オリ・パラは世界最大の平和の祭典であり、…

 理由は三つ? 【水や空】「私はアスリートですし、ずっと待ち望んでいた大会。しかし、人々を危険にさらすのであれば、今すぐ議論すべき」はテニスの大坂なおみ選手。錦織圭選手は「(五輪は)死人が出てまで行われることではない」と語った▲おそらく選手たちは、夢の舞台を心待ちにしているはず、と考えるからかもしれない。アスリート発の“五輪懐疑論”がこのところ立て続けに報じられている▲陸上の五輪テスト大会に出場した新谷仁美選手は5000メートルのレース後に取材に応じた。「反対意見も無視できない」「スポーツで世界が救えるのなら、もうとっくに救えている」「人としては今年の五輪開催には反対、アスリートとしては分からない。悩んでいる」。取材対応は16分間に及んだそうだ▲質問から逃げず、慎重に言葉を選んで語る姿に頭が下がる。ただ、五輪をこのまま開催するか、別の決断をするか、決めるのは別の人の仕事だ。競技者たちを不必要に矢面に立たせるのはおかしい▲外信面に記事がある。ニューヨークタイムズに五輪の中止を主張する寄稿が載ったそうだ。〈五輪開催に強引に突き進む理由は三つ。カネ、カネ、そしてカネだ〉▲外国の人って時々こういう意地悪な言い方する…の感想は別として、これに反論するのも誰かの役目なのだろうが。(智)(長崎新聞・2021/5/13)

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 二日続けて【水や空】です。ぼくにとっては珍しいこと。遠く離れた長崎の地の「智」さんには敬意を表します。数ある中の新聞「コラム」から、これまでも何度か【水や空】を借用したと思う。それしか読んでいないからではなく、毎日、五十紙ほどの「コラム」に目を通した結果、ぼくの偏りのある好みが、ここに収斂されるのです。だから、これはなにかを示すデータなんかではないし、まして新聞コラムのランキングに関係するものではありません。単に、「このコラムはいいなあ」「これは問題ありだな」「確かに、この指摘は的を射ているぞ」という、それだけの、一読者の感想を、雑文や駄文の種にしているだけですから、失礼この上ないのです。考えるまでもなく、当の筆者にはお詫びしなければならない心ない仕業です。あえていうなら、落語にみられる「まくら」です。「まくらを振る」とも言いますよ。ちょっと違った方面でも「まくら営業」が話題になっていますが。

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 面白いと言ってはいけないでしょうね、開催反対の声が多くなればなるほど、強行しようとする側は意固地になります。理由はいろいろ、いったんやると決めたのだから、反対されて止めることはあり得ないと。さすが、男らしい、女らしいと「大向こうから」の大音声が聞こえてきますでしょうか。なぜ開催するのか、いわゆる「大義名分(看板)」が二転三転してきました。それこそ、開催に自信も根拠もない証拠です。「フクシマの復興記念五輪」といいだし、「コロナに克った証の五輪」と言いつくろい、さては「団結の五輪」「分断された絆を深める五輪」「間違っていても、『決めたらやる』という覚悟を世界に認めさせる五輪(大和魂の証明)」など、「大義名分のような宣伝の幟(のぼり)旗」は途方もなく雲散し、当初から徐々に霧消している惨状です。誰が見ても、もう目も当てられないところに来ています。

 IOCの金権ぶりを指摘し、「ぼったくり男爵」だと、まるで「ジャガイモまがい会長」への当てこすりから、カネ・カネ・カネと叫び狂っているIOCを徹底して非難、「危険な茶番は止めるとき」とする海外の報道が目白押しだし、「開催は自殺行為」と日本の企業家も負けじと、中止発言を発しています。そんな中で、当のアスリートはどうかと、注目されたのです。長く異国で活躍する選手たちは言うまでもありません。何よりも自己判断力を持たなければ過酷な試合に参加すらできないから、その発言も(好き嫌いは別として)時宜を得ていると、ぼくは判断します。くわえて、島の五輪代表選手たちはどうか。そのトップに長距離の新谷(にいや)さんがおられることに、ぼくは関心を持っていたし、発言を聞くたびに感心もし、自分の言葉をお持ちだなあと嬉しくもなるのです。「勝ち負け」に強いとか弱いとかが問題ではなく、自身を知ろうとしているか、自分を偽らないか、そのような態度や姿勢が好感を持たれるのだと、ぼくは考えるのです。

 「反対意見も無視できない」「スポーツで世界が救えるのなら、もうとっくに救えている」「人としては今年の五輪開催には反対、アスリートとしては分からない。悩んでいる」 と現実のありさまを明らかな目でとらえています。一人の人間のなかの「二つの立場」が鬩(せめ)ぎあっている、あるいは「分裂」している。だからこそ、そのような動揺を隠さない態度にぼくは動かされるのです。大きな勢力の側に身を寄せたり、権力や権威の尻馬に乗るのも、一つの立場でしょうが、そこにおのれの判断があるのかどうか。ぼくは単なるスポーツ好きの爺さんです。それで十分で、若い時にはそれなりにスポーツをやっていたから、その雰囲気の満分の一ぐらいは身に覚えがある。ぼくは「勝つために闘う」だの、「負けたらダメや」という、とことん勝敗に拘るのが嫌いでしたから、あくまでもジレッタントの域を超えようとはしなかった。今はすべてとは言わなくとも、大半がプロです。プロとは「職業」としてスポーツを選んでおり、それで生計を立てているという意味です。そこに問題があるとは言いたくない。生きていくための競技人生ですからね。

 自身のうちの「二つの立場」のどちらかに決められないから悩むのです。人間の悩みの大半はそんなところから生まれます。選択できない「二つの道」はいたるところにある。何時までも未決状態では、安閑・安穏には生きていけない。まずどちらかを選ばなければならぬ、それが正しかったのかどうか、その時にはわかりません。きっと結果として、後になって判断の正誤が明らかになるしょう。これもまた、個人における「デモクラシー精神」の表れだろうといいたい。まず、差し当たって、今は「これ」に決めよう。でも、間違いだと判明したら直ちに改める。このような過ちとその自覚(発見)、やり直し(訂正や修正)のための再選択、これがいつまでも続くのです。人間は間違える生き物だという証明でもあります。どちらか一つに決められないとどうなるか。いつまでも「宙ぶらりん」「サスペンデッド」状態が続きます。それに人はどれだけ耐えられるか。人それぞれでしょうが、そんなに長くは続かない。「宙ぶらりん」状態が長期化すれば、精神は疲れ、身体は萎えてくる。心身の平衡を失して、あるいは病的な状態に追い込まれないとも限りません。

 でも、「悩む」「苦しむ」というのは、そのようなことを言うのではないですか。自分の中に葛藤があるのは「正常」というか、意識があるという意味ではまちがいではない。むしろ「葛藤」「挌闘」がない方が珍しい、いや生きているかどうか怪しいと、ぼくは経験から学びました。多くの場合、それを「ストレス」などと一言の下に言い表そうとします。それはともかく、葛藤や挌闘状態にある自分を外に出すかどうか(誰かに話すかどうか)、それは人によるでしょう。内面の苦しみを表情に出さない、これをぼくは「礼儀正しさ」だとフランスの哲学者から学んだ。自分が苦しい、私は不安だと「表出する」ことができて、気が晴れるかもしれません。でもそれだけで気が晴れるなら、実は苦しみも不安も根拠薄弱であったということにならないか。根っ子の生えたような悩みや苦しみは「他人に話した」「医者にかかった」ぐらいで解消しますか。薬も効きやしないと、ぼくは思っている。ではどうするか。時間がかかるし、時間をかけなければ、心身の回復は困難だと言えます。「時間が癒す」と言えば笑われそうですね。でも時間こそが名医であり、良薬なんだと、ぼくは確信に近い手ごたえを得ている。大事なのは、その時間の「さざ波」に耐えられるかどうか、これも簡単じゃないですね。でも、なんとか耐えたいね、ゆっくりと。時間を持ちこたえて、結局は「自分で治す」、それが「元気」の回復です。

(「気」についてもう少し触れたいのですが、それは別の機会に。その昔は「減気」などと言ったし、それは今でも通用します。「元気を出せよ」というような表現に「気が増えたり減ったり」する状態の微かな面影があります。気が滅入る、というのも同様です。「新しい空気」を胸いっぱいに呼吸すると、血中に新鮮な酸素が適量に保持される。当今流行りの「パルスオキシメーター・pulse oximeter(血中酸素濃度測定器)」は、その「気」(血中酸素濃度)を測るんですね。ヘモグロビン中の酸素濃度(SpO2)というのか、いずれにしても、新鮮な空気を肺に入れる必要があるのです。呼吸不全を起こさないための処方箋は屈伸であり、ストレッチなんですが、それは新しい酸素を身体に取り入れるための(そればかりではありませんけれど)、どこででもできる手軽な作業なんだね。猫はいつでもこれをやっている。どこかでこの続きを)

 どうも「五輪開催問題」から離れたようです。でも、そんな遠くまで来たとも思われません。死んでもラッパを放さなかったという兵隊さんの美談(仕立て)が国定教科書に出ましたが、誰が死のうが、誰かに殺されても五輪開催だと、いったい誰が言っているのでしょうか。あるいは「現代版国定教科書」に記載されるのかもしれません。女性初の総理秘書官が教科書に出たくらいですから。この方は「高額接待」が明るみに出て、病院に入ったまま、いまだに音沙汰なし。「おいしいね 飲んだり食ったり 他人(ひと)のカネ」という秀逸な川柳がありました。この女性「高級官僚」氏は、なんともいやな(「男勝り」というのか、この表現は戴けませんが)官僚の見本でした。(人民が何人)死んでも開催というのは「つよがり」なのか、「まっすぐの人」なのか、それとも「むじひ」なのか。いずれも「嘘を下敷き」にした、「思い付きで自分を偽る」輩であり、「できもしないこと」をいい触らしているんじゃないですか。どれだけの死人が出ても「安心安全」というお題目だけを無意味に唱えていれば、やがて苦難の扉は開けるのか。「死して後病む」(それはあり得ない)、いや「死して後已む」とでもいうのでしょうねえ。

 「オリンピック・パラリンピックは世界最大の平和の祭典であり、国民の皆さんに勇気と希望を与えるものであるというふうに認識している。感染が拡大する中で、国民の皆さんの間で東京大会について様々なご意見があることは承知していますが、選手や大会関係者の感染対策しっかり講じ、安心して参加をすることができるようにするとともに、国民の皆さんの命と健康を守っていく。これが開催をするにあたっての基本的な政府の考えであります」(総理大臣の「寝言」5月14日)

 「非常事態を宣言」している張本人の、ノーテンキな棒読みでした。じつに寒心に堪えません。

 棒読みしている本人に、この問題で悩んでいる風が微塵も見られない。多分「己のことば」をもち合わせていないから、誰かの書いた文章を「読本」宜しく朗読するだけ、だから響いてこないといわれるのでしょう。この男が持っている唯一の関心は「総理の椅子に座り続けたい」という居座り、居直り(まるで強盗ですよ)、強請(ゆすり)集(たかり)まがいの性悪さです。これが「平和の祭典」を口にするのだから、言いようのない冗句であり冗談でしょう。そんなに五輪開催を望むなら、自分で走ったり泳いだりしたらどうでしょう。「一日百万回のワクチン接種」を口にした主です。その勢いたるや「自分が注射器を手に」薬事法違反をやりかねない、それほど、椅子を盗られれたくないという薄汚い根性が丸見えです。(「一将功成らず、万骨も枯れる」という最悪の道行きです)

 現に火災が発生中。何台もの消防車が駆けつけている。それなのに、消火作業は始まらない。指揮官が寝ぼけているのか。「まだボヤだ」などとぼやぼやしているうちに隣家に延焼中。それでも「(消化方法を決めるための)火遊び専門家の意見を伺って」と、何から何まで他人任せで、でも「油揚げ」だけは自分の口にしたいという、まるでトンビ(こんなところに引き合いに出して、申し訳ない)まがいの、みっともない魂胆が、手に取るようにわかる。しかもそれが、グローバルにライブ中継されているのです。====「俺ら こんな島いやだ」っか。

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。