【余録】熱い湯に「ぬるい、ぬるい」と競って入り、あまりの熱さに「口きくな」「動くな!」とそろってせっぱ詰まる江戸っ子である。そのやせ我慢(がまん)や意地っ張りは「強(ごう)情(じょう)灸(きゅう)」はじめ落語の笑いの源泉となってきた▲明治の新作落語「意地くらべ」も、借金の貸手と借り手がそれぞれ勝手な理屈で意地を張り合うのがおもしろい。その中に出てくる「ネズミの懸賞」とは、当時の東京市が行ったペスト予防のためのネズミの買い上げのことだという▲参考にさせてもらった「web千字寄席」によれば、この施策もむなしく当時の東京ではペストの流行で300人以上の死者が出たという。意地っ張りの落語にも刻まれている江戸―東京の感染症とのたたかいの歴史の一こまである▲「大衆娯楽である寄席は社会生活の維持に必要なものだ」。こう緊急事態宣言下の営業継続を表明した東京都内の寄席4軒と落語家の団体である。もちろん感染対策をとったうえで、芸人らの窮状を背景に投げた意地の一石だった▲これには政府の担当相が再考を促すなど、批判の声が出たのも当然だろう。だがこの江戸っ子譲りの強情、落語ファンの支持ばかりか、政府のコロナ対策への不信や不満も取り込んで予想を超える応援の盛り上がりを見せたのである▲日ごろ落語にお世話になっている小欄だが、今はやはり人出の抑制を求める専門家に従いステイホームをおすすめするしかない。ただ、いつか誰かがとびきりの人(にん)情(じょう)噺(ばなし)にするかもしれぬ令和の「強情寄席」だ。(毎日新聞 2021/4/28)

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○ 古今亭志ん生(https://www.youtube.com/watch?v=3YPwfwVM7ro)
▼ 5代・古今亭志ん生(1890―1973)=本名美濃部(みのべ)孝蔵。2代目三遊亭小円朝に入門して朝太。円菊、馬太郎、武生、馬きん、志ん馬と改名し、講釈師で小金井蘆風(ろふう)、落語に戻ってまた幾度も改名し、7代馬生を経て1939年(昭和14)志ん生を襲名。『火焔(かえん)太鼓』『お直(なお)し』『三枚起請(きしょう)』『唐茄子屋(とうなすや)政談』など演目も豊富で、独自の天衣無縫ともいうべき芸風により、8代目桂文楽とは対照的な昭和落語の一方の雄であった。残された録音も多く、青壮年時代の貧乏暮らしと酒を愛した生涯は『なめくじ艦隊』『びんぼう自慢』などの自伝に詳しい。長男が10代目金原亭馬生(1928―82)、次男が古今亭志ん朝(しんちょう)(1938―2001)。[関山和夫]『五代目古今亭志ん生全集』全8巻(1977~84・弘文出版)▽『これが志ん生だ!』全11巻(1994~95・三一書房)』日本大百科全書の解説)

○ 古今亭志ん朝(https://www.youtube.com/watch?v=MZboQrpu9Vg)
▽古今亭志ん朝[1938~2001]=落語家。3世。東京の生まれ。本名、美濃部強次(きょうじ)。5世志ん生の次男。10世金原亭馬生の弟。入門から5年という異例のスピードで真打に昇進。明快、軽妙な語り口で人気を博した。得意の演目は「居残り佐平次」「愛宕山」「文七元結(ぶんしちもっとい)」「暁烏(あけがらす)」など。(デジタル大辞泉)
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親子共演・競演です。お二人とも、すでに鬼籍に入られていますが、今聞いても「笑えます」といえるのは、なんともありがたいことです。ぼくは京都時代にも落語をよく聴きました。ほとんどがラジオでしたね。ラジオが新聞やテレビの役割を果たしていました。そのラジオでは浪曲や歌謡曲なども、時代の歩調にあった加減で、よく耳にしたのでした。もう七十年からの時間が経ってしまいました。何もない時代、まことに貧乏な時代でした。「贅沢」という言葉さえ知らなかったほどです。でもその「貧乏」が苦にならなかった。それは、多くの人々の生活のスタイルでしたから。それ以上に、何もないことの埋め合わせに楽しみや喜びの種を何かと撒いたものでした。
よく世間では「だれそれの不遇時代」「なんとかさんの雌伏の時」などと言って、いかにもその後の名声や地位を高からしめんがための演出のように、「恵まれないこと」をことさらに強調する向きがあるようですが、ぼくはそんな物言いは好まないし、ぼくは「不遇」も「雌伏」も、ただの一度だって感じない(経験しない)ままで歳をとってしまいました。今風の「浦島太郎」です。「中からぱっと白煙」、人生というのは、きっとこんなものかもしれないと思ったりします。苦労は思い出すと「楽しさ」に変換さるのですかね。「若い時の苦労はカネを払ってでもしろ」とよく言われたものでした。金言じゃないですか。

志ん生さんの生涯といったら、それこそ「貧乏」が「座布団の上で話をしてる」ような生き方ではなかったか。彼はよく、その「貧乏」をネタにした「まくら」を振っていました。落語家になったのはいいけれど、なかなか評価されず、くさった時(不遇時代というのかしら)もあったようだし、縁起を担いで改名を何度も繰り返した。しかし、ここが肝心なところであり、ぼくはとても感動しながら受けとめたのですが、どんなに貧乏を余儀なくされても、志ん生さんは「とにかく落語が好きだった」と言われているところです。「稽古だけは怠らなかった」とも。
圓生さんといっしょに満州まで落ち延びていった。仕事もなく、銭はなくなり食うものにも困ったという。ある時など、道端で残飯をあさっている野良犬を脅かして、その残り物を二人で食べたと、実に愉快に話すのです。一つの語り物になっていました。見事な落とし噺でした。可笑しいと言ったら、今でもその光景を目に浮かべられるほどです。ぼくは今でいう「ライブ」では一度も。志ん生さんを聴いたことがなかったにもかかわらず、志ん生の話が記録され、残されたということをこの上なく喜ぶのです。おそらく聴ける範囲の落語をはじめとする「語り」はすべて聴いたと言っていいでしょう。(どこかで触れた、今は亡き友人の芸能プロデューサーだった麻生芳伸さんは、若いころに都内日暮里の志ん生さんの家に伺って話を聞いたと、ぼくに愉しそうに語ってくれました。そのお土産という志ん生さんの普段そのままを切り取った「写真」をもらって、今でも飾っては、折りに触れて眺めているのです)(「落語について」、「志ん生親子三人について」は別の機会に)

現下の島の状況には「人情味」も「滑稽さ」も、微塵も感じられないのはなぜなのか。人間全体が利己主義に偏り過ぎているということが一つ、加えて、だから社会に余裕がなくなったという場面にしばしば遭遇します。「自分さえよければ」「今さえ満足するなら」「何は無くても金が第一主義」横行などなど、気が滅入るほどの幻滅を味わう羽目に陥っているのです。あるいは、それは同時に「笑いの消滅」を意味することにもなるでしょう。学校を核とした、「不真面目撲滅」運動が強烈に展開された結果でもあります。ぼくなどは「撲滅の大将」になって来たと、誇りを持ってではないけれども、言いたいのです。
「惚れて通えば千里も一里 長い田んぼも一跨ぎ」と、何も知らないままで、志ん生に教えられました。「何事も惚れなきゃ」「ほれるってえのは、なんだよお、銭金なんかじゃないんだぞ」「(人間であれ、物であれ)好きになるって、大変なんだなあ」というてつがくとでもいう真実です。「惚れて通えば千里も一里、逢わで帰れば、また千里」というのは、その裏返し。「惚れた数から、振られた数を、引けば女房が、残るだけ」というのはどうでしょう。ぼくには足し算も引き算もいりません、実に単純な暗算ですから。こんな粋な、粋にすぎる「都都逸」は、学校では絶対に教えてくれない。あえて表現すれば、真面目というのか、くそ真面目というのか、遊びも余裕もないことおびただしいね、学校という「寄席」は。そんなつまらない授業は「よせっ」といいたくなりますよ。今は跡形もなくなった本物の「寄席」は、ぼくのもう一つの学校、そうです、「飛ぶ教室」です。
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呑み屋では酒を提供するなという、こんなふざけたことが真顔で語られているのです。コロナ禍のA級戦犯は「呑み屋」だといわぬばかりの悪ふざけだし、そのふざけ方が半端じゃないんですね。思わず「ふざけるな」と言いたくなります。「酒を出すな」と言えば、恐れ入るだろうと思う、その根性が薄汚いし、腐った権謀のふりまわし過ぎでしかないね。ぼくは二十歳を過ぎたころから、呑み屋にはずいぶんお世話になった。いわば「呑み屋が学校」(ぼくの「飛ぶ教室」)の部類でした。いいことも悪いことも、すべて呑み屋で学んだといえる。授業料は実に高かったし、奨学金(顎脚付きの奢り)は一円ももらわなかった。すべて自腹というのか、自分のなけなしの金で呑んだ。だからこその「酒のうまさ」だとも言いたい。ぼくの呑み屋哲学(というものがあるとして)、それはいつでも自分の金で呑むという一則です。これは大体守れたかと思う。もちろん友人にごちそうになったことは数えきれないけど、それには理由があったのです。(今はそれは言わない)(左上の写真は、二十数年「惚れて通えば」とぼくが日をおかずに通った呑み屋です、都内新宿)
「大衆娯楽である寄席は社会生活の維持に必要なものだ」というのはその通りと、もろ手を挙げて賛成とはいきません。まず「大衆娯楽」と言うには、あまりにも席亭が少ないし、あってもじっくりと話が聴けないのですから、きっと「大衆から遊離している」のが実情じゃないですかね。明治のある時期、あるいは昭和戦前期でも、東京の下町の、各町内には何軒もの寄席がありました。テレビが勃興してきて、寄席が駆逐されたのです。出かけなくて、店屋物で間に合わせるようなお手軽さが、長い修練や訓練の時期を奪ってしまうんですね。「流行り(売れっ子)は一時」を地で行くような時代の趨勢です。テレビ時代がやって来た当座、映画は斜陽産業だとされた。結果はどうか、いいものは廃れない。ダメなものはテレビでもダメと言う、当たり前の盛衰の運命ではないですか。

ホール落語も一時期は散見されましたが、いまでは残されていない、儲からないのか、とにかく消滅してしまいました。「寄席は社会生活に欠かせない」というのも、にわかに賛成できません。今東西で、落語家を名乗っているのはどれくらいの人数になるのか。詳しく走りませんけれど、相当の数になるはずです。落語はブームと言い、いかにも隆盛を誇っているし、時代の風に靡いていると、暢気にいっていていいのかしらと、ふとさみしくもなるのです。素人に毛の生えた(といういいかたは美しくありませんが)程度で、落語家はないでしょう。芸風が認められるのは、幾星霜も要するのです。
ものみな、促成栽培ばかりです。人間教育でも芸人養成でも野菜でも建物でも、なんでもかんでも、手間暇かけずにお気軽に。「早い・安い・不味い」、これが時代社会のキーワードですかね。だから、墜ちるんです。堕ちるところまで堕ちる。それは辛いことですけど、自分が蒔いた種は自分で刈らなければならないのも、薄情のようですが、ぼくたちが経験すべき掟です。コロナ禍は、稀に見る災厄であり、終わりがまったく見えてきません。だからこそというべきか、自分を鍛えるための時間を無駄にしたくないですね。

遊びは心の余裕、気持ちのゆとりからしか生まれませんです。真面目一辺倒は怖いというのが、ぼくのこれまでに学んだもっとも大切な「人間という学問の成果」です。学校はまじめを促したのですから、ぼくはその促しに反対して生きてきました。「勉強」は余裕(精神の豊かさ・ゆとり)を人間から奪う、遊びはその奪われた余裕を満たしてくれる小槌(こづち)のようなものです。落語を聴いて、遊びの心を育てたい。そのためにはいい噺家を必要とします。悪酔いは「安酒」からで、旨い酒(値が張るのとは違う)のではない)は悪酔いしません。落語は「落伍」に始まり、「落伍」に終わらないから面白いんですね。
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一度として学校では教えてもらえなかった、生きるための「遊びのすゝめ」「背伸びしてみた」粋な筋、四題。これを都では「都都逸」といったらしい。柳家三亀松師匠も、小学生のころから聴き続けてきました。
・白だ黒だと喧嘩はおよし、白と言う字も墨で書く ・どうせ互いの身は錆び刀 切るに切られぬくされ縁
・しめじ松茸舞茸えのき 恐いきのこは首っ丈 ・夢に見るよじゃ惚れよが足りぬ 真に惚れたら眠れない
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