
つい数日前には近所の家に、例年のように二十メートル以上もあるような孟宗竹の棹に、いくつもの鯉のぼりがつながれて、勢いよく空に泳いでいました。今年はそれがなんと、二本もたてられていました。きっと新しい男の子が生まれたのでしょうか。昨日、車で通りかかったら、おじいさんらしい方がしきりに写真に収めていました。実に雄大なもので、敷地も田圃一反ほどもある所に、毎年のように竹竿を新調されているようです。この家のほか、近辺では、こんな豪勢な鯉のぼりを泳がせているところはみられませんので、ぼくまでなんだか「わが身に似よや男子(おのこご)と」いう励ましに誘われるような気分になるのです。
この季節になると、ぼくの想いは遥かな昔、まだ小学校の頃に戻ります。(そんな時代があったんだと、実に不思議な気がします)ぼくの家には男兄弟が三人、下に弟、上に兄貴です。ある日、玄関先に大きな声がしたので出てみると、おふくろがリヤカーに長い竹棹を載せて帰ってきたのです。「どうしたのか」、と聞くと、「見ればわかるやろ、鯉のぼりや」と、ビックリするほど長く太い竹竿に、鯉のぼりのセットを買ってきたのでした。兄は七つ上で、弟は四つ年下でしたから、すでに小学生だった。おふくろは思い切りがいいというか、好きなように自分の想いを発散させる人で、いい時もあれば、もちろん悪い時もあるのですが、この時ばかりはどうしてなのか、この年恰好の男のためにとは考えられなかった、だから、にわかには、ぼくには理解しかねたのです。
男の子が三人もいるのに、鯉のぼりも立てられないのは気に入らないというのだったか、あるいは、おふくろ自身が、これまでのさまざまな思いを鯉のぼりに託して、「スカッと」したかったのか。どうも後の方のような気が今でもしているのです。余所ではあげているのに、うちでは何でのぼりを立てられないんやと言う気分だったかと思ったりしています。そのおふくろも亡くなって六年以上が過ぎました。ぼくはこの駄文を書いている今も、幻の中に、京都の嵯峨にあった小さな家の、さらに小さな庭に「鯉のぼりが泳いでいる」のを、古希をはるかに過ぎたのに、鮮明に見ているのです。(https://www.youtube.com/watch?v=ORO9_KMVy44)


承知のように、「鯉のぼり」という唱歌は二曲あります。一つは「甍の波と雲の波」であり、他の一曲は「屋根より高い鯉のぼり」です。ぼくは、「甍」の方がよほど好きです。「屋根より高い」鯉のぼりは、都心のタワーマンションの屋上にでも上がっているのでしょうか。また、「甍」も少なくなりました。トタンやスレートでは雰囲気も出ないし、鯉は泳ぐ気がしないかもしれません。いずれにしても、この歌詞を篤と読んでほしい。男の子は、こうあってほしいというのか、男は「昇り龍」の如く、勇敢であり、堂々としているのだという、いかにも「男子はこうあってほしい」という一族・一国の祈願を歌っているようでもあります。「単なる唱歌じゃないか」と言うなかれといわぬばかりの、心意気が感じられます。でも、これもまた、今ではとっくに「時代遅れ」になりました。「物に動ぜぬ」などという男がいつの時代にいたというのか、いなかったからこそ、歌によって鼓舞したんですね、きっと。(大学の傍に「昇竜軒」という中華そば屋があり、在学中にはよく通いました。その時、「昇竜」について考えたことを思い出した。亭主は登山家だったそうで、最高峰にも登攀するような人でした)(左上は弘田龍太郎さん)
文部省が学校教育に歌を導入したのは極めて早い段階でした。いろいろな材料を寄せ集めて、それぞれの専門家による議論を重ねて歌詞が作られ、曲が作られたのです。作詞作曲は不詳が多いのは、それがためです。しかし時間が経つにつれて、徐々に作詞作曲者の名前が判明してくることがああります。「甍」の曲は、初めは不詳でしたが、その後に弘田龍太郎が学生時代に作曲したものと判明したのです。
弘田さんは、ぼくのもっとも好きな作曲家です。先年、ある用件で土佐に行きましたが、どうしても弘田さんの所縁の地を訪ねてみたくなったのです。しかし土佐(安芸)には三歳までしかいなかったので、詳しいことは調べる時間がありませんでした。彼の作曲では、下記にあるように「浜千鳥」は、ぼくががもっとも好んで歌う曲です。作詞をした鹿島鳴秋は深川生まれ、雑誌「少女号」の編集発行に関わる。同僚に清水かつら(「雀の学校」「叱られて」「くつがなる」などの作詞家)がいた。房総半島の和田海岸には、幼くして亡くした娘の晶子さんを偲んで書かれた「歌碑」があります。(https://www.youtube.com/watch?v=heNu6oroMD4)(https://www.youtube.com/watch?v=JzAGh3Srdag)


浜千鳥 作詞:鹿島鳴秋 作曲:弘田龍太郎 青い月夜の 浜辺には 親を探して 鳴く鳥が 波の国から 生まれ出る 夜鳴く鳥の 悲しさは 親をたずねて 海こえて 月夜の国へ 消えてゆく 銀の翼の 浜千鳥
○ こいのぼり ①日本の唱歌の題名。作詞者不詳、作曲:弘田龍太郎。発表年は1913年。歌いだしは「甍の波と雲の波」。②日本の唱歌の題名。作詞:近藤宮子、作曲者不詳。発表年は1931年。歌いだしは「やねよりたかい こいのぼり」。2007年、文化庁と日本PTA全国協議会により「日本の歌百選」に選定。(デジタル大辞泉プラスの解説)
○ 弘田 龍太郎(ヒロタ リュウタロウ)昭和期の作曲家 生年明治25(1892)年6月30日 没年昭和27(1952)年11月17日 出身地高知県安芸市 学歴〔年〕東京音楽学校ピアノ科〔大正3年〕卒 経歴大正9年から東京音楽学校で教え、昭和3年ドイツに留学、ベルリンでシュミットに師事。4年帰国後教授となるが2カ月で教授を辞し、作曲家として独立。後、中野保育大学教授、ゆかり文化幼稚園主宰となり、幼児教育に尽力した。作品には日本的旋律を用いた歌曲と童謡が多い。代表作にオペラ「西浦の神」、仏教音楽「仏陀三部作」、歌曲「小諸なる古城のほとり」、童謡「春よ来い」「金魚の昼寝」「叱られて」「くつがなる」「雀の学校」「浜千鳥」などがある。(20世紀日本人名事典)

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これまでにも繰り返し書いたように、学校唱歌にはさまざまな表情があります。ぼくは、「歌が旗になる」のは好まないし、場合によっては、それは「国粋教育」にもなり、集団主義を指嗾することになると考えています。その典型は「軍歌」です。「勝ってくるぞと勇ましく、誓って国を出た」のなら、手柄を立てないでは還れないと、まるで「名誉の戦死」「敵兵殺戮」を美化し、「帝国軍人」の蛮勇を身中に持たせる趣もあったのです。これまでには触れてきませんでしたが、戦時中に唱歌が「軍歌」になった例がいくらもあるのです。(それについて、いずれは触れるかもしれません)
唱歌が大好きな人が沢山います。ぼくもその一人であることを否定しません。でも合唱・斉唱は好きではないし、黙って独り口ずさむのをよしとしているのです。まちがっても、舞い上がることがないような唱歌、いつでも静かに自らの過ぎ越し方を思いいずる縁になっている、そんな唱歌たちをことさらに懐かしむのです。(「思いいずる故郷」、それがぼくが心底から願う唱歌です。「故郷」は「わが想い」の中にこそあるのでしょう)
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