
【北斗星】 山菜が旬の時分に思い出す学生時代のエピソードがある。秋田を訪れた神奈川の友人と釣りへ出掛けた折、沢筋で顔見知りの古老と会った。その人の発した言葉が友人には「おめ短くねが」と聞こえた。帰りに古老の家に立ち寄ると、今度は「まんず短(みじけ)え」▼一度ならず二度も「脚が短い」とばかにされたと思った友人。その表情がおかしくて噴き出した。「おめミズかねが(食わねえか)」「まんずミズけ(食べれ)」というなまりを勘違いして受け止めていたのだ。抱腹絶倒したのは言うまでもない▼ミズは湿地に群生する。癖がなく、みずみずしい歯応え。煮ても炒めても、たたいてもいい。よく育つのは梅雨前線が活発化する季節だ▼それは水害リスクが高まる時期でもある。本県の梅雨入りが近づく中、改正災害対策基本法が20日に施行された。従来の避難勧告は廃止され、避難指示に一本化された。防災情報をシンプルにすることで住民の逃げ遅れを減らす狙いがあるという▼ゲリラ豪雨、線状降水帯、爆弾低気圧…。ここ数年、ぞくっとする強い言葉を頻繁に見聞きする。温暖化の影響で風雨の激しさが増しているのかもしれない。その分、洪水や土砂災害から身を守る早めの行動が重要になっている▼ことしはミズを味わう時、「水」と冒頭の話に絡めて警戒心を呼び覚ましている。自らに「おめ水おっかねが(怖いか)」と問い掛け、避難できる時間は「まんず短えぞ」と言い聞かせるのだ。(秋田魁新報・電子版・2021年5月25日)
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○ ミズ(みず)[学] Pilea hamaoi MakinoPilea pumila (L.) A.Gray var. hamaoi (Makino) C.J.Chen イラクサ科(APG分類:イラクサ科)の一年草。アオミズと基本的な特徴が一致するためその変種として扱われることもあるが、茎が紫色を帯び、葉の縁(へり)の鋸歯(きょし)が低くて先があまりとがらず、雌花の3枚の花被片(かひへん)のうち2枚がとくに大きいので区別される。北海道から九州に分布し、アオミズと同じような場所に生育する。国外では東アジアに広く分布する。中国名は蔭地冷水花。全体に多汁質でみずみずしいのでミズの名がつけられ、アオミズ同様に山菜として食用にされることがある。ミズ属は約400種からなる大きな属で全世界の熱帯~冷温帯に分布し、とくに熱帯には多くの種がある。日本には本種のほかに、アオミズ、コケミズ、ミヤマミズなど9種が自生し、熱帯アメリカ原産のコゴメミズが帰化している。葉に白斑(はくはん)が入る中国南部からベトナム原産のアサバソウ(麻葉草)P. cadierei Gagnep. et Guillem.などいくつかの種類が観賞用に温室などで栽培される。アサバソウの中国名は花葉冷水花。[米倉浩司 2019年12月13日]( 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説 )
○ 山菜としてのミズおもに東北地方におけるウワバミソウの呼び名。若い茎を食用とし、また夏以降に茎の節(ふし)に生じるムカゴを食用とする地方もある。[米倉浩司 2019年12月13日](日本大百科全書(ニッポニカ)の解説)

○ ムカゴ=ムカゴイラクサ むかごいらくさ / 零余子刺草 [学] Laportea bulbifera (Siebold et Zucc.) Wedd.イラクサ科(APG分類:イラクサ科)の多年草。植物体全体にイラクサと同様の刺毛があり、秋に葉腋(ようえき)にむかごをつくるのでこの名があるが、イラクサ属ではなく、ムカゴイラクサ属である。茎は高さ30~100センチメートル。普通、枝分れしない。葉は長い柄(え)があって互生し、長卵形。長さは柄を除き5~18センチメートル。基部は円形となり、縁(へり)には鋸歯(きょし)がある。花序は夏に葉腋から出て円錐(えんすい)状。雌雄の別があり、雄花序は柄がなくて中部の葉腋につき、雌花序は長い柄があって上部の葉腋から出て高くぬけ出る。北海道から九州の山地の林内に生え、国外では東・南アジアに広く分布する。中国名は珠芽艾麻。ムカゴイラクサ属は30種近くが熱帯を中心に分布し、日本には本種とミヤマイラクサの2種が産する。[米倉浩司 2019年12月13日]( 日本大百科全書(ニッポニカ)の解説 )

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山菜といい野草という。いったいどれくらいの種類があるのか、見当もつきません。この「ミズ」だけでも数百種類もあるといわれます。ぼくはまったくこの分野には暗く、せいぜいがワラビやゼンマイぐらいが名前と実物と、その味を知っているにすぎません。もう四十年も前、一家で毎年のように万座高原へスキーに出かけていたころ、鹿沢口の駅近くに天ぷら料理屋があり、しばしばそこで休憩をしました。注文を取ると、店主が裏山に登って、山菜を採集してきて、それを天ぷらにして出してくれた。また、万座のホテルの従業員の一人は、自分の余暇を利用して、山菜取りに連れて行ってくれたこともあります。虎杖や虎の目、セリ、クレソンその他、少し歩くだけで両の手に余る食材が取れた。
ぼくの知人にも「山菜オタク」がいます。趣味の域をはるかに超えているとみています。世の中は狭いようで広い、こんな方面に、かくも熱心は趣味人がいるのかと感心するばかりです。まず、ぼくはこの分野には近づかないことにしていました。都会派ではない人間のつもりですが、さりとて山野人でもない、まことに中途半端な生活環境を動こうとしなかった無趣味な、無粋人であることを残念に思わないでもありません。しかし、山菜・野草の名前だけはよく知ろうとしました。莫迦な話で、実物を知らないで名前を覚えようとしても意味をなさないのがわかっていながら、その漢字や植物名をしこたま覚えたことがあります。

なぜそんな素っ頓狂なことになったか、理由は単純です。飯田蛇笏に深く心酔していたために、彼の書くものは一部も見逃すものかという狂気に襲われたからでした。蛇笏の句はどれくらいあるのか知りませんが、その句の多く古風で、蛇笏の生活態度がそのままに表現されていると、ぼくには感じられました。彼一人は、ぼくの勝手な判断では明治以降の俳人連山の秀峰、それも他を寄せ付けないような弧峰だとみてきました。その蛇笏の書く文章には、驚異的なばかりの植物名や山野草の名称が連続します。ぼくはまるで漢字の書き取り帳のように、未知の植物や漢字の抜き書きを作りました。その数は相当な量になります。
万緑に滲みがたくしてわかかへで 軒菖蒲うす日の月の行方あり 喬槻に渓のとゞろき夏来る
山塊を愛する初夏の情そゞろ 清流を乱射す斜陽青胡桃 槻たかく鳳蝶上る土用明け(「家郷の霧」所収)
俳句は写生だとされます。あるいは写生に尽きるとまで。ならば、神羅万象、その真姿をわが目と手で触れなければ話にならないのです。俳句の良し悪しはいくらでも解説できそうですが、空想で描いたり、観念過多では論外というべきでしょう。山菜や野草を知らずして何が俳句ですか、そういうことです。「 おめミズかねが」
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秋田弁だの津軽弁だの、さまざな「方言」があります。それをも「日本語」と数えるべきだというのが、ぼくの考えです。とするなら、おそらく数百の言葉群があることになります。こんなに豊富な言語感覚と言語量をもつ地域も、そんなに多くはないでしょう。あろうことか、それを学校教育は撲滅してきたのです。「放言札」という処罰執行が各地でなされた歴史があります。あの子は「札付きだ」と言って、教育的配慮をしたんですかねえ。あるいは、形を変えて、いまでもあるかもしれない。学校という場所は「札付き」を産出してもいるんですね。毎日の生活で使っている「普段着のことば」を教室で使うと処罰されたのです。この国が朝鮮半島でやって来た「言葉を奪う」という暴力そのものである権力行使は、それ以前から学校教育の現場で行使されていたのです。その先棒を担いだのは誰だったか。しかも、いまだに担いでいるのがいる。

植物や地名にはまだまだ地域ごとの使い慣れた表現が用いられている。それで何不自由はないのです。ところが、書き言葉と話し言葉は、「標準」とされ「共通」とされた、「中央」で決めた言葉(国語=天皇の言葉)を使うことを強要されてきたのです。 「おめミズかねが」「まんずミズけ」というのは、なんという豊かな言語感覚によってもたらされているか。それを否定することは、その言語感覚そのものを壊すことです。一例になるかどうか、町村合併で地名がいいようのない無機質なものに変えられてきました。使い慣れてきた地名が消されるというのは、その地名に刻印されてきた人民の「生活と歴史」そのものを否定することです。ぼくが住んでいる隣町には地番にイロハなどが使われているし、甲乙丙も使われている。劣島の権力集団がどんなに無知蒙昧であるか、その地名政策を見るまでもなくわかるのです。個人の固有名は面倒だから、あるいは捕まえ損なう恐れがあるから、国民総背番号だという(マイナンバー)、それを打つことのみに、腐敗臭を垂れ流している権力は躍起になっています。
みんな一緒、それはいかにも平等であり、同一に扱っているように見えますが、どっこい、それはそれぞれの違いを、一色に塗りつぶしてしまうことになるのです。凸凹や偏りがあって、他とは違う何かが存在するのであって、その違いを消去すれば、存在が消えるほかないのです。標準とか共通というのは、誰かにとって都合がいい話であって、共通化され標準化される側には得るものは、なにかあるのでしょうか。
山菜の話から方言に至り、まるで方向違いの話になって来たようです。でも、ぼくはそのようには思っていないんですから、始末に悪いですね。「みんな一緒、それが平等だ」と、多くの人が賛成するとどうなるのでしょうか。「標準」「共通」を求める権力の意向はまったく異なるところにあるはずです。国家権力というものは、たとえようのない「悪」を美化して絶対化する。ただ今の「五輪開催」の強硬突破はその一例です。「世界平和の祭典」だとさ。毎日のように、路傍で人民が何人死のうが、何がなんでも開催する、誰が何と言おうと開くのだ、それ一点張りだということは、それで何かを画策しているからです。人民の目をあらぬ方向にそらずための「目くらまし」です。(権力犯罪がいずれ暴かれるでしょう)ワクチン接種もそうです。人民の賛意(支持)を得るためには何でもする。それに人民が乗ったらどうなるか。後戻りはできないのです。「無理が通れば、道理は引っ込む」

腐りきった国家権力は、途方もない「悪」を重ねてきました。その「悪」が暴かれるとどうなるか。権力の椅子から追放されるばかりではない。その権力を取り巻いてきた勢力もまた、自らの「悪」を白日の下にさらされることを望まないから、何でもする。「笑顔を浮かべて、人民を殺す」ことを意に介しないんです。悪辣な国家権力の宣伝に載せられる、尻馬に乗りたい、そんな勢力やマスコミばかりじゃないでしょうか。「愚民化政策」と批判していたつもりの当の本人が、「愚民にさせられる」段階に一歩進んだようです。恥も外聞もない権力行使に人民が載せられると、全体主義が本領を発揮するのです。「全体」というのは、すべての人民が一つにまとまることではありません。バラバラの方が権力にとっては都合がいいのです。そのバラバラは、表面上の形であって、実態は何もない、空虚です。やたらに報道される「世論調査」「支持率」はなにを意味しているか。ほとんど何も表わしていないも同然です。

山菜なんか、町名なんか、マイナンバーカードなんか、…といかにも、大したことはないじゃないかという表面のなぞりかたが、そもそも方向を誤るのでしょう。腐った権力に迎合するのはもちろんあり得ないし、それを是々非々などと誤魔化すのも危険です。「ミズけ」「 おめミズかねが 」という、ある人々には理解不能な言葉が存在するというのは、極めて貴重なことなんです。なぜか。それを受け入れるためには「異質なお互い」が言葉を尽くし、心を傾けて、その「言葉」を分かりあう・分かちあうために時間を共有する必要があるからです。いまは「言葉がいらない」「ちょっとしかいらない」「記号であっても通じる」、そんな寒々しい風が人民の間に吹きすさんでいる時代です。一見すると、言葉の乱舞か、華やかな言葉の交流、いかにも賑やかそうには見えますが、瞬く間に、言葉は雲散霧消してしまい、それぞれの足もとにも胸元にも、凍えるような寒風が吹雪いているのです。
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