【有明抄】麦秋 初夏の風に麦の穂が揺れている。小さな芽が徐々に伸び、鮮やかな緑になったと思っていたら、日ごとに黄金色に染まった。麦秋の中の通勤は、佐賀暮らしの特権である◆ハンドルを握りながら、単純な頭には『麦の唄』(中島みゆき作詞・作曲)が流れる。2014年秋から放送されたNHK連続テレビ小説「マッサン」の主題歌として作られ、力強い楽曲と歌声は一日の始まりに元気をくれた◆早春の「麦踏み」の印象からだろうか、麦には苦難に堪え、乗り越えていく人の一生が重なる。〈麦は泣き/麦は咲き/明日へ育ってゆく〉と繰り返す最後のフレーズに、聴く人はそれぞれの来し方を思い、気持ちを新たにしたのではないか◆日本とスコットランドを舞台に生きた主人公夫妻ほど壮大な人生を送る人はそういない。多くは平凡、安穏の形容が浮かぶのかもしれないが、そんな中にも〈麦は泣き/麦は咲き〉の時期はあっただろう。誰もが喜怒哀楽を繰り返して今がある◆今年は早い梅雨入りで刈り取り前の雨が気掛かりだが、収穫が終われば佐賀平野は田植えの季節。早苗が伸び、穂をつけ、秋にはまた黄金色が広がる。コロナ下にあっても変わらない佐賀の風景。右往左往せずに、自分なりの精いっぱいで日々を過ごすとしよう。歩みは遅くとも、〈明日へ育ってゆく〉と信じて。(知)(佐賀新聞・2021/05/18)
季節は空を渡るなり。もう初夏かと思いきや、なんとも早い梅雨入りの発表がありました。なにも気象庁の発表を待つまでもなく、季節は変転していきます「有明抄のテーマは「麦秋」という。この「麦秋」という言葉には、どこか懐かしい響きがあると、ぼくには感じられるのですが、それはなぜか。おそらく、小津監督の「麦秋」が目の裏、耳朶の内に消えないで残っていたからだと思い当たりました。映画に関してはあれこれとつまらないことは言いません。ぼくは、一時期、ほとんどすべての「小津作品」をDVDで見ました。なにかと感想めいたものはありますが、取り立てて言うほどのものではない。ウル覚えで言っているのですが、高橋治さんのいくつかの本を読んで「人間 小津安二郎」を考えさせられた経験が下敷きになっています。高橋さんは松竹映画に入り、小津組の助監督なども務められたわけで、映画界における小津評に関して、鋭い、しかし人情豊かな批評によって、ぼくはかなり深く教えられたように思うのです。こんなふうに先輩を評価できるのはいいなあ、いいもんだなと感じ入ったのでした。
そのようなささやかな経験の中に、「麦秋」という映画とそのタイトル(言葉)に関して、ぼくの勝手な印象が作り出されてきただけで、特段の仔細があるのではなさそうです。この「麦秋」という言葉には、独特のイメージが、ぼくの中では形成されてきました。これも語ればつまらない話になるだけですので、ここでは止めておきます。余談です。昔、生活の糧を得るためにやむなく働きましたが、その職場の近くに、所謂繁華街があり、中でも大小とりまぜて「呑み屋」が無数にありました。その星の数ほどある呑み屋の一軒が「麦秋」という名前でした。そこで「麦酒」をしこたま飲んでは、つまらない雑談に浸っていたのは、何年前になるでしょうか。麦の「実りの秋」が初夏だから、「麦秋」というのは、いかにも俳句界の符丁のようにも聞こえます。「一日漫歩」のたびに、ぼくは奇妙に思われてきます。ぼくの近所はすべてが田圃で埋め尽くされていて、「麦畑」は見る影もありません。なぜですか、そんな疑問が一向に消えないのです。
関ケ原焦茶色なる麦の秋 (山口誓子)
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○ 高橋治(読み)たかはし おさむ=1929-2015 昭和後期-平成時代の小説家。昭和4年5月23日生まれ。昭和28年松竹に入社し,35年映画「彼女だけが知っている」で監督デビュー。文筆業に転じ,ドキュメント「派兵」や,小津安二郎の生涯をえがいた小説「絢爛たる影絵」を発表する。59年「秘伝」で直木賞,63年「別れてのちの恋歌」「名もなき道を」で柴田錬三郎賞。平成8年「星の衣」で吉川英治文学賞。平成27年6月13日死去。86歳。千葉県出身。東大卒。作品はほかに「風の盆恋歌」「流域」「雪」など。(デジタル版 日本人名大辞典+Plus「高橋治」の解説)
○ 麦秋【ばくしゅう】〈むぎあき〉とも。初夏の麦の刈入時。〈あき〉という言葉には百穀成熟の意味があるが,気象的にも空気が乾いて気持のよい陽気という意味で秋と共通性が多い。旧暦4月の旧称。歳時記では夏の季語。(百科事典マイペディア「麦秋」の解説)
○ 麦秋=1951年公開の日本映画。監督・脚本:小津安二郎、脚本:野田高梧、撮影:厚田雄春、美術:浜田辰雄。出演:菅井一郎、笠智衆、原節子、杉村春子、淡島千景、高橋豊子、東山千栄子ほか。第25回キネマ旬報ベスト・テンの日本映画ベスト・ワン作品。第6回毎日映画コンクール日本映画大賞、女優演技賞(原節子)受賞。第2回ブルーリボン賞監督賞、撮影賞、助演女優賞(杉村春子)ほか受賞。(デジタル大辞泉プラス「麦秋」の解説)
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本日は朝から雑事という、じつに貴重な仕事が連続しました。ことさらに意味があったり、誇るべき作業などというものは案外にないものです。ぼくの日常は「とるに足りない」「つまらない雑事・雑用」の積み重ねです。その実感がぼくにある限り、ぼくは「まあこんなもんだね、人生は」という気になるのです。誰かが歌った「浪花節だよ人生は」というのは、ぼくには荷が重い。「人生の並木道」というのも、よくわかりません。男も女も、浪花節ではなく、講談でもなく、できれば「落語」のような生き方ができると、そんなにしんどくもつらくもならないのではないでしょうか。

人生にも「麦秋」という季節があるのかどうか。今や最晩年をひた走るぼくには、人生の「麦秋」を考えるゆとりもなく、ここまで来ました。「実りの秋」を言うのなら、それはぼくには無縁というか、先ずそんな時節は到来しませんでした。「花に嵐の譬えもあるぞ サヨナラだけが人生だ」と、わが邦の詩人は言い(訳し)ましたが、それとも違うような生活の積み重ねだったと言えます。「花も嵐も踏み越えて」というのとも違います。可もなく不可もなく、それがぼくの願う生活の水準です。実りの秋を考えるより、そのための蓄積(下積み・日常)こそが、実は最も生きているという実感に満たされていたんじゃないか、そんなことを漠然と考えたりしているのです。いいたとえではありませんが、野球の試合に出るための練習、その「練習」こそが、ぼくには「本番」だったといいたいような、そんな生き方をいつでも求めてきたような気がしたりします。つまりは、「人生の素人(アマチュア)」、そのような姿勢や態度で生活を送りたい、それこそが、ぼくが求めていたものであったと言いたいのです。相当に徒労だったという実感はありますけれど、まだ間に合うという期待も捨ててはいない。
今日は何かを言いたいのでもなく、批判の対象に誰かを据えるというのでもない、実に平板な「起伏のない」茶飯事こそ、ぼくの一大事であるというようなことを言ってみたかっただけです。いわずとも、内容はいたって浅薄です。
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