世界から隔絶されるように感じる、それは病か

【地軸】自閉症の世界 「自閉症」の文字が示すイメージからか。脳神経に起因する障害と知ってはいたが、自らの世界だけに生きていると思っていた。だから、東田直樹さんのエッセー「自閉症の僕が跳びはねる理由」に胸を突かれた▲当時13歳、重度の自閉症で会話のできない彼が心の内を記す。みんなと同じ思いを持っています。みんなよりもっと繊細かもしれません。思い通りにならない体、伝えられない気持ちを抱えいつもぎりぎりのところで生きています―と▲東田さんは、文字盤を使って言葉を伝えられるようになり、28歳の今も作家として活躍している。その著書を原作にしたドキュメント映画を見た。世界各国に暮らす自閉症の若者5人とその家族を追う▲視線も会話も交わすことはないが親友同士だという米国の2人。「悪魔に取りつかれた子」と偏見が根強いアフリカで闘う親子たち。無表情なインドの少女は目にした風景を圧倒的な筆力で描く▲映像と音楽に東田さんの言葉が紡がれ知られざる世界に意味を成す。英訳本を手掛けた英国の作家デイビッド・ミッチェルさんも自閉症の息子の父親。わが子を理解しようとするまなざしは温かで真剣だ▲自閉症に限らず、異質なものに対して心を閉ざしているのはこちらなのだと気付かされた。見えているものがすべてではない。分かろうとすることがまず一歩。思いが重なれば、世界は少しずつ寛容に、誰もが生きやすくなるはず。(愛媛新聞On Line・2021/05/27)

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 これもどこかで書いたことですが、ぼくは学生の頃から「精神分析」などの研究書やエッセイなどを手当たり次第に読んできました。一時は、医学をまじめに勉強しようなどということも考えたほどです。「自閉症」については、ほとんど知るところはありません。それなりの文献を読んだり、臨床研究に当たったりしたことはありますけれども、まず、ぼくにはなす術がなかったというほかありませんでした。後年になり、「発達障害」といわれる子どもや青年たちとも交流を深めることがありました。そこから学んだことは限りないと言えます。その経験はぼくにとっては多大な学習になったのは事実です。しかし、当人たちにとっては何か得るものがあったかどうか、大いに疑わしいと言わざるを得ませんでした。ひたすらつきあう、しかも余裕というかゆとりを失わないで、しかもこれが大切な点ですが、敬う気持ちを失わないで、これらは結論ではありませんし、誰に対しても妥当する「交わりの間(呼吸)」のようなものです。そんな感想めいたことを、今でも言いたいような気がするのです。

 ぼくはR.D.レインの著書を、殆んどは邦訳でしたが、かなり読んだと思います。「反精神医学」運動の旗手として、学会や研究者からは正当な評価どころか、それこそ反医学のレッテルを貼られた人でした。今日、彼の評価がどうなっているのか、彼の死後三十余年を経た現在、ぼくはまったく知りません。彼の著書に引き付けられて読んだ記憶ばかりが、今でも疼いているといいたい気がします。いったい「自閉症」とは何か。今も、ほとんどわからないと言っても間違いではないように思われます。症例研究は「自閉症の一般化」を可能にする如くですが、実際には、それぞれの患者とされる人に応じて、みな独自性を持っているというほかない場合がほとんどでしょう。どうしてレインに入れあげたのか、自分でも説明が困難です。それだけ独自の視点を持って(隔離を排して)患者と交流する姿に魅せられたからかもしれないし、彼自身の生育環境にも興味をそそられたとも言えます。

○ 自閉症【じへいしょう】言葉の発達の遅れ,人との感情的な交流が困難,行動の様式や興味の対象が極端に狭い,反復的な行動を繰り返すなどの特徴・障害がさまざまな程度で組み合わさった状態。知的能力の発達に障害がみられる人が多いが,その障害の有無とは無関係に,一部の知的能力がずば抜けて優れている人もいる。精神発達遅滞とは異なる。原因は,乳幼児期の情緒的接触障害による心的なものではなく,脳の機能障害によると思われる。そのメカニズムは明らかでなく,根本的な治療法はない。自閉症という言葉から連想されるような,自分自身の殻に閉じこもって周囲の人に打ち解けないという障害ではない。(百科事典マイペディア)

○ R・D・レイン (Ronald David Laing)=1927年イギリスのグラスゴーに生れる。1951年グラスゴー大学医学部卒業。3年間陸軍軍医となった後、グラスゴー王立精神病院、グラスゴー大学精神科、ロンドンのタヴィストック人間関係研究所に入り、ランガム・クリニック所長を兼務、のち精神分析医として開業。1989年歿。著書『ひき裂かれた自己』(1960、69)、『自己と他者』(1961)、『狂気と家族』(1964)、『結ぼれ』(1973)、『好き? 好き? 大好き?』(1976)、『家族の政治学』(1979)、『生の事実』(1979、以上邦訳みすず書房)、『レイン わが半生』(1985、邦訳岩波書店)など。(みすず書房

○ レイン【Ronald David Laing】(1927‐89) イギリスの精神科医。従来の医学的疾病観に立つ精神医学を否定し,社会的・政治的枠組みの中で精神障害が作り出されるとする,〈反精神医学〉の理論家。グラスゴーに生まれ,ロンドンのタビストック・クリニックに勤務した後,精神分析医として開業。1965年には,独自の治療観に基づいた診療施設キングズリー・ホールを開設した。28歳で発表した《ひき裂かれた自己》(1960)は,精神分裂病ないし分裂病質の人間学的・実存分析的研究として名高い。(世界大百科事典第二版)

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 「健全な精神は健全な肉体に宿る」、だから心身ともに健全であれ!というのかどうか。ぼくの怪しい記憶によれば、健全な精神は健全な身体に宿ることがあるなら、なんといいことか、というようでした。参考までに辞書類を引いてみると、各論各説で、これだというのが見当たりません。ということは、凡々たる人間には「健全な精神」も「健全な肉体」も高嶺の花、いわば「ないものねだり」に類することだというのでしょう。まして人と交われば、あらぬ病が感染すると言わぬばかりに、時代は「孤立化」あるいは「孤独化」妄信が猛威を振るっているようでもあります。「自分一個で大地に立つ」、いかにも意気軒高に見えますが、その実は、闇夜に膝がしらを抱え込んでいる弱弱しい容貌が透視画のように浮かびつつ消えるのです。

○ 健全なる精神は健全なる身体に宿る=からだが健康であれば、精神もそれに伴って健康である。[使用例] 健全な肉体に健全な精神が宿るという諺があるけれど、あれには、ギリシャ原文では、健全な肉体に健全な精神が宿ったならば!という願望と歎息の意味が含まれているのだそうだ[太宰治*正義と微笑|1942][解説] 古代ローマの詩人ユウェナリスの風刺詩集の一節に由来する西洋の格言。ユウェナリスの詩句の文脈は「人は、神に対して「健全なる身体に健全なる精神」が与えられるように祈るべきだ」ということでした。しかし、「…ように祈るべきだ」という部分が省略された形で流布し、格言となったため、原詩の意味とは隔たりが生じ、肉体的健康を絶対視するものとして反論や批判の対象とされることにもなりました。日本語訳が誤訳として批判される場合もありますが、それ以前にラテン語で格言として使われる段階で、誤解される下地が生じていたものと思われます。〔ラテン〕Mens sana in corpore sano.〔英語〕A sound mind in a sound body. (ことわざを知る辞典の解説)

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 身体を病む、それは誰にも当たり前に生じるように、精神(あるいは心というのか)を病むのも避けられない。ぼくがレインに学んだと言えるのは、病者を隔離すれば、社会や地域から「病んだ人間」は追放され、「社会は健全」を装えます。しかし、隔離された人々にも「生きる権利」というのか、生きたいという願いがあるのです。だとすれば、隔離・隔絶をこえた融合、それを踏まえた交わりをこそ求めなければならないのではないかということでした。これは個人と個人の関係においても、個人と集団とのかかわりにおいても妥当することだと、ぼくは考えています。病院も拘置所も、学校も宗教施設も、すべて社会の他の部分と隔離されることを旨としています。それはなにを意味しているのか。健全の中には、かならず不健全な部分があり、その反対も同様です。健全だけ、不健全のみで人は生きているのではないからです。その個人の集合体である「社会」も然りです。とするなら、健康と病も同じように、両量相まってひとつ(全体)を形成しているのです。健康だけ、病気ばかりの、そんな偏った人間は存在しないのです。時と場合で、健康の部分と病の部分が入れ替わる。それを時には「健康」、時には「病気」と言っているにすぎないのです。純粋指嗾、あるいは浄化への希求は、人間集団にかぎらず、生物の集団そのものを解体する方向にしか働かないと思われます。

 アムネスティという言葉があり、それにかかわる社会活動集団もあります。その原義は「言葉を封じられた人の、その権利を回復すること」です。「言葉を奪われる」というのは発言の自由を封じられること、次いで、集団からの追放を意味します。アムネスティ・インターナショナルという団体の活動は、「政治的な理由により奪われた発話の権利を回復する、そのための運動」です。これはいかなる場合にも妥当する、「権利とその剥奪」が問題とされます。「邪魔だから、喋るな」と言われた人はどこであれ、どんな場合であれ、発言する機会(権利)を剥奪されたのです。「人権」という言葉は「自由」に連なりますが、それは他者に話しかける権利、自由に話す権利を指します。個人であれ、集団であれ、だれかの自由に発言する権利を奪うことはすべて、人権侵害であるというべきでしょう。

 自らもユダヤ人であったために、米国に亡命を余儀なくされた政治哲学者のアーレントと、フランスの現代を代表する思想家だったリオタール、その二人の「箴言」です。

 「もはやドイツ人、ロシア人、アルメニア人、あるいはギリシャ人としては認めてもらえなくなった彼らは、ただの人間以外の何者でもない」(アーレント)

   「 学校の運動場で、他の子どもたちに<おまえと遊ばないよ>といわれた子どもは、この言葉では表現できない苦しみを体験するのです」(リオタール)

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 医学が進歩するというのは、どんなことを言うのでしょうか。あるいは「病気」の解明は、何を目的として進められてきたのでしょうか。医学は「健全という高山」を目指す登山のような仕事かもしれません。だが、その「健全」という高峰は夢幻のうちにしかないとしたらどうでしょう。おそらく「健全」とは、あるべき全体像を指す、一つの観念です。「けん‐ぜん【健全】[名・形動] 身心が正常に働き、健康であること。また、そのさま。「健全な発達をとげる」 考え方や行動が偏らず調和がとれていること。また、そのさま。「健全な社会教育」3 物事が正常に機能して、しっかりした状態にあること。また、そのさま。「健全な財政」(デジタル大辞泉)だから、「正常」「健康」というのも、ことばの上だけにあるのであって、現実にはあり得ないもの、まるで抽象的な絵画のオブジェに等しい。むしろ、病んでいる部分、不健康な部分を持って生きているのが人間の条件であると考えるなら、ぼくたちはずいぶんと違った人生観を獲得するはずです。あるいは、たがいの「病んでいる部分」を視野に入れ(認め合い)ながら、交わりを続けることができるのではないでしょうか。

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投稿者:

dogen3

 語るに足る「自分」があるとは思わない。この駄文集積を読んでくだされば、「その程度の人間」なのだと了解されるでしょう。ないものをあるとは言わない、あるものはないとは言わない(つもり)。「正味」「正体」は偽れないという確信は、自分に対しても他人に対しても持ってきたと思う。「あんな人」「こんな人」と思って、外れたことがあまりないと言っておきます。その根拠は、人間というのは賢くもあり愚かでもあるという「度合い」の存在ですから。愚かだけ、賢明だけ、そんな「人品」、これまでどこにもいなかったし、今だっていないと経験から学んできた。どなたにしても、その差は「大同小異」「五十歩百歩」だという直観がありますね、ぼくには。立派な人というのは「困っている人を見過ごしにできない」、そんな惻隠の情に動かされる人ではないですか。この歳になっても、そんな人間に、なりたくて仕方がないのです。本当に憧れますね。(2023/02/03)