五月雨のそそぐ山田に 賤の女が…

○ 佐佐木 信綱(読み)ササキ ノブツナ=明治〜昭和期の歌人,歌学者 東京帝大講師。生年明治5年6月3日(1872年) 没年昭和38(1963)年12月2日 出生地安濃津県鈴鹿郡石薬師村(現・三重県鈴鹿市薬師町) 旧姓(旧名)佐々木 別名号=岳柏園 学歴〔年〕帝大文科大学(現・東大文学部)古典科〔明治21年〕卒 主な受賞名〔年〕帝国学士院恩賜賞〔大正6年〕,朝日文化賞(昭5年度)〔昭和6年〕,文化勲章(第1回)〔昭和12年〕,文化功労者〔昭和26年〕 

 経歴明治16年11歳で「文章作例集」を刊行。23年18歳から父・弘綱と共著で「日本歌学全書」(全12巻)の刊行に従事。24年弘綱没後、竹柏会を主宰し、31年「心の花」を創刊、和歌革新運動をおこす。36年第1歌集「思草」を刊行、以後、歌人、万葉学者、国文学者として幅広く活躍。昭和12年第1回の文化勲章を受章。歌人としては歌集「思草」「新月」「常盤木」「天地人」「山と水と」などを刊行、万葉学者としては「新訓万葉集」「評釈万葉集」などのほか「校本万葉集」(全25巻)を武田祐吉らと完成させた。歌学史研究としても「歌学論叢」「日本歌学史」「和歌史の研究」「近世和歌史」などを刊行。「佐佐木信綱全集」(全16巻)がある。また唱歌「夏は来ぬ」の作詞も担当した。昭和45年亀山市へ移築されていた生家が元の石薬師町に再移築され、佐佐木信綱記念館が開館、61年資料館も併設される。(20世紀日本人名事典の解説)

○ 小山 作之助(読み)コヤマ サクノスケ=明治〜昭和期の作曲家,音楽教育家 東京音楽学校教授。生年文久3年12月15日(1864年) 没年昭和2(1927)年6月27日 出生地越後国潟町村(新潟県大潟町) 学歴〔年〕音楽取調掛全科(現・東京芸術大学)〔明治20年〕卒 経歴東京府伝習所、東京師範、東京盲啞学校教諭などを経て、明治25年東京音楽学校助教授、30〜38年教授。また各私立音楽学校顧問を務める。私塾・芝唱歌会を主宰。この間、「小学唱歌集」「中学唱歌集」「勅語奉答歌」などの作曲に参加、「夏は来ぬ」「川中島」「広瀬中佐」「寄宿舎の古釣瓶」などの唱歌を多数作曲。また同声会理事長、日本音楽協会初代会長、音楽教育会会長、音楽連盟幹事、日本楽器会社監査などを務めた。(20世紀日本人名事典の解説)

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 唱歌「夏は来ぬ」に関しては、昨年もこの時期だったかに、わずかばかりのことを書きました。その時にはまったく触れられませんでしたが、作詞と作曲の両者がどのような意図を持って、この「唱歌」に臨んだかということ、特に作詞の佐佐木には書くべきことがたくさんあるように思われました。しかし時間を無駄にするというのか、あまりにもペダンチックになるような気がしたので、あえて触れないことにしたのです。まず歌詞です。いかにも古風というか、古語がふんだんに用いられています。まるで万葉調というのか、明治中期の世相にもそぐわないような徹底ぶりでした。佐佐木信綱は押しも押されもしない当代随一の万葉学者であり、如何にも優れた歌人でもありました。歌を詠む、あるいは研究を継続するのは、いわば家業の如き「正業」として受け継がれてきた家に生まれました。ぼくはほんの小さな触れ合いでしたが、信綱さんの孫にあたる幸綱さんと一時期会話を交わしたことがあります。彼の下から飛翔したのが「サラダ記念日」の俵万智さんでした。

 作曲の小山作之助氏は、これまた音楽界の重鎮であり、東京音楽学校の草創期の開拓者でもありました。この島における音楽教育における先導者の役割を果たした人だと言って間違いない人でした。伊澤修二氏に次ぐ功労者であったとも言われるでしょう。この重鎮コンビによって発表されたのが「夏は来ぬ」で、明治二十九年のことでした。あるいは、この唱歌は他の唱歌とは一味違った、まるで別格として扱われたものだったかもしれません。今のところ、確証はありません。(https://www.youtube.com/watch?v=XQm1qk53suc

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 卯の花の 咲き散る岳(おか)ゆ 霍公鳥(ほととぎす)鳴きてさ渡る 君は聞きつや (読人不知 巻十 1976)

 万葉集の調べです。佐佐木さんは万葉集に精通していた人です。「卯の花の 匂う垣根に 時鳥 はやも来鳴きて 忍び音漏らす 夏は来ぬ」(唱歌の一番の冒頭部です。以下五番まですべてが和歌の形式をとっています。)ここにはいかんなく「万葉集」が息吹いていないでしょうか。素人から見ても、いかにもそうだと思われます。「夏は来ぬ」に出てくる季語や名詞は、すべて万葉集のある部類では主題として立てられていたものでもあったのです。このほか、これに近い万葉歌はまだまだあるようです。

 先を急いで、「二番」です。

 さみだれの 注ぐ山田に (しずの女(めが 裳裾ぬらして 玉苗植うる (佐佐木信綱)

 これは万葉歌人・学者でもあった佐佐木信綱氏が作った「和歌」(本歌)です。元歌であった短歌には「賤の女(しずのめ)」とありましたが、それが「早乙女」に変更されています。いつだれが変えたのか、ぼくはまだ調べ尽くしていません。あるは佐佐木さん自身であったか。今では、この二つの単語「賤の女」と「早乙女」の二通りの歌詞が並行・並存して歌われているのです。よくある事例なのか。あるいは奇妙な成り行きだと言えるのでしょうか。これはどういうことか、ぼくには釈然としないのです。変えることがいけないのではなく、「誰が・いつ・なぜ変えたのか」が誰にでもわかるようであってほしい。そんなことはどうでもいいといわれるかもしれませんが、変えられたことを知らなままに読んだり歌ったりすると、最初から「早乙女」が苗を植えているという、当たり前の風景に映るからです。

 ぼくはこだわるわけではありませんが、もう一言述べておきたいのです。この歌詞に続いて「玉苗植うる」と表わされています。「賤の女」が「玉の苗」を手にして田植えしているという、実に「貴と賤」(と表現するのは当たらないかもしれません。むしろ「美と醜」と言い換えた方がいいのか)という対称の妙は、万葉歌人に意図されていたのではないでしょうか。「玉苗」は早苗の美称と言われていますけれど、敷島の大和であり、瑞穂の国ともいわれる、そのもとは「「豊葦原千五百秋水穂国」(とよあしはらの ちいおあきのみずほのくに)で、この長ったらしい称号は、この島の美称とされていました。

 今ではほとんど使われないようですが、「山賤(やまがつ)」という言葉がありました。ぼくの友人で日本文学(平安朝)研究者だった方(すでに物故されています)が、いつも自己紹介のときには「奈良の、吉野の山賤」と僭称されていました。本当に自分は「(きこりや猟師など)山里に住む身分の低い人」(源氏物語「夕顔」)。と考えていたとは到底思われない気位の高い人だったので、その言葉遣いに驚嘆したのを記憶しています。余談になりますが、「倭文・垂ず」も同じような含みを持っていました。一例です、「しつたまき(倭文手纏)数にもあらぬ身にはあれど」(万葉集 九〇三)このように、佐佐木信綱という万葉研究の第一人者は該博な知識を駆使して、万葉ぶりを読んだのに違いありません。よく時宜を得てだったかわかりませんけれども、「学校唱歌」に採用された。

○ しず〔しづ〕【倭=文】《上代は「しつ」》カジノキや麻などを赤や青の色に染め、縞や乱れ模様を織り出した日本古代の織物。綾布(あやぬの)。倭文布(しずぬの)。倭文織(しずお)り。しずり。しどり。「ちはやぶる神の社(やしろ)に照る鏡―に取り添へ」〈万・四〇一一〉[補説]異国の文様に対する意で、「倭文」の字を当てたという。(デジタル大辞泉)

 玉苗とはある辞典に、「〘名〙 (「たま」は美称) 早苗(さなえ)。《季・夏》 〔俳諧・増山の井(1663)〕」(精選版日本国語大辞典)(※唱歌・夏は来ぬ(1896)〈佐佐木信綱〉「早乙女が裳裾ぬらして、玉苗(タマナエ)ううる 夏は来ぬ」)具体例としてと解説されています。

 五月雨(さみだれ)が降りしきっている山間の田では「賤の女(賤しい身分の女たち)」が裳裾を濡らしながら、「玉苗」を植えている、まるで一幅の絵になる景色です。一方、「早乙女(さおとめ)」の「さ」は「接頭辞」で、「乙女」「少女」(いづれも「おとめ」)を指して言います。若い女が早苗を植えているというのです。違いなんかある筈がないじゃやないかというのでしょうか。「賤」に相対するのは「貴」です。貴賤などと一口で言われます。しかし、そこにはこの島の否定できない「差別の構造」「差別の歴史」が明示され暗示されていると、ぼくは考えるものです。「自分は貴である」とみなすものが「あれは賤である」と蔑称を使い、蔑視するのではないでしょうか。

 佐佐木さんは貴族だったかどうか、ぼくは知りませんが、斯界の第一人者という自尊感情が、あるいは「賤の女」という表現を自己に許したのではなかったか。これは「ああそうでしたか」では済まない問題を含むという気もするのです。ことは、けっして小学校唱歌に留まるばかりではないのです。この島社会の学校に用いられた「唱歌」は歌うばかりではない、もっと別の思想の裏付けとあらかじめ決められた方向性があったのです。長い歴史にかかわる課題が、この問題には包含されています。(この部分は、あらぬ方向に流れそうなので、ここで止めます)

 さらに続けて、昨年触れなかったことを言いたいのですが、面倒になりましたので、次回にでも。先走って、ほんの少しばかり。たとえば三番の「楝(おうち・センダン)散る川辺の宿」は、実は「源氏物語」の「第十一帖 花散里」に出てきます。「橘の香をなつかしみほととぎす花散る里を訪ねてぞとふ」(左の写真は「楝=栴檀です)

 光源氏は自己制御ができない、ブレーキのない車のように、あちこちを彷徨います。その一つが「花散里」にすむ女性の宿でした。さらに…。本日はここまで。

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。