ノマドランド、ここに「移動するホーム」があった

 【コラム・天風録】現代のノマドたち 観光地で休暇を楽しみながら合間にテレワークする「ワーケーション」は、今どきの働き方のお手本とされる。ただ、オンとオフの切り替え上手は少数派のよう。コロナ禍でも定着しそうにない▲一方、米国ではリーマン・ショックの頃から「ワーキャンパー」が増えているという。住宅ローンや家賃が払えず、キャンピングカーで移動しながら働く。かつての遊牧民になぞらえ、「現代のノマド」とも呼ばれる▲「ハウス」すなわち住む家はなくても「ホーム」つまり自分の居場所ならある。そんな自由気ままで誇り高い車上暮らしの人たちを描いた映画「ノマドランド」が前評判通り、今年の米アカデミー賞作品賞に輝いた▲メガホンを取った中国出身のクロエ・ジャオさんは白人以外の女性で初の監督賞も射止めた。ほかにも助演男優賞は黒人、助演女優賞は初の韓国人に。いわれなき差別に今も苦しめられている各地のマイノリティーの人たちを勇気づけたことだろう▲現代のノマドたちも格差社会の象徴。だが、大半は白人で、非白人はほんの一握りだそうだ。キャンピングカーにもワーケーションにも無縁の最貧困層の人たちの存在を知らしめる映画でもある。(中国新聞・ 2021/04/27 )

 【余録】 遊牧民を表す「ノマド」がポストモダン思想のキーワードとして注目されたのは1980年代だった。仏思想家ドゥルーズらは、画一的・閉鎖的な定住民とは対極的な思想や生き方を示すのにこの言葉を用いた▲ノマドロジーとは権力のくびきを脱し、あらゆる境界を自在に超えて多様性を生きる新時代の思想を表していた。だがその思想的未来像は、グローバル経済が人々を故郷から切り離し、世界を放浪させる時代の到来とも重なっていた▲それから数十年、グローバル経済はその本拠の米国でもかつての中間層を分解させながら、周縁部に放浪の民を作り出している。今日、ノマドとは車上生活をしながら、季節労働の仕事を求め移動をくり返す米国の高齢労働者をいう▲中国出身のクロエ・ジャオ監督の映画「ノマドランド」が米アカデミー賞の作品賞や監督賞を受賞した。金融危機の影響で住み慣れた家を失った60代の女性のノマド暮らしと、他のノマドとの交流を描いた異色のロードムービーである▲住宅ローンの破綻や製造業の海外移転で急増した米国のノマドだった。彼らは「定住」を破壊したグローバル経済の被害者だが、出演した実際のノマドたちの言葉は誇り高く、誰にも優しい。21世紀のノマドロジーとでもいえようか▲「この賞をお互いの善意を保ち続ける信念と勇気をもつ人たちにささげます」。むろん出身国で非愛国者呼ばわりされるジャオ監督自身もノマドである。現代文化の沸騰点を指し示す今年のアカデミー賞だ。(毎日新聞・2021/4/27)

(原作者・ジェシカ・ブルーダー)

 【筆洗】 映画館では、耳をそばだてることにしている。上映中ではなく、終映後のロビーで聞き耳を立てる。悪趣味は分かっているが、同じ映画を見た他の人がどんな感想を持ったか知りたい▼先日は四十代ぐらいの女性お二人が今終わった映画について語っていた。「もう少し年を取ったら、こんな生活もいいかも」。別の女性は「絶対にいや!」。映画は今年の米アカデミー賞作品賞に選ばれた「ノマドランド」。独特な映像美とそこに巧みに織り込まれた米国の「今」。順当な受賞だろう▼経済的な事情で家を手放し、車で旅をしながら生活する六十代女性の話である。米国にはこうした暮らしをする人が増えていると聞く。仕事は移動先で見つける▼頼りない浮草ぐらしをつい想像してしまうが、そうではなく、主人公はその生活の中から前向きに自然や国を見つめ直そうとしている。ノマド同士の助け合いもある。その暮らしにロビーの二人の女性の意見が分かれたのはもっともである▼「ホームレスじゃない。ハウスレスなの」。そんな主人公のせりふがあった。「ハウス」という建物はないが、「ホーム」という「人間的な営み」はあると言いたいのだろう▼車上生活には苦労もあれど、その旅と「ハウス」での決まり切った生活とどちらが人間的か。息苦しいコロナ時代だから、なおさら共感が広がったところもあるのだろう。(東京新聞・2021/04/27)

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○ 物語:家を失った女性は、キャンピングカーに人生を詰め込み旅に出た

ネバダ州の企業城下町で暮らす60代の女性ファーンは、リーマンショックによる企業倒産の影響で、長年住み慣れた家を失ってしまう。キャンピングカーに亡き夫との思い出や、人生の全てを詰め込んだ彼女は“現代のノマド(放浪の民)”として車上生活を送ることに。

過酷な季節労働の現場を渡り歩き、毎日を懸命に乗り越えながら、行く先々で出会うノマドたちと心の交流を重ねる。誇りを持って自由を生きるファーンの旅は、果たしてどこへ続いているのか――。

○ 監督:クロエ・ジャオ 役者から真実の演技を引き出す稀有な才能

映画ファンの間で傑作と称される「ザ・ライダー」の新鋭クロエ・ジャオが、監督・製作・脚本・編集を担当。本作が規格外である理由は、彼女の存在によるところが大きい。

出演者たちは、2人(フランシス・マクドーマンドとデビッド・ストラザーン)以外は“実際のノマド”なのだ。つまり演技素人の一般人。そんな彼・彼女らに、ジャオ監督は“自身のリアルな胸中”をそのまましゃべらせ、物語と調和させる手法を採用した。これによりフィクションとドキュメンタリーの境界を融解させ、映画という芸術の新たな側面を発掘したと言える。(以下略)(https://eiga.com/movie/93570/special/)

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 自宅から車で十五分ほどの隣町に映画館があり、そこに出向いて「ノマドランド」を観ようとはしているのですが、なかなか腰が上がらないうちに、今年のアカデミー賞受賞作品となった。世界に冠たる「映画賞」を受賞したから、この作品は素晴らしいというのではありません。そういうこともあり、そうでないこともあるというほかない。この作品が、悠久の歴史を持つ「ノマド(遊牧民)」の現代・現実の風景を描いたものであり、都市生活、あるいは資本主義という経済に至上の価値を置く社会の展望がまったく見失われようとしている時代と社会の周辺では、こんな生活のスタイルというか、生活の流儀が営まれているというところに、ぼくは、人間の新たな生きる道筋を見出したいような気がするのです。それはウキウキするようなものではないのは言うまでもありません。しかし、都市で暮らすのは無理であると考える人々の、もう一つ別の「ホームランド」として、このような生活のスタイルで自分を回復する人がいるのも否定できないと言えるでしょう。それはしかし、ことさらに何か目新しい生き方ではないというべきで、この島社会でも土地を持たない、土地に縛られない漂泊の生活をつづけた人々はいつの時代でもいたのです。

 定住と漂泊、古くは奈良時代から「公地公民」という軛の中で、土地に結びつけられて生きるのが本筋(正統)であった生活者から見れば、土地を持たないで、各地を転々とする存在は「異邦人(異端)」の如くに捉えられ、ある時期からは定住者によって差別の対象ともされてきた。現代の「ノマド」はどういう扱いを受けているのか。あるいは、この先、経済的な不況がさらに進行し、働き方が想定しないような過酷なものになりかねない状況にある今日、この島でも正真正銘の「ノマド」と言われる存在が生じてくることが予想されるのです。終身効用、年功序列、企業内組合という三点セットの「日本型雇用」はとっくの昔に破綻してしまいましたが、その後の新たな「働き方」を偽装した改革は「非正規労働」を合法化し、常態化させろような方向をたどっていますが、さらにその先には何があるのか、これまでに経験したことのないような過酷な労働状況が危惧されているのです。働くー金を稼ぐー生活を営む、そのために家族を持ち、一家を構える、世代間の交流が恙なく行われてゆく、こんな当たり前にみられていた生活の形(展開)が、今は崩れかかっており、その先に明るい曙光がさしていないのが大いに不安を掻き立てもするのです。

 そのような不分明な社会経済労働環境にあって、「ノマドランド」はぼくたちに何を示しているのか、アメリカ社会の現実を活写した一面でもあるだけに、他人事として看過することが出来ないようにも思われてくるのです。土地を持ち家を持つというのは、一面ではいつでも帰る場所(拠点)を確保するということになりますが、反面ではそれらを所有することによって、必要以上に呪縛されるという危険性をも持つことになります。無所有ということは無理だとしても、自由に(束縛されないで)、生きる姿を求める時、その一つが「ノマド(的)」なものであるのは大いにありうる姿でしょう。

 これを書いている瞬間に、この島でも古い昔から、旅の芸能者や旅回りの芝居集団、あるいはサーカスなどの興行一行など、相当数の「ノマド」と言えなくもない人々の集団があったことを思い出しています。一年の内、相当に長い期間を旅に過ごすのが当たり前の「生活の流儀」を形成していたのです。あるいはもっと新しいところでは、漂泊の俳人や詩人・歌人などの文芸に生きた人々、さらには脱俗の僧侶・出家者などにもかなりの数の漂泊者がいた。それらが、すべて「ノマド」と言えるかどうか、それには「ノマド」を限定(定義)する必要があるのでしょうが、ぼくはそんな難しいことを考えているのではない。生まれて生きて死ぬ(生老病死)という、生涯のサイクルをどのように送るかは、おのずから「産み落とされた」時代や社会の規定を受けるのは当然です。しかし、そこから意図して外れるような人生のスタイルを求めることもあって当然であり、またそのような生き方を求めた人が存在していたのも事実なのです。この問題についていろいろなことが考えらますが、実際に「ノマド」を鑑賞した後でゆっくりと愚考したいと思う。

 各地の新聞のコラム氏が、同時に同じ主題(テーマ)扱うのは珍しいことではないし、それがいろいろな意味で注目に値する事柄ならなおさらその傾向が出てくるでしょう。今回の「ノマドランド」を扱ったコラムは、ぼくが見た(管見の)限りでも五つも六つもありました。それだけこの島のコラム氏(記者)は「映画好き」だということでもあるし、そのような「通人」が紹介するのですから、きっとその「映画」は映画館に足を運ぶ値打ちがあろうというものです。ぼくは映画に関してはまったくの無関心派でしたし、今でもそうです。これは生涯の不幸・不覚であったと、これだけには後悔の想いがしきりに疼くのです。この映画はぜひ観たいと思っています。

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。