未ダ覚メズ池塘(チトウ)春草ノ夢

 歳月本長、而忙者自促。天地本寛、而鄙者自隘。風花雪月本閒、而労攘者自冗 (「菜根譚 後集 四」)

 久しぶりに「菜根譚」に戻ってきました。といっても、何か特別の事情があるのではありません。この間、何かと世俗・俗事(と言っているぼく自身が俗物ですから、「俗」を非難しようというのではありません)にかかずらわってしまい、義憤というか公憤というか、五分の魂に火が付いたように、怒り心頭に達したという自覚といいいますか、いやな「寝覚め」の折に付きまとわれるような不機嫌がぼくを襲っていたとも言えます。俗物が「俗物の傍若無人ぶり」にいい加減にしりと、俗物の神器を忘れるとは、「属物の風上」にも置けない輩だと、息まきたくなったのです。

 「山中に暦日なし」、もっぱら、その言をこそ、俗物の特権の如く「放埓至極」の明け暮れにも、後悔しない手綱のようなものとして、ぼくは愛好してきました。もちろん、拙宅にはテレビもパソコンも、それにいろいろなお店からもらった暦(カレンダー)など、日時を知る印はいくらもありますが、気分だけは「山中に暦日なし」といきたいものだという、それは、怠け者の生活信条なんですね。

*「山中に暦日なし」とは、「偶来松樹下、高枕石頭眠、山中無暦日、寒尽不年」(「唐詩選‐所収(太上隠者作「答人詩」)(精選版 日本国語大辞典)

 ところが、そうは問屋が卸さないのが、世の常です。天変地異は言うまでもなく、人事万般が、断りもなく、山間の僻地に飛び込んでくるのです。中には、気に入らぬと捨て置くこともできない、迷惑そのものという難題が、呼びもしないのに上がり込むという仕儀となる。そうなると、山中の時間もあったものではないのです。あるいは「コロナ」が拙宅に飛翔してくるかもしれません。それを何とかすべきはだれなのか、「当局」と言われる面々が「功名の魁(さきがけ)」あるいは「功名が辻」の果し合いのような、他愛もない権力争いが、島のあちこちで生じてる。まるで収拾がつく気配すらない状況に面して、一人前に「切歯扼腕」の素振りをしたくなるのはどうしたことか。まるで「年甲斐もなく」というべき沙汰でしょうね。

 そこで、「菜根譚」に帰るという仕儀なんです。歳月はもともと、終わりがないもの。際限もなければ、始まりもないとは言えませんが、いたずらに続くのが歳月です。「悠久の時」「時は永遠」というほかないのです。ところが有限も有限、あっという間の煙草の煙のような人生に「齷齪」し、「徒労をかさねる」のもまた、人間の分際というものの避けられないさだめとも感じ入っています。「歳月人を待たず」といい、「光陰は矢の如し」というけれども、それは一瞬に過ぎない人間の分際が言わせたり、嘆かせたりして生まれた言葉です。「歳月が待ってくれたら、どんなにいいことだろうか」というのは、後悔の別の表現でもあります。そして、「後悔先に立たず」と、前も後ろもふさがれているのです。万事休す、だ。

 「少年老い易く、学成り難し」と言ったのは誰だったか。まさか井上陽水じゃない。それはわかっていましたが、記憶をたどるとなんと、朱子(朱熹)その人でした、と言いたいのですけれど、一方的に断定もできません。その昔、「論語」研究の大家として書かれたものの中から、いくつかの文献を読んだこともありました。(「論語集注」など)誰が朱熹と言い出したか、いくらかの文献はありますが、その信ぴょう性は大いに疑問視されています。またその言わんとするところに関してもいくつかの解説が成立しており、どれかに特定することは困難だとされています。ぼくはそんな面倒なことを言いたいのではありません。ごく当たり前に、月並みに読んで理解しておればいいと考えています。

○ 朱熹(しゅき)[1130~1200]=中国、南宋の思想家。婺源(ぶげん)(江西省)の人。字(あざな)は元晦(げんかい)・仲晦。号は紫陽・晦庵(かいあん)など。諡(おくりな)は文公。北宋の周敦頤(しゅうとんい)らの思想を継承・発展させ、倫理学・政治学・宇宙論にまで及ぶ体系的な哲学を完成し、後世に大きな影響を与えた。著「四書集注(しっちゅう)」「近思録」「周易本義」「晦庵先生朱文公文集」など。→朱子学(しゅしがく)(デジタル大辞泉の解説)

 元来が際限のないものとみられる「歳月」を、わざわざ忙しがって、自分で短くしているのです。天地は無辺なのにもかかわらず、「鄙者」、つまりは俗人が、自分で狭くしているにすぎないのだという。「あの人に借金あり、この人とはつまらぬことで喧嘩したし…」というわけで義理のたたない身持ちの悪さで、世間を狭くしているのです。身に覚えがある人も多いでしょう(もちろん、ぼくもその一人です)。

  「風花雪月本閒」とは、春の花、夏の風、秋の月、冬の雪を言い、それらはまるで天然自然の風雅であって、「本閒」なもの、つまりは「本来は閑(のどか)」なのであって、「而労攘者自冗」 、齷齪しては、かえって自分の方から、煩わしいものにしているのだというのです。自然の歩みと歩調を合わせることは、今日では至難の業であり、望むべくもない贅沢に類するのでしょう。だから、忙しい合間を縫って「go toトラベル」という残酷かつ残念な始末になるのでしょう。

 歳月本長、天地元寛、風花雪月本閒、このようなあるべき(本・元の)「姿や形」を感じられなくなるのが、現代というものだというほかありません。現代に生きる人間は、はるかに「元来」「本源」から遠ざかって生きているのです。不便を厭い、便利を懇望するという本末が逆さになった生活が、人間の生活だというよりは「上等」「高級」の生き方だとでもいうようです。まことに「山中に暦日なし」と抗弁したくなります。だから、「菜根譚」の教えは、「原初の生活」への回帰を指嗾するものだともいえそうです。

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 暫し旅立ちたるこそ、目覚むる心地すれ

 いづくにもあれ、暫し旅立ちたるこそ、目覚むる心地すれ。

 その辺(わた)り、ここかしこ見歩き、田舎(ゐなか)びたる所、山里などは、いと目慣れぬ事のみぞ多かる。都へ便り求めて、文(ふみ)やる、「その事、かの事、便宜(びんぎ)に忘るな」など言ひ遣るこそをかしけれ。

 さやうの所にてこそ、万に、心遣ひせらるれ。持てる調度まで、良きは良く、能ある人、容貌(かたち)良き人も、常よりはをかしとこそ見ゆれ。

 寺・社などに忍びて籠(こも)りたるも、をかし。(「徒然草 第十五段」)(島内既出)

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 さしずめ、補助金なしの「go to キャンペーン」でしょうか。およそ七百年前の「旅のすゝめ」です。兼好についてはこれまでにもいくつか触れてきましたが、この「徒然草」一冊こそ、ぼくには格好の「旅への誘い」だと、早くから親しんできました。兼好さんについてもさまざまな評価がありますが、ぼくは単なる一読者であるという範囲を超えようとは思ったこともない。読んで楽しい、なるほどと感心する、いつの世も、人間は愚かさと賢さの合成物なんだ、そんなとりとめのないことを読み取っては、一人で感心したり、相槌を打ったり、そんな読書なのです。ぼくたちと少しも変わらない、「一人の中年」がそこに確かに生きていたという痕跡を見出しているのです。

 この「第十五段」も取り立てて言うことはなにもありません。どこであろうが、しばし旅に出るのは、目の覚める思いがする。もちろん、七百年前にも「観光地」はあり、そこはいかにも俗化していたにちがいありません。兼好は、もちろんそんなところには行かない。彼には物見遊山というのか、いかにも寸暇を惜しんでという、世帯染みた観光人の気性がなかったのかもしれません。あちこちを見て歩き、田舎や山里にでも足を伸ばせば、見慣れないことだらけ。他人を頼んで都に手紙をやり、「 その事、かの事、便宜(びんぎ)に忘るな」 (何くれとなく、都合次第で済ませるといい」などと書き送るのも面白いことじゃないか、こちらは暢気に息をついているからさ、というのです。

 旅の効用は、少しでも普段・日常の煩いを離れて、解放感を味わう機会になるということです。旅先まで持参した品々も、いいものはやはりいいと感じられるし、いっしょに来た人も、有能な人、見目麗しい人も、旅先だから、空気の水も変わるから、一段と有能で、かつよく見えるということもあるのだ、と。「 常よりはをかしとこそ見ゆれ」

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○ 徒然草=鎌倉時代後期の随筆文学。兼好作。2巻。元徳2 (1330) ~元弘1 (31) 年成立か (前半の一部は 1319年成立か) 。「つれづれなるままに…」に始る小序のほか 243段。内容は人生論,仏教信仰論,人間観,女性論,住居論,趣味論,自然観照を綴った随想,挿話・奇譚の類,物語的な小文,備忘録的な雑記など多岐にわたっている。早く室町時代の正徹 (しょうてつ) に注目されたが,江戸時代になると人生教訓の書としてもてはやされ,多数の注釈,研究書が生れた。俳諧その他後代文学への影響も大きい。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説)

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 今では、兼好のような「旅」は不可能だとみていい。「 いづくにもあれ、暫し旅立ちたるこそ、目覚むる心地すれ」という僥倖は、どう転んでも得られないからです。当たり前の話でしょう。徒歩で出かけるということは滅多に見られないようですし、車や電車での旅も「普段の人混み」から、目新しい「観光地という人混み」に心身を洗われる(疲れさせる)ために行くようなものです。それ以上に旅行は「消費」という経済の枠内でしか見られていないのですから、「 目覚むる心地すれ 」などという境地には逆立ちしても至れないのです。すべては高価で「目をむく」ことはあるのでしょうが。

 「旅は道連れ、世は情け」と、以前は言いましたが、今では、薬にしたくともそんな経験(道連れや持ちつ持たれつ)はでき難いでしょう。「旅では道連れのあることが心強く、同じように世を渡るには互いに情けをかけることが大切である」(デジタル大辞泉)という気味です。然るに、今日は、他人といっしょというのが流行らないし好まれない時代です。「自分一人」になりたいと願う世人の「旅の心得」は、それと真反対ではないでしょうか。むしろ「旅の恥は掻き捨て」というのが相場です。ぼくは「観光地」にはまず出かけないことにしていますけれど、いやでも目に入ってくる場面は、混雑の上に混雑であり、兵どもの夢の跡というべきか、落花狼藉の狂態であり、興醒めですね。どこにいっても「自分さえよければ」という、いたるところゴミ箱化主義の傍若無人ぶりです。

 人がいないところで解放されるのを望むのではなく、人の集まるところに集まりたいという、現代人の「習性」「群衆の中の孤立主義」の表現なんでしょうね。「あつまれどうぶつの森」は「「何もないから、なんでもできる」でした、ところが「何でもあるから、何もできない」というのが今風の「旅の風情」で、「いざ帰ろう、いかにも疲れた、二度と来ないさ」という、「一見(いちげん)」論の大流行というのが、今日の「旅」でなしうる「せいぜい」「関の山」です。

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 昨日でしたか、ある人から電話があり、お芝居を見に来てくださいというお誘いでした。「旅の誘い」ではなかったけれど、まあ都内へ出かけるのですから、ぼくには立派でもない、ちょっとした探検、宇宙旅行のようなものです。「森閑から混雑へ」とは、まあ無理です、と丁寧にお断りしました。今月の二十一、二日、都内は杉並区高円寺の「座高円寺」で行われる公演のお誘いでした。「一人芝居」の女優さんからのなつかしいお声が聞こえてきました。(お暇で、興味のある方はご覧になるといい)この人とは機縁が取り持つつながりです。彼女はっきりした姿勢を貫かれてこられました。公演される芝居についてはまた別の機会にでも触れてみます)

松川真澄ひとり舞台「おりん口伝」伝時間 | 14:00, 19:00
会場 | 座・高円寺2
お問合せ | 松川事務所
Tel:03-3396-6030
Eメール:katarite_m@yahoo.co.jp

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 「おりん口伝」は松田解子さんが書かれた「自伝」本です。松田さんの母上の生涯を描かれたものでした。ぼくは縁あって、生前は何度も松田さんにお会いし、貴重なお話を伺うことが出来ました。まさしく「かけがえのない旅」でもあったと、今でも感謝しています。その「堂々とした」風貌は、今でも明瞭にぼくの脳裏に焼き付けられているのです。ぼくにとっては、尊敬する心を一瞬たりとも失うことがなかった大先輩でした。その松田さんも「帰らない旅」に立たれて、ずいぶんと時間が経ちました。

○ 松田解子(読み)まつだ ときこ(1905-2004)=昭和-平成時代の小説家。明治38年7月18日生まれ。大正15年上京し,労働運動家大沼渉と結婚。日本プロレタリア作家同盟にくわわり,「戦旗」「女人芸術」に小説,詩,評論を発表。昭和42年鉱山に生きる一女性の苦闘をえがいた長編小説「おりん口伝」で田村俊子賞をうけた。ほかに「地底の人々」「土に聴く」など。平成16年12月26日死去。99歳。秋田県出身。秋田女子師範卒。本名は大沼ハナ。(デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説)

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 兼好さんの「旅の効用」に誘われるようにして、いろいろな人や物がぼくには甦ってきました。甦るというのは、小なりとはいえ、ぼくも、しばし「旅」をしているということでしょう。「記憶」はあるが、その記憶を救い出す機能が「故障する」と、物忘れが始まるという。何度か言いましたが、ぼくのこの雑文・駄文の山は「故障した」記憶救済装置の修繕作業であり、回復点検行為の痕跡でもあるのです。「車検ならぬ、能検」といったところです。いろいろな思い出や記憶が(思い出さなくていいものも含めて)順不同気味に出てきています。いましばらく、この「目覚むる心地」を楽しみたいですね。つまりは出鱈目な駄文の山をさらに高くしようという魂胆です。

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 Ora Orade Shitori egumo

【有明抄】別れはつらいけれど… 花散らしの雨に誘われるようにして、先日、父が逝った。86歳だった。生老病死は人の常。覚悟はしていたが、肉親との別れはつらく、悲しい◆三十数年前、佐賀新聞社に就職が決まった後、マスコミ関係の本をよく読んだ。「新聞記者は親の死に目に会えない」との一文が記憶に残った。事件事故の現場から簡単には離れられないという心構えを説いた言葉だったが、筆者は幸い、父の最期にも立ち会えたし、1週間の休みももらった。休みの間は(知)さんにカバーしてもらった。支えるより、支えられる時が多い気がする。全ての人に感謝である◆熊本地震の「本震」からきょうで5年。あの日、予期せぬ別れを経験した人もいるはずだ。覚悟していてもつらいのに、突然の別れを受け止められるはずはなかっただろう◆昨年10月の本紙「ひろば」欄に、唐津市の北原まど佳さん(当時肥前中3年)が「人は物理的な死と、忘れられての死と、2回死んでしまう」という意味の文章を投稿していた。よく分かる。人は亡くなっても、誰かの心の中で生き続ける◆生死の境は紙一重。熊本地震をはじめ、災禍や闘病の中で助かった人には、生かされた意味があるのだと思う。ただ、寡黙だった筆者の父が大きな期待をしているわけでもないだろう。ただ一言、「今を大切に」という声が聞こえる。(義)(佐賀新聞。LIVE・2021/04/16)

 本日は別の雑文を予定していたのですが、「有明抄」を読んで、気が変わったというか、テーマ(というほどでもありません)を別の物にしました。「突然の別れ」を、ぼくも経験してきました。いったい、これまでにどれくらいの「別れ」を忍んできたことか。「惜別」という語がいつでも身に染みるのです。上に引かれていた「人は物理的な死と、忘れられての死と、2回死んでしまう」と書かれた中学三年生の文章が胸を突く。昨晩、ぼくの友人と、どういうわけか、「2回死ぬ」というような事柄について電話で話しました。彼は京都在住です。人はどんな経験でも、それを記憶しています。何年、何十年経とうが記憶として残されているのです。

 しかし、年を取るとともに、多くの人は「記憶力」の衰えを嘆いたり託(かこ)ったりします。本当に忘れたのを嘆いているのか、ぼくは怪しいとみているのです。記憶したものは、脳内のある部分に貯蔵されている。整理されて残されているのです。問題は、必要な時に、必要な場所から取り出す、いってみれば「掴み取る・思い起こす・想起する「能力」が働かなくなってしまうから、肝心なことが「想い出せない(記憶している内容を取り出せない)」ということになるのでしょう。

 先日ある会社の営業の方と電話していて、石油の埋蔵量がいくらあるか、その量如何で経済成長が図られてきたとかいう話になった時、埋蔵量は無尽蔵とは言わないが、年々増えてくるはずだ、それは埋蔵地域の発見、発掘技術の「進歩」等が可能となるからで、などと喋っていたが、その次にそんな問題を研究した文書(ローマクラブ報告書)が半世紀前に出されている、それはイタリアのオリベッティという会社がスポンサーとなった研究で、その会社は「ある商品が当時は世界的に評判になっていた」と言って、その商品名が出てこなかった。自分でも驚いたが、単純な機械名が出てこなかったのです(今でいうワープロです)。相手が助け舟を出してくれたので、ようやく一見落着しましたが、じつにみっともないことだったな、と冷や汗が出たと思いました。相当に焼きが回っている証拠ですね。

 毎朝のように親父とお袋の「位牌」に線香をあげています。取り立てて信仰心があるわけではなく、だれも位牌を守る身内がいないので、習慣的にしているだけです。たったそれだけのことでも、ぼくは毎日、両親に出会っているという微かな感覚がある。それでいいことをしたとか、いいことがあるというのではありません。誰もがする(と思います)、そんな朝の挨拶をしているにすぎないのですが、気分としては「両親」に見られているなあ、という瞬間ですね。ぼくはお墓参りも好きではないし、お葬式もできれば失礼したいと、何時でも出かけるのに消極的になるのです。しかし、だからと言って「惜別」や「永訣」の想いを否定するのではないのです。家に居る猫とも死別を重ねてきました。其れでも相当に参ってしまいます。比べようもありませんが、友人・知人・親類縁者さらには肉親と「死別」には、当方との関係の遠近濃淡がありますけれども、「つらい」「哀しい」「だめだったか」「悔しい」という思いは変わりません。 

 ここまで書いてきて、どうしても「永訣の朝」が記憶の底から立ち上がってきました。なぜか、ぼくには説明できません。だから、それをここに、詩(「心象スケッチ 春と修羅」)のまま出しておくことにします。

宮沢賢治 「永訣の朝」(『心象スケッチ 春と修羅』より)
永訣の朝
けふのうちに
とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ
みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ
   (あめゆじゆとてちてけんじや)
うすあかくいつそう陰惨(いんざん)な雲から
みぞれはびちよびちよふつてくる
   (あめゆじゆとてちてけんじや)
青い蓴菜(じゆんさい)のもやうのついた
これらふたつのかけた陶椀(たうわん)に
おまへがたべるあめゆきをとらうとして
わたくしはまがつたてつぱうだまのやうに
このくらいみぞれのなかに飛びだした
   (あめゆじゆとてちてけんじや)
蒼鉛(さうえん)いろの暗い雲から
みぞれはびちよびちよ沈んでくる
ああとし子
死ぬといふいまごろになつて
わたくしをいつしやうあかるくするために
こんなさつぱりした雪のひとわんを
おまへはわたくしにたのんだのだ
ありがたうわたくしのけなげないもうとよ
わたくしもまつすぐにすすんでいくから
   (あめゆじゆとてちてけんじや)
はげしいはげしい熱やあへぎのあひだから
おまへはわたくしにたのんだのだ
 銀河や太陽 気圏などとよばれたせかいの
そらからおちた雪のさいごのひとわんを……
……ふたきれのみかげせきざいに
みぞれはさびしくたまつてゐる
わたくしはそのうへにあぶなくたち
雪と水とのまつしろな二相系(にさうけい)をたもち
すきとほるつめたい雫にみちた
このつややかな松のえだから
わたくしのやさしいいもうとの
さいごのたべものをもらつていかう
わたしたちがいつしよにそだつてきたあひだ
みなれたちやわんのこの藍のもやうにも
もうけふおまへはわかれてしまふ
(Ora Orade Shitori egumo)
ほんたうにけふおまへはわかれてしまふ
あああのとざされた病室の
くらいびやうぶやかやのなかに
やさしくあをじろく燃えてゐる
わたくしのけなげないもうとよ
この雪はどこをえらばうにも
あんまりどこもまつしろなのだ
あんなおそろしいみだれたそらから
このうつくしい雪がきたのだ
   (うまれでくるたて
    こんどはこたにわりやのごとばかりで
    くるしまなあよにうまれてくる)
おまへがたべるこのふたわんのゆきに
わたくしはいまこころからいのる
どうかこれが天上のアイスクリームになつて
おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに
わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ

(一九二二、一一、二七)
読売新聞(2017年12月1日)

 「死別する」とはいかなることを指して言うのか。「永訣の朝」を読みながら、しみじみと考え込んでいます。トシさんは賢治とは二つ違い。優れた才能を開いた人でもありました。賢治にはトシさんがどうしても必要だった、奇妙な言い方になりますが、賢治の中に「トシ」がいたから、「宮沢賢治」であることが出来たともいえるのでしょう。

○ 宮沢トシ(1898-1922)=明治-大正時代,宮沢賢治の妹。明治31年11月5日生まれ。大正9年花巻高女の教師となる。兄賢治の最大の理解者であったが,11年11月27日結核のため死去。25歳。その死は賢治に「永訣の朝」「松の針」「無声慟哭」などの詩をかかせ,「銀河鉄道の夜」「双子の星」などの童話のモチーフとなった。岩手県出身。日本女子大卒。(デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説)

私は人の真似はせず、できるだけ大きい強い正しい者になりたいと思います。御父様や兄様方のなさることに何かお役に立つように、そして生まれた甲斐の一番あるように求めていきたいと存じて居ります。」(母に宛てたトシの手書きの中に一説)

 素晴らしい教師でもあったと、元の生徒たちは言っておられます。二十四歳を一期の生涯というのは、今から思えば、いかにも悔しいことでした。分かった風なことを言えば、人生は「生きた時間」がすべて、長い短いではないとも言われる。よくわからないことです。欲張りを言えば、他者の「死」に接するたびに、いつまでも元気でいてほしかったという思いが却って強くなるほどに、ぼくたちはみずからの人生をつかみなおそうとするのかもしれません。「無声慟哭」は、トシを送った検事の三部作の一つです。それを要までもなく、ぼくは、肉親や友人たちの死に際して「慟哭」し、機会あるごとに「まだ慟哭している」「無声慟哭は続いている」と気づくのです。

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兄妹は「法華経」の信仰を持っていた、実家は浄土真宗だったとされる。

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 臣夙ニ鉱毒ノ禍害ノ…見テ憂悶手足ヲ措クニ処ナシ

 海洋放出と正造

【雷鳴抄】足尾鉱毒事件の被害民救済に奔走した田中正造(たなかしょうぞう)が佐野市で生まれて今年で180年。人権や環境を軽んじる近代文明と明治政府を痛烈に批判し、現代に通じる数々の名言を残した▼その一つが「少しだも 人のいのちに害ありて 少しくらいハ よいと云(い)うなよ」。天皇直訴後、激化する運動を抑えるため政府が設置した調査委員会の答申を読み、日記に書いた▼銅山が鉱毒を渡良瀬川に垂れ流し、下流の被害は深刻を極めた。なのに答申は「被害はない。少量の銅は乳児の発育に良い」。正造は激怒した。「素人に分かるのになぜ」▼2013年、没後100年の小紙連載「今、生きる正造」で紹介した言葉だ。その2年前、東京電力福島第1原発事故が発生。政府は放射能被害について「直ちに影響はない」と繰り返した。誰もが不信と不安を抱き、正造に共感した▼事故から10年。増え続ける処理水を、政府が海洋放出する方針を決めた。トリチウムなど一部の放射性物質が含まれる。本格操業が見えてきた地元漁業者が反対するにもかかわらず「人体への影響は少なく、薄めて海に流すのが合理的」という▼あぜんとした。安全だという保証はどこにもなく、涙を流すのは決まって罪もない市井の人たちだ。いつになったら過去の過ちに学ぶのか。正造が激怒する事態がまた起きた。(下野新聞SOON・2021/04/14)

 上の写真は「汚染水」を貯蔵するタンク群です。今回の政治決定は最初から読みこまれていたものです。いきなりの海洋投棄は、いくらバカな人民でも怒るだろうから、クッションを置く、それが貯汚染水タンクの設置でした。これには莫大な建設費や維持費がかかる「望外の公共事業」でした。しかし何年か後には、にっちもさっちもいかなくなるのは目に見えていたことですから、頃合いを見計らって「海洋投棄」する、予定通りの筋書きは「原子力村の選民(エリート)たち」が書いたのです。間違いなく、これからもこの事業には気の遠くなるほどの銭金が投入される。国破れて、金権亡者蔓延るという、これまでにも何度も見せつけられてきた悪魔の構図です。加えて、現下、コロナ禍もまた、りっぱな、かつ割りの割りのいい公共事業だと、喜んでいる商売人がいるし、五輪もまた右に同じです。国が完膚なきまでに滅んでも、カネの亡者はその骨肉にしがみついているのです。「毒を食らわば、皿まで」というんですね。

 田中正造が足尾鉱毒事件を「直訴」という直接行動で、明治天皇の「 鳳駕ニ近前スル其罪実ニ万死ニ当レリ 」と死を賭して訴えてから、本年は百二十年目に当たります。奇しくも、現政府は福島原発事故由来の「汚染水」を海洋に投棄する決定を下しました。権力者たち(それは決して単独者ではなく、無能者を中心にして(囲い込むように)、その周りを何重にも取り巻いて、いかにも権力集団と化した強盗無法者たちをいう)は、足尾銅山開発者の古河市兵衛と同じく、すべての害毒を地に埋め、水に流して「愚民」を翻弄愚弄し、その命を踏みにじった足下で莫大な利益を貪っていたのです。人民の生き死にには一顧だに払わず、海洋に流して「すべては終わる」という宣言を下したのです。

 ぼくはまだ学生の頃ですから、もう半世紀以上も前になります。都内文京区の本郷に住んでいたので、近所をよく歩きました。駒込を越えて、北区中里に向かい、「古河邸」といった大きな屋敷地に入ったことがあります。公開されていたのです。これが古河工業の経営者が作った住居と庭の跡でした。そこは、サツキやツツジ、あるいは幾種類ものバラが咲き乱れる、豪勢な庭園でした。古川が何者であるか、まったく知らなかったが、邸内の説明を見て初めて「足尾事件」がぼくの関心に入ってきたのでした。それ以来、ぼくは二度と古河邸には足を運ばなかった。肝を冷やすとはこういうことか、そんな度肝を抜かれる経験をしたのでした。明治期の政商と呼ばれた実業家であり、政治家をねじ込むのは手もない業だったというほどの敏腕・辣腕の商売人だった。これに進んでねじ込まれたがった政治家もいた。井上毅というのは、熊本出身の志士で、教育勅語作成に深くかかわったりした、なかなかの有司ではあったのです。

○ 足尾鉱毒事件【あしおこうどくじけん】=栃木県足尾銅山鉱毒流出で1880年代後半から渡良瀬(わたらせ)川沿岸農地が汚染された公害事件。地元からの数次の建議,上申にもかかわらず改善がみられなかったため,1897年以来たびたび農民が大挙上京して抗議行動を起こし警官と衝突,一大社会問題となった。代議士田中正造は1891年に議会に訴えて世に被害の惨状を知らせたが,さらに被害民の鉱毒反対運動が大弾圧をうけると,1901年天皇に直訴した。直訴は失敗したが,これを機に世論は沸騰し,社会主義者やキリスト教徒らの支援が活発化した。これに対し政府は1902年鉱毒調査会を設置し,鉱毒問題を治水問題にすりかえて,事態の鎮静化をはかった。おりから世論の関心が日露戦争へ向かう中,甘言と強権により下流の谷中村を破壊し,ついで渡良瀬川改修工事に着工,田中正造の死などによって鉱毒問題は表面上終わった。しかし汚染源対策が不十分なため,鉱毒被害も足尾山地の荒廃もやむことはなかった。(平凡社百科事典マイペディア)

○古河市兵衛 ふるかわ-いちべえ(1832-1903)=明治時代の実業家。天保(てんぽう)3年3月16日生まれ。小野組の番頭として生糸取引に従事。小野組清算後,明治10年足尾銅山を買収。さらに官営の院内・阿仁鉱山の払い下げをうけて事業を拡大。鉱山王とよばれ,古河財閥の基礎をきずいた。明治36年4月5日死去。72歳。京都出身。本姓は木村。幼名は巳之助,幸助。(デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説)

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「直訴状」(田中正造)

     謹奏

田中正造 草莽ノ微臣田中正造誠恐誠惶頓首頓首謹テ奏ス。伏テ惟ルニ臣田間ノ匹夫敢テ規ヲ踰エ法ヲ犯シテ鳳駕ニ近前スル其罪実ニ万死ニ当レリ。而モ甘ジテ之ヲ為ス所以ノモノハ洵ニ国家生民ノ為ニ図リテ一片ノ耿耿竟ニ忍ブ能ハザルモノ有レバナリ。伏テ望ムラクハ

陛下深仁深慈臣ガ[狂→至]愚ヲ憐レミテ少シク乙夜ノ覧ヲ垂レ給ハンコトヲ。

伏テ惟ルニ東京ノ北四十里ニシテ足尾銅山アリ。[+近年鉱業上ノ器械洋式ノ発達スルニ従ヒテ其流毒益々多ク]其採鉱製銅ノ際ニ生ズル所ノ毒水ト毒屑ト[久シク→之レヲ]澗谷ヲ埋メ渓流ニ注ギ、渡良瀬河ニ奔下シテ沿岸其害ヲ被ラザルナシ。[而シテ鉱業ノ益々発達スルニ従ヒテ其流毒益々多ク加フルニ→加フルニ]比年山林ヲ濫伐シ[+煙毒]水源ヲ赤土ト為セルガ故ニ河身[+激]変シテ洪水[頻ニ臻リ→又水量ノ高マルコト数尺]毒流四方ニ氾濫シ毒[屑→渣]ノ浸潤スルノ処茨城栃木群馬埼玉四県及[+其下流ノ]地数万町歩ニ[及ビ→達シ]魚族[絶滅→斃死]シ田園荒廃シ数十万ノ人民[+ノ中チ]産ヲ失ヒ[+ルアリ、営養ヲ失ヒルアリ、或ハ]業ニ離レ飢テ[泣キ寒ニ叫ビ→食ナク病テ薬ナキアリ。]老幼ハ溝壑ニ転ジ壮者ハ去テ他国ニ流離セリ。如此ニシテ二十年前ノ肥田沃土ハ今ヤ化シテ黄茅白葦満目惨憺ノ荒野ト為レ[リ→ルアリ]。

臣夙ニ鉱毒ノ禍害ノ滔滔底止スル所ナキト民人ノ痛苦其極ニ達セルトヲ見テ憂悶手足ヲ措クニ処ナシ。嚮ニ選レテ衆議院議員ト為ルヤ第二期議会ノ時初メテ状ヲ具シテ政府ニ質ス所アリ。爾後[-毎期]議会ニ於テ大声疾呼其拯救ノ策ヲ求ムル茲ニ十年、而モ政府ノ当局ハ常ニ言ヲ左右ニ托シテ之ガ適当ノ措置ヲ施ス[+コト]ナシ。而シテ地方牧民ノ職ニ在ルモノ亦恬トシテ省ミルナシ。甚シキハ即チ人民ノ窮苦ニ堪ヘズ[+シテ]群起シテ其保護ヲ請願スルヤ有司ハ警吏ヲ派シテ之ヲ圧抑シ誣テ兇徒ト称シテ獄ニ投ズルニ至ル。而シテ其極ヤ既ニ国庫ノ歳入数十万円ヲ減ジ[+又将ニ幾億千万円ニ達セントス。現ニ]人民公民ノ権ヲ失フモノ算ナクシテ町村ノ自治全ク[破壊→頽廃]セラレ[飢餓→貧苦疾病]及ビ毒ニ中リテ死スルモノ亦年々多キヲ加フ。

伏テ惟ミルニ

陛下不世出ノ資ヲ以テ列聖ノ余烈ヲ紹ギ徳四海ニ溢レ威八紘ニ展ブ。億兆昇平ヲ謳歌セザルナシ。而モ輦轂ノ下ヲ距ル甚ダ遠カラズシテ数十万無告ノ窮民空シク雨露ノ恩ヲ希フテ昊天ニ号泣スルヲ見ル。嗚呼是レ聖代ノ汚点ニ非ズト謂ハンヤ。而シテ其責ヤ実ニ政府当局ノ怠慢曠職ニシテ上ハ

陛下ノ聡明ヲ壅蔽シ奉リ下ハ家国民生ヲ以テ念ト為サヾルニ[因→在]ラズンバアラズ。嗚呼四県ノ地亦

陛下ノ一家ニアラズヤ。四県ノ民亦

陛下ノ赤子ニアラズヤ。政府当局ガ

陛下ノ地ト人トヲ把テ如此キノ悲境ニ陥ラシメテ省ミルナキモノ是レ臣ノ黙止スルコト能ハザル所ナリ。

 伏シテ惟ルニ政府当局ヲシテ能ク其責ヲ竭サシメ以テ

陛下ノ赤子ヲシテ日月ノ恩ニ光被セシムルノ途他ナシ。渡良瀬河ノ水源ヲ清ムル其一ナリ。河身ヲ修築シテ其天然ノ旧ニ復スル其二ナリ。激甚ノ毒土ヲ除去スル其三ナリ。沿岸無量ノ天産ヲ復活スル其四ナリ。多数町村ノ[破壊→頽廃]セルモノヲ恢復スル其五ナリ。[+加毒ノ鉱業ヲ止メ]毒水毒屑ノ流出ヲ根絶スル其六ナリ。如此ニシテ数十万生霊[ヲ塗炭ニ→ノ死命ヲ]救ヒ[+居住相続ノ基ヘヲ回復シ]其人口ノ減耗ヲ防遏シ、且ツ我日本帝国憲法及ビ法律ヲ正当ニ実行シテ各其権利ヲ保持セシメ、更ニ将来国家[-富強]ノ基礎タル無量ノ勢力及ビ富財ノ損失ヲ[予防→断絶]スルヲ得ベケンナリ。若シ然ラズシテ長ク毒水ノ横流ニ任セバ臣ハ恐ル其禍ノ及ブ所将サニ測ル可ラザルモノアランコトヲ。

 臣年六十一而シテ老病日ニ迫ル。念フニ余命幾クモナシ。唯万一ノ報効ヲ期シテ敢テ一身ヲ以テ利害ヲ計ラズ。故ニ斧鉞ノ誅ヲ冒シテ以テ聞ス情切ニ事急ニシテ涕泣言フ所ヲ知ラズ。伏テ望ムラクハ

聖明矜察ヲ垂レ給ハンコトヲ。臣痛絶呼号ノ至リニ任フルナシ。

明治三十四年十二月 草莽ノ微臣田中正造誠恐誠惶頓首頓首 

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「 陛下不世出ノ資ヲ以テ列聖ノ余烈ヲ紹ギ徳四海ニ溢レ威八紘ニ展ブ。億兆昇平ヲ謳歌セザルナシ。而モ輦轂ノ下ヲ距ル甚ダ遠カラズシテ数十万無告ノ窮民空シク雨露ノ恩ヲ希フテ昊天ニ号泣スルヲ見ル。嗚呼是レ聖代ノ汚点ニ非ズト謂ハンヤ。而シテ其責ヤ実ニ政府当局ノ怠慢曠職ニシテ」と、

率直無比に正造は直訴した。ただちに、正造は逮捕拘束されましたが「狂人が馬車の前によろめいただけ」と、即日釈放された。「狂人扱い」というのは権力者の常套手段でしょう。今なら、さしづめ「変わり者」だから「触らぬ神に祟りなし」という取り扱いです。沖縄でも福島でも、時の為政者の仕打ちに抗議する人民が後を絶たないにもかかわらず、刺激をしないように、時がたてば問題は消えるという、もっとも不実な態度で対応するのが、この島の政治史に繰り返し書かれてきた「権力無慈悲」の状態でもあったのです。

 「汚染水」の海洋投棄はどうなるのか。原発が設置されているところでは、世界の至る場所で「海洋投棄」されているのだから、なんの問題もないというのです。それでも不満を言うものには「はした金」をつかませればいいと、その程度の問題としてしか見ていないのです。

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 百年一日、学校は「心停止」に気づかないんだ

 「明治から今まで、ずっと勉強というのは、成績をあげ、受験して、競争して、競争に勝つか負けるかという、競うもの、争うものとして考えられてきた勉強です。言葉を学ぶということさえ、そうした競争である勉強の一つであり、論語も、シェイクスピアも、競争のなかで学ばれたわけです」

 この文章は、これまでに何度も引用してきた詩人の長田弘さん(1939-2015)の「今、求められること」という短い文章からのものです。この島社会に学校というものが制度として作られたのは明治五年でした。それ以前にも藩校や郷土の学校、さらには私塾など、いたるところに多くの種類の学校類似の組織や制度がありましたが、そこにおける教育には大きな差異があり、学校とは名ばかりというものがほとんどでした。したがって「学歴」を誇るというような今風の学校歴尊重主義は生まれる気づかいはなかった。

 明治の新国家をほとんどが青年期にあった人たちが創建したのは事実であり、その後の国の方向を決めたのも彼・彼女等でした。明治建国期はどこまで続いていたか。いろいろな考え方がありますが、一口でいえば、「日露戦争(明治三十七年、八年)」期までだと言えます。二十世紀の初頭です。それ以降は、青年たちが作った制度によって国の組織が固まり、教育に限定して言えば、帝国大学が頂点に立つ教育・学校階梯が徐々に力を持つようになるのです。いわゆる大学入学・卒業がそれ以降のキャリア形成に大きな力を持つ時代に入った。どの大学に入るか、そのためにはどの高校に、というように、今でも毎年のように見られる「受験競争」が学校の水準(正常な機能というべきか)を大きく制約することになりました。上に引用した長田さんの文章はその事情を説明しているとも読めます。試験でいい成績を取るための「勉強」の、向かうところ敵なしの横行です。 

 「けれどもこれからやってくるだろう、子どもがどんどんすくなくなってゆくだろう社会において変わらざるをえないのは、そのような勉強というもののかたちです。学ぶということが、勝つため、あるいは勝てなかったら負けてしまうような、競争のための勉強とは違ったかたちをもつことができなくては、先がなくなってくるからです」

 この文章が書かれたのは二十年以上も前のことです。少子化時代の到来はそれ以前から予想されていました。今でも大学受験競争が批判されますが、ぼくに言わせれば、受験競争などという風潮はもう終わっているのです。欲を言わなければ、誰だって、どこかの大学に入れる、「全入時代」もずっと以前に指摘されていました。ごく少数の大学に受験性が固まるという傾向は否定できません。しかし、それが解消するのも時間の問題です。ほとんどの学生は「大学教育」の実態を見せつけられてきたし、そんなことのために高い授業料を払ったという経験を経てきたのです。さらに言えば、日本の大学卒業生を終身雇用や年功序列の賃金体系で吸収してきた「企業」が、この先も同じような吸収装置ではあり得ない事態が来てしまったのです。だからこそ、「勉強」というか、福沢諭吉の語でいえば「学問」は、本来求められていたと考えられる目的や意義に回帰せざるを得なくなったのです。そのことを、長田さんは、ぼくが言おうとする観点とは別の方向で述べておられます。さらに引用を続けます。

 「というのは、他人と競争する。他人と競争して、他人に勝つ。あるいは負ける。そのように勉強というものが、つねに他人を確かめる、他人との距離を確かめるようにして行われてきたということがあります。しかし、子どもがだんだんすくなくなってゆく社会では、他人に勝つために勉強する必要より、もっとずっと必要なのは自分を確かにするためにする勉強であり、自分を確かめる方法としての勉強がいっそう求められます」

 自分と他人との距離を確かめる「勉強」、成績の差を比較することで「優劣」を決める学校教育の役割は終了したと言ってもいいでしょう。そもそも学校の機能や役割をこそ、時に及んで、根底から問わなければならなかったのです。それを怠ってきた結果、学校がその機能をもっと効率よく発揮することが出来た社会的機能や経済的要請がもう終わってしまったのです。だからこそ、「自分を確かめるための学問」が求められる時代に入っているのだという指摘は、当たり前に過ぎるように、ぼくには思われるのですが、残念ながら、大半はその事態を直ちには受け入れられないままで時を凌いで来たのです。無視したのか、気が付かなかったのか。

 学校の成績(試験の点数)が他者よりも一点でも高いことを必死になって願うという狂気染みた「勉強」の必要性が失われてしまった。自他の違いは「教育経験」の違いとも言えそうですが、中身は問われないままに、成績や偏差値、あるいは学歴でしか評価されないと勝手に判断してきた「錯覚社会」が、ここにきて、「錯覚からの覚醒」を求められているのです。他人との差は身長や体重もありますが、五キロ重いとか、五センチ低いと言っても、それがどんなことを表わしているのか、人はその程度の価値尺度には気づいているのです。ところが、試験や成績の一点、二点については、あきらめがつかないというのか、優劣感情を持たされてしまっているのか。自分はあの人には成績では勝っている、でもこの人には負けていると、二十歳を過ぎた青年諸君が、本気で考えたというなら、この若者が棲息する社会・集団はとっくに終わっていると言えますね。二十一世紀開始後二十年を経ずして、この島社会はこれまでの遺産も何も食い潰してしまったのです。その責任のかなりの部分は「学校教育」に帰するのではないでしょうか。

 他者との優劣を確かめるためには、驚異的に機能してきた学校制度が、はたして「自分を確かめる方法」としての教育(学問)を生みだせるのか、これまでとは学校や教育の目的も方向も、根本から変えなければ、変わらなければ、何事も新規に始められないのではないか、それをぼくは断言してもいいと考えている。「全員集合-前にならえー気をつけ―休め」などという号令が一切通用しない学校を、いかにして作り出すことが出来るか。「学校に行かないで、学ぶ方法(不登校で学ぶ方法)」、子どもが学校に行かなくても学べる、そんな学校をどのようにして想像できるのか、先ずそこから試してみたい。その次に、実際にそれをどのようにして見付けられるか、それがぼくたちの喫緊の課題となるはずです。「飛ぶ教室」はぼくの中で、悠々と、あるいは健やかに活動中なんですね。

 下の写真をつらつら眺めています。捨てるものは何一つない、自然界に余計なものはなにもないのです。そのことを土に触れながら、存分に学べる、この島の学校は、自然界にこそ実在していたということを、この素敵な看板が教えてくれています。(この項つづく)

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 國語は帝室の藩屏なり 國民の慈母なり

○ 滝廉太郎[1879‐1903(明治12‐36)]=作曲家。東京生まれ。高等師範付属音楽学校(後の東京音楽学校)在学中からピアノと作曲の才能を示し、研究科卒業と同時に母校の教師となり2年間勤務。この時期に、ピアノ曲『メヌエット』、組歌『四季』、中学唱歌『箱根八里』『荒城の月』、幼稚園唱歌『鳩(はと)ぽっぽ』『お正月』などの今日よく知られる作品を書いた。1901年(明治34)ドイツに留学し、ライプツィヒ音楽院で和声法や対位法など本格的な作曲技法を学んだ。しかし病気のため02年帰国し、翌明治36年郷里の大分で23歳の若さで亡くなった。彼は明治の洋楽揺籃(ようらん)期において、初めての本格的作曲家として近代西洋の作曲技法を用い、その後の山田耕筰(こうさく)以後の日本の歌曲の創作に大きな影響を与えた。(日本大百科全書(ニッポニカ)の解説)

 「花」という曲名で有名すぎるほどの唱歌になった、そのもとの形式は、組歌『四季』という「歌曲集」の第1曲でした。曲名も「花盛り」とされていたものです。彼はこの曲を弱冠二十一歳で作曲した。今では組曲全体が演奏されることはめったにありませんが、本格的な楽曲として評価されてしかるべきものだと、ぼくは思います。滝廉太郎は、この島のける西洋音楽接種の第一走者でした。(早逝した)廉太郎を先駆けとして、ようやく山田耕筰などの後進が続く道が開けたのです。一方、作詞の武島羽衣は、歌人であり、詩人、国文学者でもあった人。新進の作曲家と国文、とりわけて和歌に秀でていた作詞家のコンビが「花」一曲を残したという意義は、いろいろな意味で大きいものがあると考えます。滝廉太郎は、二十四歳を前にして没。一方の武島は九十四歳と長命でもありました。早い段階から学校教育の中に「唱歌」が取り入れられたについては、長野出身の伊沢修二の存在は特筆大書してもいいと、ぼくは考えてきましたが、この唱歌が学校に導入された背景や理由は何だったのか。(https://www.youtube.com/watch?v=jQc65H5KvUshttps://www.youtube.com/watch?v=8G1EKV9ASjU

○ 武島羽衣(1872-1967)=明治-昭和時代の歌人,詩人。明治5年11月2日生まれ。帝国大学在学中に「帝国文学」の創刊に参加。塩井雨江,大町桂月との共著「美文韻文花紅葉」などを刊行し,大学派(赤門派)とよばれる。唱歌「花」「美しき天然」などの作詞がある。ながく日本女子大教授をつとめた。昭和42年2月3日死去。94歳。東京出身。本名は又次郎。歌集に「美しき道」など。(デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説)(武島の作詞による「美しき天然」きっとどこかで聞かれたことがある曲です。余計なお世話ですが、いかがでしょうか。https://www.youtube.com/watch?v=8G1EKV9ASjU この作曲者は田中穂積さん。ぼくはよく調べたことがありませんが、彼は海軍で軍楽隊を指導した軍人で、同時に作曲家でもありました。この曲調はワルツそのもので、もっとも早期に作られたものとして流行した。歌っているのはたぶん「寅さんの妹」だった女性。「わたし、Bさんとはある音楽学校で同級生だった」とかみさんから聞いたことがある))

 いろいろなものが考えられますでしょう。しかし、中でも大きい理由となったのは、歌を通して「国語」教育を推進するということだったとぼくはみています。明治初期、この島ではあらゆる地域に地生えのことば(その多くは、「方言」とさげすまれ、「帝国」の政策によって順次撲滅の対象になった)にとって代わって、いまでいうところの「共通語」「標準語」というものを創出する必要性に駆られていたのが文部省当局でした。その中心人物が上田萬年という国語学者だった。詳細は省きますが、彼は国費留学生として渡独・仏、現地で五年だったか、滞在して、彼の地の「国語」教育(「ドイツ語」教育)の現実に激しく打たれたのでした。国家が自立するには「まず国語から」と、帰国した彼は「国語」という看板を、初めて帝国大学の研究室に掛けたのです。後年、彼は自著に「国語は帝室の藩屏」と述べたが、新しい「国語」創作の誇りや矜持と苦悩焦燥などが、いったいとなって上田氏の中に育っていたと、ぼくは言いたい気がします。作詞の武島は大学にあっては上田の高弟だったの。「春の小川」「朧月夜」などの作詞家だった高野辰之もまた、帝大時代に上田の薫陶を受けていた。「国語」教育は、「音楽」教育を介して実践されたといえます。

○ 上田萬年=国語学者。現代の国語学の基礎を確立した人。帝国大学和文学科卒業後、ドイツ、フランスに留学し、言語学を修めた。帰国後、それまでの国学者の研究に対し、西ヨーロッパの言語研究方法を紹介。従来の研究を再検討し、新しく国語学史、国語音韻、国語史、系統論などの研究を開拓、他方、国語調査委員会の設置(1900年。1949年に国語審議会に改組)に尽力して、国語政策、国語調査にかかわるとともに、多くの優れた後進の育成に努めた。東大教授、文部省専門学務局長、神宮皇学館長、国学院大学長などを歴任。著書に『国語のため』全2巻(1895、1903)、『国語学の十講』(1916)や、松井簡治(まついかんじ)との共著『大日本国語辞典』(1915~1919)などがある。作家円地文子は娘。(日本大百科全書(ニッポニカ)の解説)

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*与太話として ぼくが結婚をしたのは今から四十八年前の三月でした。自分の性分としては、どんなものでも「式」と名がつくものは嫌いでしたから、そんなもの(結婚式など)はしないと決めていたのに、かみさんの母親が「そんなふしだらは許さない」とかなんとかいったので、仕方なく「神前式(Kカソリック教会 で⇦)、さらにお茶の水のYホテルで「披露宴」なるものを開いた。決めたのは数日前だったと思う。(泥縄式というのでしょうか)きわめて少人数の集まりでした。その宴の中で、ぼくの友人が四、五人で肩を組んで「大学校歌」なるもの歌い出した。実に野蛮だという気がしたし、アカペラで、蛮声を張り上げたのがまことに恥ずかしかったのを、今でも思い出す。かみさんの友人が四、五人で「じゃあ、私たちも校歌を歌おう」と言って、実に見事なハーモニーで、さっそうと歌い切った。ピアノ伴奏もかみさんの親友。それが「花」だった。ぼくは、「えっ、これが大学の校歌か」と深く驚いたのです。そんなバカな、と思ったが、ひょっとして滝廉太郎は出身大学の校歌を作ったんだと、思わされたという気がしたのです。「春のうららの墨田川」と耳にするたびに、冷や汗まじりの記憶がよみがえります。(バンカラ男の一人として、実に恥ずかしい思いを、しみじみ感じたことだった。それを若気の至りとは言うまい。どちらにしても、「花」という唱歌は、新たに強烈な印象を刻印してぼくの脳裏に棲みついた)

 「國語は帝室の藩屏なり 國語は國民の慈母なり」(「國語のために」)上田萬年(カズトシ)はこのことをいかなる意識で、時代認識で言ったのか、ぼくは、しばしば考え込んでしまいます。「國語」は天皇が支配する国家たる「帝国」の防波堤であり、あるいは「橋頭保」であるとまでいうのでしょうか。それ(「國語」)はまた、国民の「育ての親」(あるいは揺り籠だとも)であるというのでしょうか。「日本語」ではなく「国語」と言わなければ済まないという、国体意識が言わせたとも解することが出来そうです。日本人ではなく「国民」を作るための教育には「國語」が不可欠だといったのです。しかも、まだ「國語」そのものが未生だった時代においてです。気宇壮大というべきか、荒唐無稽というべきか。

 たかが「國語」という事勿れ、だったんですね。この「國語本位」という教条は今もなお健在であるらしい。国民ー国語―国史…、「國」というものの重量が時とともに、人民の頭上に重くのしかかってくることになるのですが、それほどに国に絡め捉えた結果、人民の意識もまた「国家意識」に付着させられてきたのです。唱歌もやんぬるかな、そのような国家への密着状態を醸し出す貴重な契機となってきたのです。民族と言語と歴史は、たがいに依存しながら、その威力を強めて、ついに無敵の三角形(トライアングル)を作り上げたとも言えます。国家国民意識というのか、民族意識丸出しの「近代化」を唱歌や教育勅語と轡(くつわ)を並べて、国語教育に導かれながら推進してきたのが、この百五十年でした。ぼくたちは、その軛(くびき)から解放されるために、いまでも戦っているのかもしれません。このトライアングルが異様に強化されて美化されていたのが学校教育の場でしたから。そして国家という幻想の縛りが解体しかかっている状況にありながら、の意識ばかりは旧態依然なんです。旧習に馴染んで百年一日の如く、いまここで、ぼくたちは滅びるのを座視するのか、ぼくだけはそいつは、ご免ですね。

言語はこれを話す人民に取りては、恰も其血液が肉体上の同胞を示すが如く、精神上の同胞を示すものにして、之を日本国語にたとへていへば、日本語は日本人の精神的血液なりといひつべし

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