乗って遊ぶところ(海)まで、コロナはやってこないというのかしら。ようわからん。
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ぼくの友人には何人かの物理学者がいたし、生物学者も多数いました。若いころから、頻繁に彼等と交わり、大いなる刺激を受けてきたのでした。いわゆる自然科学の分野に関して、ぼくはまことに無能無知であったせいもあり、何かといっては彼等と議論をした、という以上に、たくさんの事柄を教えられました。その中でも天体物理学の研究者とはいろいろな機会に物理学、ときに天体物理学の話題を取り上げて、彼から一方的に教えられたのでした。彼の大学院時代の指導教師ともよく話をしました。今でも交流がつづいています。あるとき、T氏(天体物理学者)に尋ねたことがありました。「ぼくはアメリカの科学者・科学史家の本をさかんに読んでいて、とても刺激を受けている。その人は S.J.Gould と言います。彼の科学論、例えば「進化論」に関する考察は、どのような位置にあるのでしょうか」と。彼は、即座に「グールドは素晴らしい研究者であり、サイエンスライターで、自分もよく読んでいる」と答えた。
それに意を強くしたわけでもありませんが、しばらくの間は、ぼくの「グールド熱」は少しも下がらなかった。たくさんの学習機会を得たのですが、中でも「進化論」に関する彼の視点には大いなる刺激を受け続けてきました。ここでは余計な素人意見を言わないでおきます。グールドの率直な考察をかみしめてみたいと思うばかりです。(もちろん、彼に反対する科学者はたくさんいます。それは当然のことであり、それでもグールドは持論をさらに展開してきたのでした)

「もっとも聡明な研究者は、いつの時代にあっても、化石の記録は西洋文明が希求する慰めを提供してくれないことに気づいてきたと思う。生物の複雑さは全時代を通じて着実に増大してきたというようなことがあるとしたら、そこに進歩の明確な目印を読みとることができる。しかし、そのような見解は、基本的な証拠によってさえ支持されない。地球上のたいがいの環境には、昔も今も常に、単純な生物が充溢しているからだ。この否定しようのない事実を突きつけられると、進歩観の支持者たち(すなわち進化思想に連なる全員)は、それまでの規準を変え、最後の頼みの綱にすがる。(変更した基準にしても、まさかそれほどとはとびっくりさせられるほど頼りない代物だとは思われてこなかった可能性がある。なぜなら、その脆弱さを認識するためには、とにかくまず本書で説明している論拠、すなわちトレンドはどこかへ向かうモノではなく変異の変化なのだということを正しく理解しなければならないからだ。)要するに進歩観にすがりついているひとたちは、いちばん複雑な生物の時代的変遷だけに目を向けてきた」 (S.J. グールド「最頻を誇る細菌の威力」『フルハウス―生命の―全容』14章、ハヤカワ・ノンフィクション。03年)
「化石として保存されている最古の生命形態は、すべて原核生物、大ざっぱな意味での「バクテリア」である。それどころか、生命の歴史の半分以上はバクテリアしか登場しない物語なのだ。(中略)というわけで、生命はバクテリア状態から出発したのだ。そして生命は、バクテリア状態を今なお同じ位置に維持している。つまりそれは、始まりで、現在であり、永遠なのだ。少なくとも太陽が爆発して地球を破滅させるまで。さてそこで、生命の全容における変異という適切な規準を用いる場合、複雑さの状態が変化していないとしたら、進化の歴史は進歩の歴史だなどという言い方ができるだろうか。(S.J. グールド・同上)

さらにグールドからの引用を続けます。煩雑になることをあえて犯します。なぜ「進化は進歩ではないのか」を考えたいからです。今日のコロナウィルスの「変異性」にも大きなかかわりがあるのではないかと、ぼくはみています。
「 進化論とはどのような思想なのだろうか。古いもの、劣ったものはどんどんと新しい優れたものに乗りこえられていくというのなら、それは明らかにまちがいだ。人間世界の日々の行状を眺めれば、そんなに暢気な話ではないということが分かろうというものです。それはかぎりなく、あらゆるものを含みながら、時間の果てにえんえんと伸びていくプロセスであり、ひとりの人間でも地球上の全生物についても、それは妥当するでしょう。/ 生物の進化はどうしてエヴォリューションと呼ばれるようになったのか、という歴史をたどってみたい。この話はこみいっており、語源を探るという単なる好事家の仕事としてだけでも楽しいものである。けれども、ここにはもっと大きな問題が含まれている。すなわち、科学者がこの言葉で表現しようとする意味に関して、今日、欧米の一般の人びとは共通した誤解をもっているが、それはこのエヴォリューションという言葉の過去における使われ方に問題があるのである。
まず、思いがけない話からはじめることにしよう。ダーウィン、ラマルク、ヘッケルの三人は、それぞれ進化について論じたイギリス、フランス、ドイツを代表する十九世紀最大の学者だが、三人とも彼らの代表的な著書の初版では、エヴォリューション(evolution)という言葉を使っていなかった。ダーウィンは「変化を伴う由来」(descent with modification)と言い、ラマルクは「変遷」(transformation)と言った。ヘッケルは「転成論」(Transmutations-Theorie)もしくは「由来の説」(Descendenz-Theorie)という言い方を好んだ。なぜ彼らはエヴォリューションという言葉を使わなかったのだろうか。また、生物の進化についての彼らの説は、どうやって現在用いられているエヴォリューションという名前をもつようになったのだろうか。

ダーウィンが自分の理論を呼ぶのにエヴォリューションという言葉を使うのを避けたのには二つの理由があった。一つは、この言葉が、彼の時代にはすでに生物学上の術語としてある意味をもっていたことである。実際、エヴォリューションは発生学上の或る説の内容を指す言葉であったが、この説は生物の発生についてのダーウィンの見解とはまったく相いれないものであった」(スティーヴン・ジェイ・グールド『ダーウィン以来』ハヤカワ文庫。1995年)(Ever Since DARWIN Reflection in Natural History.1977)
「進化論」の親玉(ダーウィン)が「進化」ということばを使わなかったというのです。その理由は?
一七七四年にアルブレヒト・ハラー(ドイツの生物学者)は「小さな人間」という説をうちだし、それをエヴォリューションと名づけたのです。胚は卵子または精子のどちらかに閉じこめられている前もって形成されたホムンクルスが大きくなっただけだといったのです。これを展開説(前成説)といいます。ラテン語のエヴォルヴェーレ(evolvere)という動詞は「巻かれていたものがひろがる、展開する」という意。
ところがこのエヴォリューションという語はダーウィンの時代には日常的に使われていたのです。「一連の長い出来事が順序正しく次々と現れてくること」「萌芽的な状態から成熟ないし完成した状態への発展過程を意味する」(OED)このように日常語としてのエヴォリューションは「進歩」(progress)概念とかたく結びついていたのでした。
グールドは『種の起源』の最後の部分を引用します。
「生命はそのあまたの力とともに、最初わずかのものあるいはただ一個のものに、吹きこまれたとするこの見方、そして、この惑星が確固たる重力法則に従って回転するあいだに、かくも単純な発端からきわめて美しくきわめて驚嘆すべき無限の形態が生じ、いまも生じつつある(have been , and are being evolved)というこの見方のなかには、壮大なものがある」(同上)

ダーウィンはこの「進化」なる語をじつに慎重に使っているとグールドはいいます。それは「進化」が「進歩」とはけっして結びつけられてはならないと考えたからです。
進歩と進化はどうちがうのか?(このつづきは、同書を読んでほしい)(本当は、この先もグールドを介して、「進化=進歩」論の誤りを考察したいのですが、いささか煩わしくなるのと、「一日漫歩」や「猫と戯れ」の時間が奪われそうなので、すこし事態が落ち着いてからにしたいと思う。それにしてもグールドは刺激があり過ぎます。彼は若くして亡くなりましたが、いまなお人気があって、彼の著作は読まれ続けているという。ぼくも読みつづけたいですね)
無駄話ばかりで、かなり長くなりました。これで終わりにします。一言だけ、「新型コロナの変異株」だの「変異種」と言っています。それはどういうことでしょうか。問題は「変異」です。ただいま、「変異株」のパンデミックが猖獗を窮めています。「変異」とは何か、それは「突然変異」という生物学のメインテーマでもあるのです。進化と進歩の差、それと「変異」との関係、考える必要がある問題が続出しています。
○ 変異(へんい・variation)=同一の群に属する異なる生物の間にみられる形質の相違をいう。同種内での個体の地域的変異とか,各品種の代表的個体を比較しての品種間の変異とか,属のなかでの種レベルでの変異とか,いろいろなレベルでのまとめ方が考えられる。変異には,連続的・非遺伝的・一時的な個体変異と,不連続的・遺伝的・永久的な突然変異があるが,いずれの場合にも,個体発生に伴って遺伝または環境の作用で確立してきた差異という含みがある。また,突然変異 mutationという語が,2語の合成語の感じがあり,長いため,文意が明らかなとき,しばしば単に変異と略していう。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典「変異」の解説)
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- 突然変異はすべての生物において、遺伝子の複製過程で一部読み違えや組み換えが発生し、遺伝情報が一部変化する現象です。
- この中で、新しい性質を持った子孫ができることがあります。この子孫のことを変異“株”と呼称します。変異株は、変化した遺伝情報の影響を受けた一部の性質が変化していますが、もともとの生物の種類は変化していません。この場合、同じウイルスの複製バリエーションにすぎませんので、ウイルスの名称は変化しません。
- しかしながら、極まれに近縁の生物種の間で多くの遺伝子の交換(組み換え)が起きると、2つの生物種の特徴を併せ持った新しい生物種が誕生することがあり、その場合には変異“種”と呼称します。この場合、新型のウイルスが誕生することになるので、新しいウイルスの名前が与えられます。
- 今回の変異株は、新型コロナウイルスのスパイクタンパクにN501Yという特異的な変異が起こり、宿主細胞への感染力が強くなったという性質の変化がありますが、元来もっていた新型コロナウイルスの基本的特性はほとんど引き継がれておりますので、依然として新型コロナウイルスのままですので、変異“株”と呼称すべきです。(最終更新日:2021年1月29日・一般社団法人 日本感染症学会)(https://www.kansensho.or.jp/modules/news/index.php?content_id=221)
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