殺し合う残忍さを持つ人間とは何だ

河合雅雄氏が死去 サル学の世界的権威、「芋洗い行動」など解明 97歳

霊長類学者、河合雅雄さん=2015年8月、丹波篠山市内(→)

 世界的な霊長類学者で、兵庫県立人と自然の博物館名誉館長、京都大名誉教授の河合雅雄(かわい・まさを)氏が14日午前11時47分、老衰のため丹波篠山市の自宅で死去した。97歳。丹波篠山市出身。/ 旧制鳳鳴中(現兵庫県立篠山鳳鳴高)から旧制新潟高に進み、1952年京都大理学部卒。理学博士。故今西錦司氏の門下で生態学と人類学を専攻し、アフリカで霊長類進化学を研究した。/ 56年、愛知県犬山市の日本モンキーセンター設立に参加し、70年京都大教授に就任。同大霊長類研究所長を経て87年に退官した。その後日本モンキーセンター所長、日本霊長類学会長などを歴任。野外調査に重点を置いて、芋洗い行動などニホンザルの社会構造を解明し、サル学の権威として海外でも知られた。著作も多く、「河合雅雄著作集」全13巻などがある。

 郷里兵庫県との縁も深く、92年から2期8年県教育委員、95年から2003年まで三田市の県立人と自然の博物館長、96年から05年までは丹波市の県立丹波の森公苑長を務め、その後名誉公苑長となった。/ 終生「丹波の山ザル」を自称。02年には丹波篠山市の名誉市民に選ばれ、長らく住んだ犬山市から丹波篠山市に転居。97年から06年まで本紙客員論説委員を務めた。ユング研究で知られ、文化庁長官だった故・河合隼雄氏は実弟。/ 90年紫綬褒章、95年勲三等旭日中綬章、01年地方教育行政功労者文部科学大臣表彰。

■群れに密着、サルの「社会・文化」突き止める

 14日亡くなった霊長類学者の河合雅雄さんはサルの群れに密着し、人間にも共通する「社会」の存在を浮かび上がらせた。「サル学」を志した原点は戦時中の体験。「殺し合う残忍さを持つ人間とは何だ」という疑問だ。人類の進化の原点、戦争をもたらす悪の起源を求めて学び、自然と人間の関係について深く洞察した。晩年は故郷の篠山に戻り、子どもの教育に尽くした。/ 昆虫を追い掛けた丹波の山々や、魚を捕まえた篠山の川が、ナチュラリスト(自然主義者)としての河合さんを育んだ。一方、小学3年で結核にかかるなど病弱で、軍隊に召集されずに終戦を迎えた。/ 殺りくを繰り返す人間への不審、昔から抱いていた動物への興味がない交ぜとなり、動物学専攻を決心。京都大学に進み、動物たちの傍らで研究した。/ 篠山の自宅でウサギを飼って観察し、九州でニホンザルの群れに寄り添った。病気で右肺の機能を失っても、アフリカの高地や熱帯雨林でヒヒを追った。/ 「何とかなると思って努力すれば、何とかなる。大事なのはくじけないこと」。おおらかで楽観的な性格と持ち前の粘り強さが研究を支えた。/ その結果、動物にも「文化的行動」があり、「家族のようなグループ」や「共同体」を形成することを突き止めた。人間と動物の共通性と差異を見つめてきた経験から、現代社会への鋭い発言も繰り返した。

 「人間の特性の一つが自己破壊。自分で自分を滅ぼす行為は動物にはない。その表れが自殺であり、戦争。今や核兵器開発や環境破壊により、『ヒト』という種を破滅する道をひらいてしまった」/ 2002年に丹波篠山市に戻ってからは、故郷の子どもたちに関わる活動に奔走。講演で読書の楽しさを伝え、マレーシアの原生林に触れる体験学習を主導した。/ 故郷の自然を生かして、動物がすみ、人間が憩う「丹波の森」づくりにも尽力。すべての現代人に「人類を育んだ自然へ帰ろう」と訴え続けた。(金川 篤)(神戸新聞NEXT・021/5/15)

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 ぼくの友人や知人に、いわゆる「生物学」専攻者がいたせいもあって、若いころから、その分野に興味を持ち、雑学の林道に迷い込んだものでした。その中でも「私はダーウィンを超えた」といったという今西錦司氏には、一時期のめり込むようにして読んだものでした。今西さんはまずもって多方面に、それも実に大きな足跡を残した人として知られています。若いころから、毎日のように京都の鴨川に浸りながら、水中の昆虫(カゲロウ)の採集を継続していた人でした。後年、水の流れる速さに応じて住む場所・生活形態がわかれ、かつ身体の形態までもその住む場所により変容しているという「棲み分け理論」を打ち立てた。その他、数えきれない分野に大きな仕事を刻み、その分野に多くの研究者や学者の後継者を育てたことでもよく知られています。(例えるのは適切ではありませんが、内容に免じてお許しを)今西さんはまぎれもない「サル山の大ボス」だった。

 河合雅男さんもその一。昨日、京都の友人との電話で「河合雅雄さんが亡くなった」と、ひとしきり話題になりました。(河合さん一家、こんな家族がいるものだと感心するばかりです。後掲事典を参照してください)今西錦司さんとのかかわりから、まったくの自己流でしたが、ぼくは素人として、その仕事のいくつかに学ぼうとしてきました。なかでも大きな興味を抱いたのは、いわゆる霊長類研究です。宮崎県の幸島や都井岬の野生の馬やサルの研究はひときわ知られていますが、ぼくはこのグループが実践した「個体識別」という研究の初期段階に採用された方法に大きな関心を抱きました。例えば幸島の百頭を超えるサルに「個別名・固有名」を付けていたことに驚くとともに、一気にサルと人間の境目というか、距離がなくなった感がしたことをよく覚えています。「太郎さん」や「花子さん」というと、なんだか親しそうじゃないですか。実際に親しくなるものです。この幸島のサルの集団では「サツマイモの水洗い」が有名です。はじめは山中の渓流水で、後には海岸に降りて塩分を含んだ海水で洗うようになったのです。天然アガリ含有の海水で洗ったものは、きっと適当な塩分が味を引き締めてくれる、それを知っていたんですね。いかにも「通」でした。このイモ洗いに関しても、いくつかの驚くべき事実が解明されています。(と、こんなことを書いていくときりがなくなりますので、いずれどこかで)(左上写真は今西錦司氏)

 上掲の記事にも出ていますが、「サルの研究は人間の研究」であるという点に、ぼくは強い同意を持つものです。これは犬や猫でも同様で、まるで「玩弄物」であり、人間の都合で「ペット」などという、いい気な「飼い方」をしていますが、それはとんでもないまちがいであると、ぼくは言いたいですね。パンツをはかせたり、セーターを着せるなどという人間の行為は「虐待」じゃないんですかねえ。「ペット」というのは何ですか。合成洗剤の名称(商標)でもあり、「特定の人にとって、お気に入りの年少者。また、年下の愛人」(デジタル大辞泉)などと、グロテスクすぎますよ。ぼくは「ペット」という語感が嫌だし「猫を飼う」などという言い方は一切しない。付き合っているのですから、仲間であり、いのちのつながりがあると感じるばかりです。相手も、「そうだ」と考えてくれることを願いますね。いろんな意味で、「ぼくの先生」です。ときどき、「教師」と諍(いさか)いを起こすこともありますよ。折れるのは、いつもぼく。

 サル学は人間学であるという、当たり前に過ぎる指摘をぼくたちは忘れているんじゃないですか。医学でもまず、(当否は別の問題として考察すべきですが)動物から入ります。薬でも機器でも動物に依存しなければ開発されないのです。先日、動物病院へ行って驚きました。「と医院では、犬や猫の内視鏡検査をお勧めします」と張り紙がしてありました。進んでいるというのか凄いことになっています。動物病院に行くと、かならずぼくには確認させられることがあります。(もちろん例外もあるのでしょうけれど)「人間相手の医者より、動物医の方がよほど、医療に叶っている」という点です。あくまでもぼくの狭い経験からの判断です。

 若いころから辞書を片手に必死で読んでいたアランというフランスの思想家の父親は動物医だったそうです。「その父がよく言っていた。人間と同じ環境に生きているのに、動物にははるかに胃潰瘍が少ない」と。ぼくはこの指摘にはには感心しました。動物には人間のように、要らぬ心配をしたり、くよくよ悩むことがないのでしょう。天気が晴れれば、すっかり「くよくよ」も「いじいじ」も忘れるのは、天気に関係があるのではなく、しなくてもいい「余計な考え」がストレス(神経への負荷)を蓄積し、その抑圧に、前後が見えなくなるからでしょう。雨が降れば憂鬱で、晴れれば快調という人のことを「お天気や」というそうです。(もっとも、近年では、犬や猫でも胃がんや糖尿病、あるいはうつ状態になる時代です。人間と同等の生活をさせることが「かわいがる」と錯覚する人が多すぎやしませんか)まずサルや猫や犬から学べ、それが人間のまともな判断力を養う近道というより、「王道」だといいたいほどです。犬猫の「二日酔い」は、ぼくは今のところ聞きません。その内、酩酊する犬や猫が現れるか。それは酒に溺れさせた主が悪いんです。

 ぼくは高校生の頃だったと思うが、大分県の高崎山に行ったことがあり、そこでおサルさんに「因縁を付けられ」「脅された」という、消しがたい「屈辱の経験」をもっています。何か気に入らないことをしたのではありません。まあ、おサルさんからすれば、「人間というカモ」にみえたのでしょう。背中のリュックを狙われました。「仲間以下」とガンを付けられたのかもしれない。以来、ぼくはサルに対して恐怖心を持った。サルは怖い、手出しはできない、そんなことはやめて、あの方たちから学ぼうという、その謙虚な姿勢は、その後も、たしかに一貫してきたと言えそうです。ぼくに因縁をつけたおサルさんの名前は忘れたが、この高崎山も京大霊長類研究所の拠点でした。その地は、まさに「サルの軍団」の活動場所であり、「人間禁制」の聖域だったかもしれません。「サルの惑星」という一種の混沌と秩序が入り混じった世界です。そこにあって、人間は使徒、おサルのお使い番のようです。(https://www.takasakiyama.jp/)

 すでにどこかで書きましたが、京都嵐山の「岩田山」には小学生のころから何度もでかけましたが、そこでもおサルは怖い、という一念だけが印象付けられました。ガンを付けられた、初めての経験は岩田山でした。「サルがガンを付けますので、注意してください」と看板あり。ここのおサルたちにもすべて「固有名」がついていました。親しくなれば、だれそれの区別がつくというのは、人間も同じです。固有名を持つ人(もの)同士がつながれるのであり、無名や名無しだと、交流はできないのは当然でした。河合雅雄さんが若いころ自宅でウサギを飼育し、観察していたが、ウサギはあまり面白くなかったのはなぜでしょうか、きっと「固有名」同士の交流が生まれがたかったからではなかったか。そんなようなことを、河合さんがどこかで書かれていたのも、かすかに記憶している。

 みさんん、国民の皆さん、諸君、日本人よ、…。言葉はともかく、どんな場合でも、一般名詞や集合名詞ではなく、固有名でつながるというのが、人と人、人と動物の関係の第一歩でしょう。ドイツの哲学者だったマックスシェーラーは若い学生に「人間を知りたいなら、動物をよく見なければだめだ」ということを繰り返し言ったといいます。よく付き合うと、どうしてもお互いの識別が求められます。それが「固有名」です。それはまた、河合さんたちの研究の第一歩であり、研究に入るための前提でもあったのではなかったでしょうか。「人間とは何か」と問うこと自体おかしくはありませんが、あんまり優れた問いではなさそうです。「人間を知るのに、人間を研究する」、なんか合っているようでピンとがずれていると思われてくるからです。人間を知悉(ちしつ)することはできませんが、おおよそのことはわかるでしょうが、それも人間以外の存在をよく見ることから得られる結果です。今西さんたちが創始した「日本霊長類学」がまさにそれではないか。サルの研究(猿楽じゃなく、サル学)はそれ自体に意味・目的を求めるのではなく、人間をよりよく知るための方法の一つです。「ヒトの振り見て、わが振り直せ」というではありませんか。「先祖に恥じないように」と、ぼくたちは命じられているようです。

 ぼくはサルや動物に興味を早い段階から持ったのは、先見の明があったからではなく、動物の行動のことごとくに興味が湧いたからです。人間の先祖という事実はたくさんの、しかも重要な事柄を示しています。人間はサルから進化したというのは思い上がり。サルが祖先であり、己のルーツ(origin)だという証明問題をぼくたちはよく解きえていないんです。枝葉ではなく幹、それが人間にまで届いているというのでしょう。ならば、人間問題に難しさを覚えたら、根っ子(root)に戻ることです。その時はよくわかりませんでしたが、長じて、なんだ、あれはこういうことだったのだと、我に返るような発見というか、見るべき方向への示唆を得て驚いてばかりでした。サルから学び、ネコから学ぶ、それがぼくの学校であり、彼や彼女たちは、「ぼくの先生」でした。

 河合さんたちの学問というのは、人間の生存基盤である環境、それも自然環境というものが生命線でした。丹波の山中に生まれ合わせた「ヤマ猿」という幸運を、河合さんは「サル学」で生かされたのだったと思います。ともかく、サルの研究から得られた知見や経験を、ぼくたちは、自身の集団の特性や、集団内の葛藤、あるいは家族や家族内外の亀裂や対立などの問題把握に十分に生かし切れていないような思いが強くするのです。とても残念ですね。「三本足りない」と人間以外の動物を揶揄します。でも僅か「三本の有無」しか区別すべきものがないというのは、逆に「兄弟やんか」「ぼちぼち・ちょぼちょぼでんな」という意味でしょ。DNAレヴェルでは九十数%まで同じともいいます。彼や彼女たちから学ぶべきものがあり過ぎであるとは考えられませんか。

 「人間の沽券」というのは虚無でしかありません。元来、「沽券」の「沽」とは「売る」という意味。そこから人間の「売値」「値打ち」と展開してきたのです。「沽券にかかわる」と啖呵を切るのは、安く買われてはたまらないという「空威張り」であり、「空元気」、すなわち「空手形」にすぎません。猫が「沽券にかかわる」とは断じて言わないと、ぼくは思ってきました。人間というのは、余計なものをあまりにも多く持ちすぎているのですね。犬・猫の世界には防衛力増強とか、集団的自衛権などという「浮ついた、誤魔化し」は一切ないのです。

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特記 ぼくは三戸サツヱさんに深甚の感謝をささげたい。彼女がいなければ、幸島のサル学はこんなにまで進捗しなかったと思うからです。彼女はおサルさんたちにとってはかけがえのない「お母さん」でした(三戸さんがおサルさんを産んだというのではなく、その反対に「おサルさんがサツヱさんを産んだんです)

 同時に、サル学研究にとっては、なくてはならない現地研究者でもあり、保護者でもあったと思う。ぼくは、何よりも、動物とつながる確かな交流の核心を彼女から学んだと言えます。その教えを忘れないためにも、ネコとのつながりと付き合いは、まだまだ続くはずです。彼女のような「生き方」、それはぼくの導きの糸でもありました。サルの先生でもあり、人間の子どもの先生でもあった人でした。

○ 三戸サツヱ (みと-サツエ)(1914-2012)=昭和後期-平成時代の野生ザル研究家。大正3年4月21日生まれ。小学校教員のかたわら,昭和22年から宮崎県串間市沖の幸島(こうじま)で野生ザルの観察をはじめる。29年日本初の餌付けに成功。京大霊長類研究所の幸島野外観察施設研究員をつとめ,芋洗い行動の発見,群れの系図作成などの業績をあげた。49年吉川英治文化賞。平成24年4月7日死去。97歳。広島県出身。安田学園卒。(デジタル版 日本人名大辞典+Plus)

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(*参考までに 「河合雅雄は7人の男兄弟の三男であり、長男・仁は外科医、次男・公は内科医、四男・迪雄は歯科医、五男・隼雄は臨床心理学者(京都大学教育学部名誉教授)、六男・逸雄は脳神経学者(京都大学医学部元助教授)である。/ 甥に臨床心理学者の河合俊雄(京都大学こころの未来研究センター教授)、法社会学者の河合幹雄(桐蔭横浜大学法学部教授)、工学者の河合一穂(京都大学国際融合創造センター元非常勤研究員)、歯科医の河合峰雄(日本歯科麻酔学会理事)などがいる」(Wikipedia)

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投稿者:

dogen3

 語るに足る「自分」があるとは思わない。この駄文集積を読んでくだされば、「その程度の人間」なのだと了解されるでしょう。ないものをあるとは言わない、あるものはないとは言わない(つもり)。「正味」「正体」は偽れないという確信は、自分に対しても他人に対しても持ってきたと思う。「あんな人」「こんな人」と思って、外れたことがあまりないと言っておきます。その根拠は、人間というのは賢くもあり愚かでもあるという「度合い」の存在ですから。愚かだけ、賢明だけ、そんな「人品」、これまでどこにもいなかったし、今だっていないと経験から学んできた。どなたにしても、その差は「大同小異」「五十歩百歩」だという直観がありますね、ぼくには。立派な人というのは「困っている人を見過ごしにできない」、そんな惻隠の情に動かされる人ではないですか。この歳になっても、そんな人間に、なりたくて仕方がないのです。本当に憧れますね。(2023/02/03)