感染の連鎖を断ち切りましょう

小池都知事「街灯除いて明かりを消して」路上飲みで警察との見回りも

 新型コロナウイルスの感染拡大で、緊急事態宣言の対象となる東京都の小池百合子知事は23日、定例の記者会見を開き、繁華街近くの公園や路上で飲酒するグループが後を絶たないことを受け、都職員や警察が合同で見回りをすることを明らかにした。小池知事は「路上飲みを抑えることが感染防止につながる。繁華街を中心にして呼びかけを強化したい」と述べた。

 都によると、23日午後8時半から、新宿区の歌舞伎町周辺で、都や区、警察や消防の職員で編成されたグループで、見回りをして呼びかける予定という。

 都は現在、人流を抑えるため、大規模施設でのイルミネーションやライトアップ中止を要請している。小池知事はそれに加えて、午後8時以降は街頭の明るい看板やネオンなども停止するよう求めていくことも明らかにした。小池知事は「街灯を除いて、全ての明かりを消すことを徹底して頂きたい」と述べた。(朝日新聞・2021/04/23)

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 “灯火管制”【水や空】 夜間に敵機の攻撃目標になってはいけない、と明かりが漏れないように窓を塞いだり、照明器具に覆いを被せたり…。戦時中の日本で「燈火管制規則」が施行されたのは1938年4月のこと▲令和の灯火管制-真っ先に同じ連想をした人は少なくなかったようだ。東京、大阪などを対象に25日から出される3度目の新型コロナ緊急事態宣言に合わせて、小池百合子東京都知事が打ち出した“消灯要請”が話題を呼んでいる▲今回の緊急事態宣言、キーワードは「短期集中・強い措置」だ。酒類を提供する店には休業を要請、デパートも閉めてもらい、野球やサッカーは無観客、鉄道やバスでは減便や最終便の繰り上げも計画される▲小池氏の提案は、店舗の看板やネオンサイン、イルミネーションなど街灯以外の明かりを消すよう協力を求める内容だ。街を真っ暗にして人出を劇的に減らす作戦らしい▲胸の内を想像してみた。思えば、感染防止策と“抜け道探し”の応酬も根強く続いてきたこの数カ月だ。飲食店が時短で早じまいになれば昼から酒を飲む人々が現れ、公園や路上で宴会が始まる。電気ぐらい消さなければ、皆、言うことを聞いてくれない▲対策の手詰まり、都民への不信、政府や行政への不満…明かりの消えた東京、見えてくるものは何だろう。(智)(長崎新聞・2021/4/24)

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ニュージーランドのアーダーン首相が3月25日の夜、自宅からFacebookライブを使って新型コロナウイルス対策について説明し、視聴者からの質問にも答えた。/ ロイターによると、ニュージーランドは25日に、新型コロナウイルスの感染者急増を受けて国家非常事態を宣言。この日の深夜から外出制限をする方針を示していた。

(https://www.huffingtonpost.jp/entry/jacinda-ardern-coronavirus-live-qa_jp_5e7d5001c5b6614922648b4c)

アーダーン首相はFacebookライブで「これから数週間続く自宅待機に備えるため、オンラインでいくつか質問に答えることにしました」と説明する。/ さらに、緑色のカジュアルな服を着たアーダーン首相は、「カジュアルな格好ですみません、赤ちゃんを寝かしつけるのが大変で。今は仕事着じゃないんです」と明かした。/ この日、ニュージーランド政府は「自宅にとどまって、人と数メートル距離をとって接する『社会的距離』を取るよう」求めるテキストメッセージを国民に向けて送った。/ このメッセージについて「皆さんを驚かせたかもしれません。しかしこれが、皆さんにとって大切なメッセージを皆さんに伝える良い方法だと思いました」と、首相は説明する。/ そして、Facebookライブ中に寄せられた「外に散歩に出てもいいだろうか」といった質問に「散歩に出てもいいけれど、一人で出かけて他の人から距離を取るように」と一つ一つ答えた。

ニュージーランドでは27日現在、368人の感染が確認させている。/ アーダーン首相は、社会的距離がすぐには結果を出さなくてもがっかりしないで欲しい、数日後には表れるはずだと説明した。/ 「どうか自宅にとどまってください。感染の連鎖を断ち切りましょう。そうすればあなたは命を救うことになります」/ 約17分にわたるライブは、現時点で403万回再生されている。今回答えられなかった質問には、次のFacebookライブで回答する予定だという。(haffpost/2020年03月27日) 

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 本日現在の関連データです。日本の感染者は五十六万人、死者は九千八百人。ニュージーランドは感染者は二千六百人、死者は二十六人です。数の比較でもなけば、指導者の力量の差異を述べようとするのではありません。事実は、この通りという外に他意はないのです。目下、この島の指導者は「だれかと戦争中」だと、先日ぼくはいいました。したがって敵を欺くために有効な方法なら何でもやります、「灯火管制」も、もちろん実施します。原発事故以来ですか。その時は消費電力を抑えるためでした。いよいよ、本土決戦の様相を呈してきたようです。本土の大都市部では苦戦中です。空爆も原爆も持たない相手(ウィルス)ですが、なかなか手強い敵だし、いつ果てるとも見通しが立たないのです。

 一年前に示された彼の国の首相の判断力と、一年後のこの島の首都の指導者の「判断力」「見通し」には見(「気づく)べきものがあるかもしれません。これほどに異なる根拠のようなものが理解できるのではないでしょうか。コロナは灯りがなければ威力を発揮しないとは思えないのですが、まるで誘蛾灯に集う蛾のように、夜になると、ある種の人たちは明るいところに引き寄せられるのでしょうか。ぼくもつい最近まで誘蛾灯に引き込まれて溺れ死ぬ直前でしたから、他人様のことは言えた義理ではないのです。(以下を参照しました。https://www.bloomberg.com/graphics/2020-coronavirus-cases-world-map/)

 来年のこの時期、果して事態はどうなっているのでしょうか。

*参考までに 「コロナとの戦いは世界でも一進一退で、予期せぬ変異を繰り返すウイルスの動きは予断を許さない。しかし、学んできた知見の積み重ね、ワクチンという武器もある。必ず終わりが見えてくると確信している。首相としてできることは全て全力を尽くしてやり抜く」(「宣言」発出時の首相会見21/04/23)

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 国や首都の指導者の言うことは、今回の災厄に当たっては、どこでも、ほぼ同じような事柄・内容になる筈だと思われます。しかしその同じような「呼びかけ」「要請」がまったく異なった結果を招くとしたら、その原因や理由は何に起因すると考えたらいいのでしょう。問題となるのは、まず指導者に、社会を構成している人民の、どれだけの表情が見えているのか、固まりでもなければ、抽象化された観念でもなく、どれだけの個人が「表情」として目に見えているか、「声」として耳に届いているか。そこにもヒントがあるようです。ワクチンは特効薬ではないし、万能薬ですらありません。まず、なにをおいても「感染しない」「危うきに近寄らず」、これが「いのちの綱」になるのです。誰に言われたからではなく、自分の命は、自分が守る、これに尽きます。助けを求めている人には言葉と心をかけたいですね。言葉が相手に届く、あるいは届けたい、届いてほしい。それは政治であっても、教育とまったく同じでしょうね、言葉を侮らないことです。「君が口にしている言葉に誠実・誠意がこもっているか、偽りが混在していないか」、ぼくたちはいつでも、そのように問われているのです。

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 猫に教えられながらの、その日暮らし

 本日は雑文投稿は中止します。といって、何か目新しい趣向が出てくるはずもありません。「普段の雑文」は中止して、それ(雑文)以下のメモでもないし、ビ秒六でもない、独り言を書いてしまう羽目になりました。それには特段の理由があるわけではありません。あまりにも雑多なコンテンツがたまりにたまりすぎたので、パソコンの動きがやたらに鈍くなって困っていました。少し時間を取って破棄や削除にとりかかっているため、それが第一の理由。いわば「断捨離」です、果して思い切りよく断行できますか。

 第二の理由は、現在、わが住まいに猫が沢山います。山中に猫あり。孤独も集合生活もいとわず、仲間割れというのか、仲間外れになったのが、拙宅にやって来た、それをかみさんが放置できなくて食事を与えた結果です。まあ「軒を貸して、母屋を取られた」類で、これもなかなか大変な事態、てんやわんやの大騒動です。三週間ほど前に生まれたばかりが三人。さらにその「兄・姉」に当たるのが四人。拙宅では寝泊りは滅多にしないで、食事をとりに来るのが二人。この食事の用意だけでもなかなかのもの。誕生間もない三人の「産みの親」が十日ほどたちますが、帰らないままでいます。気になって仕方がないのですが、行方は杳(よう)として知れません。

 そこで、老夫婦が、急遽ホームセンターに駆け込み、哺乳瓶やら猫用のミルクなどを買いに走りました。昔取った杵柄(それも半世紀を隔てています)というわけで、毎日何度でしょうか、「授乳」中です。これにやたらに時間が取られます。(朝の六時から夜中の十二時ころまで)洗濯物もたくさん出ます。さらに、季節柄でしょうか、毎日のように動物病院に通院、中には避妊や去勢の手配まで、時にはお泊りもあるという次第。その合間を縫って、かみさんの通院に付き合いというか、「アッシー君」です。なぜだか、彼女はなかなか病院とは縁を切ってくれません。

 まだまだいくつもの理由らしいものがあります。薫風爽やか、青葉・若葉の季節です。敷地内が雑草やら皐月やら木香バラやら、とにかく万物が茂り実る「春爛漫」です。好天を利用して雑草取りに精を出しています。直前までは「筍彫り」も。この一時期、ぼくは「草刈まさお」になるのです。刈った後から新たなものが芽を出して、なかなかの根競べですね。庭いじりは、生半可ではできない作業です。ぼくはもっとも庭いじりを本格的にやった人として、ヘルマン・ヘッセに指を屈したいのです。一時期は、彼の広大な庭と本格的な造園果樹育成栽培の仕事ぶり、それに加えて、これも見事な草花をはじめとする庭仕事のスケッチ。これを模倣しようという才能もないのですが、なんとか、その足元の遥か数キロぐらいには近づきたいなと念願していたほどです。

 大した広さもない庭です。でもどんなに狭いば場所であって、それなりに植栽し、花々を楽しもうとするなら、なかなか面倒です。つまりは世話をしなければいいものにはならないのです。どんものでも「手抜き」は厳禁です。少しさぼると、目も当てられない荒れ野になるのです。何時だって、人工を突き破って「野生」に帰ろうとするのですね。田圃でも畑でも里山でも、普段からの絶え間ない作業があればこその実りであり、結実・開化なんです。大きな石や大木をどうこうする以外、ぼくは非力を省みず、まず自分で、自分流でがモットーです。だから何年たっても見栄えがしないんですね。

 「庭仕事は瞑想である」(ヘッセ) 「草取りは座禅なんだ」(やまのさとし)

 「瞑想」と「座禅」にどこか違いがあるのかどうか。ぼくは座禅も瞑想も、ことさらに勢い込んでしたことがありません。その効果が大いに疑われるからです。もちろん、これはぼく自身に限ったことです。ヘッセの言う「瞑想・冥想」には特別な解釈がいるのでしょうか。ぼくはそのようには思わないんです。心静かに何事かに集中するというのでしょう。でも草を取ること一つが、徐々に「瞑想」に向かう糸口にもなり、持続させる力でもあるのでしょう。「座禅」を組んで冥想するといわれますが、ぼくの草取りは「座禅」というのも烏滸がましいものではあります。でも結果として、草刈りに専心する時にはえてして何かを考えているんですけど、それを記憶していないことが多く、うまく草が刈れたことに喜びに似た感情が湧いてくるんですね。

 というわけで、自主トレの科目(メニュー)を変えて、この数日は四苦八苦しているのです。もうしばらくは続くでしょう。一日(回)漫歩は、すこし休憩です。「歩くとは考えること」を中断して「草取りは座禅だよ」に入るという図ですな。春風そよ吹く、空を見れば、月は朧に西の山です。あわただしくも、日が暮れ、日が昇ります。けっしてのんびりではない明け暮れです。でも草を刈っている背後からは「ウグイス」が声のかぎりに歌っています。いいもんですね。隣の竹藪では筍掘りに来た人の声がします。それを、ウグイスと比較してはならない。そして、庭に出ている猫たちを見ていて、あるいは、ひょっとして「ぼくは猫になりたい」という潜在的な願望があるのかもしれないと気づかされたように思ったりします。

 猫ほどに日がな一日草の上 (無骨)

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 三度目の正直?即刻辞任を、後生だから

 【余録】古いことわざに「三度目には馬の鞍(くら)も置き合わされぬ」というのがある。3度目の災難は思ったより早く来るので、逃れるために馬の鞍を置くひまもないというのだ。略して「三度目は馬の鞍」ともいう▲どんないきさつでこんなことわざができたのかは知らないが、2度の災難が起きた原因を取り除かぬままに漫然と時を過ごせばそういうことにもなろう。で、コロナ感染の急拡大と医療逼迫(ひっぱく)による3度目の緊急事態宣言が迫っている▲政府は20日に要請のあった大阪府のほか、京都府、東京都にも宣言を発令する方針を固めたという。2度目の宣言解除にあたって心配されていた変異株によるリバウンドが現実となり、鞍を置く間もなく3度目を迎えることとなった▲同じく古いことわざに「三度目が大事」「三度目には大事」がある。同じように見えるが前の大事は「だいじ」、後のは「おおごと」だ。前者は3度目は失敗が許されないとの意、後者は災難も3度目は重大事になるとの意味という▲感染力の強い変異株では重症化のスピードも増し、重症者に占める若年層の割合も増えているという。なのに人々のコロナ疲れで、宣言の効果逓減(ていげん)が心配される「三度目」となる。「が大事」「には大事」は、共に的確な警告だろう▲古いことわざには「三度目は定(じょう)の目」もある。定の目とは本来出るべきさいころの目のこと。政府や自治体への不満はいずれ帳尻をあわせるとして、今は自らがウイルスの運び手とならぬよう心をくだく時だ。(毎日新聞・2021/04/22)

 いよいよ「B29に竹槍で」の様相を呈してきました。ウィルスに「精神論」とはこれいかに。勝って兜の緒を締めよとばかりに「五輪」になだれ込むのでしょうか。莫迦も休み休みに、というほかありません。二度あることは三度あるというのはどうでしょうか。この島の政治家は見事に「過去の犯罪」を忘却するのが得意ですから、二度であろうが三度であろうが、構うものかという魂胆ですな。竹槍で敵の爆撃機を打ち落とすという根性は見上げたもの。荒唐無稽もここに極まれり、です。やがて、原子炉爆発には「水攻め作戦」の敢行、溜まりに溜まった「汚染水」は、誰が何と言おうと、海洋投棄に限ります、といけシャーシャーと数十年かけて投棄を継続するつもり。あとは野となれ、山となれ。

 「三度目の正直」はいかがですか。おそらく無責任が服を着ているような政治家連中が真面目に考えているのは、これかもしれない。一度目も二度目も空振りだったが、三度目は「コロナ感染拡大は完封」と夢のような、幻覚のような「宣言」を出そうとしている。三度目の祟りという、恐ろしい成り行きにならないことを、ぼくは一人で念じている。自分の頭で考えて、それがどんなに可笑しいか可笑しくないか、じゅうぶんに判断すればいいのだが、それができないのが「玉に瑕」だかね。 

 「仏の顔も三度まで」というのもあります。現下の島の状況にあって、果して「仏」とは誰のことを指しているのでしょうか。何処を見回しても「仏」らしい風体には出会えそうにありません。だから、三度目の「宣言」を出したところで、誰も怒らないし、腹を立てる向きもいなさそうです。しかし、じつは堪忍袋の緒が切れかかっている人はそこら中にいるのです。それに気づかないか、気づかないふりをして、いい加減なデマや嘘っぱちをこねくり回して、自己拡張あるいは自己主張に躍起になっている知事や痴事が各地に暗躍しているのです。今はひょっとして、ぼくたち衆生は「地獄の一丁目」にいるのでしょうか。やがて、何処からか白馬に乗った「ホトケ」が救いに来てくれないとも限りません。「地獄に仏」とも言いますし、「果報は寝て待て」とも言います。要するに「地獄で果報」などというジャンボくじに当たるよりも低い確率を期待してはいけないという、天はみずから助けるものを助けるともいう。その名言をぼくたちは肝に銘じなければならないのです。  

 「三遍回って煙草にしよう」というのを、ぼくはとても気に入っていました。何処で覚えたのか忘れましたが、「諺」の威力を篤と知らされたのがこれでした。何かしら大きな失敗があったからではないのです。とにかく煙草をのみたくてたまらないのに、だからこそ「まず念には念を」というのが腹に応えたということでした。やることをやったあとの「煙草がうまい」という教えだったのでしょうか。大学に入りたてだったと、かすかに覚えています。(上の写真は佐藤賢了氏。最高位は「陸軍中将」でした。とにかく「乱暴」一点張りのような軍人でした。ぼくは一時期、この人の息子と懇意にしていたことがあります)

○「三遍回って…」=やるべきことをきちんとやってから休憩しよう。には念を入れ、十分気をつけて事をすませた後で、ゆっくり休むのがよい。[解説] 元来は夜まわりなどで、三度見回ってから煙草を吸って休もうという江戸いろはかるたに収録され、絵札には夜まわりの男が煙草を吸う姿が描かれていました。なお、一説に、相手の話がなかなか進まず核心にふれないのを揶揄して用いる場合もあるとしています。(ことわざを知る辞典の解説)

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 何度も言いましたので、当方も「食傷気味」です。うんざりしています。真面目に政治を考えないし、行政を自己宣伝の道具と心得(ちがいをしている輩)ているのでしょう。人民にとっては不幸この上ないことです。凄まじいのは劣島の政治家徒輩です。加えて、コロナ禍の最悪の事態を迎えるの待って「五輪開催」という「狂言」の幕開けです。正気の人間集団がやる仕業かいなと聞く方がどうかしています。「五輪中止」、これは決まっています。しかし、「口が裂けても中止とは言えない」というヤクザの仁義のようなものが、この島社会の関係者連にはあるのです。無理は承知で、「五輪は必ずやる」とは、どういうことか。「やると、言う」ことが使命だというのです。

 いま総理の椅子にしがみついているヤッコは「三月で辞任」と言いました。ところが三月は過ぎ、四月も下旬に入りました。いっかな、辞める気配はありません。どうなっているのか、稀有の厚顔ぶりをいかんなく発揮しているというのか、それとも、そんな輩をのさばらしている当方に責任があるのか。何をしても責任を取らない、責任を問われても取らない。この伝で行くと、「殺人」を犯しても「辞めるつもりはない」と言い張るでしょう。すでに「コロナ禍」でかけかえのない、多くのいのちが奪われています。それでも「知らぬ存ぜぬ」と白を切る。どうすればいいのか。「人でなし」とは、こういうやつらをいうのでしょう。

 当局者の非常時における「発言」「空言」「大言壮語」、これらはなんと「戦時中」の当事者たちの非科学的で、精神論になってさえもいない、空虚・虚言の頻出に似ていることか。似ているのではなく、かつての軍人をはじめとする当局者が亡霊の如くに甦り、往時そのままにむなしい強弁を垂れているというべきなのかもしれない。悔しくて、泣きたくなるのです。いつにかわらず、いのちを守るのは自分だけだ。少し余裕があれば、他人のお手伝いを、それに尽きます。今は戦時中であるとは思わないが、当局者の「空言」「虚言」ばかりは「戦時下」そっくりの空砲爆撃の雨霰(あめあられ)です。目下、だれかさんたちは「だれかと戦っている」のだな。「撃ちてし、止まん」という悍(おぞ)ましさです。

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 戦争をしない世の中に、そんな雑誌を作る

 【小社会】 商業五輪の炎 雑誌「暮しの手帖」の名編集長だった花森安治が1960年、鉄道沿線に立てられた広告看板について、同書で辛口の意見を述べている。「ゼニのわりにてんでききはしないのである」。/ 広告主は一度、汽車の窓から虚心に看板を眺めてみるといい。いくつの商品名が頭に残っているか。今度それを買おうという気になったかどうか。それに気づいてガクゼンとしなければ経営者として落第である、と。/ 広告とはあくまで物を売るのが目的。商品や会社の名前をアピールするのはそのための手段であって、いくら覚えてもらっても結果的に買ってもらえなければ意味がない。そんな花森の考え方はすっきりと分かりやすい。

 県内できのうまで行われた東京五輪の聖火リレー。ランナーに先行するスポンサー車両の列に驚いた。最長で1キロにも及んだという。「車が多くて、ランナーが目立っていなかった」。本紙に載った観客の声にもうなずける。

 リレーは企業の協賛で実現できている。それは分かるが車が音楽を流して盛り上げる傍ら、観客は新型コロナ対策で密にならないよう求められる。通勤や通学時には渋滞も懸念される。/ 商業五輪の象徴ともいえるスポンサー車列。見る人の心に響く効き目はあるか。感染抑止との両立を目指すのなら、柔軟に見直すところもありはしないか。高知市中心街でのフィナーレ。宵闇に赤々と燃える炎を見送りながら考えた。(高知新聞・2021/04/21)

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 全国の自治体で実施されている「聖火リレー」に要する税金は、トータルで百十六億円だとか。五輪開催云々という問題は関心が皆無ですから、とやかく言う必要もないのですが、「東京五輪」を今の列島の状況下で、しかも真夏の猛暑の環境で開催するとは、まさしく「狂気の沙汰」です。したがって、その導入部に当たる「聖火リレー」も「狂騒」「狂瀾」の真っ盛りの中で行われているのです。下司の勘繰りでいうと、五輪は中止がすでに決まっていると思う。しかし、組織委と契約を交わしている各企業が、まだ獲得(得られるべき金)していない資金があるから、組織委は、この段階で「中止」を宣言することが出来ないだけです。早い話が、全国各地で行われることになっている「聖火リレー」、それを成功裏に終わらせるためにいろいろな企業が参加しています。もちろん、五輪だからボランティアでと言うはずもありません。結んだ契約が終了するまで、どんなに危うかろうが、どんなに非難されようが、五輪は「開く」と言い続けているのです。

 五輪スポンサーは総数が何十社だか、協賛金も数百億円とも語られています。金額の詳細は、組織委が公開していないので類推です。五輪全体では当初の予算額の三倍もの税金が投入されており、更に追加要求の出し放題であり、獲得できた予算は使い放題であるという不始末です。コロナ禍、「まん延防止」の警告が出されている中を強行突破し、更に緊急事態宣言下でも「聖火は走る、どこまでも」というふしだらなこと。これが世界に発信されているのですから、日本という島国の「不謹慎」「不真面目」がどんなに強烈に知れ渡ることでしょう。

 花森さんが存命なら、なんといったでしょうか。彼はきっと言葉を失っていたでしょうし、こんな「下劣・下品を表現する言葉はない」といったかもしれません。「暮らしの手帖」はまだ現役でしょうか、そうとう前に、ある友人から、ぼくが一時期、懇意にしていたSさんが「手帖社」におられたと伺ったことがあります。(ここで、雑文用原稿書きを中断し、「手帖社」に連絡して様子を伺いました。出版活動は往時を凌ぐばかりというのか、なかなかに健在でしたので 一 安心。しかもなお、広告を一切取らないで発行するという初志を貫かれているのを聞いて、胸が熱くなったというのは大げさですが、「一寸の虫にも五分の魂」がここに「生きている」という、いささかの矜持を改めて感じたのです。尋ね人は別の出版社で活躍されているとのことでした)(右は「最新号」表紙です)

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 (⇑)<都市部の沿道は、誰の目にも、多くの観客が肩が触れあうほど混雑し、十分な間隔を空けず複数の列に重なっているように見える状態になっているのに、大会組織委員会も県も「密集ではない」「中断するほどではなかった」と口をそろえて言い、リレーは続行され、次の地域に引き継がれていった><史上初の延期を挟み、ようやく迎えた聖火リレー本番。/ 被災地の記者として、このオリンピックが東北の被災地にどう役立つのか、「復興五輪」という言葉が大会誘致のための単なるお題目に終わっているのではないかという問題意識を持って臨んだが、聖火リレーとは、何のために行われる、誰のためのものなのか、そんなことばかり考えさせられた3日間だった。(NHK福島放送局記者中村拓斗)(https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210408/k10012962281000.html)(2021年4月8日)

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 群衆の中に位置を占める「独り独りの人民」の視線の先に何があるのでしょうか。何を見ているのでしょうか。破顔一笑しているわけではない。しかし表情は「ウットリ」という風にもぼくには見えます。歓喜する、歓呼する、それはなにに歓喜し、何を歓呼するのでしょうか。歴史は、社会や時代を超えてつながっているし、「独りの民衆」のこころが、きっと過去から未来にリレーされているのでしょう。(すぐ上の二枚の写真と、その上の写真に写されている人々、おそらくは「動員されている」のでしょう。いつでもどこでも「群衆は」自分の方から動員されていくのです)

 まるで末法(と鎌倉時代の宗教人なら言ったに違いない)さながらの現代、批判もなければ、非難もないとは言いませんが、物言わない人民が気づかないままで(知らないうちに)、自らの心のうちに「呼び寄せる何者か」が、幾たびかの睡眠を重ねる中で、ひそかに棲みついてしまうのではないでしょうか。いったい、ひそかに棲みつくものの「正体」とは何でしょうか。ぼくの中にも、あなたの中にも、きっとすでに棲みついている何者かがいるのです。ぼくたちは、その何者かに動かされているのですが、自分の意志や判断で動いていると信じ込んでしまったのです。まもなく、その「正体」は自他に明らかにされるでしょう。

 時代や社会が示している状況をどのように認識するのか、これは驚くほど困難な事柄であります。自らが属している集団、そこへの密着の度が濃密であればあるほど、集団の抱えている問題を認めることは難しくなります。それ故に、集団や組織を動かしている要路に対する批判や異論も出にくくなるのです。ぼくたちの現状はどうでしょうか。新聞からもテレビからも、総じてマスコミと言われる媒体から、批判らしい批判が出てきません。その理由はどこにあるのか。簡単に言えば、「マスコミ」それ自体が保守体制に編入されているからです。時の政治権力に完膚なきまでに屈服している証拠、それが権力への批判や異論の消滅です。言わねばならぬことも、言いたいこともマスコミからは失せてしまったのでしょうか。残りは権力に阿る記事ばかりが乱舞するのがオチです。批判のない報道は、単なる広報でしかありません。報道とは、言わねばならぬ事を記事にすることです。権力側が「知られたくないこと」を「知らせる」ためにこそ、報道は存在しているのです。

 偶然の成り行きで花森安治さんに触れようとしました。彼は戦時中は「大政翼賛会」の事務局で働いていました。いわば、国策の旗を振る側にいたのです。だから戦後になって、「戦争をしない世の中のための雑誌」を頑なに出し続けたのでした。売れればいい、「いいね」がたくさんもらえるような、下卑た、しかも権力に迎合した雑誌は絶えて作らなかったのは当然でした。ぼくは、若いころには「暮らしの手帖」を愛読していたことがあります。広告費に頼らない雑誌、それを出すことがいかに大変な仕事であるか、これも若いころに小さな雑誌の創刊に際して、応援の一助っ人(枯れ木も山の賑わい的な)に呼ばれた経験からも、すこしは知っているつもりです。(その雑誌は数号で潰れました)その「手帖」が今もなお、健在であるのが確認できて、言い知れない気分になりました。いまでも「広告なしですね」と念を押すように尋ねたら、「(電話に出られた編集者は)それしか「売り」はなくなりました」と謙遜(だったと思います)を言われたのです。なお、意気軒高か。

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<(花森安治は)1945(昭和20)年、終戦後に『日本読書新聞』の編集長で高校時代からの親友だった田所太郎のもとで、カットを描く手伝いをした。この時、編集部に在籍していた当時25歳の大橋鎭子を紹介される。大橋の、女の人をしあわせにする雑誌を出版したいという志に感心し、「戦争をしない世の中にするための雑誌」をつくることを条件に、この誘いに応じた。
『暮しの手帖』の初代編集長として、創刊当初から編集作業に全身全霊を傾け、画期的な誌面をつくりあげる。広告を載せず、実名をあげて商品を評価する「商品テスト」は大きな反響を呼び、『暮しの手帖』を国民的雑誌に押し上げた。あわせて高度成長期における環境問題などにも警鐘を鳴らし、暮らしに対する独自の思想をわかりやすい言葉で読者に伝えた>(「暮らしの手帖 会社案内・http://www.kurashi-no-techo.co.jp/company)

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 的外れで間が抜け、でも自分を売るのは達者だ

 字を間違えました【水や空】まず、一つおわびを。17日付の本欄で「鍛冶屋さん」の「冶」の字が「さんずい」の「治」になっていました。執筆者による変換ミスの見落としが、いろいろなチェックの目を擦り抜けてそのまま紙面に出てしまいました。申し訳ありませんでした▲さて、気を取り直して-。17日の記事で話題にしたのは、鍛冶屋さんの作業音が由来の「とんちんかん」だったが、会話の際のリアクションをいう「相槌」も、元々は鍛冶仕事のパートナーを指す言葉なのだとか。「槌」は鍛冶仕事に欠かせないハンマー▲もう一つ、鍛冶屋さん関連ワードですぐに思いつくのは「鉄は熱いうちに打て」。人は柔軟性や可塑性に富んだ若いうちに鍛えるのが大切、物事は実行する時期を逃すな…というあの教えだ。こちらは、実は外来のことわざらしい▲さて、初めて対面での首脳会談に臨んだ菅義偉首相とバイデン米大統領、会話はうまく弾んだか、就任直後、熱の冷めないうちに顔を合わせた効果はあったか▲首相の最大のお土産は米国の製薬会社から新型コロナウイルスワクチン追加供給の約束を取り付けたことのようだ。ただ、こちらの相談は電話で済んだもよう▲感染の“第4波”は日ごと深刻度を増している。訪米の余韻に浸る時間がないことだけは念押ししておきたい。(智)(長崎新聞・2021/04/20)

 とんちんかん【水や空】物事の辻褄(つじつま)が合わないことや、的外れで間が抜けていることをいう「とんちんかん」は鍛冶屋さんの仕事場から聞こえてくる槌の音がそのまま語源になった言葉だ▲どうにも優先順位を間違えているような気がしてならない。国会で新型コロナへの現状認識を問われ「全国的なうねりにはなっていない」と“第4波”を否定して米国へ。菅義偉首相はきょう、バイデン米大統領との首脳会談に臨む▲1月に就任して以来、バイデン氏が外国の首脳と対面で会談するのは初めてだという。日米の結束の証し、日本重視の表れ。額面通りにそう考えていいのだろうか。各国の首脳が「時期が悪い」「かえって迷惑だろう」「それどころじゃない」と訪問を自重した3カ月ではなかったか▲カナダの首相とバイデン氏が2月にオンラインで会談している。画面越しに笑顔で「カナダ以上に親密で重要な友人はいません」。とてもスマートな印象を受ける▲「まん延防止措置」エリアが次々に拡大、移動抑制の呼び掛けが強まっている。そのさなか、県境どころか国境を飛び超えて…「とんちんかん」にしか見えないのは当方の「外交」への理解が不足しているのか▲不要不急のお手本…無遠慮なコメントがネットには飛び交う。悪評を吹き飛ばす成果は待っているだろうか。(智)(長崎新聞2021/04/17)

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○ とん‐ちん‐かん【頓珍漢】[名・形動]《鍛冶屋(かじや)の相槌(あいづち)の音を漢字を当てて表したもの。その打つ音がそろわないところから》1 物事のつじつまが合わないこと。見当違いであること。また、そのさま。「頓珍漢な受け答え」2 間のぬけた言動をすること。また、そのさまや、その人。「頓珍漢な奴」「この頓珍漢め」(デジタル大辞泉)

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 長崎新聞のコラム「水や空」2題です。もちろん執筆者は同じ人です。三日前に書いた記事の誤りが見つかったのは発刊後、というわけで、その謝罪ではなく、お詫びかたがた、さりげなくコラムの続きを書くという手法です。まず、「鍛冶」の変換ミスで「鍛治」となった点について。もともと、鍛冶と書いて「たんや」と読ませていたはずです。鍛は「きたえる」、「冶」は溶かすです。また鉄を打つことを「かなうち」「かぬち」「かじ」と変化したといわれます。それが「鍛治」という字を当てて、「鍛冶」と同じ意味を持たせることになったというのでしょう。いつしか混同されたまま使われてきたということのようです。これは別の話題ですから、ここで止めておきます。(いつの日か、もう少し掘り下げて書いてみたいと思う)

 コラム氏は、ニスイがサンズイになったままで印刷され公刊されたと詫びられているのです。「 執筆者による変換ミスの見落としが、いろいろなチェックの目を擦り抜けてそのまま紙面に出てしまいました 」当然、使いたい漢字を、気づかないままで似通った字を使い、それを本来なら発見・指摘してくれると期待されている「校正係」までが見逃し、さらに、…と、「誤用」のママで公刊されてしまったのです。活字になったのを見て肝を冷やされたから、三日後に「訂正とお詫び」をされたのでしょうか。誤りは人の常、でも「過ちを改めるのは、早いに越したことはない」と「論語(学而)」は言います。「子曰。君子不重則不威。學則不固。主忠信。無友不如己者。過則勿憚改。」現総理もまた「君子にあらず」ですから、「君子」に準(なぞら)えていってみても始まらないのは確か。まず、彼は「間違い」を認めない。自分は正しいという「嘘」の一点張りです。馬鹿に付ける薬はないし、無能と来た日には、何を言っても無駄。選挙で変えるほかに手はないのです。

 どんなに注意していても必ず間違いはある、それを承知して文章を書き、活字にするしか仕方がありません。間違いが皆無であることを求めて、しかし、必ず誤りはあるという結論を受け入れるのです。ぼくは本を出版することはあまり好みませんでした。それでも物好きと言われそうで気が引けるのですが、10冊に及ぼうかという無駄本を書かされました。内容の如何を問わないでいえば、誤字脱字「ダラケー」というとんでもない事態になりました。後悔というのか、いまさらに恥じ入っています。校正は二度三度と行ったし、それに腕利きの編集者もいたにもかかわらず、間違いは防げませんでした。まあ、あんまり気にしない方ですから、如何(どう)ということもありませんでしたと、済ませておきたいのですが、なかなかそうはいきませんで、まことに「後味」の悪いこと、おびただしいものがあります。本を出すことは、ぼくにとっては「恥をかく」ことと同義でした。

 「水や空」というコラムは愛読しています。今回の内容に関しては(可もなく不可もなし)と、偉そうに言っておきます。つまりは扱うテーマ(主題)が、そもそも「コラム」の記事に馴染まないということが第一の理由です。ごまかしや嘘八百を垂れ流し、一日でも長く「権力の座」にしがみついていたい、それだけしか眼中にないような気の毒な人物が主役なら、どんなに名人上手が書いたところで、「様」にはならない。記事にしていい話題と、してはならないテーマははっきりと存在していると、ぼくは改めて、他人の記事を読みながら納得したのです。「以て他山の石とすべし」と言っていい場合でしょうか。それとも、書いても碌な記事にはならないのだから、書くのは無駄と切り捨てるべきだったか。

 そもそも、国難とか何とか言われている最中に、何をするためにのこのこ出かけたのかしら。時の総理大臣が「頓珍漢」であっても結構ですけど、困るのは下駄を預けている人民だとするなら、即刻退場を願うほかはないではありませんか。頓珍漢なうえに、人間が「唐変木( bigot)」と来た日には「目も当てられない」とはこのことでしょう。自省や自覚が働かない人が、世の中にこんなにたくさん、しかも枢要の地位を占めているとは、驚天動地であり、頓珍漢山の唐変木満載ですね。自分の名誉や地位を守るためなら、会社であろうが、組織であろうが、果ては国家だって、売り飛ばすのですから、実に見上げたもんです。五輪もワクチンも、すべからく自らの餌食にしてしまうという「破天荒」。なんともはや、言葉を失います。_______________________

 

 何時でも何処も、子どもは世の光なんだ

<コートジボワールの地方の農村で、ソーラー・リュックを背負って歩くマリー・フランスさん(右)と姉>(2018年9月17日撮影)。(c)Sia KAMBOU / AFP)

西アフリカのコートジボワールで、子供たちが、バックパックにソーラーパネルが付いた「ソーラーパック」を背負って通学している。

電気が通っていないへき地で、夜でも、子どもたちが自分の宿題をするために必要なLED照明の電源を賄うためだ。勉強する時間を確保することで、学力の向上を目指す。

片道1時間かけて通学する間、バックパックについたパネルに蓄電、夜はUSBケーブルのコンセントを通じて電池に接続、LEDランプを3時間使うことができるという。

以前は鞄の代わりに米袋やプラスチックバッグを背負って通学していた子どもたち。鞄を持つ余裕もなかった。コートジボワールの少女たちの教育支援団体「イオ・ゾーン」が、ソーラーパックを提供するための基金を創設。日本円で1つ約2500円のソーラーパックを生徒たちに配った。

アルジャジーラ英語版によると、この鞄を製造した「ソーラーパック」創設者で、コートジボワール人のエバリスト・アクミアンさんは2015年、自分の車が日没後に故障した際、子どもたちが家に帰っているのをみて、通学用のソーラーパックを考案したという。

AFP通信によると、ソーラーパックはマダガスカルやガボンなどですでに販売され、5万5000個に達しているといす。アクミアンさんは高まる需要に追いつこうと、国内に製造工場を設立し、さらに生産できるよう、援助や融資を求めている。(https://www.huffingtonpost.jp/2018/11/17/ivory-coast-solarpak_a_23592552/)(2018年11月18日 )

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 教育を受ける権利、これを高らかに、あるいは誇らしげに「宣言」しているのは(憲法制定当時は、多くの方面からそのように思われていた)、なにもこの島の憲法だというだけではなく、子どもがいる場所では当たり前の「子どもの権利」なのだということを示しています。その言わんとするところは、生まれたものはすべからく、教え育てられる「介助・介護」を必要としているのであり、年長者はその「保育や養育」の任務(責任)を子どものためにこそ果たすべきであるし、そのような立場に自らを置くことを期待されてもいる、またそのようにすることが求められていもいるのです。

 もちろん、「子どもの権利」というだけで、それが実現できるわけではありません。言葉だけでは話にならないのであって、それを政府や親をはじめとする、子どもの成長に関心を持ち、それを保障する立場にある人々に課せられている(と認められた、とぼくは言いたいんです)「義務」が確実に遂行されて初めて子どもの権利は成就されるのです。子どもは誰かの所有物なのではなく、その集団社会の「宝」であり「光」なのだと、そんな意識を持てるならいいのになあ、というぼくの強い願いでもあるのです。生まれてきたのは何かの因果でしょうが、生まれた以上は、他者に対する、その程度の敬いの心を持ちたいではないですか。

 数年前から、この「ソ―ラーパック」は注目されていましたが、実際には、驚くばかりの「光明」になっている地域や受益者がいるのです。電気がすでに当たり前に使われている社会と、それを自分の側の余力で生み出して使う社会、そこには何という差があるのでしょうか。一人一人が「良心の電力会社」みたいですね。

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  エバリスト・アクミアンさ んは言います。<コンピューターを販売していたエバリスト・アクミアン(Evariste Akoumian)さんが2015年、ソーラー・リュックのアイデアを思い付いたのは、夜が近付く中、スブレ(Soubre)近郊で車が故障してしまった時だった>

「ちょうど、子どもたちが学校から戻ってくる頃だった」と、アクミアンさんは振り返る。「子どもたちが勉強できるよう、明かりをつけなければ。地方の子どもたちが、明かりがなくて勉強できないことが普通であってはならないと思った」「地方の子どもたちは貧しい。コメの袋やプラスチック袋を通学バッグ代わりに使っている」とアクミアンさんは言う。「リュックサックに太陽光パネルを付けて、通学用バッグにすれば一石二鳥だと思った」(https://www.afpbb.com/articles/-/3196543?pid=20645660))

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 子どもは「希望」であり、「光」でもあります。さらに言えば、子どもという存在は、大人たちの「過去」でもあり「未来」でもあるのです。面倒なことは言いませんけれども、子どもが「生まれてきてよかった」という思いを一瞬でも抱けるような、信頼に足る生活の基盤を築いていく仕事(役目)が大人たちに期待され、求められているのです。その役割を果たしたものは、教師と言っていいでしょう。

 ソーラーパックで車を走らせることはできないし、エアコンを稼働させることもできない。あるいは湯を沸かすことも、洗濯機を回すこともできません。それはあたりまえです。しかし、目の前を照らす、足もとを明るくする、本を読む、そのような必要を満たす光明にはなる。これ以上の機能を望むならば、それはまたもう一つの、これとはまったく別種(自家発電なんかでは追っつかない)の生活を求めることになるでしょう。現代社会に生きているぼくたちの感覚から言えば、アフリカの子どもたちは豊かでないかもしれません。しかし、都市化された「文明の最果て(終夜たがわず、煌々と灯りが点いているのを不思議と思わない)」のような生活から見れば、ぼくには、そのような生活(歩きながら発電した「光」を使うような)は、かえって人間の生きる方向としては誤ってはいないと思われるのです。ぼくたちはどこでまちがえたのか、そのターニングポイントを明示してくれているようにも受け取られるのです。

 彼や彼女たちは貧しいのではない。彼らを見て、自分の方が「豊か」だと思い込む方が貧しいのではないでしょうか。豊かさというのは、物品で満たされることでもなければ、好き放題の贅沢ができることを言うのでもないのはわかっている、そのようにぼくたちは思いがちですが、どうでしょうか。豊かさは、どこかに貧しさを秘蔵しているのです。貧しさが密着しているといってもいいでしょう。「貧しさを断ち切れない」、そんな不安から逃れるための足掻きのうちに、「豊かさ」という物性が忍び込んでしまうのでしょう。貧しさをしこたま抱え込んだ上での豊かさだとするなら、豊かになるというのは、価値のあることですか、そんな疑問ともつかない心持が消え去らないのです。

 (弁解がましくなりますが、この駄文は文明論でも教育論でもありません。「文明と文化」という、いつに変わらずぼくたちに差し迫っている課題を考える、大いなるヒントになると愚考したから、「充電しながら歩く子どもたち(人たち)」を例示したにすぎません。「歩くとは考えることだ」というのに加えて、さらにその上を行くであろう「歩くとは充電することです」という教えを認めたくなったのです。それはまた、「電力」の充電だけではないのは言うまでもありません。あるいは、これからぼくも、「一日漫歩(万歩)」の際に実践したくなったといいますかね)

 (本日は午前中に所用ができ、それが終わるまでに少しばかり時間が空きました。どこかでやり過ごそうと考えたのですが、読むための本ももたず、眼鏡(老眼鏡)も忘れたので、じゃあ「歩こう」という気になり、なんと三時間半ほどあちこちを歩きました。これだけ歩けば、かなり「充電」できるだろうなあと考えながらの彷徨(うろつき)でした。途中で喫茶店が見えたので入りましたよ、店名はなんと「あるく」でした。JR外房線の新茂原駅前にありました)

 この「歩行の流儀(歩くとは充電すること)」もまた、ぼくがひそかに描いている「飛ぶ教室」の一要件となり、その特徴をなすものかもしれません。

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