

【越山若水】日本の植物学の父・牧野富太郎に「野外の雑草」という随筆がある。「世人は雑草々々とけなしつけるけれど、なかなか馬鹿(ばか)にならんもんである」と目立たぬ植物を擁護している▼そこで取り上げるのは、畑地などでよく見るスベリヒユ。葉は肉厚、茎は赤茶色、地面を這(は)うように生え、夏の暑い時分に黄色い五弁花を咲かせる。長野や山形のほか西洋でも食用とされ、茹(ゆ)でておひたしにすると、粘りがあって少し酸っぱいが存外にうまいらしい▼万葉集にもイワイズルの名で登場し「引かばぬるぬる 吾(わ)にな絶(た)えそね」と歌われている。スベリヒユの粘り気と、離れたくない男女の恋心を詠んだという。何ともしゃれた話である。牧野氏らしい学識を披露しつつ「大いに採つて食つたらよかろう」とお薦めする▼さらにオオバコやエノコログサのことも詳しく解説している。ちなみにこの文章は1956年、牧野氏94歳の時に書かれたもの。以上「作家の手料理」(野村麻里編、平凡社)を参考にした。同書ではほかにも多くの著名人が、山野草を食べるぜいたくを書いている▼詩人の草野心平さんはノビルやフキ、作曲家の團伊玖磨さんは明日葉(あしたば)、小説家の佐多稲子さんが嫁菜(よめな)を推挙する。山菜など「自然を食す」ことは野遊び感もあり、気分転換に最適。ルール順守で楽しみたい。「蕗(ふき)を煮る母よ五月も束(つか)の間に 三橋鷹女」(福井新聞・2021年5月22日 )
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どうでもいいことだけれど、「~の父」とはいうのに、「~の母」とはあまり聞かないセリフです。むしろ、ぼくなら、牧野さんは「植物学の母」と言いたいところです。そこからいろいろな展開がみられるからです。牧野さんが男性だったから、「父」だというのはちょっと芸がなさすぎないか。どうでもいいことが多すぎるのも、そのように感じる人間にとって、時代の変化・変転がまだ続いている証拠にはなるだろう。「どうでもいいこと」というのは、時代の常識であり、通念になっていたのが、誰かにとっては可笑しいじゃないかと言いたくなるような、「時代の化石」に対して、「どうでもいいけど、可笑しいだろ」と「時代遅れ」や「時代錯誤」を詰問する状況です。

たしかに牧野富太郎氏は変わり者でした。おそらく「変わり者の系譜」という系図が書けるのではないかと思うくらいに、古来数多くの「ハグレ者」「ハミダシ者」がいた。どのくらいの「変わり者」か、その程度は時代や社会によって異なる。変わり者が生まれる所以は社会的束縛・拘束というか、抑圧を受けていると感じる人にとっては、我慢できないほどの強さ重さを感じるからだ。社会体制や制度が整えば、それだけハミダシ者が増加する。人によってハミダシ方は違う、それは当然でもある。好き好んで「ハミダス」人もいれば、否応なく「ハミダシテ」しまう人もいるだろう。時代に先んじて意識が広く高く遠いものなら、その人は社会の中に取り込まれるのは辛いことになる。菅江真澄はどうだったか。雪舟さんはどうだったか。現代に及んで山頭火は、放哉は、と懐かしく、彼等の彷徨する姿が脳裏に浮かぶ。すべてが百代の過客だったような気がするのである。
牧野さんは高知生まれ。文久二年というから、西暦の千八百六十二年。三歳で父、四歳で母を亡くす。以後は祖母に育てられた。まだ学校制度が開始されない前に幼児期を過ごす。やがて小学校に入るも、中退。理由は明快で「そこでの勉学に興味を抱かなかった」からだ。飽き足らなかったと言えばいいかもしれない。つまらないということだったろう。子どもながらに、独学で植物学を学習した。やがて長じて、明治十四年の勧業博覧会見学と、さらに植物学を深めるために上京する。その後に再上京し、東京帝大の理学部で研鑽を深めながら、各地を研究調査のために歩いた。一時期、彼は帝大の助手になったが、それも飽き足らずだったか、辞職、直後に講師を務め、戦時中までその職にあった。

この駄文を書いている今、ぼくは今西錦司氏の経歴を重ねている。大学に職を得るにはあまりにも大学が「窮屈な」「融通が利かない」制度であり、場所だった。生涯の仕事をするのに「野外調査」「巡検」が不可欠なら、そこに軸足を置いた生活を選ぶだろう。当て推量でいえば、大学という制度に身も心もあずけなかった人たちだった。果たして実際はどんなものだったか、他人であるぼくには分かりかねるが、何かそんな気性の人ではなかったかと愚考している。
今、手許に「植物 一日一題」という牧野さんの著書がある。初版は昭和二十八年である。時に牧野さんは九十歳だった。内容に触れるのは別の機会に譲る。そこには「牧野節」がいたるところで語られる、恰好の案内書だと、ぼくは時々手にしながら、土佐を思い、野山の牧野さんを描いてみる。これが今西さんだったら、ひねもす鴨川に足を入れて、川の石ころを裏返している風景が浮かんでしまう。
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○ 牧野富太郎(まきのとみたろう)(1862―1957)=植物学者。土佐国(高知県)佐川(さかわ)村(現、高岡郡佐川町)の酒造家の生まれ。幼くして父母、祖父を失い、祖母に育てられ、6歳で明治維新を迎えた。9歳のとき寺子屋に入り、植物に興味を覚え始めた。1872年(明治5)寺子屋廃止に伴い藩校の名教(めいこう)館に入りヨーロッパの科学に接した。2年後、学制発布に伴い名教館は廃止となり、新制の小学校に入学(12歳)。2年間で教程を終えて退学、植物の調査・採集に熱中した。1879年、17歳で師範学校教諭永沼小一郎(ながぬまこいちろう)に師事、近代科学の精神について自覚、本草(ほんぞう)学から植物分類学へと転進、1881年、東京で勧業博覧会を見学の際、田中芳男(たなかよしお)に面接、東京大学植物学教室を訪ね、標本と海外の文献に接した。郷里に帰り理学会を創立、科学思想の普及に努めた。/ 1884年、再度上京、東京大学教授の矢田部良吉に認められ植物学教室に出入りを許され、植物分類学の専門的研究に没頭した。1888年『日本植物志図篇(へん)』創刊。以後、精力的に新植物の発見、命名、記載の業績を積み、植物分類学の第一人者となった。1890年、一時、教室出入りの差し止めを受けるなど圧迫があったが耐え、1893年帝国大学助手、1912年(明治45)講師となる。教務のほか、民間の植物同好会による採集会を指導し植物知識の普及に尽力し影響を残した。1927年(昭和2)65歳で理学博士、1939年77歳で退職した。1950年(昭和25)日本学士院会員、翌年文化功労者、1953年東京都名誉都民となり、95歳で死去するとともに文化勲章を受章。[佐藤七郎]『『牧野富太郎選集』全5巻(1970・東京美術/複製・2008・学術出版会)』(日本大百科全書)

○ ほんぞう‐がく ホンザウ‥【本草学】=中国の薬物学で、薬用とする植物、動物、鉱物につき、その形態、産地、効能などを研究するもの。薬用に用いるのは植物が中心で、本草という名称も「草を本とす」ということに由来するという。神農氏がその祖として仮託されるが、古来主として民間でのさまざまな経験が基礎となって発展したもので、梁の陶弘景、唐の陳蔵器らが各時代の整理者として名高く、明にいたって、李時珍によって集大成された。日本では奈良朝以降、遣唐使によって導入され、江戸時代に全盛をきわめた。貝原益軒以後は、中国本草書の翻訳、解釈などにとどまらず、日本に野生する植物・動物などの博物学的な研究に発展し、明治に至って、主に植物学、生薬学に受け継がれた。赭鞭(しゃべん)の学。本草。※皇国名医伝(1851)中「止二於福建一十八年、得二本草学一帰」(精選版 日本国語大辞典)
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「日本の草や木の名は一切カナで書けばそれでなんら差支えなく、今日ではそうすることがかえって合理的でかつ便利でかつ時勢にも適している。(中略)東京帝国大学理学部植物学教室では、何十年以来植物の日本名はみなカナで書いているが、世間ではズット大学より後れて昔の習慣から脱却し得ず、いわゆる古い殻を脱がないのである。それがどれほど日本文化の進歩を妨げているか、まことに寒心の至りに堪えない。また自分の国での立派な名がありながら、他人の国の字でそれを呼ぶとはまことに見下げはてた見識で、また独立心の欠けている話し、これはまるで自己の良心を冒涜し。自分で自分を恥かしめているといわれもなんとも弁解の言葉はあるまい」(「植物 一日一題」(ちくま学芸文庫)
牧野さんがこれを書いていたのは、戦後すぐの時期だった。時局に合わせても「独立心」「自立心」が泣こうというものという牧野さんの面目が躍如としていると言えるだろう。アジサイはアジサイであって、断じて「紫陽花」なんかではないのだ、とぼくが教えられたのは昔のこと。三好達治さんの紫陽花色はアジサイ色ではないとなると、いかにも不可思議な印象を受けるのだ。

○ アジサイ【(common) hydrangea】=観賞用として広く庭園などに栽植されているユキノシタ科の落葉低木。梅雨時の象徴的な花である。漢字では慣用として紫陽花を当てることが多い。幹は群生して高さ1.5mくらいになり,よく枝分れする。葉は対生して托葉はなく,有柄,葉身は大きく,質が厚く,表に光沢があり,ほとんど毛がない。形は倒卵形で先は鋭くとがり,ふちに鋸歯がある。6~7月,枝の先に球状に多くの花をつける。花は大部分が萼片が大きくなり花弁状に変化した装飾花で,一般に美しい青紫色であるが,白色や淡紅色などの品種もある。(世界大百科事典 第2版)
○ あじさい あぢさゐ【紫陽花】① ユキノシタ科の落葉低木。ガクアジサイを母種とする園芸品種。茎は高さ一・五メートルほどで根元から束生する。葉は対生し大形の卵形か広楕円形で先がとがり、縁に鋸歯(きょし)をもつ。夏、球状の花序をつけ、ここに花弁状のがく片を四または五枚もつ小さな花が集まり咲く。がく片は淡青紫色だが、土質や開花後の日数等により青が濃くなったり、赤が強くなったりする。茎は材が堅く、木釘、楊子をつくり、花は解熱剤、葉は瘧(おこり)に特効があるという。あずさい。しちだんか。てまりばな。ハイドランジア。《季・夏》※万葉(8C後)二〇・四四四八「安治佐為(アヂサヰ)の八重咲く如く彌(や)つ代にもいませわが背子見つつ偲(しの)はむ」(精選版 日本国語大辞典)
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厳密に言えば、「アジサイ」と「紫陽花」は別物・別種だという。ここでは面倒になるので書かない。いずれ、すこし整理して考えてみたい。「あじさい」ひとつとっても、名称と対象を明確に特定できないほどに、この島波の植物群には長い歴史や面倒な事情があるのだ。牧野さんのなされた仕事の時代から、どれほどこの分野の研究が進んだのか、ぼくにははっきりと断定することはできない。「紫陽花」と命名したのは白居易だったか。たしか「ライラック」に当てたとされる。花が咲いている実物を見て、ぼくの頭の中では「アジサイ」という字が浮かんでおり、「紫陽花」とくると、三好達治さんの「乳母車」を諳んじてしまうのだ。
牧野さんが精力的に勧められたのは「名実考」と言われる分野の仕事だった。名と実、名前と実物を結び付け特定する作業でである。それがどんなに長く煩雑なものであるか、いまでもなお名・実が相伴わない植物が五万とあることを思えば、容易に推測できるだろう。ぼくたちは「馬鈴薯」は「じゃがいも」だと受け止めている。「楓はモミジ」だとも。それと同じように「アジサイは紫陽花」だと不思議に思わない、いやそう信じ込んでいるのだ。どうしてこのようなことが生じるのか。それを命名の由来をたどることによって、一つひとつ特定しようとしたのが、牧野植物分類学の世界であった。彼が、単なる一植物学研究者でなかった、その証拠を彼の残された業績で確認したい。素人ながらに、科された宿題だと思っている。
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