競技場やセレモニー、選手村などで抗議活動は禁止

19th October 1968: American track and field athletes Tommie Smith and John Carlos, first and third place winners in the 200 meter race, protest with the Black Power salute as they stand on the winner’s podium at the Summer Olympic games, Mexico City, Mexico. (Photo by Hulton Archive/Getty Images)

【筆洗】五輪の歴史の中で、もっとも有名な「あいさつ」かもしれない。一九六八年メキシコ大会、陸上競技男子200メートルの表彰台で、金メダルのトミー・スミスと銅のジョン・カルロスの両黒人選手が、母国米国の黒人差別に抗議するため、拳を上げた。「ブラックパワー・サリュート(あいさつ、敬礼)」と呼ばれる行動であった▼二人は黒い手袋をつけて、国旗から目を背けている。「黒人も人間である」という当然の主張を込めた行為であると、日本では報じられているが、当時の国際オリンピック委員会、ブランデージ会長は政治的主張に激怒した。母国でも批判が起きている。二人は選手村から追放された▼あの「あいさつ」が、米国内で許容されることになった。米国オリンピック・パラリンピック委員会は、東京五輪に向けた各競技の代表選考会に関して、人種差別反対や社会正義を訴える平和的な抗議には、制裁を科さないという指針を示した。国歌に起立せず膝をつくのも認めるそうだ▼警察官の暴行を受けた黒人男性の死亡事件で、「黒人の命も大切だ」の抗議運動が盛り上がったのが、大きいという▼許される行為の線引きなどで難しい問題が起きるかもしれないが、歴史的な決定であろう▼指針は半世紀以上経て、変わらぬ差別との闘いがあることも物語っている。「あいさつ」を見る目が変わったかも問われよう。(東京新聞「筆洗」2021年4月2日 07時29分)

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【6月28日 AFP】米国のスポーツ選手、そして1968年メキシコ五輪で人種差別との闘いの象徴となったジョン・カーロス(John Carlos)氏が、国際オリンピック委員会(IOC)に書簡を送り、五輪での抗議を禁止するルールを撤廃するよう求めた。/ 書簡は米国オリンピック・パラリンピック委員会(USOPC)とカーロス氏が連名で送付した。カーロス氏はメキシコ五輪で、トミー・スミス(Tommie Smith)氏と共に表彰式で拳を突き上げる有名な「ブラックパワー・サリュート(Black Power Salute)」を行い、選手団から追放された。/ USOPCは、「選手が今後沈黙を強いられることがあってはならない」と訴えている。/「IOCや国際パラリンピック委員会(IPC)が、自らの信念を口にする選手を罰し、排除する道を歩み続けることはできない。その信念が、五輪精神の目標を体現したものであればなおさらだ」「スポーツの統括団体は、選手や選手団体との透明な協力のもと、五輪やパラリンピックでの選手の自己表現の在り方を見直すという、責任ある仕事を始めるべきだ」(左上写真は、メキシコ国立自治大学(UNAM)で開かれた会議で拳を突き上げる、元米陸上選手のジョン・カーロス氏。メキシコ・メキシコ市で(2018年9月24日撮影)。(c)RONALDO SCHEMIDT / AFP)

 米ミネソタ州ミネアポリス(Minneapolis)で、武器を持たない黒人男性ジョージ・フロイド(George Floyd)さんが警察の拘束下で死亡する事件が起こった5月以降、人種差別に対する抗議活動は米内外で大きな広がりを見せ、あらゆる「デモンストレーションや政治的、宗教的、人種的なプロパガンダ」を禁じる五輪の規則についても、改めて厳しい目が向けられている。/ そのためUSOPCは、抗議が活発化してからの数週間で、スポーツ当局が「耳を傾けず、人種差別や不平等を容認してきた」ことを認め、選手の抗議に関する規則の見直しを約束している。/ 1月に選手の活動に関する指針を刷新し、表彰式や競技中の抗議を禁止したIOCも、ルールの緩和を示唆し、アスリート委員会の主導で話し合いを行い、反人種差別の取り組みを「堂々と」支持できるようにする方法を模索することを歓迎している。(c)AFP(https://www.afpbb.com/articles/-/3290748?pid=22473542)(2020年6月28日 16:50)

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人種差別と闘う“片ひざをつく行動”は東京五輪で処分対象?SNS発言許容もIOCガイドライン「抗議活動禁止」

 米国をはじめ世界中で人種差別問題への共闘と団結を示す、片ひざをつく行動が広がっているが、来年に延期された東京五輪とパラリンピックで、アスリートたちがこの行動をとった場合、処分の対象になることが9日、分かった。/ 英国高級紙デイリーテレグラフの取材に対し、国際オリンピック委員会(IOC)は「1月に作成したガイドラインは依然として生きている」と回答。国際パラリンピック委員会(IPC)も、「信じるもののために立ち上がることは奨励されるが、抗議活動は許可しない」とこれまでの方針に変更はないことを明らかにした。/ 5月25日、米ミネソタ州で黒人男性のジョージ・フロイドさんが白人警官に暴行されて死亡。フロイドさんに哀悼の意を示し、人種差別問題への共闘と団結を表すため、米国の市民の間で、この片ひざをつく行動が広がっている。これに米国のみならず世界のアスリートたちが追従。サッカー界では、FW南野拓実らリバプール(イングランド)の29選手たちが本拠地のセンターサークルで右ひざをつき、その写真をSNSに投稿するなど、動きが広がっている。

 こうした動きを受け、国際サッカー連盟(FIFA)は「常識の範囲内で」と柔軟な対応を各国協会に指示。またFA(イングランドサッカー協会)、米プロフットボールNFL、米国オリンピック委員会などは、もし選手がこうした行動をとっても、処分の対象にしない方針を明らかにしている。/ 一方、IOCは今年1月、選手の抗議活動に関するガイドラインを策定。「メディアやSNSなどで政治的な発言は許されるが、競技場やセレモニー、選手村などで抗議活動は禁止する」と、これまでの方針をより明確にした。現地時間の10日、IOCは理事会で、1月発表のガイドラインと、選手の抗議活動について再度、話し合う。人種差別問題への共感を表明することが、政治的な抗議活動にあたるか否かなどが討議される。(中日新聞・2020年6月10日 15時16分)

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 東京五輪は開催すべきではないと、招致運動の始まりからぼくは考えていました。五輪というのは、いまではほとんど「戦争」を願い、それによって利権を得ようと蝟集・蠢動する「禿✖✖」のような、人命を踏み台にして儲けることしか考えないような腐食金権亡者(人と組織)のためにだけに開かれようとしてきたのです。戦争が起こると、いろいろな事態が生じます、それと同じ経過をたどって「五輪開催」が強引に主張されてきたのです。もうすでに開戦中でもあります。簡単に言うと、軍服を着ない人間がすべてのことを取り決め、算盤(計算機)を持った人間たちが儲け仕事だとほくそ笑んでいる、火事場泥棒のような為体になっている。現場に集められる(召集される)兵隊だけががんじがらめの規則で無理矢理に競争を強いられる。内外の、多くの有閑連中は高みの見物です。(左は牟田口廉也第十五軍司令官・インパール作戦の指導者)

 東京五輪に関して言えば、招致段階では七千億円(気の遠くなるような金額)で開催するとされていたが(三代前の I 都知事の言。彼は選挙資金として五千万円を、ある医療関係者からもらって、嘘をつき通すことが出来なくなり辞任した、犯罪容疑者でした)、現段階ではすでに二兆円を突破し、まだまだ経費が掛かる(掛ける)と組織委は計算機をはじいている。国民の税金は組織委にとっては、出金専用のATMに入っているようなもの。群がり集まった利権関係者の「山分け」のために税金が食い潰されているのです。大政翼賛状況をでっち上げるために、一部の政治家や経済人や官僚どもが、「濡れ手に粟」を現実のものとして、「嘘つき名人」を御輿に載せて、長期に権力機構を握り続けていたのです。いろいろな資料が五輪関係機関の内部から漏れ出ていますが、それを見聞きするだけで、「盗人猛々しい」戦争商人ならぬ「五輪商人」が暗躍どころか、明躍しているのがよく見える。それを堅固な悪徳トライアングルが支えているのです。末法と言ったのは誰でしたか。世も末、法も末です。

 この五輪開催が決まった時点で、島で最大の広告会社の(表向きは、です。いまは人材派遣業も驚く、面倒な派遣などしないで、右から左に「金品」を召し上げる、中抜き専門会社となっている)、その社長は五輪招致が決定された時点で、「わが社は、このチャンスに一兆円を稼ぐ(中抜きする)」と言ったそうです。ひたすら「中抜き専門」のみで一兆円とか、です。「中抜き」されて得た金が方々にばらまかれ、更に「中抜き」の機会を獲得できるための投資金になるのです。「✖✖マスク」「特定給付金」「事業持続化✖✖」その他、国管轄の仕事のほとんどが「中抜き」をともなっており、ケースによっては資金の半分以上が抜かれているのです。五輪、コロナ禍という、人民にとっては最悪の災厄も、この手の会社にとっては「千載一遇」の絶好の好機でした。だからとことんまで、五輪開催は突き進めようとするのです、まるで先の戦争中の「インパール作戦」の再現のように。観客なんかいなくてもいい。選手なんか来なくても構わない。五輪さえ開かれれば、しかも猛暑のなかで。まさにインパールです。地震も原発事故も、台風や豪雨の襲来も、なによりも「商売の好機」としかとらえない亡者と組んだ政治主導の島です。いつでもどこでも、インパール作戦が展開されるのでしょう。「五輪」も人民を襲来する災害なんです。

○ インパール作戦=第2次世界大戦中の日本軍のインド進攻作戦の名称。英語では「日本軍のインド進攻」 Japanese invasion of Indiaとして知られる。 1944年3月6日,牟田口廉也中将指揮下の第 15軍が,ビルマからチンドウィン川を渡って,2手に分れインパール,コヒマを目指した。日本軍には,チャンドラ・ボースのインド国民軍が参加した。日本軍は6月 22日まで,インパールを 88日間にわたって包囲したが,第 33師団長柳田元三中将は状況判断を誤って包囲を解き,作戦中止を上申。その直後イギリス=インド軍の W.スリム中将指揮下の第 14軍は攻撃に転じ,7~8月にかけて第 15軍を壊滅させ,インパールの防衛に成功した。イギリス=インド軍の死傷者は1万 7587人に対し,日本軍は戦死または行方不明2万 2100人,戦病死 8400人,戦傷者約3万人と推定される損害をこうむった。この作戦の失敗は,のちにビルマ防衛戦の全面的崩壊をもたらした。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説)

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 スポーツは好きですが、現状の五輪(金塗れ・政治主義)は嫌い、大嫌いです。くりかえしませんが、誰のための五輪なのかという、なけなしの、歩かないか疑わしいが、そんな根っ子の「五輪思想(精神)という言葉主義」さえもが壊され、汚され、食い物にされているのです。今のこの時期に、何故「五輪」をこの島で開く意味があるのか。戦争商人ならぬ五輪強盗のような輩に吸い上げられるための「中抜き機関」と堕してしまった「平和の祭典」を、「国難」(それは政官業の悪のトライアングルが、かなりの部分をもたらしたもの)とされる只中で開こうとは、狂気の沙汰ですし、それでもなお「狂気の沙汰も金次第」というのです。「あらゆる差別」を認めない五輪という、紙の上だけの「五輪精神」こそが打破されるべきだと、ぼくは確信しているのです。その上で、不誠実や虚偽がいたるところで蔓延している、格差や差別が無慈悲にも正当化されているような、この島の現状においては、もっとも開いてはならない「平和の祭典(という虚飾)」ではないかと、強く考えてもいるのです。

「このオリンピック憲章の定める権利および自由は人種、肌の色、性別、性的指向、言語、宗教、政治的またはその他の意見、国あるいは社会的な出身、財産、出自やその他の身分などの理由による、いかなる種類の差別も受けることなく、確実に享受されなければならない。」(五輪憲章 オリンピズムの根本原則・2019年6月26日から有効)

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 おかしみ・こっけい・たわむれ、それは生活の薬味

〈いわせてもらお〉

高齢出産 娘(27)のバッグを借りて、電車に乗った時のこと。満員だったので立っていたら、目の前の若い男性が席を譲ってくれた。座ってしばらくして、その理由に気付いた。バッグに「おなかに赤ちゃんがいます」というキーホルダーが……。お産を終えたのだから外して欲しかった。 (静岡県磐田市・おなかの脂肪が育ってます・56歳)

■ARASHI 英会話教室で「私は昨日、嵐のビデオを見ました」と英語で話した。すると外国人講師が自分のまつ毛を指さし、「コレ?」と聞き返したので、「日本の有名な歌手グループです」と説明したら、通じた様子だった。家に帰って辞書でまつ毛を調べたら「アイラッシュ」とあった。 (福岡市・なるほど、発音が似てますね・59歳)

セレブ 9歳の息子が「怪獣で一番、人気があるのは?」と聞くので、私は「お父さんが好きなのはウルトラマンに出てくるゼットンだけど……」と言うと、息子は首を振った。「そうじゃなくて、世界中で一番人気があるのは誰?」。「せ」が聞こえなかった。 (東京都八王子市・レディー・ガガ……とか?・50歳)

追い込み 高校3年で受験生の娘が、テスト期間中だというのに、早い時間からベッドに潜り込んで寝ていた。「具合が悪いの?」と尋ねると、娘はか細い声でこう答えた。「『文字酔い』した……」 (川崎市・受験生が文字に負けるなんて~・55歳)(朝日新聞・12/12/15)

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 今でもあるのかしら、「いわせてもらお」欄は。ぼくは紙製の新聞は読まなくなって何年にもなります。読まない理由は「詰まらないから」という一事に尽きます。記事の対象がつまらないというのもあるし、そのつまらなさを忠実に書くというつまらなさーつまらない文章表現でと、言う意味ですーもあるでしょう。でも、そのほとんどの理由は書く側の力不足です。同じ景色を描いても、素人と玄人では雲泥の差があるのが当たり前。とすれば、今どきの記者は「素人」さんですね。どんな教育を経験してこられたのか、親の顔ではなく、大学の顔が見たいといっても、無意味ですね。そんなつまらぬ記事の満載と、匹敵する量の広告が掲載されただけの新聞に金を払うなら、べつのところに寄付しますよ、というくらいに新聞の内容も記事も軽薄になり、陳腐になっていたと感じ入ったからでした。

 しかし、そんな新聞でも、「川柳」「俳句」「投書欄」などがおもしろければ、じゅうぶんに購読する理由にはなります。この「いわせてもらお」もその一つ。考え抜かれたというか、直感でひらいめいたのか、とにかく「おもろー」というのが出ているのでよく記事を保存していました。こんな古い証文のような記事だけはPCに保存しているのですが、どれくらいの量があるのか。おそらく三十年以上も前からの悪習ですから、きっと埃をかぶり、パソコンの速度を遅くする原因になりながら、まだ「出番」を待っているのかもしれない、そんな気がしてちょっとPC内の倉庫から取り出し、埃を祓ったという風情です。いかがでしたか。いまもなお、新鮮ですね。新聞の本領たる「政治・経済・社会記事」など、二日もたてば、文字通り「旧聞」となり果(おお)せるのに対して、「おかしさ」というのか「ユーモア」というのか、これはいつも新しい。政治面は、いつの時代でも他人を出し抜いて利権を貪るという、古典的陳腐の一芸専門が売り物ですから、またか、もういいよと、敬遠したくなるのです。記事にしたとたんに読む値打ちが消えるものばかりです。それにしても政治に携わる御仁の魂が汚れ切っているのは、どうしてですか。「利権」というのはウィルスのことで、多くはこのウィルスに感染しているのです。PCR検査も有効ではなく、もちろんワクチン開発はどこもやっていないから、やりたい放題、感染し放題というのでしょう。この感染症は変異しないで増殖する、対峙・退治不能なウィルスに起因するものなんですね。そして政治を志向する方々は、ウィルスに感染したがるという摩訶不思議な人種です。

 川柳は言うまでもありませんが、俳句は元来が「おかしみ」を指していった表現でした。「俳諧の句」が「俳句」になったのですし、その俳諧は、「こっけい・おかしみ・たわむれ」という薬味が効いた、洒落た「ことば遊び」でした。無駄話はよしますけれど、要するに、ぼくたちの日常に「おかしみ・こっけい・たわむれ」がないと、途端に角突き合わせ、喧嘩沙汰になりかねません。夫婦でも親子でも、事情は変わらないでしょう。赤の他人なら、なおさらそうなりやすい。「角突き合わせ」が骨身に染みる人(ぼくも入ります)、殆んどじゃないですか。「一見まじめ」の風を装うのは、「社会的規制」というか、「公衆道徳」とでもいうのか、いずれにしてもそれは、多くの人に共通する短所かもしれません。コロナ禍で「自粛警察」というお節介が言われたりするのも、その一つともいえます。余裕というか遊びがないというのは、考えてみれば、恐ろしいことですよ。何時だって「問答無用」となりかねないのですから。俳諧の効用とは、ごく小さな言葉表現に吹いている微風のようなものです。十七文字に吹く風のさわやかさ。それをこそ、「和風」というのではないですか。

 「いわせてもらお」のこころも、「おかしさ・こっけい・たわむれ」で、これもまた不定形の俳句であり、川柳だとも言えます。真面目な俳句や謹厳実直な川柳というものがあるとすれば(そんなものはないに決まっています)、それはきっと床の間に飾られている「解読不明」の書であり絵ではないでしょうか。まるで血が通わない骸骨のようなもの。「わからないから、有難いのじゃ」と、ふところに計算機を忍ばせている葬式坊主のお経のような、そこには人間の不実・不誠実が透けて見えます。可笑しければ何でもいいとはいかない。今時のテレビの「お笑いオンパレード」を見るが如し、です。「枯れ木も山の賑わい」とはいいながら、いかにも寒々しいし、空々しいと言いたいね。空であり無です。(「人があつまれば賑やかになる」と解するのが近年では過半数を超えたと文化庁。かくして「言葉」は狂う、いや言葉を使う「人間」が狂う。「世は言葉を載せて変わる」といったのは徂徠だったか)

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 同じ保存庫に「小沢昭一的こころ」がありました。ぼくは、たった一度だけ小沢さんにお目にかかったことがあります。数十年前でした。いやすれ違っただけというべきか。鳥打帽を被り、コソ泥のような恰好をして、あるところに出入りされていたのでした。この駄文集のどこかでも触れたと記憶しますが、彼の俳句が川柳すれすれの境地で、ぼくは偏愛していました。小沢さんは酒はダメだそうで、独りこっそりと押し入れに入って「塩せんべい」を齧るのが至福の時だという人でした。実に滑稽、おかしみが滲み出てきそうな存在でした。友人(今は亡き麻生芳伸さん)は、小沢さんと同じ句会につらなり、これも川柳なのか俳句なのか区別のつかない作を連発されていたのが、懐かしい。麻生さんの一句。「夕立や…飛び込むラブホテル」がありました。

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「天声人語」 小沢昭一さんは、変哲(へんてつ)の俳号で句作をたしなんだ。〈夕刊をかぶり小走り初時雨(しぐれ)〉。その夕刊の、雨よけに使えば真っ先にぬれる1面に、83歳の訃報(ふほう)が出た。怪しげな役で光る名優として、民衆芸能の語り部として、まさに変哲だらけの、代えの利かない才人だった▼〈竹とんぼ握りたるまま昼寝の子〉。永六輔さんや桂米朝さんらと楽しんだ作には、たくまざるユーモアの中に、小さきもの、弱きものへの優しさがにじんでいる。〈手のなかの散歩の土産てんとう虫〉▼40代から集めた大道芸や露天商、見せ物小屋などの記録もまた、消えゆくものへの惜別だろう。名も無い人々が放浪しながら、食べていくための「地べたの芸」だ。担い手と共に絶える間際、辛うじて映像や音声に拾われたものも多い▼研究者としての業績に、朝日賞が贈られた。2時間近い記念講演の終わり、都心の駅でハーモニカを吹く芸人を語ると自らも一曲。取り締まりに気づいて逃げ出す演技で舞台袖へと消え、喝采を浴びた▼TBSラジオ「小沢昭一の小沢昭一的こころ」は約40年、1万回を超えた。3年前、「ぼちぼち」のしゃれでお墓を取り上げた回に、「千の風」になるのは嫌だと語っている▼「ちっちゃい石ころ一つでもいいから、私の骨のある場所の目印、あってほしいな。そこから私ね、この世の行く末をじっと見てるんだ」。目印は大きめでお願いします。暖かくなったら、世相の笑い飛ばし方を教わりにお訪ねしたいのこころ、である。(朝日新聞・12/12/11)

《…私の好きな川柳で、「本妻のほうが美人で不思議なり」というのがありますが、これは風刺、また落語などによく出てくる雑俳で、「くちなしやはなから下はすぐにあご」というのがナンセンス、小林一茶の「春雨に大あくびする美人かな」という句なんかがユーモアにあてはまるのではないでしょうか。/ ただし、これははっきりいっておかなければなりませんが、だからといってユーモアが一番上等な笑いだとは限らないということです。風刺、ナンセンスも笑いとしては同等のものです》(小沢昭一「ユーモアって」)合掌。

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 小沢さんに限らず、そこにいる、それだけでおかしみが溢れるような、なんだか「ポカポカ」するような心映えの人がいなくなりました。ぼくが知らないだけなのかもしれませんが、どうしても、この時代の多くの人が「おしなべて真面目風」と言いたい気もします。真面目は誠実とは違う。真面目は怖いという感覚がぼくにはある。戦争では「真面目に人を殺す」ごとく、まるで「殺気だった真面目さ」がこの世に満ち溢れているようで怖いですね。「一服の清涼剤」とか「癒し系」などとことさらに言うのではなく、そこに座っているだけでおかしい、温かい人、これは人徳なのかどうか。政治にも余裕というか遊びが欲しいと常々思っているのですが、無いものねだりでしょうね。「利権や利殖」に真面目な政治とは、積載量違反車のようで危険この上ありません。

 「器の大きい人は、決して他人を軽蔑しません。」(俊)だからか、ぼくは政治家たちを罵倒し通しています。「器」が小さすぎますね。「度量が広い」という言葉がある。度は物差し、量は枡 (ます)を表わします。あるいは「器量」とも。どちらも容れ物などを指し、広さや深さの程度を言い、それを人間に準(なぞら)えてもいるのでしょう。「一寸の虫にも五分の神(たましい)」と先人たちは言い残しました。一寸の「器」は小さい、けれども、その半分が「神(たましい)」だというのですから、いかにも厳かで雄大ですね。

 願わくば一寸の虫に変わりたし(無骨)しかも、おかしみがつまった「神・魂」になりたいですね。

 椋鳥(むくどり)と人に呼ばるる寒さかな (一茶) 田舎者と侮(あなど)られる一茶が、「寒心」に堪えない気分を詠んだ句。

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 いちばんたいせつなことをそまつにし…(承前)

 《諸君、ぼくとしてはこれからぼくが話そうとしていることは、決して知っていて話すのではなく、むしろ、諸君とともに共同で探求しようとしているからなのだ》(『ゴルギアス』)

 「牛馬の徳」が教えられるとしたら、「牛馬」以外の(それより優れたと思われる)何者かによって、これが牛馬にふさわしい「仕事」(ergon)だということが、あらかじめ取り決められているかぎりにおいてなのだ。牛や馬の値打ちといいますが、それを決めるのは牛馬ではないでしょう。少なくとも、牛や馬を使って利益を上げたいと企む者が、それを決める。この場合は「人間」です。牛馬の訓練も、その値打ちを高めるための方法であり、その方法は値打ちを熟知している者が行うのに何の不思議もありません。カリアスの息子の場合も、国家において一廉の人物になるということが、いわば「処世術」「立身出世」であるならば、それを技術や知識として教え授けることも学ぶことも可能だというのが、ソクラテスの立場だった。世間で生きる、よりうまく生きる値打ちを知っている者が、その先生になるのはいずこにおいても変わりません。「人間教師」「人間の調教師」という職業が成り立つ所以です。「職業としての教師」の始まりです。 

 これに対して、そのような「専門的技術に属する事柄」でないとみられる「人間の徳」は、いかにして教えられるか、という問題が出されますが、そもそも「人間の徳」とはなにかが問われねばなりません。教える内容がなんであるかがわからないで、どうして教えることができるのか、というわけです。反対に、「人間の徳」などとはとても言えないにもかかわらず、「世渡り術」や「世間知」に精通してる人は、それを商売にすることが出来ます。アテネの時代に盛んだった商売、それはソフィストと呼ばれた人が特技とした「弁論術」「修辞法」だったでしょう。「こうすれば成功する」「生きる技術をあなたに伝授」「一廉の人物になる方法はこれです」「富や名誉の獲得の仕方がここにある」などという情報を流して、世間を巧みに遊弋したとも言えます。その高名な一人がゴルギアスでした。今につながる職業の軌跡の濫觴(らんしょう)でもあるのです。

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○ ゴルギアス(英語表記)Gorgias=前500か484‐前391か375 古代ギリシアのソフィスト,弁論術の大成者。シチリア島のレオンティノイの人で,同島のエンペドクレスに学んだとも伝えられている。前427年,軍事援助要請のための全権大使としてアテナイを訪れ,その雄弁によって使命を成功させるとともに,弁論術への大きな関心を呼び起こした。母国の政変(前423)によって亡命を余儀なくされたらしく,やがてテッサリアのラリッサに定住した。ソフィストとして活動を始めたのもこのころからであろうが,弁論術中心の教授法によってギリシア全土に名声を博した。(世界大百科事典 第2版の解説)

○ ソフィスト(英語表記)sophists=原義は〈知者〉〈達人〉。sophistはその英語形。前5世紀中葉からギリシア世界に出現した職業的教師で,報酬を得て富裕市民の子弟に弁論術などの諸学芸を教授した。プロタゴラス,ゴルギアス,ヒッピアス,プロディコスらが有名。とりわけソクラテス,プラトンのソフィスト非難があずかって,〈詭弁家〉との悪評が後世まで残るが,知識の普及者,言語批判の先駆者としての意義は大きく,ほぼ同時代の中国の諸子百家に比せられる。としての意義は大きく,ほぼ同時代の中国の諸子百家に比せられる。(百科事典マイペディアの解説)

 「デルポイの神(アポロン)」の証言-

 《人間たちよ、おまえたちのうちで、いちばん知恵のある者というのは、誰でもソクラテスのように、自分は知恵に対しては、実際は何の値うちもないものなのだということを知った者が、そうなのだと言おうとしているようなものです》(『弁明』)その神殿の入り口には「汝自身を知れ」(ギリシア語: γνῶθι σεαυτόν ; グノーティ・セアウトン )という銘が書かれていたのでした。

○ アポロン=ギリシャ神話で、光明・医術・音楽・予言をつかさどる若く美しい神。ゼウスとレトの子で、女神アルテミスの双子の兄。デルフォイの神殿で下したという託宣は特に名高い。理知的で明るいギリシャ精神を代表する神とされる。ローマ神話では、アポロ。(デジタル大辞泉の解説)

 ぼく個人の流儀として、人間の分際で「人間はこう生きるべきだ」ということは金輪際いわないという姿勢を維持したいという願望があります。このようにも生きられれば、あのようにも生きられるということを認めたいというスタンスです。世にソフィスト(職業教師)はたくさんいますが、多くは時流や時勢に忠実というだけではないですか。時流につくというのは、自分の足場をもたないということです。そう、自己放棄。たしかにソクラテスも、この点から見れば、けっして揺らぎの姿勢を持っていたとはいえないと思います。一面では、彼はすごいことをしたけれど、他面では、やはり限界があったと今ならいえますね。彼の方法が問答法だとか対話法だといわれているのは事実です。しかし、その問答や対話の性格そのものに、否定することのできない弱点というか、かたくなさがあったといいたいのですが、それはまた別の問題です。

 世に受け入れられるというのは、生き方としてあまり上等だとはぼくには思われません。面倒なことは避けますが、「名を成す」というのは結果であって、いいことをした後に、「高徳な人」といわれるのは、なかなか難しい生き方ではあります。目的と手段の混同(取り違え)はいつでも、だれでもしがちです。名を成したい、金持ちになりたい、世間に認められたい、そのような目的意識をぼくは否定しませんし、肯定もしたくない。このように生きたいという「ささやかな生活」をこそ、ぼくは求めてきたのです。

 《わたしは諸君に勧告し、いつ誰に会っても、諸君に指摘することをやめないだろう。そしてその時のわたしの言葉は、いつもの言葉と変わりはしない。世にもすぐれた人よ、君はアテナイという、知力においても、武力においても、最も評判の高い、偉大なポリスの一員でありながら、ただ金銭を、できるだけ多く自分のものにしたいというようなことに気をつかっていて、恥ずかしくないのか。評判や地位のことは気にしても、思慮と真実には気をつかわず、たましい(いにちそのもの)を、できるだけすぐれたよいものにするように、心を用いることもしないとは、と言い、》《そしてその者が徳(よさ)を、もっているように言い張っているけれども、実際にもっていないと、わたしに思われるなら、いちばんたいせつなことをいちばんそまつにし、つまらないことを、不相応にたいせつにしているといって、わたしは非難するでしょう》

 《つまりわたしが、歩きまわって行っていることはといえば、…。諸君のうちの若い人にも年寄りの人にも、誰にでも、たましいが、できるだけすぐれたよいものになるよう、ずいぶん気をつかわなければならないのであって、それよりも先に、もしくは同程度にでも、身体や金銭のことを気にしてはならないと説くわけです》《つまりわたしは、あなたがたを目ざめさせるのに、各人一人一人に、どこへでもついて行って、膝をまじえて、全日、説得したり、非難したりすることを、すこしもやめないものなのです》

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 ものごとを考えるためにはそれなりの手続きがありそうです。闇雲に、あるいはテキトーに「考える」などということはありそうにもない。プラトン(ソクラテス)はなんといったか、それを知るのはたいしたことではありませんよ。彼らが考えたり語ったりしたその方法は、彼らに独自であったように、ぼくたちも独自の流儀を育てるために学ぶのではないですか。受け売りや模倣ではなしに、「自分流」、つまり「自分の流儀」を見つけるために、彼等の書いたものを読むのです。彼らの言ったこと(書いてあること)を覚えるために読むというのは、「読む」には入らないのです。試験勉強のために「読む」(覚える)というのは十中八九はこの類です。つまらないし、この上もなく無駄なことです。どうしてそうするか、社会通念や常識を獲得するための手段であり方法だからです。読もうとする書物には「通念」や「常識」が書かれているのではない。どんなことが書かれていても、それを忠実になぞる、それを無条件に暗記する、その受け身の姿勢や態度こそが、世間の価値観(ドクサ)を受け入れるために不可欠な方法なのです。従順な態度、素直な姿勢こそが、世間から受け入れられるのです。世間を受け入れる姿勢を徹底すると、今度は世間が受け入れてくれる。学校は、こんなしょうもない反復を練習させているのです。

 書かれていることが「真」であるか「偽」であるかは問わない。教科書に書いてよろしいと国家が認めたものだけが記載されているのですから、真偽を問うことが問題なのではなく、国家公認の内容に疑問を抱くことはもっともよくないことされるのです。それは、一面では極めて政治的な方法です。政治がとる手法は、ある事柄が真であるか偽であるかを探求することではなく、そのことがいいことか悪いことか(利益になるか不利益になるか)、時や場所の状況によって判断される(多数決で決められる)のです。だからこそ、数が問題となるのです。そんなことはあり得ないのに、「数は正義である」ともいえるのです。少しでも賛成が多い、反対が少ないという数の論理、というよりは一種の暴力によって、政治は運営されるのです。多数決政治の行く末は、多数派の形成であり、絶対多数派の成立です。「全員一致」ですね。異論が消え去るというのです。その先には必ず「政治(権力)の私物化」が待っているのです。そのための技術の有無が政治勢力(権力)を動かしているのでしょう。以下の「世に受け入れられて」きたとされる、ある新聞のコラムを読んでみます。何が課題となっているか。

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【余録】古代ローマの元老院議員、小カトーは独特の戦術を得意とした。政敵が提出した議案を葬るため、閉会となる日暮れまで演説を続け、投票を阻止したという。「議論を尽くす」という主張にだれも異論をはさめなかった▲とくにカエサルは何度も憂き目にあっている。長広舌にいら立ち、演説中にもかかわらず投獄するよう命じ、言論封じだと長老らにたしなめられたこともある。戦法はおおむね成功し、小カトーは名声を高めたという▲フィリバスターと呼ばれるこの戦術は、民主主義の礎である言論の自由を体現するものだ。しかし、いまに至るまで議事進行を遅らせる妨害戦術として使われてきたのが実態だ。これを無力化させようとする議論が米上院で熱を帯びている▲フィリバスターを打ち切るには定数100のうち60票が必要だ。与野党の勢力はともに50。野党・共和党が結束してこの戦術を行使すれば、与党・民主党は法案を可決させることができない。そこで浮上したのが60票ラインを大幅に下げる案だ▲「決められない政治」の要因という側面は確かにある。しかし、与党が数の力で押し切るのではなく、野党との妥協点を見いだす努力を促す効用は大きい。与党内にも慎重論があるのは、超党派路線を重視しているからだ▲日本に目を向ければ、虚偽の答弁がまかり通り、疑惑の解明に向き合わず、最後は数の論理を振りかざす寒々しい国会の現状が広がる。機能不全を打開しようとする米国の議論に耳を傾けてはどうか。(毎日新聞 2021/4/4) 

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 「政治は数、数は力だ。そして力は金だ」と言ったのはだれかを問わない。大なり小なり、権力をつかみたいものはきっとこのような「権力的政治信条」を持っているでしょう。権謀術数というのも、この政治信条の別名であるとも言えます。しかし、ぼくたちの生活は政治そのものではないし、そのような信条や心情では割り切れない要素を必要とするものです。他人とのつながりには、多少の「尊敬心」というか、胸底からの「敬いの心」が求められます。それがなければ、きっと付き合いは「打算」「功利」に終始するはずです。付き合って「損か得か」というのです。損得勘定が働けば、そこにはおのずから無理がうまれる。損得や打算を超えたところでしか人と人の交わり、願わしいつながりは生まれないのです。さらに言えば、そのようなつながりがいかにして育まれるか、これは教育問題の根底にある、大きな課題です。世間知や社会通念を「道徳化」するような、まやかしの学習・教育に、この島社会はうつつをぬかし、今もなお、その迷妄から覚め切っていないといわざるをえません。しかしいくつかの事情が重なって、この先ぼくたちは、路頭に迷うことを潔くしないのなら、自分の足で立ち、自分の頭で考えるという「自分流」「自己流」の生き方を育てていかなければ、立ち行かなくなでしょう。

 ペダゴジーという語はギリシャ由来でもあります。もともとは、教職にある人を指していましたが、更にその原義をたどれば「子どもと歩く人」というところに至ります。親ではなく、養育・教育係でもあった人を指して使われた。プラトンやソクラテスの生存していた当時のアテネでは「パイダゴーゴスの時代」という言葉が用いられていました。もちろん身分社会にあった当時、教育係は「奴隷身分」だった。終日子どもと行動を共にし、時には学校までいっしょに出掛け、やがてその子どものチューターを務めるようにもなったのです。

 教師は「子どもと歩く人」です。その典型だったソクラテスは「人間と歩く人」だったとも言えます。「 つまりわたしが、歩きまわって行っていることはといえば、…。諸君のうちの若い人にも年寄りの人にも、誰にでも、たましいが、できるだけすぐれたよいものになるよう、ずいぶん気をつかわなければならないのであって、それよりも先に、もしくは同程度にでも、身体や金銭のことを気にしてはならないと説くわけです 」汚濁に塗れた政治の世界に、教育のお手本はありません。そこ(政治の世界)で実践されている「人間堕落促進魔術」をこそ「他山の石」として、ぼくたちは「善悪の此岸」で生きる生活をわが身に育てる、その姿勢や態度を放棄することはできないのです。

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○ パイダゴーゴス(家庭教師)=家庭教育の一部(とくに知育)に参加したり,学校教育の一部について家庭で補習機能をはたす私的教師。歴史的には前者の機能をはたす者としてあらわれ,学校教育の普及した近代以後はおもに後者の機能をはたしている。古くは古代ギリシアのアテナイにおけるパイダゴゴスpaidagōgos(教僕)があり,奴隷身分で,主人の子どもを音楽や体育の教師のもとへ連れていく役割もはたした。古代ローマのギリシア人教師たちも奴隷もしくは解放奴隷で,修辞学などを教えた。(世界大百科事典 第2版の解説)

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 教育とは「向け変えの技術」だ

 若いころから、ぼくはプラトンの著作をよく読みました。もちろん、翻訳を通してでした。一時期ギリシャ語を齧ったこともあったのですが、中途半端ではとても歯が立たないと直ちにやめた。邦訳でじゅうぶんに満足したのでした。今回はその一部を紹介がてらに考えてみたくなりました。テーマは「生きることについて」という茫漠としたものです。驚くべきか、二四〇〇年も前に生きた人が書いたものです。

<死を恐れるのは誤りだ。それは知恵をもたないことについて知恵をもっていると偽っていることにほかならない。なぜなら死を知っている者は誰もいないからだ。>(「毒杯」を飲むソクラテス)⇓

 《…カリアスよ、とわたしは言ったのです。もし君の息子が、かりに仔馬や仔牛であったとするならば、かれらのために監督者となる者を見つけ出して、これに報酬を払って、息子たちを、しかるべき徳をそなえた、立派な者にしてもらうことができるだろう。またそういう監督者は、誰か馬事や農事に明るい者のうちに見つけることができただろう。…実際、とにかく、もしわたしが、そういう知識をもっているのだとしたら、自分でも、それを栄えあることとして、さぞ得意になったことでしょうからね。しかしまちがわないでください。わたしはそういう知識を、もってはいないのですから、アテナイ人諸君》(「ソクラテスの弁明」)(参考文献「プラトン全集」・岩波書店刊)

 馬を人間の好みに仕立て上げる人を調教師(breeder of racehorses・競走馬のブリーダー[飼育者])と言います。(料理をする人は調理師)馬や牛にかぎらず犬猫にもブリーダーが大流行です。それらはすべて、当の動物の本性(個性)を伸ばす・育てるというよりは、自分好みに作りかえるという方が当たっています。とするなら、さしずめ、学校の教師は「人間のブリーダー」と言うことになります。それをソクラテスはカリアスに語ったわけです。

  『ソクラテスの弁明』と並んで、ぜひとも読んでいただきたいのが『国家』です。

 《それなら、もし以上に言われたことが真実であるならば、われわれは、目下問題にしている事柄について、次のように考えなければならないことになる。すなわち、そもそも教育というものは、ある人々が世に宣言しながら主張しているような、そんなものではないということだ。彼らの主張によれば、魂のなかに知識がないから、自分たちが知識をなかに入れてやるのだ、ということらしい―あたかも盲人の目のなかに、視力を外から植えつけるかのようにね》(『国家』518 B~C)

 《ところがしかし、いまのわれわれの議論が示すところによれば、ひとりひとりの人間がもっているそのような[真理を知るための]機能と各人がそれによって学び知るところの器官とは、はじめから魂のなかに内在しているのであって、ただそれを―あたかも目を暗闇から光明へ転向させるには、身体の全体といっしょに転向させるのでなければ不可能であったように―魂の全体といっしょに生成流転する世界から一転させて、実在および実在のうち最も光り輝くものを観ることに堪えうるようになるまで、導いて行かなければならないのだ。そして、その最も光り輝くものというのは、われわれの主張では、〈善〉にほかならぬ。そうではないかね?》(『国家』518 C~D)

 《それならば、教育とは、まさにその器官を転向させることがどうすればいちばんやさしく、いちばん効果的に達成されるかを考える、向け換えの技術にほかならないということになるだろう。それは、その器官のなかに視力を外から植えつける技術ではなくて、視力ははじめからもっているけれども、ただその向きが正しくなくて、見なければならぬ方向を見ていないから、その点を直すように工夫する技術なのだ》(518 D)

 「人間の徳」とはなにか?

 ソクラテスにとって「人間の徳」というものは国家によって決められたもの(規範)などではなかったし、まして教育とはそれを上手に教えるテクネー(技術)ではなかったのです。彼の最大の関心事は、そもそも「人間の徳」はなにかを探求することであり、もともと国家の必要や要求によって作られた「公認の徳」(世の常識・通念)そのものを根本から疑うことにあったわけです。

 ソクラテスは一人一人にむかって、その人自身の「生活を吟味する」ことを徹底していったのですが、個人のなかにはいつとはなしに「国家公認の徳」(常識や通念・ドクサ)なるものが蓄積(移植)されているのだから、吟味を重ねるに応じて、ついには「公認の徳」そのものを激しく吟味するところまで進まざるをえなかったのです。つまり世間と対峙しなければならなかった。

 徳とは何かを求めること、問いつづけること、それこそが「無知からの解放」なのです。これは教育についても同じことです。世の中では「教育とは●だ」「いや、教育は▲だ」と甲論乙駁、まことに喧騒をきわめています。でも、教育は●だ、▲だ、と思いこんだとたんに、それ以外は眼中にないということになります。じつに狭い了見を背負いこんでしまうことになりますし、不幸なことでもあります。

 ぼくたちは「国家」の一員であると思っています。でもそれはきわめて不思議な思い込みです。ある地域に生まれれば、その地域が属している集団=国の一員とされるのです。たった一枚の出生届によってです。その反対に、その地域からハズレれば、ある集団の一員ではなくなります。これもたった一枚の紙による届けによります。国家の一員であるというのは、実に単純なことです。それなのに、終生、国家のくびきにとらわれるというのは奇妙でもあり可笑しいことでもあるのではないですか。ソクラテス(じつはプラトンが描くソクラテスは、というべきです)、このような一時的、あるいは刹那的な所属集団に身も心もあずけることの愚かさを指摘し、そこからの解放に自らの身命をかけたのでした。よくいわれたことで、「日本人に生まれる」とされますが、一方ではアメリカ人であることを「選ぶ」とも。人種や民族は選べませんけれども、「国籍」は選択できる。しかしぼくたちは、ほとんどが疑問を持たないままで「日本人」であるという、自己の属性を受け入れてきたのです。

 ぼくはしばしば、国籍は「上着のようなもの」だと言ってきました。もちろん、ぼくのように最後まで同じ服を着る人間が圧倒的に多いのです。でも、ときには自ら新たな上着を着ることもあり得ますし、ぼくの友人には何人もが外国製の上着を着用している人もいます。ここで言いたいのは、国家とか地域にあまりにもとらわれすぎると、自由にものを考えたり行動したりすることが出来なくなるという、集団の呪縛にかかるという点です。この「呪縛」「呪い」をソクラテス(プラトン)は「ドクサ」と看破し、そこから解放されることが有徳に生きる不可欠の条件であるとしました。ある人が正しいのは、いろいろな条件や関係において「正しい」からではなく、その人自身の内面において「正しい」からであるといいました。

 仮に社会通念や常識にあまりにも強くとらわれると、この内面の「正しさ」を獲得することが出来なくなるのです。集団全員が「正しくある」ということが求められたとしても、「全員が正しい」ということはあり得ないことです。ごく少数の正しい人がいるとしても、それを圧倒的に多数の人間が潰すようにのしかかってくる、それが集団の圧力だと言えるでしょう。ある事柄について、百対ゼロという事態が生じたとしたなら、それは全体主義であり、集団の在り方としては願わしいものではないと言えます。また九十九対一という状況があったとして、九十九人が正しくて一人が間違いであるということを意味しません。逆に「一」の中に正しさ(真理)が宿っているなら、時間をかけていけば、その一は次第に多数になるはずです。民主主義の核心は「小数意見の尊重」だといわれるのも、ここにおいてです。「一」が「多数」になるためには時間がかかります。迂遠な議論(話し合い)がなければ、民主主義は生まれるはずもないのです。ぼくたちの生きている「現実」「社会」は民主主義にとって、どの程度のものなのか、それがいま深く問われているのです。

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 さらに、この問題を考えつづけようとしています。ただ今現在、ぼくたちが一時身を置いているにすぎない「国といわれるものの骨組み」が、他を省みない独善的な人々に蹂躙されており、その被害を受けて壊れかけているのですから、なおさら、それ(国が許容する価値観)に縛られることの愚かさに、ぼくたちは真剣に関心を持つ必要があるといいたいのです。そのことを、自らは「人間の教師」であることを否定したとされる、哲学者・ソクラテスから学びたいんですね。(この項は続く)

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 よく見れば薺花咲く垣根かな

<あのころ>国会前で麦作り 戦後の食糧難

1947(昭和22)年4月1日、戦後の食糧難は国会議事堂前まで麦畑に変えた。限られた配給米だけではとても足りず、誰もが空腹を抱えていた。都会では空き地や道路のいたるところが畑や田んぼになり、米や麦、芋などを植え付けて飢えをしのいだ。厳しい取り締まりがあっても農家で闇米を買う人は絶えなかった。(2021/04/01 08:00共同通信)

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 四月一日の配信ですから、おそらくこれはフェイク写真だろうと思いました。四人の女性の服装、いで立ちが、どうしても麦畑に似つかわしくないからでした。議事堂前が畑だったのは事実で、もちろん戦時下においても野菜などが作られていた。どう見てもこの写真(右)は「ヤラセ」だと思いますね。(インスタ映えとは言わないでしょうが)いや、そうじゃないこれは本物の写真で、歴史的な一齣なのだと言われれば、「そうですか」と答えておくばかりです。

 国会議事堂の建設から今日までの歴史を観れば、いろいろなことが浮かび上がります。その点については、いずれどこかで概観してみたいと考えています。左に、もう一枚の写真を出しておきます。これは戦時中のものです。ジャガイモやサツマイモなど、コメ不足をしのぐために野菜つくりに精を出しているのは、都会の住人でした。

ぼくは大学生の頃、高名な評論家だった室伏高信というひとが、どのような背景だったか忘れましたが、「いずれ、銀座になすび畑ができる」というような記事を書いていたのを見て、一驚したのを覚えています。彼は戦時中も活躍した人でした。それが戦後も数年もたって、なお「銀座に畑が」と言っていたのです。今でも、だから、よくよく目を凝らしてみれば、議事堂前には畑があり、何かを育てているのでは、と思わないでもありません。国会議事堂とはよくも言いなしたものだと、ぼくは呆れます。人民の不幸や悲しみには一瞥もくれず、ひたすら国の行く末を過つ方向に舵を取り続けてきた、場所そのものでした。戦争を始めたのも、ここにおいてでした。戦後の出発に当たって、アメリカの属国になるという選択をしたのもここにおいてだった。昭和11年(1936)十一月竣工。その年の二月には二・二六事件が勃発しています。また完成時の十一月には「日独防共協定」を締結。この島の将来を予想させる暗雲たれ込める中での「議事堂誕生」でありました。

 議事堂の中はとにかく、その前では戦前戦後、さまざまな出来事が間断なく続いたのでした。六十年安保反対運動の大動員を皮切りに、各種の抗議活動が陸続と繰り広げられてきましたが、その結果は、しかし、この島社会の堕落と頽廃に拍車をかけるだけだったという気にもなります。国会は国権の最高機関を言われるのですが、その真意は「謎」です。国会というところに、ぼくはたった一度だけ呼ばれて出かけたことがありました。何年前になりますか、「衆議院憲法調査会」で「教育を受ける権利」について意見を求められたからです。普段からあんな場所は敬遠していたのですが、勤め先の友人が声をかけてきたので、魔が差したみたいでしたけど、やむなく出かけたのでした。やはり行かない方がいい場所でしたね。権威主義というのか、ぼくの感覚には馴染まない、当たり前の庶民(人間)感覚とは、まったく異質な空間という感想を持つばかりでした。

 食糧事情が極度に悪化して、都心の真ん中で畑作業をというのは、一つの典型事例、何かの象徴だったように思われます。当時だって、農地はいくらでも探せばあったのですから。それでは議事堂前で畑作業をする意味はどこにあったのか。戦時下と戦後では、その示そうとした内容は異なっていたはずです。いずれにしても、国家の「非常(異常)事態」であるという認識は一般化されていたから、そのような事態が進行したのだと思います。戦後もしばらく経てからは、時の政治権力に対する抗議運動の示威場所となったのですが、そこにもある種の象徴的な意味合いがあったでしょう。いまでは、従来有していた「議事堂前」の象徴性は失われたのかと思いたくなるような、いささか寂しい状態が生じているようにも、ぼくには見えているのです。

○ 国会=一般的には議会と呼ばれる国の機関のことで,この言葉自体は明治期にも用いられた(〈国会開設〉請願運動等)が,日本国憲法(1946公布。以下原則として憲法と略す)によって議会を指す公的名称となった。憲法前文は〈日本国民は,正当に選挙された国会における代表者を通じて行動〉すると記し,さらに国政の権威は国民に由来し,国の権力は国会が行使し,その福利は国民が享受すると定め,国民に国政を決定する最高の権力があるというたてまえ(国民主権)を実質的に生かす主要なルートとして国会は位置づけられている。(世界大百科事典 第2版の解説)

 再び議事堂前が畑になる日が来るのでしょうか。おそらくそれはないと断定します。今では議事堂の内も外も雑草ならぬ「ぺんぺん草」が生えているのではないかと言いたくなるような不毛の地と成り果ててしまいました。ぺんぺん草は「薺(なずな)」の別名です。これは大変に丈夫な草で、どんな荒れ地にも生育するといわれています。まるで「弘法大師」のような草です。(弘法筆を選ばず・薺土地を択ばず)その薺ですら生(は)えないのですから、さぞかし荒れに荒れた土地なのでしょう。ぼくはこの薺という草が大好きです。ぺんぺん草というのは、葉の形が三味線の撥(ばち)に似ているからで、それでぺんぺんと弾くからです。三味線草とも言います。いったい庶民のために、庶民の幸せになるために国会はどんな種を撒いてくれたのでしょう、くれているのでしょうか。その国会前は「主権者」ですら立ち入れない「治外法権」の地になった感がします。

○薺(なずな)=〘名〙 アブラナ科の二年草。各地の路傍、原野などにふつうに見られる。高さ三〇センチメートルぐらい。葉は羽状に深裂し根ぎわに密生する。春から初夏にかけ、茎頂に総状に多数密集した小さな白い四弁花を開く。果実は扁平で三味線の撥(ばち)に似た倒三角形。春の七草の一つで、早春、若葉をゆでて食べる。漢名、薺。ぺんぺんぐさ。《季・新年》 〔新撰字鏡(898‐901頃)〕※曾丹集(11C初か)「み園生のなづなのくきも立ちにけりけさの朝菜に何を摘ままし」[語誌](1)挙例の「曾丹集」によって、朝の菜として食したことがわかる。ただし、この詞書には「三月終」とある。(2)「万葉集」には見えず、八代集でも「拾遺集‐雑春」の「雪を薄み垣根に摘めるからなづななづさはまくのほしききみ哉〈藤原長能〉」の一首が見えるだけであるが、これは「なづさふ」を導き出す序詞なので、平安前期は和歌の景物、春の七草という意識はなかったらしい。(3)その後、和歌に用いられる時は「摘む」物として取り上げられ、平安後期になって「君がため夜ごしにつめるなな草のなつなの花を見て忍びませ」〔散木奇歌集‐春〕のように、七草の一つと考えるようになったらしい。(精選版 日本国語大辞典の解説)

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  「なずな」の句を三つばかり、花の名に恥じない「普通の」「平凡な」「とりとめもない」句だと、ぼくには思えました。  

 ・妹が垣根三味線草の花咲ぬ  蕪村

 ・よく見れば薺花咲く垣根かな  芭蕉

 ・君知るや三味線草は薺なり  子規

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 「正に、日本モデルの力を示した」と虚言症の総理

 春永に【有明抄】春の日永に夕暮れを歩けば、葉桜が日一日と増えてゆく。〈ひとは生涯に/何回ぐらいさくらをみるのかしら/ものごころつくのが十歳ぐらいなら/どんなに多くても七十回ぐらい/三十回 四十回のひともざら/なんという少なさだろう〉。茨木のり子さんは詩「さくら」に書いた。そんな大切な一回を、また今年も見送っている◆いつかまた…能狂言では別れ際「いずれ春永(はるなが)に」というあいさつが交わされる。春が訪れのんびり日が長くなったら再会しましょう、と。冬が去って明るい季節になれば愛憎も好悪も、あらゆる人間的感情がご破算になる。自然な時の流れを、くすりにも希望にもした古人の知恵がほの見える言葉である◆きょうから新年度。路上に散った桜の花びらをよけながら、新しい職場へと急ぐ姿もあるだろう。社会人の一歩を踏み出す若者たちにとっては、コロナ禍で厳寒の就職活動をくぐり抜け、ようやく迎えた春である。〈押しひらくちから蕾(つぼみ)に秘められて万の桜はふるえつつ咲く〉松平盟子。早咲きにしろ、遅咲きにしろ、いつか時は訪れる◆葉桜が来年また花をつけるころ、私たちは笑い合えているだろうか。会いたい人に気兼ねなく会える日は戻っているだろうか。時の流れはいまも、くすりであり希望でもある◆「いずれ春永に」―祈るような思いで、筆をおく。(桑)(佐賀新聞Live・2021/04.01)

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 数日前に、茨木のり子さんの「さくら」に触れたばかりでした。大変に好まれている詩であることがわかります。桜との出会いと別れを、強烈な印象(イメージ)で書かれた詩であるからでしょうか。それはともかく、この「有明抄」氏は、「春永」という珍しい言葉を使われていました。なあに、珍しくもなんともない言葉で、「君だけが知らないのだ」といわれるかもしれません。と同時に、それを敷衍して「自然な時の流れ」を「くすりにも希望にもした古人の知恵」とも言われています。ホントかしらという、かすかな戸惑いがぼくにはあります。春だから、すべてが一新されるというのでしょうが、冬から春になると、人間の感情が好転するというが、どうしてですか。そう言いたい気持ちは分かりそうですが、春が来たからと「そうは問屋が卸さない」でしょ。愛憎も好悪も、すべての人間の感情がご破算になると、願いたいという時もあれば、実際に念じている人もいるでしょう。でも、です。もしそういうことなら、何も苦労も苦悩もしなくていい。いずれ「春永に」と気長に待っていれば事足りるのですから。棚からボタ餅か、待ては海路の日和ありか。

○ 春永(はるなが)=〘名〙① 昼間の長い春の季節。多く年の初めを末長くと祝っていう語。日なが。永日。永陽。《季・新年‐春》※俳諧・犬子集(1633)一「春永といふやことばのかざり縄〈親重〉」② (多く「に」を伴って副詞的に用いる。春の、日の長い季候になったらの意から) いつかひまな時。またの機会。※天理本狂言・米市(室町末‐近世初)「我人、いそがわしい時分じゃ、いんではるながに、おりゃれと云」(精選版 日本国語大辞典の解説)

 コロナ禍は、さらに悪化しながらしばらくは続くはずです。ぼくの勝手な予想ではまだ二、三年では終わらないと考えています。この一年は「コロナ禍」の助走期間であって、本番はこれからだという気になります。無為無策の政府や行政の幹部連中の振舞いを見ていれば、時間は過ぎていくばかりで、そこには「くすりにも希望にも」ならない、独り占めの、自己中心のエゴイズムだけが蔓延っているのです。腐り切った政府や自治体の幹部たちは「ワクチン」を早々と接種しているに違いありません。「わが身大事」というのは、こういう輩の哲学であり、信条ともなっているのです。ワクチンが万能であれば、彼や彼女たちは「一安心」でしょう。しかし、決してそうではなさそうです。第一、抗体の有効性がどれだけ持続するか、まだわかっていないというし、それならば、ある期間内に、くりかえし接種しなければ安心できないのです。自前でワクチン開発を放棄している島にとって、何度も接種はまず不可能です、順番待ちの庶民は。高熱があっても「病院へ行くな」と触れ置いて、仲間が無症状でも即入院ですという、汚い手口でこの島社会を食い物にしているのです。

 今から百年前の「スペイン風邪」(インフルエンザ)(1918-1919)は、およそ二千五百万人の死者が出たといわれています。(今回のコロナ禍では、その十分の一程度です。4月1日現在)「史上最悪のインフルエンザ」の著者であるクロスビーは「インフルエンザ」の本当の怖さは、感染者数の天文学的拡大によって、それに劣らず驚異的な死者数が圧倒されてしまって、事態の背景に退いてしまう、「みんなが罹り誰も死なない」、その程度の、致命的ではない感染病だと軽んじられる点に存すると警告する。この「スペイン風邪」に匹敵する感染病に、ぼくたちはただいま襲撃されているという実感を、ぼくは持つ。容易に変異する、変幻自在のウィルスの威力に加えて、この危機状況を利用して「私腹を肥やす」算段しかしていない政官業のトライアングルが鉄壁の布陣を敷いているからです。

 註 「世界全体の推定感染者数は世界人口の25-30%(WHO)、または世界人口の3分の1、または約5億人とされる。当時の世界人口は18億人から20億人と推定されている。世界全体の推定死者数は1700万人から1億人と幅がある。1927年からの初期の推定では2160万人。1991年の推定では2500~3900万人。2005年の推定では5,000万人からおそらく1億人以上。しかし、2018年のAmerican Journal of Epidemiologyの再評価では約1700万人と推定されている。死者数を国別で見ると、特に甚大な被害を受けたのはインドで1200~1700万人、アメリカ50~85万人(CDCの推定では67万5000人)、ロシア45万人(別の研究では270万人)、ブラジル30万人、フランス40万人以上、イギリス25万人、カナダ5万人 、スウェーデン3万4000人、フィンランド2万人、等となっている。これらの数値は感染症のみならず戦争や災害などすべてのヒトの死因の中でも、最も多くのヒトを短期間で死亡に至らしめた記録的なものである」

 「日本では1918年(大正7年)4月、当時日本が統治していた台湾にて巡業していた真砂石などの大相撲力士3人が謎の感染症で急死。同年5月の夏場所では高熱などにより全休する力士が続出したため、世間では「相撲風邪」や「力士風邪」と呼んでいた。その後、1918年(大正7年)8月に日本上陸、同年10月に大流行が始まり、世界各地で「スパニッシュ・インフルエンザ」が流行していることや、国内でも各都道府県の学校や病院を中心に多くの患者が発生していることが報じられた。第1回の大流行が1918年(大正7年)10月から1919年(大正8年)3月、第2回が1919年(大正8年)12月から1920年(大正9年)3月、第3回が1920年(大正9年)12月から1921年(大正10年)3月にかけてである。当時の人口5500万人に対し約2380万人(人口比:約43%)が感染、約39万人が死亡したとされる。有名人では1918年(大正7年)に島村抱月が、1919年(大正8年)に大山捨松、竹田宮恒久王、辰野金吾がスペインかぜにより死去している。第1波の患者数・死亡者数が最も多い。第2波では患者数が減少する一方、致死率は上昇している。第3波の患者数・死亡者数は比較的少数であった」(Wikipedia)(ここに示されている感染者数や死亡者数については、大きな幅を持って、いくつもの数値が挙げられています。あくまでも参考資料として引用しておきます)

 この島の政治家・官僚の不誠実と言ったら、どこにも見られないほどにえげつないものです。その意味は、「新型コロナウィルス」を不当に軽んじているということです。その延長で「人民の命」を、歯牙にもかけないという悪辣さです。昨年の五月、莫迦で嘘つき、不誠実の見本のような総理大臣が「日本型モデル」と自己評価し、世界に誇れる日本医療の成功とまで嘯いていたのです。嘘つきが言うのですから、本当ではなかったのは現実の数字が証明しています。その結果、惨憺たる被害を招来してしまったのです。死ななくてもいい人命を救おうとしなかった罪は、即、万死に値します。

「我が国では、緊急事態を宣言しても、罰則を伴う強制的な外出規制などを実施することはできません。それでも、そうした日本ならではのやり方で、わずか1か月半で、今回の流行をほぼ収束させることができました。正に、日本モデルの力を示したと思います。
 全ての国民の皆様の御協力、ここまで根気よく辛抱してくださった皆様に、心より感謝申し上げます。
 感染リスクと背中合わせの過酷な環境の下で、強い使命感を持って全力を尽くしてくださった医師、看護師、看護助手の皆さん、臨床工学技士の皆さん、そして保健所や臨床検査技師の皆さん、全ての医療従事者の皆様に、心からの敬意を表します。
 日本の感染症への対応は、世界において卓越した模範である。先週金曜日、グテーレス国連事務総長は、我が国の取組について、こう評価してくださいました。
 我が国では、人口当たりの感染者数や死亡者数を、G7、主要先進国の中でも、圧倒的に少なく抑え込むことができています。これまでの私たちの取組は確実に成果を挙げており、世界の期待と注目を集めています。」(昨年5月25日「緊急事態宣言解除」に際しての「嘘つき首相」の「嘘八百会見」)

「先ほど新型コロナ対策本部を開催し、埼玉県、千葉県、東京都、神奈川県について、3月21日をもって緊急事態宣言を解除することを決定いたしました。
 これまで、飲食店の時間短縮を中心に、ピンポイントで行った対策は、大きな成果を上げています。1都3県の感染者数は、1月7日の4,277人から、昨日の725人まで、8割以上減少しています。東京では、2,520人から、本日は323人となり、解除の目安としていた1日当たり500人を40日連続で下回っております。病床のひっ迫が続いた千葉県などにおいても、日を追って入院者が減少し、病床の使用率50パーセントという解除の目安を下回り、40パーセント以下となっております。2週間宣言を延長し、病床の状況などを慎重に見極め、判断すると申し上げてきましたが、目安とした基準を安定して満たしており、本日、解除の判断をいたしました。
 これまでの医療、介護などの関係者の皆様の御尽力、国民や事業者の方の御協力に心から感謝申し上げます。」(2021年3月18日「首都圏緊急事態宣言解除」の際の菅利権総理大臣の「記者会見」)

 二代続いて「嘘つき」総理が、何の根拠もなく、「コロナ退治」を明言するという、呆れる外ない、情けない事態をぼくたちは見せつけられています。さらに五輪を何がなんでも開催するという狂気の沙汰を天下に晒そうとしています。人民大衆の生命を最優先で守るという責任意識は皆目見られないのですから、人民の不幸はたとえようもないのです。自分の命は自分で守るというのは、当然ですが、口から出まかせで「私に任せろ」と言わぬばかりの、似非権力者の空虚な発言にさえ、苦悩する人民は縋(すが)りたくなるのです。

 サクラもいい、春永もいい、でも自らの命を無事に存えるための方策はどこにあるのか、それを他人任せにしないためにこそ、専守防衛に専念しなければなるまい。(犯罪そのもの)に手を染めている輩が、最高の権力者の「振り」をし、「それを自認」しているという、未曽有の荒唐無稽と前代未聞のスキャンダルにさらされながら、ぼくたちは、自分の足で立ち、互いに支えあいながら、自らの生活を開いていかなければならないのです。

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