
【水や空】憲法記念日 「不要不急の往来自粛を」-国道のメッセージ板に見慣れた文字が並んでいる。〈どうしても必要というわけではなく、急いでする必要もないこと〉-改めて辞書を引いてみたら、載っている意味まで少し申し訳なさそうに見える▲新型コロナの流行が始まって以降、「不要不急」は繰り返しやり玉に挙がってきた。ただ、差し迫った用件に見えない用事や取りやめても支障のなさそうな外出にこそ、実は“その人らしさ”や個性が色濃く潜んでいる。それも分かったこの1年▲きょうは憲法記念日。13条に〈すべて国民は、個人として尊重される〉とある。「不要」や「不急」を一律の物差しで測らない-と真っ先に約束しているように読める▲今は感染防止が最優先、自分の都合ばかり言うまい、と私たちはとても行儀よく、もの分かり良く過ごしてきた。もっと厳しい行動制限が必要、緊急事態に備える国家的な仕組みが必要…そんな声まで聞こえる。しかし、そんな態度を逆手にとられてはたまらない▲道路の電光掲示をもう一度見上げてみる。〈自粛を〉は標語なのか、お願いなのか、指示なのか。誰が発したメッセージなのか、その表示もない。雑だ▲何を根拠に、何の権限で? 時々思い出したように口をとがらせて問う、その姿勢も忘れずにいたい。(智)(長崎新聞・2021/5/3)
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【筆洗】「カエルの王様」という昔話がある。ある日、カエルたちは自分たちの王様がほしいと、神さまに頼んだ。神さまは木片を一つ、カエルたちがいる沼に投げ込んだ▼木片は動かない。カエルたちは、こんな王様では恥ずかしいと思い、もう一度、神さまに頼むことにした。「もっとましな王様と取り換えてください」。神さまは腹を立てて、水蛇を遣わした。水蛇はカエルたちをすべて食べてしまった▼憲法記念日である。心配性は、最近の調査の結果にカエルの顔をつい思い浮かべてしまう。共同通信社の世論調査によると、新型コロナウイルスのような感染症や大規模災害などに対応するため、緊急事態条項を新設する憲法改正が「必要だ」とした人が57%、「必要ない」は42%で、容認意見が上回ったそうだ▼コロナ禍の影響もあるのだろう。いつまでも収まらぬコロナの猛威にいらだち、内閣に強い権限を与え、私権の制限に踏み込んででもコロナ制圧に取り組むべきだという気分は分からぬわけではない▼なるほど緊急事態条項は感染症には対抗しやすいかもしれぬ。なれどそれを憲法に新設することは、あまりに凶暴な「水蛇」をわれわれの沼に迎える結果につながらないか▼冷静で慎重な議論を望む。感染症や大規模災害対応に効果があったとしても権利と自由がカエルのように食べ尽くされてしまっては元も子もない。(東京新聞・ 2021/5/3)
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戦後七十六年が経過。四十七年の五月三日に「(現行)憲法」が施行されました。本日は「憲法記念日」。そのことに因んで、三日付の「コラム」を二つばかり、参考資料として出しました。いったい、ぼくは憲法全文を何度読んだか。二度か三度か、それすら怪しいし、条文の何ほどを記憶しているか、それすら心もとない。恥ずかしい話ですが、赤面の至りを棚に上げて、ぼくは憲法学者じゃないからという弁解が役に立つとでもいうのかしら。自分ながら、やはり「恥ずかしい」というほかありません。現下の「コロナ禍」で、緊急事態宣言の効果がはなはだ疑わしいから、もっと厳しい(罰則を伴う)規定を憲法に書き込むべきだ。その意味では憲法は改正される必要があるというらしい。莫迦につける薬がないとはこのことで、現行の法規で、コロナ対策や予防措置はいくらでも可能、それが出来ていないのは、現在の政治行政の任に当たる政治家やお役人が無能というか阿保丸出しで、人民の生命を守るということに、まったく関心がないらです。

笑うべき総理の「憲法改正論」と言うつもりはありません。(「馬子にも衣裳」、適例表現ではないね)曲がりなりにも「総理」になっているのだから、「憲法改正」ぐらいは口にする資格がある、いやそうじゃない、「憲法改正」と誰かに言わされているのであって、黒子というか黒幕は別に存在しているということかもしれません。国民には「不要不急の外出はするな」と命じておいて、なんとアメリカま「不要不急の訪問」をしたのはどこのどいつだったか。「外交」とかいうのですか、あえて言うなら、アメリカにとっては「外寇」もどきだったかもしれない。 そんな無知性が「憲法改正」を言うのです。前総理も「憲法」をまず読んではいなかったが、現任者も同日の談らしい。
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首相、国民投票法の今国会成立を 改憲へ挑戦する考えも明言
「菅義偉首相(自民党総裁)は憲法記念日の3日、改憲派が開いたウェブ会合にビデオメッセージを寄せ、憲法改正手続きに関する国民投票法改正案を早期に成立させるべきだとの認識を示した。自民党と立憲民主党の間で、今国会で「何らかの結論を得る」と合意していながら、衆院憲法審査会で採決していないと指摘。「憲法改正の議論を進める最初の一歩として、まずは成立を目指していかねばならない」と述べた。 同時に、改憲へ挑戦する考えを明言。「現行憲法の時代にそぐわない部分、不足している部分は改正していくべきではないか」と訴え、自衛隊明記や緊急事態条項など自民党の改憲4項目に言及した」(東京新聞。2021/5/3)
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現行憲法の改正は罷りならぬというつもりはないし、ぼくも「改正すべきだ」と考えている条文(条項)もあります。それは政権与党と同じものではないのは言うまでもありません。何処をどのように改正(あるいは改悪)するのか、それをこそ国会で議論すべきだし、そのための国会議員だという当たり前の職責を忘れたくない。この何年にも続けられている「世論調査」、それはいろいろな状況や人民の意向・意見を知るうえでは貴重な機会となってきたのは事実ですが、それがある時期からはいかにも奇怪な調査になっていると、ぼくはみています。「世論調査」ではなく、政権に都合のいい「世論操作」ではないか、と。とにかく「お手軽民主主義」の行く末がどうなるのか、強い関心を持っているのではありませんが、行くところまでいく、いやもう行きついているという気にもなるのです。こんなところに来るために、営々辛苦してきたんですかね。

○ 日本国憲法【にほんこくけんぽう】= 日本の現行憲法(1946年11月3日公布,1947年5月3日施行)。太平洋戦争で降伏した日本は,ポツダム宣言に沿って大日本帝国憲法を改正する必要があったが,日本の政府側改正案は旧憲法の骨子を残したものであったため,連合国最高司令官マッカーサーはその幕僚に起草させた草案を日本政府に交付した。これに基づき第1次吉田茂内閣の起草した憲法草案が第90帝国議会に提出され,わずかの修正を経て可決された。憲法の根本原理を述べた前文のほか11章,103条からなる。旧憲法の天皇主権を否定して国民主権に立ち,象徴としての天皇を認め,戦争を放棄して戦力を保持せず(戦争の放棄),侵すことのできない永久の権利として基本的人権を保障する。人権規定では自由権のみでなく生存権など社会権も保障。これらの原則を実現するために三権分立を徹底させ,立法権は国会のみに与え,行政権は議院内閣制による内閣に行使させ,司法権の独立を強め,裁判所の違憲立法審査権を規定。また地方自治の強化を定める。憲法改正は,衆参各議院の総議員の3分の2以上の賛成で国会が発議し,国民投票に付しその過半数の賛成で成立する。しかし憲法改正原案の提出手続きや国民投票の投票権者・投票方法については規定されていない。第一次安倍晋三内閣は,2007年憲法改正原案の国会提出の要件,投票権者等を定める国民投票法を成立させ同年5月公布した(マイペディア)
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第九十七条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

第九十八条 この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。/ 日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。
第九十九条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。
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憲法のこの部分(第九十七条~九十九条)を公務員はもとより、この島に居住する人民(日本国籍の有無にかかわらず)は、いつでも「拳々服膺」しておく必要があるでしょう。特にこの数年間おいて、九十九条に明らかに違反しる「該当者」がたくさん(掃いて捨てるほど)いることは看過できない事態だと、ぼくは考えています。少なくとも、現行憲法は政治や政治権力の暴走・違反行為を許さないための最高法規であって、国民(人民)に課する義務を定める性格を持っていないのです。
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以下に示してあるのは、かなり以前の新聞記事です。この部分はどこかで触れたかもしれません。話し手は樋口陽一さん。憲法学者です。憲法というものがいかなるものであるか、実に明解に答えておられます。この憲法観を理解しない手合いが「憲法改正」を声高に叫んでいます。本当に憲法を十分読み込んでいるのでしょうか。自らの位置づけを忘れて、「権力行使」に汲々としている様をなんというべきでしょうか。
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日本国憲法が想定している人間像とは、一人ひとりが自分自身の主人公であり、主人持ちではいけない、というものです。誰かがではなく、自分で自分のことを決める。作家の井上ひさしさんは、人間にも砥石が必要だ、と言いました。砥石で自分を磨いて、立ち位置や居住まいを正す。それが憲法の言う人間像であり、人権の基本です。/ よく、人権というと、甘いとか、きれいごとだと受け止める人たちがいますが、実際は逆です。誰かが決めてくれた方が、ずっと楽ですから。その誘惑は常にあります。/ 自分で決めると言いましたが、「自分でも決めてはいけないこと」もあります。しかもそれが何かは、自分で決めないといけません。
国民主権についてもそうです。たとえば、ドイツ憲法は第1条で、国民主権よりも前に「人間の尊厳」をうたっています。ドイツは過去に国民全体でヒトラーとナチスを受け入れてしまった。それが大量のユダヤ人虐殺を生み、第2次大戦につながった。だから今度こそ、人間の尊厳を冒すようなことは決めてはいけない、たとえ主権者たる国民の多数を占めても、決めてはいけないことがある。憲法でそう定めたわけです。ドイツは、抽象的な憲法原理でそんなことを言っているわけではありません。

民主主義という制度は、選挙という民主的な手続きによって、独裁者を生んでしまうおそれがあります。民主的に生まれた権力であっても、国民が作る憲法によって制限する。それが憲法の役割です。政治家の側が、選挙で多数を得たのだから白紙委任で勝手なことをしていい、などということにはなりません。/ 近代国家における憲法とは、国民が権力の側を縛るものです。権力の側が国民に行動や価値観を指示するものではありません。数年前に与野党の政治家たちが盛んに言っていた、憲法で国民に生き方を教えるとか、憲法にもっと国民の義務を書き込むべきだ、などというのはお門違いです。
今から120年も前、大日本帝国憲法の制定にかかわる政府の会議で、伊藤博文がこう語っています。/「そもそも憲法を設くる趣旨は、第一、君権を制限し、第二、臣民の権利を保全することにある」
憲法をつくるとはこういうことです。伊藤は、いわば模範解答を残した。憲法によって国家権力を縛るという「立憲主義」の考え方を理解していたことがわかります。/ 明治から昭和のはじめにかけて、立憲改進党とか立憲政友会のように「立憲」の名を冠した政党がいくつもありました。それほどなじみのある言葉だったのです。では、現代の政治家たちはどうでしょうか。(朝日新聞・12/05/02)
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「民主主義という制度は、選挙という民主的な手続きによって、独裁者を生んでしまうおそれがあります。民主的に生まれた権力であっても、国民が作る憲法によって制限する。それが憲法の役割です」この指摘はまっとうなもので、疑問の余地がない。でもそれは「国民」が健全なというか、自分で判断する能力を育てている限りにおいては有効な性格をもつ「民主主義」です。国政選挙の結果を尊重しないのではない、しかしそれがよりよい判断が働いた結果であるといえるかどうか、ぼくはつねに疑問を持ってきました。どんなに悪質な政治行政を重ねても、国政の場における勢力地図が変わらないのはなぜか、人民が苦しむだけの、さまざまな事例が現政権政党の不実な政治によって引き起こされているというのに、事態が好転しない理由はどこにあるのか。「倚らしむべし、知らしむべからず」という愚民化政治を終わらせるには、選挙権を有する人民のそれぞれが賢明(物事の判断を他人任せにしないこと)になるほかないのですね。法の裁きを受けかねないような政治家の集団が国家・国民を動かしているというのは、まるで地獄の沙汰です、いかにも笑えない冗談みたいな。少しは誠意のかけらでも、あるいは真実の微量でもある発言ができる人間が政治に携わることを腹の底から願っているのです。それも無理というなら、やはり地獄行きですね、やんぬるかな。
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