旅に病んで夢は枯野をかけ廻る

 【北斗星】江戸後期の紀行家・菅江真澄の旅日記「雪の秋田根」には、森吉山に登った際、灯火用の「竹」を切る人たちの小屋を見掛けたことが記されている。本紙に「菅江真澄 旅の伝記」を連載したドイツ文学者の故・池内紀さんによると、この竹はネマガリダケだ▼「乾燥させると軽くて持ち運びしやすく、油を含んでいて燃えやすい」ため、鉱山の坑道で「灯(とも)し竹」として重宝された。煙が出にくく、においがしない点も灯火とするのに適しているという▼ネマガリダケといえば、何といっても山菜として食すのが一番。用事のついでに秋田市の秋田市民市場へ立ち寄ったところ、まだ早いと思っていたネマガリダケのタケノコが並んでいた。山形県の羽黒山の産と表示した店もある。南の地方からシーズンが到来しつつあるのだろう▼値は張ったが食い意地は抑え難かった。早速、みそ汁にして味わった。独特のだしと歯ごたえ、香りを楽しみ、山の恵みに感謝した▼県内のタケノコ採りが本格化するのは大型連休が明けるころか。今から山に出掛けるのを楽しみにしている人は少なくないだろう。自分で採ったばかりのものを食べる時の満ち足りた喜びは何物にも代え難い▼一方で毎年心配なのが山菜採りの遭難だ。クマ被害も何とかなくせないものか。ネマガリダケが大好物なのはクマも同様。タケノコ採りに夢中になっているうちに鉢合わせしないよう、出掛ける前には人の存在を知らせる鈴などの用意を怠りなく。(秋田魁新報)(上の挿絵は真澄筆)

 昨日の駄文で「ノマドランド」という映画について触れました。定住ではなく漂泊、というよりは移動生活を送りつつ、新たな生活のスタイルを作り出している現代アメリカ社会の一面を描いたものとして、大きな評判を呼んでいる映画です。そのことに触れつつ、定住がまっとうな生き方だとする時代や社会の表側に背を向けながら、裏側に生きるかのように漂泊・放浪の人生を送った幾多の人々をぼくは思い出していました。おそらく数十人を数えるでしょう。その中でも特筆すべきは菅江真澄でした。彼についてはどこかですでに駄文を綴っていますが、今一度、真澄について書いて見たくなったのです。(真澄絵による「ナマハゲ」 →)

 菅江真澄の略歴については、下記の事典の記述を一瞥すればおおよその軌跡が辿れます。三十歳ころに郷里を出、七十六歳だかで秋田は角館で亡くなった。およそ半世紀に近い年月を異郷の地に送り、再び故郷に戻ることはなかった。旅立ちというよりは、故郷出奔とでも言いたくなるような出立でしたが、なぜ異郷の地に生涯の大半を送ったのか、その理由を真澄は書き残していないし、あるいは、最初からこのような生涯を生きるとは考えていなかったとも思われます。ぼくが若いころから親しく読んできた柳田国男さんにも真澄について書かれたものが何編かありますが、その一つの「真澄遊覧記を読む」に、次のように自らの師匠ともいうべき真澄を評しています。「天明8年といえば江戸でも京都でも、種々の学問と高尚なる風流とが、競い進んでいた新文化の世であった。然るにそれとは没交渉に、遠く奥州北上川の片岸を、こんな寂しい旅人が一人で歩いて居たのである。」このように書いた柳田さんは「菅江翁の淋しい一生」という評価を下しています。

 果たして、「淋しい一生」であったかなかった、誰にも分らないというほかありません。「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」と芭蕉は詠じました。でも、彼には還るべき家があったし、待ちわびている仲間もいた。菅江真澄一人は、還るそぶりも見せず(だったと思われます)、あるいはついつい旅先に長居してしまったという感覚ではなかったか。恵まれた境遇であり、教養人として漢学詩文絵画などをすでに学んだ挙句の故里脱出でした。一人の教養人が、何を好んで旅に憑かれ、ついには異郷の地で果てることを願ったのか。もちろん、菅江真澄は「ノマド(遊牧民)」だったとは思いません。しかし、生まれ故郷に錦を飾ることもできた環境にあったろうし、あえて家を出る必要もなかったというのは、赤の他人の干渉であり、感傷でもあるでしょうか。ここにもまた、一つの生き方の流儀があったことを銘記しておきたいのです。

 これもすでに亡くなってしまった高橋竹山を想起しています。ぼくは彼のライブを何度か聴いた。語りも三味線も、すべてが「旅という修行時代」に学んだ彼の至芸であったと思われます。石もて追われるような修行の話は、何度聞いても目頭が熱くなりました。差別や排除に負けないだけの至芸を竹山一代で築いたのですが、それは筆舌に尽くせない物語(人生)でもあったのです。竹山が漂泊の人でした、と言うにはあまりにも偏り過ぎているでしょう。でも、生まれた家に育ち、故郷を磁場にして生きる定住の人生が「正統」だとみなされる時に、それを外れた生活や人生は、世間からは「疑い」「非難」の対象になるのは避けられなかったでしょう。「三界(さんがい)に家無し」と言ったのは誰だったか。また「女、三界に家なし」とも誰かが言いました。そうじゃなく、すべからく衆生が身の置き所はどこにもないという意味ではなかったかと、ぼくは考えたりしています。

 真澄や竹山という傑出した才芸や教養を持たないままに「旅に病んだ」あるいは「旅に已んだ」無数の漂泊者がいたことは事実です。彼らは記録を残したわけでもなく、あるいは生きた証を刻んだこともなかったでしょう。でも確かに、異郷の地を歩き、また異郷の地で死に至った人生も、一つの人生であるという思いを、ぼくは強烈に感じるのです。これは決して感傷などではなく、生きるも死ぬるも、人それぞれであり、それぞれの人生に哀歓が点滅するのでしょう。いずれどんな人もきっと「無縁仏」となって、今生からは忘却されてゆくのです。

 どんな人生も、きっと「旅人」なのでしょう。また芭蕉ですが、「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして 、旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり」という。ここにもまた、旅にあこがれた一人の俳人を見ているのですが、それはまたすべての「一人の生涯」でもあるとも、ぼくは愚考している。「月日は旅人」「人もまた月日なり」と言えば、言えるのです。

 旅に病んで夢は枯野をかけ廻る (芭蕉)

 人生そのものが「旅」なのだという感覚がぼくには強くある。だから「旅の恥は掻き捨て」と言うつもりはありません。何処に生まれようが、それは「途次」だということです。ほんの数十年の間、この旅先で暮らすのが人生の真髄であり、それには「ノマド」のようなというか、余計な荷物は持たない生き方(ハウスレス)がいいに決まっていると。地位も名誉も、もちろん家も土地も、それらすべて「余計なもの」です。せいぜい「旅に病んだ」時に、余計なものに存念を残さないためにも、身一つ(裸一貫)という出立(いでたち)が最良じゃないでしょうか。

###

○ 菅江真澄すがえますみ(1754―1829)=江戸中期の国学者、紀行家、民俗学者。本名白井秀雄。三河国(愛知県)岡崎か豊橋(とよはし)付近の人。菅江真澄を称したのは、晩年秋田に定住してから。賀茂真淵(かもまぶち)の門人植田義方(うえだよしえ)(1734―1806)に国学を学ぶ。各地を旅行して、庶民生活と習俗を日記と図絵に記録した『真澄遊覧記』50冊余(1783〜1812)は、近世の民俗誌的価値がきわめて高い。真澄は、1783年(天明3)30歳で旅立ち、信濃(しなの)、越後(えちご)、出羽(でわ)を経て津軽に入り、1788年松前に渡った。その後、下北(しもきた)に3年間滞在し、津軽では各地の文人・医師らと交わった。この間、弘前(ひろさき)藩の採薬掛となり、山野に入って薬草採集を行った。一方、秋田藩の地誌の編集にも従事した。津軽関係の著作としては『津軽の奥』『外浜奇勝』『津軽のをち』、南部(なんぶ)関係では『奥の浦うら』『おぶちの牧』『奥のてぶり』、秋田関係では『月の出羽路』『花の出羽路』などが代表的である。これらの紀行文によって、当時の各地の年中行事、伝承習俗や庶民生活の実際を詳しく知ることができる。秋田仙北(せんぼく)郡角館(かくのだて)で没し、秋田の寺内に葬られた。(日本大百科全書(ニッポニカ)の解説)[長谷川成一 2019年2月18日]『内田武志・宮本常一編『菅江真澄全集』12巻・別巻1(1971~1981・未来社)』▽『内田武志・宮本常一編・訳『菅江真澄遊覧記』全5巻(平凡社・東洋文庫/平凡社ライブラリー)』▽『柳田国男著『菅江真澄』(1942・創元社)』

○ 高橋竹山(一世)=[生]1910.6.17. 青森,平内 [没]1998.2.5. 青森 津軽三味線奏者。本名は高橋定蔵。はしかが原因で2歳になる前に半失明。小湊尋常小学校に8歳で入学したものの数日で登校をやめる。 14歳で盲目の門付け芸人に弟子入りし,三味線を習う。2年後に独立してからは単独で北海道を中心に門付けして歩いた。第2次世界大戦後,津軽民謡の実力者,成田雲竹から声がかかり,三味線伴奏者として活動し,雲竹から竹山の名をもらう。独学でマスターした尺八でも津軽民謡の普及に貢献。 64年雲竹の引退を機に独奏者の道を進む。 73年からは東京・渋谷の小劇場「ジァン・ジァン」での定期公演を重ねながら演奏に工夫を加え,三味線を従来の伴奏楽器から独奏楽器へと高めた。 74年には日本民謡協会から名人位を贈られた。『自伝・津軽三味線ひとり旅』 (1975) は吉川英治文化賞を受賞。(ブリタニカ国際大百科事典)

________________________________________

投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。