猫に教えられながらの、その日暮らし

 本日は雑文投稿は中止します。といって、何か目新しい趣向が出てくるはずもありません。「普段の雑文」は中止して、それ(雑文)以下のメモでもないし、ビ秒六でもない、独り言を書いてしまう羽目になりました。それには特段の理由があるわけではありません。あまりにも雑多なコンテンツがたまりにたまりすぎたので、パソコンの動きがやたらに鈍くなって困っていました。少し時間を取って破棄や削除にとりかかっているため、それが第一の理由。いわば「断捨離」です、果して思い切りよく断行できますか。

 第二の理由は、現在、わが住まいに猫が沢山います。山中に猫あり。孤独も集合生活もいとわず、仲間割れというのか、仲間外れになったのが、拙宅にやって来た、それをかみさんが放置できなくて食事を与えた結果です。まあ「軒を貸して、母屋を取られた」類で、これもなかなか大変な事態、てんやわんやの大騒動です。三週間ほど前に生まれたばかりが三人。さらにその「兄・姉」に当たるのが四人。拙宅では寝泊りは滅多にしないで、食事をとりに来るのが二人。この食事の用意だけでもなかなかのもの。誕生間もない三人の「産みの親」が十日ほどたちますが、帰らないままでいます。気になって仕方がないのですが、行方は杳(よう)として知れません。

 そこで、老夫婦が、急遽ホームセンターに駆け込み、哺乳瓶やら猫用のミルクなどを買いに走りました。昔取った杵柄(それも半世紀を隔てています)というわけで、毎日何度でしょうか、「授乳」中です。これにやたらに時間が取られます。(朝の六時から夜中の十二時ころまで)洗濯物もたくさん出ます。さらに、季節柄でしょうか、毎日のように動物病院に通院、中には避妊や去勢の手配まで、時にはお泊りもあるという次第。その合間を縫って、かみさんの通院に付き合いというか、「アッシー君」です。なぜだか、彼女はなかなか病院とは縁を切ってくれません。

 まだまだいくつもの理由らしいものがあります。薫風爽やか、青葉・若葉の季節です。敷地内が雑草やら皐月やら木香バラやら、とにかく万物が茂り実る「春爛漫」です。好天を利用して雑草取りに精を出しています。直前までは「筍彫り」も。この一時期、ぼくは「草刈まさお」になるのです。刈った後から新たなものが芽を出して、なかなかの根競べですね。庭いじりは、生半可ではできない作業です。ぼくはもっとも庭いじりを本格的にやった人として、ヘルマン・ヘッセに指を屈したいのです。一時期は、彼の広大な庭と本格的な造園果樹育成栽培の仕事ぶり、それに加えて、これも見事な草花をはじめとする庭仕事のスケッチ。これを模倣しようという才能もないのですが、なんとか、その足元の遥か数キロぐらいには近づきたいなと念願していたほどです。

 大した広さもない庭です。でもどんなに狭いば場所であって、それなりに植栽し、花々を楽しもうとするなら、なかなか面倒です。つまりは世話をしなければいいものにはならないのです。どんものでも「手抜き」は厳禁です。少しさぼると、目も当てられない荒れ野になるのです。何時だって、人工を突き破って「野生」に帰ろうとするのですね。田圃でも畑でも里山でも、普段からの絶え間ない作業があればこその実りであり、結実・開化なんです。大きな石や大木をどうこうする以外、ぼくは非力を省みず、まず自分で、自分流でがモットーです。だから何年たっても見栄えがしないんですね。

 「庭仕事は瞑想である」(ヘッセ) 「草取りは座禅なんだ」(やまのさとし)

 「瞑想」と「座禅」にどこか違いがあるのかどうか。ぼくは座禅も瞑想も、ことさらに勢い込んでしたことがありません。その効果が大いに疑われるからです。もちろん、これはぼく自身に限ったことです。ヘッセの言う「瞑想・冥想」には特別な解釈がいるのでしょうか。ぼくはそのようには思わないんです。心静かに何事かに集中するというのでしょう。でも草を取ること一つが、徐々に「瞑想」に向かう糸口にもなり、持続させる力でもあるのでしょう。「座禅」を組んで冥想するといわれますが、ぼくの草取りは「座禅」というのも烏滸がましいものではあります。でも結果として、草刈りに専心する時にはえてして何かを考えているんですけど、それを記憶していないことが多く、うまく草が刈れたことに喜びに似た感情が湧いてくるんですね。

 というわけで、自主トレの科目(メニュー)を変えて、この数日は四苦八苦しているのです。もうしばらくは続くでしょう。一日(回)漫歩は、すこし休憩です。「歩くとは考えること」を中断して「草取りは座禅だよ」に入るという図ですな。春風そよ吹く、空を見れば、月は朧に西の山です。あわただしくも、日が暮れ、日が昇ります。けっしてのんびりではない明け暮れです。でも草を刈っている背後からは「ウグイス」が声のかぎりに歌っています。いいもんですね。隣の竹藪では筍掘りに来た人の声がします。それを、ウグイスと比較してはならない。そして、庭に出ている猫たちを見ていて、あるいは、ひょっとして「ぼくは猫になりたい」という潜在的な願望があるのかもしれないと気づかされたように思ったりします。

 猫ほどに日がな一日草の上 (無骨)

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。