「さざ波」ツイート

【水や空】「スペシャル・アドバイザー・トゥー・キャビネット」と英訳するそうだ。内閣官房参与は〈各種の分野で専門的な立場から首相に情報提供や助言を行う〉のが役割の非常勤の公務員で、現在の人数は10人▲その中の1人、高橋洋一嘉悦大教授のツイートが物議を醸している。各国の新型コロナウイルス感染状況をグラフで比較しながら〈日本はこの程度の『さざ波』。これで五輪中止とかいうと笑笑〉▲「さざ波」は、医療関係のある研究者の表現を引用したもの…と釈明しているらしい。しかし、その「さざ波」は現実に人々の健康や生命や生活を脅かし続けている。波の高さだけ捉えて他国と比べても意味がない▲末尾の「笑笑」…。書き言葉の限界を補うために私たちも時々使う「冗談です」「笑いながら書いています」の意図ではなさそうだ。中止論を笑っているのか、物笑いのタネを世界に提供する-とでも言うのか。どちらにせよ、五輪の先行きは半笑いで論じるべきテーマではなかろう▲高橋氏は元財務官僚。小泉純一郎政権の公務員制度改革にブレーンとして参画し「霞が関全体を敵に回した」。舞台裏を記した著書の紹介記事では「普通の人の素朴な感覚で考えているだけ」と語っていた▲「素朴な感覚」がとても残念な形に変異していないか。(智)(長崎新聞・2021/5/11)
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この高橋某氏がどんなに偉い人か、ぼくは知らないし興味もない。でも、この程度の twitter を発して「悦に入る」程度の骨柄なら、屑もいいところです。ときどきネットで顔を見る程度で、いかにも高慢太りをしている御仁のように見えます。現政権(前政権も)の向こう三軒両隣にはこのような手合いというか、ゴロツキが五万といるのはどうしたことか。「類は友を呼ぶ」というらしいから、あるいは「同病相憐れむ」ともいうらしいから、いずれもその「類」「同病」の連中のようだと、ぼくには思われる。
自分を「偉い人物」と見せるために、多くは着る洋服、持つカバン、あるいは出身大学を見せびらかすようです。ぼくにはかかる値踏み・瀬踏みは微塵もない(と自分では思っている)から、そのようにしたくなる気分というか性根がよくわかるとはいえませんが、不幸にしてそのような「自己評価の高い人々」「自尊感情の強い人間たち」が蝟集しているような集団に少しばかり属していたから、その雰囲気はわかりそうです。そこでは、ぼくは完全に浮いていましたし、いまも「沈まなかった」ことをよかったなと、思うことにしています。
さらに「自分を高くする」ために「他人を低くする」という手法・処世術があります。似たような表現に「自分も悪いけど、あいつはもっと悪い」というような弁解そのものが多用されます。自分は少しも「高くない」のに、自分より「低いとされる人間」を持ってきて、「どうだ、自分は高いんだ」と言いたiいのでしょう。自分は一ミリも成長していないにもかかわらず、隣に質の悪い人間を並べるのです。八十点は五十点よりは高いけど、九十点よりは低い。そもそも、点数を競うというのは、一種の病気ですね。これは個人でも企業でも国家単位でも同じです。数字なら、客観性がありそうに見えるだけに、それを真に受けやすい、一人は独自であるのと同じように、国もまた独自に存在している。それだけです。
「羊頭狗肉」とか「鶏口牛後」、つまり「羊頭を掲げて狗肉を売る」というのらしいし、「むしろ鶏口となるも牛後となるなかれ」というようです。果たしてそれは何を表現しようというのでしょうか。「看板に偽りあり」と言えるようですし、「小よく大を制する」とでも言っておきましょうか。掲げる看板には正直であってほしいし、大きいことはいいことではないのだという戒めでもあるのでしょう。どんな皮を被ろうが、偽れないのが「真骨頂」であり、「真心」です。もろもろの「あやかし」に惑わされないだけの「視力、つまりは知力」を維持したいですね。
脇道に逸れるようですが、一例となるかどうか。例えば、「ショパンコンクールで優勝」というピアニストが存外つまらないというのはいくらもありました。名前を挙げてもいいでしょうが、それは無意味。コンクールるを否定はしません。否定しても存在するでしょうから。それに勝ために磨く技とは何ですかと、ぼくは疑問が解けないのです。それだけ。「芸術(音楽や絵画など)」で一等とか優勝を誇るというのは、勘ちがいというか、「芸術の畑」がちがうんじゃないですか。それに本邦の音楽留学組が「✖✖音大を首席で卒業」とくる。それがどうした、と悪態をつきたくなるのです。実演で示してほしい。学歴や成績は、仮のものだし、永遠に通用する代物でもないのですからね。ぼくはそれだけ(首席で卒業)で、聴いてみようという気力というか、関心が失せるのです。グレン・グールドという不世出(とぼくには思われます)のピアニストは、「コンクールは殺人事件だ」と言っていました。「なんということだ」と、頭を殴られたように思いました。このようなプライズの最たるものは「ノーベル賞」、これについても言いたいけれど、止めておきます。
「自分は凄い」と自分をだますのに、もっとも近い道にはいろいろありますが、ソーリ(世間では偉いとみられているから)と昵懇だというのでしょう。「偉い人と付き合っている」から「自分も偉い」というんですか。アホか、です。嘘つきで無能な権力嗜好ばかりが肥大している人間(ガースーとか)と知己であるというのは、ぼくはご免被ります。高橋某さんは、どうでしょうか。ゴロツキのような半端な人生観を持っているソーリが「お友だち」だとみなすのは、彼に異論をはさむような人間でないことは確かです。オベンチャラ、追従、そんな手合いばかりを集めて、一種の「砂上の楼閣」、いや「砂の器」を作るのが、権力亡者のよくするところ。「集まれ、どうぶつの森」というのかしら。
これまで繰り返し、人間の「誠実」「誠意」というものを欠いているのは、どこかで育ちそこなったからだと、ぼくは言ってきましたし、今でもそのように言いたいのです。人民が明日をも知れぬ思いで、その日の明け暮れを余儀なくされるのを、外から「睥睨し」「蔑視し」「嘲笑し」というような人物が政治や行政の世界に屯(たむろ)している、この島の現実は危篤状態に陥っていると言えるでしょう。「薬石効なく」と名医も匙を投げた、その後を食い散らし食い潰しているのが現政権や官僚たちです。そのような吸血鬼もどきの権力亡者を支える支持層は意外に厚いんだね。まさか、と思いたくなるけど、事実はそうでしょう。何度選挙をやっても与党であり続けるし、人殺し以外は違法行為も「お咎めなし」とくれば、そのような権力に批判的な言動をとるやつこそが異常だと言われかねないのです。

ぼくは携帯を持ったことがありません。持つ気もない。ぼくのような暇人には携帯電話の必要性が感じられないのです。だから、それに付随するいろいろな機能も知らない。どうすれば ツイートできるのか、いやどうしてこんな「短文」発信に溺れる人が多いのか、皆目わからないのです。なかには「炎上」目当てという輩もいるそうです。きっと、この高橋某氏もその一派じゃなかったか。ぼくには手に負えない悪漢ですね。「炎上、結構!」とか「炎上、上等だ!」と来た日には、一目散で逃げ出したくなる。つまり、この時代は「悪漢の時代」なんですね。テレビも新聞もネットも、悪漢たちの総結集という、紛うことない「圧巻」です。新聞もテレビも目にしなくなってから、久しくなります。それで不都合が生じたということはない。反対に、時間を有効に使う子尾tができるようになった。おなじ「無駄な時間」なら、「よりいい無駄な時間」に身を合わせたいですね。報道やマスコミが「堕落した」から「政治が腐敗」したのか、その反対なのか。きっと両方(堕落と腐敗は同病でもあり同類でもあります)でしょうね。
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本日は快晴なり。つい先ほど動物病院まで猫を連れて行き、帰ってきたところです。(十一時過ぎ)

「避妊手術」をするため。さらに男の子が「去勢手術」待機中です。そのほかに、二か月ほど前に生まれた子が計「七人(家の軒下や車庫で生まれた)」(うち一人は、川崎在で、かみさんの知り合いが引き取ってくれました。さらにもう一人も貰い手は決まっている)したがって、今のところ、親も加えれば、「十人」です。物好きでも何でもない、誰かが面倒を見、必要な手術をしなければと、勝手にやっているだけです。しいていえば、「捨てられているのは、俺だ」という感覚ですね。犬猫の「殺処分反対」の署名が、しばしば来ます。もちろん署名する。しかし、目の前に現れたなら、なんとか命をまっとうさせたい、それは人でも動物でも変わりない。家はボロボロになりました。それもまた当たり前で、猫たちに「感謝」とは言わないけれど、何かとせわしなくさせてもらっているのは、大変ではあるが、年寄にはありがたいこと。まあ、どこまで続くか、無理をしない、ゆっくりと付き合うのが一番ですね。(これまでに、どれくらいの犬や猫やと付き合ってきたか。そのすべてが「野良育ち(捨て猫など)」でした。ぼく自身も、紛れもなく野良育ちの野良人間ですから、身の丈に合っているんだね。ここで「笑笑」かな)
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