原始人とは誰のことなのか

 このところ、さかんにホトトギスが啼きます。「忍び音漏らす夏は来ぬ」と佐佐木信綱は詠みましたが、さて今年は、その忍び音(初鳴き)を訊いたのがいつだったか、定かには思い出せない。毎年のようにウグイスの初鳴きをメモにしている。昨年はかなり遅く、ぼくは心配したのですが、やがて例年通りに清々しく啼きだしました。そのウグイスの巣に「托卵」するといわれるホトトギス、今年はかなり早くに来たし、それに伴い初鳴きも早かった。いろいろな理由が考えられそうですが、桜の開花を始め、春の花の咲き始めが驚異的に早かったのと同じようなことで、気候変動のせいであるのかもしれません。ホトトギスは中国南部からこの島にやってきます。コロナウィルスの難を避けるつもりであったのか、不幸にしてこの島では、今が盛りとばかりにコロナ禍が衰えを見せていません。

 あの声で蜥蜴食らふか時鳥(其角)

 ほととぎすなくなくとぶぞいそがはし(芭蕉)

 ホトトギスの和名というか中国由来の漢字名は多彩です。時鳥・杜鵑・不如帰・霍公鳥・沓手鳥・子規などなど。この中の「子規」について。俳人の正岡子規は明治期日清戦争の折に、新聞「日本」の従軍記者として清国に出かけたのですが、途中で体調を崩し、帰国します。その船中で喀血し、死を覚悟したと言います。病に襲われ血を吐いた、それを奇禍としてだったか、彼は「子規」という筆名を得たのです。神戸に寄港し、病を養い、回復の見込みをえて、郷里に帰ります。その松山には漱石がいて、彼の下宿で一月ほど共同生活をします。やがて上京の段になって、漱石に金を無心します。何十円だったか。(このくだりはどこかで書いておきました)

 上京の途次、奈良により法隆寺門前の茶屋で休憩しました。そこで法隆寺の柿(富有柿)を堪能するほど食ったという。やがてその一場面が「柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺」となったという次第であります。それとは別の「柿食えば論」があります。漱石の下宿に宿った際、彼は漱石の「柿食えば 鐘がなりけり 建長寺」という句に刺激されたというのです。上京の汽車賃を奈良で使い込んだので、実際は「柿食えば金が無くなり法隆寺」だったという落ちもついております。いずれにしても「子規」は筆名を「ホトトギス」から借りたものでしたし、後に子規自身が主宰することになった雑誌「ホトトギス」も、創刊者・柳原極堂の手になって、明治三十年に創刊された。雑誌名の最初は「ほとゝぎす」でした。正岡子規に因んだとされています。曲折がありはしましたが、現在も、雑誌は続いています。主宰稲畑廣太郎氏、高浜虚子の孫だった稲畑汀子氏の息で、虚子の曽孫。彼は忘れているでしょうが、ぼくは稲畑氏に因縁があります。彼の句をいくつか見ていますが、さてどうでしょうか。

 本日は別のテーマを書くつもりで用意していました。ところが、上に述べたような状況で、中途半端ですが、「ホトトギス」に触れることになった次第です。まだまだ書き足りないのを我慢してここで中断。ホトトギスは、さらに甲高い声で啼き続けています。

 というものの、用意していたのは「縄文時代と縄文人」に関わるもので、昨日の続きです。昨日の河北新報のコラム「河北春秋」も「世界文化遺産」についてでした。そんなにめでたいことなんですか、という疑問やら批判やらはぼくの勝手で、やはり当地や関係者には嬉しい、目出たいことなんでしょうな。それはともかく、縄文人とは誰のことか、そんなとりとめもない話にお付き合いさせるようで気が重いですね。

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【河北春秋】考古学者の森浩一さんが東日本大震災の直後にこんなエッセーを書いている。「最近のぼくは縄文人や弥生人を原始人とは呼べなくなった。以上述べたような縄文人の英知に触れたからである」▼かつて北海道を踏査して気が付いた。縄文集落遺跡は海岸を見下ろす段丘や丘陵の上にある。海からの高さは30~40メートル。「ここなら大津波でも被害が出ない」と森さん。豊かな海は漁労の場、高台は生活の場。縄文人の賢明さではないかという▼「北海道・北東北の縄文遺跡群」が世界文化遺産に登録される。青森市の三内丸山遺跡や各地の貝塚など17もの遺跡。正式には7月に世界遺産となる。遺跡群の場所と名称を描いた地図を見ていると、ゆっくりと全部を訪ねてみたくなる▼遺跡だけではない。さまざまな形と模様の土器、不思議に美しい数多い土偶、三内丸山に見られる大型建築物の技術など、縄文時代の面白さは深く広い。世界を見回しても、新石器時代の文化としての縄文は際立った魅力がある▼「考古学は地域に勇気を与える」。生前の森さんは講演などでそう語った。広葉樹の森の豊富な堅果や野生動物、豊かな海の魚介、身をくねらせて川を上る魚。大いなる自然に恵まれたこの地の遠い遠い昔を想像すると、確かに、元気が出てくる。(河北新報OnLine News・2021/05/28)

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 一時期、佐々木高明さんの本を熱心の読んでいました。その前には最近触れた今西錦司さんのグループの中尾佐助さんをさかんに読み散らしていた時期もありました。いずれにしても「照葉樹林文化」「農耕の起源」など、何かと教えられたものでした。佐々木さんはその後継者かもしれません。その佐々木さんは次のように述べられています。要するに、日本や日本人について、何らかの言及は可能でも、到底、ぼくには断定できないということです。時代の設定からして、縄文時代の始まりが確定していません。ぼくたちが中学生だったころ(もう六十年も前になります)、縄文時代はおよそ三千年ほどとされていましたが、現在はその何倍もの長い歴史を経ていると考えられているのです。その意味するところは何か、ここがポイントでしょう。

 縄文人と一口には言うことが出来ないほどの多面性や多様性を持っている、その事跡がいろいろな調査研究から明かされてきた結果です。縄文人というのは「野蛮で、未開で、粗野で」と言いたくなりますが、少し待ってほしい。野蛮で未開で粗野で、それは現代人じゃないかと反論する声が、はるかな何千年の昔から聞こえてきそうです。ぼくたちはおサルから進化したというのでしょうが、違いますね。おサルさんはぼくたちの先祖です。それと同様に縄文人から現代人は進歩し、発展してきたと言いがちですけれど、現代人の根っ子(ルーツ、オリジン)は縄文人です。表面上の変化ほどには内容(理性・感性・かしこさ)の面では、変化していないとは言いませんが、その違いはごくわずかだと、ぼくは言いたいんです。

 「ユーラシア大陸の東端に位置する日本列島において、日本文化はどのようなプロセスをへて形成されてきたのか。われわれ日本人にとって自らのアイデンティティを問うことにもなるこの設問は、一見簡単なようにも見えるが、それにきちんと答えることはなかなか容易なことではない。「日本文化」というものを、どのような視点から捉えるか…、その捉え方によって、答えはかなり異なったものになってくる。また、その形成のプロセスについても、歴史的にどの程度の時間の幅で捉えるか、あるいは比較の視座をどのように設けるかによってもその答えは異なってくる」((佐々木高明『日本文化の基層を探る ナラ林文化と照葉樹林文化』)

○ 中尾佐助=1916-1993 昭和後期-平成時代の栽培植物学者。大正5年8月12日生まれ。昭和36年大阪府立大教授となり,55年鹿児島大教授。栽培植物の起源などに関してアジア,アフリカをひろく学術調査する。日本の農耕文化の起源と南アジア一帯の照葉樹林文化との関連を指摘した。平成5年11月20日死去。77歳。愛知県出身。京都帝大卒。著作に「秘境ブータン」「花と木の文化史」など。
【格言など】僕がアジア人だから文化の母である林にピンときた(日本,中国,東南アジアと連なる照葉樹林について)(デジタル版日本人名大辞典plus)

○ 佐々木高明(ささき-こうめい)=1929-2013 昭和後期-平成時代の文化人類学者。昭和4年11月17日生まれ。奈良女子大教授をへて,昭和49年国立民族学博物館教授,平成5年2代館長。インド,東南アジアを調査し,焼畑や照葉樹林文化を研究。あわせてアジア的視野から日本文化の形成過程とその特色の究明をめざした。16年南方熊楠(みなかた-くまぐす)賞。平成25年4月4日死去。83歳。大阪府出身。立命館大卒。著作に「稲作以前」「照葉樹林文化の道」「日本文化の多重構造」「山の神と日本人」など。(同上)

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 植物や動物、あるいは鳥類などはいったいいつごろ、この島に来たのでしょうか。劣島に人が住んだ形跡は約十万年前とされてきました。その後途切れて、約三万年前からまた住みつき、やがて集住するようになったのでしょう。時代区分もやたらに細かくなるのは、それだけ研究の成果が積み重ねられたからでしょうが、肝心の「縄文人は原始人だったか」という根本問題は、それほど深められてはいないような気がします。あるいは、ぼくの不勉強で、かなり明らかにされてきたのかもしれません。しかし、どれほど研究が進んでも、縄文人は縄文人であって、今日の島社会の文化の基層の基を形成したことは間違いなさそうです。 

 いろいろな異説や奇説が入り乱れるのが、この根本問題にかかわるものの常ですが、大なり小なり、ぼくたちは「縄文人」の爪の垢程度は受け継いでいるのではないでしょうか。やがて焼け畑や稲作水稲をもたらしたのは、縄文人とは全く関係のない異質の存在であったという学説が出ているのかもしれません。それも、ぼくは不勉強で不案内です。この駄文で述べてみようとしたのは、「原始人」という字の印象はいかにも「原初の」「初発の」という感じがするのですが、まさかやみくもに「縄文人」が湧いてきたのでもないのですから、その後裔たちの遺伝子にはすくなからず「縄文人の遺伝子」が残されているはずです。少なくとも一万年余以前、この島に棲みついた人々が、意図しない継承というものを含みながら、今日まで続いていると考えた方が、愉快でもあり、今日のせせこましい社会相に齷齪するのがはなはだ徒労のようにも思われてくるのです。

○ 縄文人=日本列島に1万数千年前から約2000年前まで住みついて、縄文式土器を製作使用していた人々。立体的で四角く短い顔立ちは、弥生時代以降の本土日本人とは異なっている。歯の摩耗が著しく、咬み合わせは爪切状である。小柄だが、腕や脚の先の方が長く、筋肉が発達した体つきは、多角的採集狩猟生活への適応と見なされる。縄文人は現代日本人全体の基層集団であり、その直系の子孫がアイヌであると考えられている。(馬場悠男 国立科学博物館人類研究部長 / 2007年)(知恵蔵「縄文人」の解説)

 今、この劣島にはこれまでに見たこともないような風体の「人間のような存在」が往来しています。まずほとんどがマスクで仮装し、スマホとかいうものを片手に、何か小さな画面に見入っている。男性も女性も清々しいというよりは、ストレスという魔物に抑圧されて息も絶え絶えになっている、そんな不健康さを感じるのです。このような風物はいつに始まったのかぼくにはわかりません。もちろんぼく自身、外にはまず出ないし、マスクも稀、携帯とかスマホはもたない。しかしストレスという怪物から免れることが出来ないでいる。ぼくを含めていうのですけれども、うちひしがれている「現代人」というのは、実は不健康に長生きをせざるを得なくなった「弱体化した縄文人」「野性味のなくなった縄文人」のことじゃないのか、そんな錯覚めいた気分に激しく襲われているのです。

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投稿者:

dogen3

 語るに足る「自分」があるとは思わない。この駄文集積を読んでくだされば、「その程度の人間」なのだと了解されるでしょう。ないものをあるとは言わない、あるものはないとは言わない(つもり)。「正味」「正体」は偽れないという確信は、自分に対しても他人に対しても持ってきたと思う。「あんな人」「こんな人」と思って、外れたことがあまりないと言っておきます。その根拠は、人間というのは賢くもあり愚かでもあるという「度合い」の存在ですから。愚かだけ、賢明だけ、そんな「人品」、これまでどこにもいなかったし、今だっていないと経験から学んできた。どなたにしても、その差は「大同小異」「五十歩百歩」だという直観がありますね、ぼくには。立派な人というのは「困っている人を見過ごしにできない」、そんな惻隠の情に動かされる人ではないですか。この歳になっても、そんな人間に、なりたくて仕方がないのです。本当に憧れますね。(2023/02/03)