
快晴に恵まれた朝、いつも通りに農道を「一日万歩(時には漫歩)」です。この数日で稲の苗が驚くほど成長しています。視線を田の底面に向けると、小さな黒点が動いています。無数の「オタマジャクシ」でした。これがすべてカエルになるのかと思うと、鳴き声の喧しさに脅威を覚えるほどです。何時ものように、二羽のカモが苗の間を気持ちよさそうに(かどうか、聞いたわけではないが、そんな感じで)泳いでいます。時には、カラスがそれに交じって食料を漁っています。広大な田圃の一枚一枚に揚水ポンプから水が放流されていました。すべてが機械仕掛けであり、さらに田圃の周囲には「電気柵」まで設置されているのです。長閑と科学の粋の入り混じった(混在した)田園風景です。

雑木林のあちこちに白い斑点が見える。花であることはわかりますが、さてなんだろうと、一瞬考えた。よく見ると「ウツギ(牧野富太郎さん流にカナ書きで)」です。百メートルも歩かないうちに何本も開花しており、みごとな花房が道側にたれている。「卯の花の匂う垣根に」と謳いたいほどで、誰かが植えたのではない雑木林の処々に満開です。蕾のついた枝先を少し戴いて帽子の飾りにした。ぼくがよく歩くのは地名でいえば、市原市金剛地です。拙宅は長柄町ですが、境界を接している。おそらくこの地域はかなり古い時期に開かれたものらしい。地形は長い間、すこしも変わらなかったのではないでしょうか。開墾の状況を空想していると、いかにもそんな夢のような長い歴史が、そこに住む人々の生活とともに過(よぎ)ってくるのです。
長柄町の「町史」を以前に、役場の人からいただいたのを、暇な折に読んでいます。それによると、この付近は、すでに縄文前後には開発されたか、人が住みだしたようで、縄文遺跡も発掘されています。田畑の開発はもちろんそれ以降ですが、それでもかなり霜早い段階で開かれていたと思われます。一面が低い丘陵地だったのを抉り取って、農耕地にしたとみられます。すべてが人力だった。今でもその痕跡がうかがえるのは、一面の田んぼの位置どりです。灌漑や土壌の改良には相当に苦心したことが伺えます。農道のあちこちには、開発に功のあった人々を顕彰する石碑が建っています。そのいくつかに共通するのは、丘陵地からの水が周辺の土地を湿地帯にしていたことで、それを田畑用に開墾・改良するのに費やされた、相当な苦労が書かれているのです。(これらはもちろん明治以降のものです)今では、こんな奥地にも開発の波は押し寄せており、大きなリゾート用の施設が建てられ、あるいはゴルフ場やテニスコート、さらには隣の自治体の地にサーキット場まで作られています。いずれも、それぞれの愛好者を引き付けています。

○ ウツギ うつぎ / 空木 [学] Deutzia crenata Sieb. et Zucc.=ユキノシタ科の落葉低木。別名ウノハナ。幹は高さ約2メートルで、よく枝分れする。幹が中空で、そのために空木(うつぎ)とよばれる。葉は対生し、有柄。葉身は卵形または広披針(こうひしん)形で、縁(へり)に鈍い鋸歯(きょし)がある。葉の表裏ともに小さな星状毛が多く、ざらつく。5~6月、枝の先に多数の白い花を総状または集散花序につける。5枚の花弁からなる花冠はらっぱ状に開き、径約1センチメートル、萼筒(がくとう)と萼裂片には星状毛が密生する。雄しべは10本、花弁よりやや短く、花糸の両側に翼があって、上方で歯状に終わる。花柱は3~4本あり、蒴果(さくか)になってもそのまま残る。子房は下位。蒴果は球形で径4~5ミリメートル。山野の日当りのよい所に普通にみられ、北海道、本州、四国、九州に広く分布する。観賞用として庭木や生け垣に使われるほか、材で木釘(くぎ)をつくる。関東地方以西の山地の谷間の岩上などに生える別種ヒメウツギD. gracilis Sieb. et Zucc.は、ウツギより花期が早く、葉はやや薄く、表面は鮮緑色である。関東地方西部、中部地方東部の山地岩上にまれに生える別種ウメウツギD. uniflora Shiraiは、朝鮮にも分布し、少数の白い花を下向きにつける。(日本大百科全書・ニッポニカ)

昨日の続きのような、あるいは別のテーマのような、そんな雑文を書きたくなりました。世の中には「まちがい」と「正しい」の二つがあるのではないという言い方をしました。「誤答」と「正答」と言い換えてもいいでしょう。「正解」は、いつでもたった「一つ」、それは学校の試験問題がおはこ(定番)です、もし二つ以上の回答があったら、教師が音を上げますからね。二択・三択・四択問題でも、正しい答えは「一つだけ」というのは教師の側の都合です。その証拠に、今でもあるでしょ、入試で「正解が二つでた」とニュースになるのです。そんなことを言えば、生きていく中で、いつでも複数の「答」があり得るのですから、いちいちニュースにしていられないはずです。これ一つとっても、学校は欺瞞を取り繕う作業所です。あるいは子どもたちを骨抜きにし、「正解は一つだけ」信仰の信者に駆り立てる「狂信徒教会」であるのかもしれない。愚かしい学校教育の「嘘くささ」に気が付いてもいいころですが。

早い段階から「教師の出す問題には、正解はひとつ」「それを判断するのは教師」という教条を無条件で受け入れさせられる子どもは、学校の「生贄(いけにえ)」ですね。ぼくはよく、あまり学校に近づくと「学校の餌食になるよ」と言ってきました。点取り競争に教師も親も現(うつつ)を抜かしていると、子どもはどんどん「考える力を失う」方向に向かう。思考力の喪失と交換に「点取り競争」に勝利するのです。子どもがそうなっているのに、気がつこうとはしない。大きな誤りであり不注意ではないですか。暗記した「答え」を書いて終わり。こんな無味乾燥な作業の繰り返しで、どうして子どもたちが「かしこく」なるのか。「一流」とか「難関」とか言われる「(内容空虚な)大学教育を終えた人間」の就きたがる職業が、現実にどのような事態をこの社会にもたらしているか、それを見るだけでも吐き気がします。犬・猫に劣るというだけでも足りない。「名門」「一流」などという教育機関は「世間に屈服する」子どもたち(人間たち)を製造する「加工工場」ではないかな。困ったことに、「世間に屈服する」率が高いほど、「上等な人間」だと、自他ともに錯覚しているのです。「世間に屈する」というのは、「自分を失う」ということと同義です。
ぼくは「自分の足場を掘る」と言ってきました。あるいは自分の根っ子を探すと言い換えてもいいでしょう。自分のよって立つ基盤、それは何でしょうか。「明らかじゃないか」と言えそうですが、なかなかそうでもないんじゃないですか。自分はどこに立っているのか。あるいは自分のよりどころは何か、そんなことは考えるまでもないという人がいるでしょう。しかし、それでもぼくは、そのような自らの足場に疑いを持つのは大切なことだと考えている。別の言い方をすれば、自分の根っこはどこかを探すことです。根っ子に向かって掘り下げていく。まずそうすることで得られるのは、時流に流されない、時流に迎合しない態度です。いったいどうして自分はここにいるのか、その根拠はなにか、こんな埒もない(ようにみえる)作業を続けると、不和雷同するいとまがないのはとうぜんでしょうね。

なりふり構わず「時流」や「時代の潮流」とされるものに飛び乗ろうとはしない、それだけでも少しばかり「時代遅れ」感を持つかもしれませんが、なに構うものではないのです。それ以上に大事なものが見えてきますから。ものの見方でも考え方でも、時代の流れに誘われて、今はこんな時代なんだと、いかにも時代の風に靡(なび)くのですが、それでまた、次の風が吹くとそれに靡く、どこまで行っても「フラフラ漂う」しかない、根無し草です。いわば「流れに掉さす」ということです。時勢に乗り、さらにその勢いを強めるような行為に走る。それで何が得られるのか。時代について行っているという「安直な一体感」なのか。勢いのあるところ、それはまやかしである場合がほとんどです。なぜなら「時勢」というのは、「考えなし人間」によって膨らんでいるだけですから。
しばしば「自分と向き合う」「自分と向き合え」といわれるし、ギリシャでは「汝自身を知れ」といわれました。いずれも「自分の根に向かう」姿勢や態度を取ることの重要性を指しているのです。なぜそれが大切か、いざという時、自分が考えようとする指針というか、導きの糸が自分の中にないと、人はまったく考えられないからです。考える手づる、これがないとものは考えようがない、その代わりに、他人の尻馬に乗るのです。それしか道はないからです。他人の言い分が自分の言いたいことだと、自分をだますのですね。自己欺瞞の横行は、この状況を示しています。
自分で考える糸口をどのようにして見付けるか。「自分と向き合う」というのは、だれもが「オリジン」を持っていることを確認する作業であるともいえるでしょう。オリジンとかオリジナリティというのはどういうことか。自分の中に、物を考えるための起源(根っ子)(糸口)を求める・探すことです。「あの人は独創的な人」と言われます。それは「風変りな」ということではない。自分の根っ子から物事を判断しようとする人を指すのです。自分が置かれている状況から、その先を見据えて判断し行動しようとする。それが「独創性」の核心部分でしょう。独創性が豊かだというのは、誰も考えたりしたりしないことを思いつく人のことではない。うどんを鼻から喰う、それは、単なる莫迦です。奇人変人の類を言うのではありません。「オリジン=起源=自分の根っ子」から物事(状況)を判断しようとする人のことです。

今、自分は困難に苛まれている。そこから逃げたくなる。二進も三進もいかない苦境に追い込まれている。そこからどのように道を開こうとするのか。自分の今の状況を除いては、取るべき道はないのです。自分がいる今の状況において(状況から)、自分で考え、自分で物事を見る、そして何かしらの行動をとる、それが「オリジナリティ」から始めるという意味であり、そうすることが出来る人が「オリジナルな人」となるのでしょう。要するに、考える端緒が自分の中にあるということです。だから自分が起点(起源)(オリジン)であるような思考や行動をとろうとする人が「独創性」のある人となるのでしょう。「他人の✖✖✖✖で相撲を取らない人」ですね。自前の、借り物ではない思考力を働かせるのは、案外と難しいんですね。そのような、自分発の「思考力」を育てたい。学校ではあり得ない、望むことのできない方法です。
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なぜこうなのか、どうして今、ここに、自分はいるのか、そこから判断し行動するまでの道筋が「起源にさかのぼって」考えるということじゃないですか。とまあ、こんなよしなしごとを、田圃道を歩きながら考えたのでした。一時間半ほど歩いて帰宅したら、昨年の三月に生まれた黒ネコ(男・「カズオ君」)の元気がない。かみさんが見たところ、右の前足が異常に腫れているという。午後の診察の一番に間に合うよう、急いで病院に連れて行った。獣医さんは開口一番「蛇に咬まれたのでしよう」というわけで、抗生物質の注射などを三本接種してもらい、服用薬をもらって帰った。三日ほどが勝負かもしれないと言われもし、ぼくもそう思っている。回復することを祈るばかり。山に住む、それはこういうことをも含んで言うことですね。
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