繁茂する雑草、「胸のすく思ひだ」

【北斗星】 今年初めて草取りをした。小さな庭でも1時間ほどで大きめのごみ袋が満杯に。大半はスギナだった。「雑草が/あたりかまわず/伸びほうだいに伸びている/このけしきは胸のすく思いだ」▼かつて中学の国語教科書にも採用された北川冬彦(1900~90年)の詩「雑草」の一節だ。確かに雑草の生命力に驚かされ、魅力を感じることがある。とはいえこの詩で繰り返される「胸のすく思いだ」の言葉に賛同するのはなかなか難しい▼雑草は庭の花や野菜の大敵。草ぼうぼうでは近所の手前もよろしくない。ツクシに春を感じながらスギナを見れば敵に会ったかのようにせっせとむしり取るのは、われながら勝手なものだと思う▼コロナ禍のため仕方ないとはいえ、昨年に続いて今年も遠出は我慢の大型連休になった。県境を越える移動の自粛が呼び掛けられ帰省もままならない。思えば草取りなどをして連休を過ごすのも2年続きになる▼感染拡大の深刻な首都圏や関西を心配していたら、危機は足元に迫ってきた。県内では先月29日に1日の新規感染者が過去最多を記録したばかりだが、昨日の感染者はこれをさらに上回った▼感染対策に神経をすり減らして気持ちがめいってしまわないよう、せめて緑に親しみながら連休を過ごしたい。雑草までめでる詩人の感性にも少しは近づけるかもしれない。傘マークの目立つ天気予報だが、晴れ間を見て近所の散歩に出掛け、季節の花々で目を楽しませるのもお勧めだ。(秋田魁新報電子版・2021/05/02)

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 このところ、歩く(一日漫歩)のを止めて、「草取り」に専念しています。一年に数回、ほんの数日は「クサカリマサオ」に返信するのが恒例になりました。草取りといいましても、上記「コラム」氏と同様、殆んどが「スギナ」です。ここに越して来た頃、庭には全く別の草ぐさが茂り放題でした。少し庭の整理をと浅はかな考えを持ってしまったのが、今に至る「悪戦苦闘」の始まりでした。庭に約三十トンの山土を入れたのが、スギナを呼び寄せたのかもしれません。草・花の栽培には、けっしていい土ではなかった。しかし、スギナには格好の生息地だったと思われます。何時しかスギナが生え始め、あれよあれよという間に、庭を占拠されたといってもいい。この「スギナ」には「つくし」が共生している。というか、この植物の片方の栄養茎がスギナ、もう一方の胞子茎がつくし(土筆)と言われているのです。なぜスギナというのか、スギナの葉の形状が杉の葉状に似ているからだという。

 拙宅の敷地の境界には樹齢五十年ほどの杉林が大きく成長しています。さらに外側には檜(ヒノキ)が植林されている。したがって、これも年中行事のようで、春先から晩春までは「花粉症」に罹患します。本年はことのほか、きつい症状が出ました。普段、杉林や檜林はなかなかの風情を出しているといいもし、新鮮な空気を他地域よりたくさん吸った気になります。しかし、この花粉飛翔の時期には相当に苦しめられてきました。昨年も今年も「コロナ禍」というせいもあって、花粉症は引っ込んで「主役交代」していてくれるかと思いきや、かえって激しいような目に遭ったりしました。(右上の写真は、杉の葉です。確かに言われるまでもなく、「スギナ」と形状がそっくりでもあります。この杉の葉(に限らず)は乾燥させて「杉茶」にします)

 ほとんどの植物、その多くは「雑草」などと言われていますけれども(名前を知らないものは、すべて雑草か。人間でも同じで、知らない人は「ひとくくり(東洋系・アジア系、アフリカ系などと)」で済ませてしまう)、その「雑草」は薬草になるんですね。雑草の「雑」にはいろいろな含みがこめられているようです。でも、たいていは「雑」は「粗末な、よくないもの」という暗黙の合意が成り立っているかのように使われるようです。ぼくもいつも「雑文」と言いますのは、品のいい内容のある文章なんかではない、読むに堪えない、書きなぐった文という気味で使っています。謙遜とか自己卑下で言っているのではなく、正真正銘の「雑」だからです。「雑草」の場合は、それに加えて、いろいろな草を取り合わていうのでしょう。一例は「雑穀」で、米・麦・粟・稗・蕎麦などは、穀物一般を代表させて使われているようです。だから決して悪いことばかりを指すとは限らないのでしょう。でも「雑草」は邪魔ものだという観念というか、憎しみが含まれているような気もします。だから下に出しておいた北川冬彦さんの詩「雑草」が勢いを増すのです。

 スギナ、つくしともに、薬用にも食用にもなります。ぼくはまだ試してはいませんが漢方薬や佃煮(これは食したことがある)にして利用されています(左の写真は「つくしご飯」)。とにかく繁殖力が抜群で、根を絶やすには相当の覚悟がいります。ぼくはまず「消毒薬」(除草剤)を使わないものですから、年に数回は草取りに時間をかけることになり、時節柄、今頃はもっとも繁忙期?と言えるのでしょう。(同様に、木々の剪定も自分でやります。こんなに楽しい作業を「金を払って」までして他人に取られるなんて、ぼくには考えられないことです)本日も取り掛かるのですが、これで十日間も続いているでしょうか。「草取りは座禅である」とぼくが言うのも、身近な経験からで、これだけは、実際に行ってみるしかありません。座禅というのは「組む」こと自体に値打ちがあるのではなく、座って、心静かになることによって、心の平安を得るというのか、あるいは意識を集中することによって「無私」「無念」「去私」の心境・境地に至ることがありはしないかという話でしょう。都会人がたまにお寺にやってきて、「座る」のもいいんでしょうが、何かになるのかしらという疑問もあります。せいぜいのところ「気分転換」か、でも、それだけでも儲けものではあります。寺に行かなくても、何処にでも座る(のと同じような効果がある)場所には事欠きません。

○ スギナ(杉菜)(読み)スギナ(英語表記)Equisetum arvense; horse tail=トクサ科の多年生のシダ植物。北半球の温帯に広く分布している。原野,路傍,堤などいたるところに生えている。根茎は地中を横に長く伸びて分枝し,節から直立した栄養茎を多く出す。高さ 20~40cm,節には輪生する鱗片状の葉をつけ,また多くの枝を輪状に出す。この栄養茎に先立って早春の頃,つくしと呼ばれる胞子茎を出す。高さ約 20cm,茎頂に多数の子嚢托から成る長楕円形の穂がある。子嚢托は六角形状で裏側の中央に柄があり,その周囲に5~10個の細長い胞子嚢がある。胞子茎は胞子を飛ばしたあとに枯れる。胞子には特有な弾糸が付着し,これは乾くと伸びて広がり,湿ると胞子に巻きつく運動をする。伸びはじめの若いつくしは,あえ物などにして食べる。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説)

○ つくし(土筆・筆頭菜)=トクサ科のシダ植物であるスギナの胞子を生じるための特別な茎(胞子茎)をいう。通常、早春にスギナの栄養茎(これもスギナというときがある)よりも早期に地上に現れる。枝はまったくなく、節の周囲に輪生する葉は、栄養茎のそれより大形で、互いに合着し、いわゆるつくしの「はかま」となっている。茎葉ともに葉緑体を含まず、淡褐色で全体に光沢がある。つくしの先端部は胞子嚢穂(のうすい)をつけ、胞子を放出すると、つくしはすぐに枯れる。はかまをとってひたし物などにして食用となる。[安田啓祐]日本大百科全書(ニッポニカ)の解説

「雑草」
 北川 冬彦
(詩集「実験室」所収・昭和16年2月)


雑草が
あたり構はず
延び放題に延びでゐる。
この景色は胸のすく思ひだ、
人に踏まれたりしてゐたのが
いつの間にか
人の膝を没するほどに伸びてゐる。
ところによつては
人の姿さへ見失ふほど
深いところがある。
この景色は胸のすく思ひだ、
伸び蔓(はびこ)れるときは
どしどし延び拡がるがいい。
そして見栄えはしなくても
豊かな花をどつさり咲かせることだ。

○ 北川冬彦(読み)きたがわふゆひこ(1900―1990)=詩人、映画批評家。明治33年6月3日、滋賀県大津市の生まれ。本名田畔(たぐろ)忠彦。東京帝国大学仏法科を卒業、ついで仏文科に学んだが中退。1924年(大正13)中国の大連で安西冬衛(ふゆえ)らと『亜(あ)』を創刊、翌年処女詩集『三半規管喪失』を出した。一方、福富菁児(せいじ)らと『面』を出す。『朱門』『日本詩人』『青空』などを経て、28年(昭和3)9月の『詩と詩論』に参加。この間、短詩運動から新散文詩運動へと、前衛詩運動を精力的に展開、マックス・ジャコブ散文詩集『骰子筒(さいころづつ)』(1929)の翻訳出版、アンドレ・ブルトンの『超現実主義詩論』(1929)の翻訳紹介などをした。新散文詩運動ののちは、シネ・ポエム論や新叙事詩運動などを提唱。しだいに左傾して『詩と詩論』を離れて神原泰(かんばらたい)らと30年『詩・現実』を創刊、別に『時間』『麺麭(パン)』などをおこした。第二次世界大戦中の曲折を経て、戦後もネオ・リアリズム論などで旺盛(おうせい)に活躍。詩集に『戦争』(1929)、『いやらしい神』(1936)など。詩論書、映画評論書も多い。[安藤靖彦](日本百科全書・ニッポニカ」)『『日本の詩18 北川冬彦他集』(1979・集英社)』▽『『現代詩鑑賞講座9』(1969・角川書店)』

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 「伸び蔓(はびこ)れるときは / どしどし延び拡がるがいい。/ そして見栄えはしなくても / 豊かな花をどつさり咲かせることだ。 」という部分がいいですね。複雑は単純よりも深くて遠いのだ。「たった一つ」というのは「後がない」という意味です。だから「雑草」というのは少しも構わない、でもそれは「雑」でも「余計なもの」でもないということを忘れたくない。「雑草」と題した詩を一つ二つ、どこかで紹介しておきました。雑草を目の仇にする人が多すぎます。根絶やしにしなければと、かならず強烈な「除草剤」を使えと、ある企業の回し者みたいなことを言う人が多すぎます。草や木の根っ子まで枯らすというのは、どれだけの毒性があるのか、すこしは注意する必要があるでしょう。雑草よ伸びろ、伸びろ、伸びろ、後から追いつくからな、これがぼくの座禅の心構え。刈り取ったら、また一から生えればいいじゃないか。

独バイエル、除草剤の発がん性めぐる訴訟で和解 1兆円超 2020年6月25日

Roundup weedkiller at a home improvement store.

ドイツの化学大手バイエルは24日、同社の除草剤「ラウンドアップ」の影響でがんになったと訴えられた訴訟で、109億ドル(約1兆1600億円)を支払うことで和解したと発表した。/ グリフォセートを主成分とするラウンドアップの発がん性をめぐっては、約12万5000件の訴訟が起こされている。/ ニューヨークの法律事務所ワイツ・アンド・ラクセンバーグは、原告約10万人を代表して、和解に至ったとしている。/ バイエルは不正行為はなかったと主張しているが、「不安定な状況」を終わらせるため、支払いをするとした(以下略)(https://www.bbc.com/japanese/53175754)(註 この島の製品販売会社である「日産化学工業」では「安全性」には問題がないという見解を出し、製品販売を実施しています。(この問題に関しては最終的な結論が出ているとは考えられない状況下にあると、ぼくは判断しています)

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 この雑文にも結論はありません。ぼくは、可能な限り「除草剤」は使わないし、それ以外でも「面倒を避ける」だけのために消毒薬には手を出さないことにしています。じゃ、虫が出たらどうするか、根気よく手で取り除きます。それもまた、ぼくの座禅のカリキュラムに組み込まれています。肥料もできる限り、有機物を含むものを使うことにしているです。これは自己流の、素朴な草木果実との付き合い方です。

 雑草ということ勿れ、雑穀と蔑むこと勿れ、雑種と見下すこと勿れ、…。「雑」があるからこそ、生命は生き永らえるのです。若しも、雑穀の中の米だけしかない、その米の中の「こしひかり」だけしか作られていなかったら、それがウイルスにやられたらどうするのでしょうか。過去にも何度か危機状況に追い込まれたのです、人類は。雑草は「人工・人為」ではないというだけのこと、もし雑草類が存在しなかったら、人類はここまで生き延びてこれなかったことは確かです。

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・前垂の赤きに包む土筆かな(夏目漱石)  ・病床を三里はなれて土筆取(正岡子規)

・すさまじや杉菜ばかりの丘一つ(正岡子規)  ・春深し杉菜のはては水の中(永井龍男)
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