
【余録】古いことわざに「三度目には馬の鞍(くら)も置き合わされぬ」というのがある。3度目の災難は思ったより早く来るので、逃れるために馬の鞍を置くひまもないというのだ。略して「三度目は馬の鞍」ともいう▲どんないきさつでこんなことわざができたのかは知らないが、2度の災難が起きた原因を取り除かぬままに漫然と時を過ごせばそういうことにもなろう。で、コロナ感染の急拡大と医療逼迫(ひっぱく)による3度目の緊急事態宣言が迫っている▲政府は20日に要請のあった大阪府のほか、京都府、東京都にも宣言を発令する方針を固めたという。2度目の宣言解除にあたって心配されていた変異株によるリバウンドが現実となり、鞍を置く間もなく3度目を迎えることとなった▲同じく古いことわざに「三度目が大事」「三度目には大事」がある。同じように見えるが前の大事は「だいじ」、後のは「おおごと」だ。前者は3度目は失敗が許されないとの意、後者は災難も3度目は重大事になるとの意味という▲感染力の強い変異株では重症化のスピードも増し、重症者に占める若年層の割合も増えているという。なのに人々のコロナ疲れで、宣言の効果逓減(ていげん)が心配される「三度目」となる。「が大事」「には大事」は、共に的確な警告だろう▲古いことわざには「三度目は定(じょう)の目」もある。定の目とは本来出るべきさいころの目のこと。政府や自治体への不満はいずれ帳尻をあわせるとして、今は自らがウイルスの運び手とならぬよう心をくだく時だ。(毎日新聞・2021/04/22)

いよいよ「B29に竹槍で」の様相を呈してきました。ウィルスに「精神論」とはこれいかに。勝って兜の緒を締めよとばかりに「五輪」になだれ込むのでしょうか。莫迦も休み休みに、というほかありません。二度あることは三度あるというのはどうでしょうか。この島の政治家は見事に「過去の犯罪」を忘却するのが得意ですから、二度であろうが三度であろうが、構うものかという魂胆ですな。竹槍で敵の爆撃機を打ち落とすという根性は見上げたもの。荒唐無稽もここに極まれり、です。やがて、原子炉爆発には「水攻め作戦」の敢行、溜まりに溜まった「汚染水」は、誰が何と言おうと、海洋投棄に限ります、といけシャーシャーと数十年かけて投棄を継続するつもり。あとは野となれ、山となれ。

「三度目の正直」はいかがですか。おそらく無責任が服を着ているような政治家連中が真面目に考えているのは、これかもしれない。一度目も二度目も空振りだったが、三度目は「コロナ感染拡大は完封」と夢のような、幻覚のような「宣言」を出そうとしている。三度目の祟りという、恐ろしい成り行きにならないことを、ぼくは一人で念じている。自分の頭で考えて、それがどんなに可笑しいか可笑しくないか、じゅうぶんに判断すればいいのだが、それができないのが「玉に瑕」だかね。
「仏の顔も三度まで」というのもあります。現下の島の状況にあって、果して「仏」とは誰のことを指しているのでしょうか。何処を見回しても「仏」らしい風体には出会えそうにありません。だから、三度目の「宣言」を出したところで、誰も怒らないし、腹を立てる向きもいなさそうです。しかし、じつは堪忍袋の緒が切れかかっている人はそこら中にいるのです。それに気づかないか、気づかないふりをして、いい加減なデマや嘘っぱちをこねくり回して、自己拡張あるいは自己主張に躍起になっている知事や痴事が各地に暗躍しているのです。今はひょっとして、ぼくたち衆生は「地獄の一丁目」にいるのでしょうか。やがて、何処からか白馬に乗った「ホトケ」が救いに来てくれないとも限りません。「地獄に仏」とも言いますし、「果報は寝て待て」とも言います。要するに「地獄で果報」などというジャンボくじに当たるよりも低い確率を期待してはいけないという、天はみずから助けるものを助けるともいう。その名言をぼくたちは肝に銘じなければならないのです。

「三遍回って煙草にしよう」というのを、ぼくはとても気に入っていました。何処で覚えたのか忘れましたが、「諺」の威力を篤と知らされたのがこれでした。何かしら大きな失敗があったからではないのです。とにかく煙草をのみたくてたまらないのに、だからこそ「まず念には念を」というのが腹に応えたということでした。やることをやったあとの「煙草がうまい」という教えだったのでしょうか。大学に入りたてだったと、かすかに覚えています。(上の写真は佐藤賢了氏。最高位は「陸軍中将」でした。とにかく「乱暴」一点張りのような軍人でした。ぼくは一時期、この人の息子と懇意にしていたことがあります)

○「三遍回って…」=やるべきことをきちんとやってから休憩しよう。念には念を入れ、十分気をつけて事をすませた後で、ゆっくり休むのがよい。[解説] 元来は夜まわりなどで、三度見回ってから煙草を吸って休もうという意。江戸のいろはかるたに収録され、絵札には夜まわりの男が煙草を吸う姿が描かれていました。なお、一説に、相手の話がなかなか進まず核心にふれないのを揶揄して用いる場合もあるとしています。(ことわざを知る辞典の解説)
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何度も言いましたので、当方も「食傷気味」です。うんざりしています。真面目に政治を考えないし、行政を自己宣伝の道具と心得(ちがいをしている輩)ているのでしょう。人民にとっては不幸この上ないことです。凄まじいのは劣島の政治家徒輩です。加えて、コロナ禍の最悪の事態を迎えるの待って「五輪開催」という「狂言」の幕開けです。正気の人間集団がやる仕業かいなと聞く方がどうかしています。「五輪中止」、これは決まっています。しかし、「口が裂けても中止とは言えない」というヤクザの仁義のようなものが、この島社会の関係者連にはあるのです。無理は承知で、「五輪は必ずやる」とは、どういうことか。「やると、言う」ことが使命だというのです。

いま総理の椅子にしがみついているヤッコは「三月で辞任」と言いました。ところが三月は過ぎ、四月も下旬に入りました。いっかな、辞める気配はありません。どうなっているのか、稀有の厚顔ぶりをいかんなく発揮しているというのか、それとも、そんな輩をのさばらしている当方に責任があるのか。何をしても責任を取らない、責任を問われても取らない。この伝で行くと、「殺人」を犯しても「辞めるつもりはない」と言い張るでしょう。すでに「コロナ禍」でかけかえのない、多くのいのちが奪われています。それでも「知らぬ存ぜぬ」と白を切る。どうすればいいのか。「人でなし」とは、こういうやつらをいうのでしょう。

当局者の非常時における「発言」「空言」「大言壮語」、これらはなんと「戦時中」の当事者たちの非科学的で、精神論になってさえもいない、空虚・虚言の頻出に似ていることか。似ているのではなく、かつての軍人をはじめとする当局者が亡霊の如くに甦り、往時そのままにむなしい強弁を垂れているというべきなのかもしれない。悔しくて、泣きたくなるのです。いつにかわらず、いのちを守るのは自分だけだ。少し余裕があれば、他人のお手伝いを、それに尽きます。今は戦時中であるとは思わないが、当局者の「空言」「虚言」ばかりは「戦時下」そっくりの空砲爆撃の雨霰(あめあられ)です。目下、だれかさんたちは「だれかと戦っている」のだな。「撃ちてし、止まん」という悍(おぞ)ましさです。
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