イノシシ駆除と割り箸論争、環境問題らしい

 イノシシとの闘い 「巣ごもり」連休の気晴らしに、車で足を延ばしてみた。何カ月ぶりかで尾道の広島県立びんご運動公園に寄ると、様変わりしていた。イノシシに掘り返され、痛々しいほど穴だらけだった芝の緑が息を吹き返しつつある▲芝生広場にぐるりと2重に巡らせた、オレンジ色の線が見える。「外堀」は電気柵で、「内堀」の線には液体の入った筒状容器が幾つもぶら下がっている。忌避剤とあるから何か、獣の嫌がる臭いでも発するのだろう▲聞けば、産学協同の試みという。びんご運動公園は広く、広島東洋カープの本拠地マツダスタジアムが優に30個は入る。イノシシの出没による被害額が年によっては2千万円にも上る。このまま尻尾を巻いて、山ごもりしてくれるといいのだが▲されど、敵も手ごわい。動物行動学者の江口祐輔さんによると、臭いや光、音で脅す市販の仕掛けは「実験で効果の続いたためしがない」。そのうちイノシシが慣れてしまうらしい。知恵比べのゴールはまだ遠いのか▲帰り道は遠回りし、山あいを走った。そこここで、水を張った田んぼが目に付く。中国山地ではこの時季、田植え作業に入る所が多い。イノシシとの攻防の日々も始まる。(中國新聞・2021/5/5)

 【三山春秋】▼庭の草木が芽吹く春の訪れは、無数の雑草と格闘する季節の到来も告げる。環境破壊で地球の緑は失われていると聞くけれど、少なくともわが家では植物の生命力の強さを痛感する日々が始まった▼かつて「割り箸論争」というのがあった。日本の食文化に浸透した割り箸を使うことは、環境破壊につながるか否か。論争から時を経た今、国内の木を切って使うことに批判的な論調は落ち着き「木材を使って森林を守る時代が始まっている」と元林野庁長官の島田泰助さんは話す▼日本の国土に占める森林割合は67%、3分の2だというのはよく知られるが、本県の森林割合も67%、3分の2と同率で、関東一の規模を誇る。一方で県内の林業従事者は高齢化しており、担い手不足が続く。戦後に植林された県内の民有人工林は、伐採適齢期とされる植林後50年を過ぎた森が3分の2に上る▼利用期を過ぎ高齢化した森の木は伐採、運搬、加工がしにくくなる。成長が落ち始めることで、二酸化炭素を吸収したり自然災害を防ぐ機能が弱まるという問題もある▼だからこそ「利用期の森を切って、使って、植えて育てる」という森林の循環サイクルの確立を島田さんは説く。県内でも持続可能な古里の森を目指し、積極的に木を切り活用しようとする官民の努力が続いている▼きょうは「みどりの日」。森林県の住人として、未来の森の姿に思いを寄せたい。(上毛新聞・2021/05/04)

 本日も劣島の東西に現れた「環境破壊」の一コマではあります。その昔、若いころには人間と動物の違いの核心はどこにあるかという問題をドイツの哲学者にならって学習した経験があります。今でも読まれているのかどうか判然としませんが、いわく「生の哲学」「生命の哲学」などと称されて、時代を席巻していた趣があります。もちろん、その哲学が流行していた時代という意味です。ニ十世紀の三十年代だったでしょうか。主として、マックス・シェーラーを読みました。「宇宙における人間の地位」などというものを手始めに、彼の全集まで、彼の国から取り寄せて、齧りついていました。今では遠い昔の想い出ともなっているのかどうか、かろうじてシェーラーやジンメルなどを、朧気ながら、よくも根気がつづいたものだったと、感心する現在の心境です。はたして、内容がわかっていたかどうか怪しいものですが、何本か論文を書いたこともあります。

 シェーラーの説によると、動物は「世界に閉じられている」のに対して、人間は「開かれた世界」に住み、「世界を開く」という活動を実践しているというのです。環境というのは「閉じられた世界」という意味です。「エンバイロンメント(environment)」とは、文字通りにそのような境界をいうのです。卑近な例を出すと、魚は水中に生息しているので、水がなくなると生きておれません。人間はもちろん、基本的には同じような条件で生きているのですが、水の中でも生きることが出来る力を持っているということもできます。(科学や技術による発明発見がもたらした器械や器具を装着すれば、水中でも生きておれます)シェーラーは「人間は世界を開いてゆく存在」だといっています。その原動力が「文化」であり「文明」と呼ばれてきたのです。さらに言えば、そのような文明の「進展」は「自然環境」に多大な影響を及ぼしてきましたし、あるいは致命的な損害を与えたともいえるのです。そのような環境に依拠して生きている動植物は、相当数が絶滅したし、さらに絶滅が危惧されているものは無数にあります。人間には「文明」かもしれませんが、「動植物」にとって、それは「野蛮」そのものではないでしょうか。

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 普段よく歩くのは、三十年ほど前までは農道だったところで、そこにようやく耕運機やコンバインの機械類が通れるほどの整備がされている場所です。もちろん田畑に行くための「道」です。この数年の間に、田圃の周りに「電気柵」が整備されてきました。イノシシなどの獣害からの予防線です。「害獣」といい、「獣害」というのは人間であって、その反対はまずありえません。それまでは野菜や果物などを「獣害」から守るための「電気柵」でしたが、今では稲にまで「被害」が及んでいるのです。年に数件、誤って(だと思われます)人間がショック死する事件が発生してます。「電気柵」は何を意味しているか。イノシシやサル、あるいはシカなどのもたらす被害を防ぐためです。では、「電気柵」以前はどうしていたか。案山子(かかし)でした。それが鳥の害を防ぐ定番だった。なぜ今は「電気柵」か。それは商売としてなり立つからであり、イノシシやサルやシカなどの「食住環境」を人間が破壊したからではなかったか。「目には目を,、歯には歯を」です。野生の木の実やその他の食べ物が山には豊富にあったのでしょう。だから、わざわざ人間界にまで下りてくる、あるいは侵襲する必要がなかったのです。

 シェーラー流に言えば、猪(だけではありません)もまた「世界を開く」生き物であることが納得できます。やがて畑を耕し、田圃に稲を育て得るようになるかもしれませんが、そこまで行くには途方もない時間がかかります。せっかく近間に豊かな食糧倉庫があるのだから、それ戴いておこうという次第となったのでしょう。人間にとっては災難ですが、イノシシにとっては「近間のコンビニ」であり、無人販売所(無料)です。この近所にも「猟友会」があり、イノシシやその他の「害獣」の駆除に躍起になっています。これも年に数件、誤って(かと思われます)仲間を誤射る事件が発生しています。イノシシも人間も命がけ、ならば、「手を結んだら」どうですか。(左上は案山子の集合写真です)

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千葉県南部でイノシシ急増 生息域拡大、住宅にも 昨年の台風で環境変化か 【地方発ワイド】

 南房総市や館山市など千葉県南部で、イノシシの捕獲数が急増している。生息域が拡大し、農作物被害だけでなく人間の生活圏に出没する事例が相次ぎ、被害は広範囲に及ぶ。一方、獣害対策の一翼を担う地元の狩猟従事者は高齢化が進み、各自治体はあの手この手で若いハンターの育成に力を入れている。 (館山・鴨川支局長 飽本瑛大)  昨年度、県内トップの3537頭のイノシシ捕獲があった南房総市。本年度は10月末現在で4266頭を捕獲し、過去最多だった2016年度の5146頭を超える見込みだ。市農林水産課は「このままのペースだと、最終的に7千頭前後になる」との見通しを示す。  生息域がここ数年で急速に拡大。市内で捕獲例が少なかった海沿いの白浜・千倉地区では、14年度からの5年間で捕獲数が約23倍に急増した。イノシシを含めた有害鳥獣による昨年度の農作物被害額は3401万円と、前年度に比べ増加。農作物にとどまらず、最近では人間の生活圏内での目撃例が数多く報告されている。(略)(千葉日報・2020/11/27)

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 こんなことを言うと農家の人に怒られそうですが、人間の生活環境は徐々に広げられてきました。その結果、イノシシなどの「野生の生き物」たちは狭い空間に閉じ込められ、ついには食糧不足となったのですから、このさい、人間がイノシシと共棲すべく、土地や食料を提供する番じゃないです。動物は環境に閉じ込められているとドイツの哲学者は深遠な思想を展開したのですけれども、どうやら見立て違いだった指摘したい。イノシシに限らず、動物も植物も人間がいなければ、どんどんと専有面積を拡大するのです。動物も植物また「世界を開く」存在であったということになります。犬や猫はいうまでもなく、豚や馬などの「家畜」も、以前から人間と共棲していました。もちろんハムやソーセージになるのは人間ではないので、動物にとっては甚だ理不尽な成り行きというほかありません。いつの日か、牛や豚が「人間のコマ切れ」を食べたり、ハムサラダにして食するという反逆が起りはしないかと、ぼくは夢想しているのです。(右上写真は「案山子」、いったい誰に見せようとしているのか、謎?)

 「みどりの日」に「こどもの日」と連休は終盤にかかってきました。イノシシやシカの被害がうなぎのぼりというのは理由があってのことでしょう。「こどもの日」や「みどりの日」は獣害と無関係ではないということを言いたいのです。でも面倒だから、本日はこれくらいにしておきます。「犬のお巡りさん」がいたり「カニの床屋さん」がいた、この島です。桃太郎とその仲間たちはどうでしょう。いつの日か、イノシシが、サルが、シカが、クマが人間と町内会を組織し、仲睦まじい交友関係が生まれるかもしれません。しかし野山の住人を目の仇にし、鉄砲で「駆除」し、「電気柵」で感電死させようという虐待根性が続く限り、それは限りなく不可能でしょうね。時には、クマが役所にやってきて大騒ぎ、でもひょっとしてそれは「住民登録」をしに来たんじゃないかなどと、疑ったりします。イノシシが学校に出現する時もあります。きっと「教育を受ける権利」を行使しようとするんですね。

 人間は世界を開くというのは、他人の住処を奪うということです。文字通り、それは「覇権主義」です。他国の覇権主義や領土拡張意欲はきわめて強く非難し、戦争も辞さないという気構えを多くの国家当局は示します。でも、人間以外の存在(生き物)の「権利」には歯牙にもかけないというのは、なんという野蛮(バーバリズム)でしょうか。その野蛮は「文化」「文明」という「上等な知恵や知能」によって生み出されてきたのだとするなら、人間というものはなんと利己主義に凝り固まっていることか。それを別名では「ヒューマニズム」と言っているのです、ちゃんちゃらおかしいね。

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。