【地軸】絶望を絶つ

「いくらでも下げる頭はあるけれど人手とベッドの両方がない」。大阪で新型コロナウイルス感染者の治療にあたる救急科専門医・犬養楓さんが詠む。31文字に緊迫の現場、当事者の苦悩が凝縮する▲今年の年明けまでの1年分、240首を収めた歌集「前線」(書肆侃侃房(しょしかんかんぼう))を刊行した。感染対策の長期化で注意喚起が響きにくくなる中、医療従事者側の声にならない声を率直な言葉にして発信する。言葉が持つ力を信じ、難局の打開につなげたいとの思いを込めて▲感染力が強い変異株の猛威で、列島のあちこちに緊急事態宣言が発令され、まん延防止等重点措置が適用中だ。大阪では重症病床が埋まり、事態は「災害級」に。あってはならないはずの医療崩壊が進む▲このペースでは1週間後には大阪と同じになりかねない―。松山市の3病院と県医師会が先週開いた会見は悲鳴そのものだった。県内入院者も初の100人台に突入。ここに至って病院側に余力が残されているはずもない。医療従事者と救える命を守るには、感染者を減らすしか手はないのだと胸に刻みたい▲間もなく大型連休を迎える。減少を確かなものにするには昨年の教訓をどう生かすかが肝心。いかに国民の心を我慢の方向で一つにできるか▲「赤信号点灯しても止まらないゴールテープのない持久走」犬養楓。医療現場の絶望を一人一人の心がけで絶つ、今度こそ確実なゴールを目指すときが来た。2021年4月27日(火)(愛媛新聞)
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「地軸」氏は「絶望を断つ」と書かれた。さて、そもそも「絶望」とは「望みがないこと」であるといえるなら、それを「断つ」とはどういうことになるのでしょうか。言わんとすることは分かりそうですけれど、「 医療現場の絶望を一人一人の心がけで絶つ 」と言われるとなると、どういうことだろうかと、改めて考え込んでしまうのです。「絶望するな」というのなら、そうしようという気になるのですが、「医療現場の絶望を一人一人の心がけで」という時、その一人一人とはだれを指して言われるのでしょうか。もちろん医療従事者を言うのは当然として、さらに、患者となった人もその「一人」に数えられるでしょうし、さらには、まだ感染していない「私」もまた、その一人に入るのでしょう。(写真左上は犬飼医師)
犬飼さんが出された歌集のタイトルは「前線」です。文字通り、医療現場の最前線ということでしょう。前線があるなら、参謀本部も当然ありますし、大本営もどこかにあるはずです。ところが、「緊急事態宣言」を発令した現在、この国には大本営も参謀本部もありません。いかにも首相官邸にありそうですが、見当たりません。何処にも責任者がいないのです。どこを探しても見当たらない。それぞれの担当者がそれぞれ勝手に言いたい事を垂れ流し、嘘八百を云い触らしているばかりで、責任感があるようなそぶりをしている人間はどこにもいない。なんとも奇怪な事態ではないでしょうか。確かに「前線」は劣島各地域にあり、その(窮迫)程度はまちまちです。敵の姿はっきり見えず、見ようともしない様子が明らかに見て取れます。この戦いはミサイルでも効果はないし、ましてや核攻撃も何の役にも立ちません。嘘も張ったりも通じない。

まさか、無手勝流というわけにはいかないでしょうが、ならば、またしても「竹槍」か、という疑問が出てきます。いやそれは疑問でも何でもなくて、せいぜいが「竹槍」程度の武器しかぼくたちは手にしていないのでしょう。待望していた「ワクチン接種」はいまだに先行きは不透明で、前方視界は不良を窮めています。ここにおいて「絶望を断つ」とはどういうことか、と改めてぼくは考え込んでしまうのです。持つべきは絶望ではなく希望だとでもいうのか。希望というと聞こえはいいが、絶望と五十歩百歩です。どちらも「無根拠」という点ではまったく同じなのです。

「前線」はまさしく防戦一方であり、それもあちこちで防御の陣地は破られています。遠くから、「死力を尽くす)「必ず戦いには勝つ」と、誰の声だか、思い出したように何かを叫びはするけれども、いっこうに何をするのか、何をしようとしているのか、判然としない。内閣はあって、無きが如し、担当大臣も一人や二人ではないのですから、始末に悪い。「船頭多くして、船陸に上がる」という惨状です。参謀本部も大本営もまったく形影すら見えないのです。死闘を繰り返しているのは「前線」のみ。その前線に連なるのは、民兵ならぬ、武器を持たない人民独り独り、です。実に不謹慎な比喩ですが、こうでもいわなければ、腹の虫も治まらないらないのです。

あちこちから不穏な報道ニュースが飛び込んできます。ワクチンは利かない、運ばれてきても、いつ接種できるのかわからない。いや、接種しても変異種のウィルスには効き目がない、インドでは異様な事態が発生している、それがこの島にも入ってきたなどと、これでもかといわぬばかりの「絶望的な知らせ」が届きますが、この島の愚劣極まるテレビや新聞は、「日常風景」を淡々と、何事もなかったかし、何事も起こらないかのように、時間を無駄にしてかつ電波をも浪費している。ただただ、ひたすら愚かな番組を消化しているにすぎないのです。
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各地の、特に大阪を中心とする関西方面では「前線基地」に異常事態が発生しています。医療現場の人員の補給もままならず、まったく見通しが立っていない。病院に入る必要があるのに受け入れてもらえない感染者、それも重症者が陸続と増大化してるのです。その反対に、国立病院や地域医療の中核を担う「公立・公的病院」は,積極的にコロナ感染者を受け入れているとは言えないといわれています。具体的な受け入れ人数は明らかにされていませんが、ある資料によれば、極めて限られた人数だということが記されています。

この島は「ただ今、戦時中」です。敵はどこに潜んでいるのか、あるいは自分の身の内にいるのかも定かではないのに、「闘い」だけは続けられている。誰もが戦地に駆り出されるし、銃後の「守備隊」も、決して安閑とはしておられないのです。「コロナに打ち勝った証」というのは、どこのどいつだか。
このところ、どこからともなくでしょうね、「トリアージ」という語が耳につくのです。いったいどうして、こんな言葉をこの時期に聞かなければならないのでしょうか。「命の選択」などと気軽に言ってはいないかもしれないのですが、実際にはそうしている(する)に違いはないのです。この責任はだれがとるのか、と今は問うまい。それは言わなくてもわかっているのですから。しかし当の本人たちは気付いていないか、気づかないふりをしてこの責任から逃げるのです。必ず、そうするはずです。この無責任の連鎖もまた、「敗戦時」にいやになるほど見てきた気味の悪い景色です。
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○ トリアージ(triage)=災害時など,医療資源に対して多くの傷病者が存在する場合,治療の優先順位に応じて医療関係者が患者を分類すること。一般に,治療しても救命の見込みがない者,治療しなくても生命に別状がない者,救命治療を要する者に分類する。救命の見込みのある重症患者を優先して治療することで,不要不急な治療に時間をとられることを避け,最大多数の人命を救助することを目的とする。かぎられた資源で多くの負傷兵に対応する野戦病院で始められ,今日では災害時や伝染病流行時,救急救命室などで行なわれる。優先度は短時間の診察で判定されるため,緊急性が低いと判断された患者は,状態を定期的に再確認する必要がある。日本においては,1995年の兵庫県南部地震の教訓から,災害現場などでトリアージの結果を示すトリアージ・タッグが定められた。トリアージ・タッグは患者の手首などに装着され,ひと目で医療関係者が判断できるよう,色によって以下の四つのカテゴリを示す。(1) 最優先治療群(重症群) 赤,(2) 待機的治療群(中等症群) 黄,(3) 保留群(軽症群) 緑,(4) 死亡群 黒。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説)
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