歴史の時間を歩く(「去る者、日日に疎し」)

【明窓】宮本民俗学の原点

 日本の民俗学に大きな足跡を残した宮本常一(1907~81年)が、調査に専念するために教員を辞め1939年、最初の旅で島根半島を訪れたことは知っていたが、当時を振り返る本人の肉声をインターネットで最近聞き、感慨を覚えた▼美保関から西へ歩き、鹿島の片句で語り部が見つかったことを「片句浦で出会った人たちは本当にいい人たちで、特に山本恒太郎という方に出会ったのはこの上ないありがたいこと」と述懐。土地の重鎮山本からの聞き書きは出版され「1人の人から聞いた話が一冊の書物になるほどの分量があるということは大きな驚きであった」と語る▼亡くなる1年半前に民俗学との出合いをテレビで語った音声。NHKラジオのサイトで10日まで聞ける▼宮本は師と仰ぐ渋沢敬三(1896~1963年)の支援を受けた。今話題の渋沢栄一の孫で、後に日銀総裁や大蔵大臣を務める一方、民俗学者でもあった。山本が片句の大師堂の改築資金に困っていると宮本から聞いた渋沢は、当時は大金の100円を寄付。翌40年に師弟で片句を訪ね山本と親交を深めたという、2人の絆を物語る逸話も残る▼島根半島で手応えを得た宮本は中国山地に入り、邑智郡でも古老の田中梅治らに会った。全国をひたすら歩き、人々の営みを記録し続けた宮本民俗学の原点は、島根の旅だったと言える。語り継ぎたい歴史の一こまである。(輔)(山陰中央新聞デジタル・ 2021/5/7)

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 いま、鹿島の片句と言われて、宮本さんを思い出す人は皆無に近いでしょう。それは当然のことです。あるいは「宮本常一」と聞いて、「ああ、あの人か」と記憶をたどれる人もずいぶんと少なくなったでしょう。それもまた、当たり前のことです。「去る者、日日に疎し」ということでしょうか。(《「古詩十九首」其一四の「去る者は日 (ひび) に以て疎く、来たる者は日 (ひび) に以て親しむ」から》死んだ者は、月日がたつにつれて忘れられていく。転じて、親しかった者も、遠く離れてしまうと、しだいに親しみが薄くなる。)(デジタル大辞泉)このぼくにしてから、彼の生涯が七十四年だったと、いまさらに驚いています。その意外な短さであり、逆に、けっして長くなかった生涯を「歩き通した」人だと、改めて感嘆を深くしているのです。(渋沢敬三さんも七十歳を前に亡くなられていることをすっかり忘れていました)(上掲の写真は宮本さんと渋沢さん)

○ 宮本常一(みやもとつねいち)(1907―1981)=民俗・民族・民具・生活学者。山口県大島郡東和町(現、周防大島(すおうおおしま)町)生まれ。大阪府天王寺師範学校卒業後、大阪府下小学校、奈良県郡山(こおりやま)中学校教員歴任のかたわら近畿民俗学会で活躍。柳田国男(やなぎたくにお)、渋沢敬三に認められ1939年(昭和14)上京。渋沢の主宰するアチック・ミューゼアム(現、神奈川大学日本常民文化研究所)研究所員となり、以来全国各地を調査、その足跡は日本の隅々に及ぶ。かたがた各地で農業および生活改善にかかわる教育指導を実践。またその調査研究は社会・経済・文化各領域にわたり、独特の民俗学を確立。さらに民具学、旅学(たびがく)、島嶼(とうしょ)学を提唱した。一方、全国離島振興協議会、林業金融調査会、日本観光文化研究所等の設立運営に尽力した。1964~1977年武蔵野(むさしの)美術大学教授。文学博士。周防大島文化交流センター(周防大島町)には、宮本が収集した民俗資料、文献などが収蔵展示されている。(日本大百科全書・ニッポニカ)[高松圭吉 2019年2月18日]『宮本常一著『瀬戸内海の研究』(1965/復刊・1992・未来社)』▽『『宮本常一著作集』全50巻(1967~2008・未来社)』

 「人生、百年時代」と、まるで悪い冗談のように喧(かまびす)しいのです。誰もかれもが一世紀も生きるというのは、大変な仕打ちのように思われてきます。誰の仕打ちか、それは言わぬが花でしょう。知らぬが仏か、そうともいえます。一日を生きるのは簡単ではないが、なんとか時間をやり過ごせます。でも一年となると起伏があって、とても越えられないとあきらめかけることもあるでしょう。それでもなんとか一年をやり過ごす。そんなことをして、気が付いたら五十年であり、七十年であったし、これからも何とか自分の足で歩けるとして、やはり「一日一日」であり「一年一年」です。結果として五年十年と時間を送ってしまうことはあるけれども、いかにも辛い時代に、ぼくたちは望みを持ちえないで生存しているのです。人生の終末にこそ時宜を得る、それが困難であるのは、生きているときだけではなさそうです。これもまた、ぼくの偽らない実感ですね。

 コラム氏が書かれているように、宮本さんは上京して、その年に島根に赴きます。彼は終生「ノマド」のような生活を送った。最近書いた菅江真澄とは事情は異なりますが、宮本さんも「旅に明け暮れた人」だと、ぼくは考えています。渋沢敬三氏との出会いは宮本さんには幸いでした。同行の士というのか、理解のある好事家と言った風情で、渋沢さんは年少の研究者をサポートし続けたのです。邂逅(出会い)というものが一人の生涯に大きな画期を為すのはよくあることでしょう。宮本ー渋沢両名の邂逅は、ことのほか、「日本民俗学」にとっては大きな成果をもたらしたことを、ぼくたちは感謝しなければならないのです。 

 宮本さんが没して四十年。彼が現在の片句に赴かれることがあったら、はたして、どういういうでしょうか。四十年後の島根半島の変貌(この「激変した」という実態は、けっして島根に限らないのは言うまでもありません)、これを知らないままに生涯を終えた宮本さんは、あるいは幸福だったかもしれない。見ないで済む仕合わせというもの、知らないなら、その方がいいという幸運は、いつでもどこでもあるのですから。現在の片句と聞いて、「中国電力島根原子力発電所 ⇑」と即座に言い当てられる人は、関係者を除いて、どれだけいるのでしょうか。ぼくは三十歳くらいから、この島には原発は無用、「今日の物理学の力では解決できない課題」を持っている原発は「パンドラの箱」だとかなんとか言ったり書いたりしたように記憶しています。「雑文の山」のどこか、おそらく三合目あたりで物理学者の武谷三男さんについても触れました。(「三合目」といいますが、この「雑文の山」の高さは未定です。ぼくは、ただいま登攀中ですから、どの程度の高さがあるのか、それがわかるにはもう少し時間がかかりそうです)

 武谷さんは、原発問題に積極的に発言し行動した物理学者でした。原発が抱える課題に関しても、正鵠(せいこく・せいこう)を射る発言を重ねられた方です。また「人権と特権」などに関しても社会的な発言を時宜にかなった場面でくりかえされました。「原発はトイレのないマンション」と言い当てたのも武谷さんでした。「汚染水」「核廃棄物」などの「処理」は、現段階の人智では解決できないことをはるかの昔に指摘していたのです。物理学の限界を確信していたからです。今に至っても事情は少しも変わっていません。

○ 武谷三男たけたにみつお(1911―2000)=物理学者。福岡県生まれ。1934年(昭和9)京都帝国大学理学部を卒業。京都帝大理学部、大阪帝大理学部副手を経て、理化学研究所仁科芳雄(にしなよしお)研究室助手を務めた。1946年(昭和21)鶴見俊輔(つるみしゅんすけ)らとともに思想の科学研究会の機関誌『思想の科学』(1996年休刊)を創刊。1952年(昭和27)立教大学教授となり、1969年退職。早くから素粒子の研究に進み、素粒子の相互作用の理論、中間子の波動方程式など素粒子論を発展させた。第二次世界大戦後、「素粒子論グループ」の一員として坂田昌一(しょういち)らとともに研究活動を行う一方、科学者の社会的責務を論じ、原爆の投下や死の灰、原子力の平和利用などに関しても活発に発言、著作も多くある。(日本大百科全書ニッポニカ)[栗原一朗]『『武谷三男著作集』全6巻(1968~1970・勁草書房)』▽『『武谷三男現代論集』全7巻(1974~1977・勁草書房)』▽『山室英男他著『それぞれの武谷三男――武谷さんを語る会全記録』(2000・技術と人間)』

島根原発(2008年11月20日 朝日新聞夕刊)1号喫46万キロワット)は74年、2号喫82万キロワット)は89年から稼働。3号機は敷地面積約192万平方メートル、出力137・3万キロワットと最大規模で、05年12月に建設着工し、11年12月に稼働開始の予定。

中国電力島根原子力発電所松江市)の重大事故を想定した広域避難について、島根県は、居住地の避難ルートを地図上で確認できるウェブサイトを新たに公開した。/ 県は島根原発の重大事故に備え、30キロ圏内にある松江市出雲市雲南市安来市の住民を県内外に避難させる広域避難計画をつくっている。パソコンやスマートフォンなどを通じてわかりやすく避難ルートを伝えようと、「島根県避難ルートマップ」(https://shimane-hinan-map.jp/)を公開した。/ マップでは、自分の住む地区を選ぶと、避難先や放射線量を測定する避難退域時検査を受ける場所のほか、複数の避難ルートが地図上に示される。避難指示など県からの情報のほか、災害時の通行止め情報や代替ルートも表示される。/ 県原子力防災対策室の小村章治室長は「まずは平時に見て、自分の避難ルートを確認して欲しい」と話す。(清水優志)(朝日新聞・2021年5月1日)

 島根半島という島嶼部の振興に関して、宮本さんは「原発立地」などということは断じて言わなかったでしょう。島の振興に尽力したのは事実ですが。それは歴史と文化を踏まえた地域の活力を抜きにしては考えられなかったことでした。原発立地に好適と白羽の矢が立つには、それなりの条件があります。この島のすべての原発設置地域には同じような環境(条件)があったのです。過疎、貧困、海岸隣接地などなど、この条件はどこの地域でも求められたし、それを受け入れる自治体があったからこそ、これだけの原発設置が可能になったのです。理にかなった「原子力政策」というものが、この島の政治や行政にあったとはとても思えない。事情は今でも同じことです。フクシマ以来、原発政策に画期的な変更が加えられた形跡は皆無です。政治も行政も踵を接していますし、これに産業界が胸ぐらをつかんで放さないのです。ここにも悪辣無道の「トライアングル」が、いやな音色で鳴り響いています。

 宮本さんが願った地方の発展はどこに行ったのでしょうか。歩く人、行動の人だった宮本常一さんの業績は古くなりはしないし、価値が減じることもありませんが、いったい、それはどういうことを意味しているのか、まことに考えさせられる事例ではあります。学問研究というものが持つ、個人性と歴史性の隘路、二律背反、そんなことをコラム「明窓」を読んで考えさせられています。一人の人間の存在は輝くが、その人が指摘したような結果になっていない「現実」を、ぼくたちはどのようにとらえたらいいのかという問題です。「一将功成りて、万骨枯る」というのは、この場合には当たらないかも。でも「当たらずと雖も、遠からず」か。研究業績の評価は高くなるが、現実はいとも簡単に崩壊現象の只中にある、そんな事例はどこにでも転がっています。いったい、学問や研究とは、なんでしょうね。何時の日か、どんな学問も「考古学」になるのは避けられないようです。ああ、フーコーですか。

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