戦争をしない世の中に、そんな雑誌を作る

 【小社会】 商業五輪の炎 雑誌「暮しの手帖」の名編集長だった花森安治が1960年、鉄道沿線に立てられた広告看板について、同書で辛口の意見を述べている。「ゼニのわりにてんでききはしないのである」。/ 広告主は一度、汽車の窓から虚心に看板を眺めてみるといい。いくつの商品名が頭に残っているか。今度それを買おうという気になったかどうか。それに気づいてガクゼンとしなければ経営者として落第である、と。/ 広告とはあくまで物を売るのが目的。商品や会社の名前をアピールするのはそのための手段であって、いくら覚えてもらっても結果的に買ってもらえなければ意味がない。そんな花森の考え方はすっきりと分かりやすい。

 県内できのうまで行われた東京五輪の聖火リレー。ランナーに先行するスポンサー車両の列に驚いた。最長で1キロにも及んだという。「車が多くて、ランナーが目立っていなかった」。本紙に載った観客の声にもうなずける。

 リレーは企業の協賛で実現できている。それは分かるが車が音楽を流して盛り上げる傍ら、観客は新型コロナ対策で密にならないよう求められる。通勤や通学時には渋滞も懸念される。/ 商業五輪の象徴ともいえるスポンサー車列。見る人の心に響く効き目はあるか。感染抑止との両立を目指すのなら、柔軟に見直すところもありはしないか。高知市中心街でのフィナーレ。宵闇に赤々と燃える炎を見送りながら考えた。(高知新聞・2021/04/21)

++++++++

 全国の自治体で実施されている「聖火リレー」に要する税金は、トータルで百十六億円だとか。五輪開催云々という問題は関心が皆無ですから、とやかく言う必要もないのですが、「東京五輪」を今の列島の状況下で、しかも真夏の猛暑の環境で開催するとは、まさしく「狂気の沙汰」です。したがって、その導入部に当たる「聖火リレー」も「狂騒」「狂瀾」の真っ盛りの中で行われているのです。下司の勘繰りでいうと、五輪は中止がすでに決まっていると思う。しかし、組織委と契約を交わしている各企業が、まだ獲得(得られるべき金)していない資金があるから、組織委は、この段階で「中止」を宣言することが出来ないだけです。早い話が、全国各地で行われることになっている「聖火リレー」、それを成功裏に終わらせるためにいろいろな企業が参加しています。もちろん、五輪だからボランティアでと言うはずもありません。結んだ契約が終了するまで、どんなに危うかろうが、どんなに非難されようが、五輪は「開く」と言い続けているのです。

 五輪スポンサーは総数が何十社だか、協賛金も数百億円とも語られています。金額の詳細は、組織委が公開していないので類推です。五輪全体では当初の予算額の三倍もの税金が投入されており、更に追加要求の出し放題であり、獲得できた予算は使い放題であるという不始末です。コロナ禍、「まん延防止」の警告が出されている中を強行突破し、更に緊急事態宣言下でも「聖火は走る、どこまでも」というふしだらなこと。これが世界に発信されているのですから、日本という島国の「不謹慎」「不真面目」がどんなに強烈に知れ渡ることでしょう。

 花森さんが存命なら、なんといったでしょうか。彼はきっと言葉を失っていたでしょうし、こんな「下劣・下品を表現する言葉はない」といったかもしれません。「暮らしの手帖」はまだ現役でしょうか、そうとう前に、ある友人から、ぼくが一時期、懇意にしていたSさんが「手帖社」におられたと伺ったことがあります。(ここで、雑文用原稿書きを中断し、「手帖社」に連絡して様子を伺いました。出版活動は往時を凌ぐばかりというのか、なかなかに健在でしたので 一 安心。しかもなお、広告を一切取らないで発行するという初志を貫かれているのを聞いて、胸が熱くなったというのは大げさですが、「一寸の虫にも五分の魂」がここに「生きている」という、いささかの矜持を改めて感じたのです。尋ね人は別の出版社で活躍されているとのことでした)(右は「最新号」表紙です)

************

 (⇑)<都市部の沿道は、誰の目にも、多くの観客が肩が触れあうほど混雑し、十分な間隔を空けず複数の列に重なっているように見える状態になっているのに、大会組織委員会も県も「密集ではない」「中断するほどではなかった」と口をそろえて言い、リレーは続行され、次の地域に引き継がれていった><史上初の延期を挟み、ようやく迎えた聖火リレー本番。/ 被災地の記者として、このオリンピックが東北の被災地にどう役立つのか、「復興五輪」という言葉が大会誘致のための単なるお題目に終わっているのではないかという問題意識を持って臨んだが、聖火リレーとは、何のために行われる、誰のためのものなのか、そんなことばかり考えさせられた3日間だった。(NHK福島放送局記者中村拓斗)(https://www3.nhk.or.jp/news/html/20210408/k10012962281000.html)(2021年4月8日)

+++++++++++

 

“””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””””

 群衆の中に位置を占める「独り独りの人民」の視線の先に何があるのでしょうか。何を見ているのでしょうか。破顔一笑しているわけではない。しかし表情は「ウットリ」という風にもぼくには見えます。歓喜する、歓呼する、それはなにに歓喜し、何を歓呼するのでしょうか。歴史は、社会や時代を超えてつながっているし、「独りの民衆」のこころが、きっと過去から未来にリレーされているのでしょう。(すぐ上の二枚の写真と、その上の写真に写されている人々、おそらくは「動員されている」のでしょう。いつでもどこでも「群衆は」自分の方から動員されていくのです)

 まるで末法(と鎌倉時代の宗教人なら言ったに違いない)さながらの現代、批判もなければ、非難もないとは言いませんが、物言わない人民が気づかないままで(知らないうちに)、自らの心のうちに「呼び寄せる何者か」が、幾たびかの睡眠を重ねる中で、ひそかに棲みついてしまうのではないでしょうか。いったい、ひそかに棲みつくものの「正体」とは何でしょうか。ぼくの中にも、あなたの中にも、きっとすでに棲みついている何者かがいるのです。ぼくたちは、その何者かに動かされているのですが、自分の意志や判断で動いていると信じ込んでしまったのです。まもなく、その「正体」は自他に明らかにされるでしょう。

 時代や社会が示している状況をどのように認識するのか、これは驚くほど困難な事柄であります。自らが属している集団、そこへの密着の度が濃密であればあるほど、集団の抱えている問題を認めることは難しくなります。それ故に、集団や組織を動かしている要路に対する批判や異論も出にくくなるのです。ぼくたちの現状はどうでしょうか。新聞からもテレビからも、総じてマスコミと言われる媒体から、批判らしい批判が出てきません。その理由はどこにあるのか。簡単に言えば、「マスコミ」それ自体が保守体制に編入されているからです。時の政治権力に完膚なきまでに屈服している証拠、それが権力への批判や異論の消滅です。言わねばならぬことも、言いたいこともマスコミからは失せてしまったのでしょうか。残りは権力に阿る記事ばかりが乱舞するのがオチです。批判のない報道は、単なる広報でしかありません。報道とは、言わねばならぬ事を記事にすることです。権力側が「知られたくないこと」を「知らせる」ためにこそ、報道は存在しているのです。

 偶然の成り行きで花森安治さんに触れようとしました。彼は戦時中は「大政翼賛会」の事務局で働いていました。いわば、国策の旗を振る側にいたのです。だから戦後になって、「戦争をしない世の中のための雑誌」を頑なに出し続けたのでした。売れればいい、「いいね」がたくさんもらえるような、下卑た、しかも権力に迎合した雑誌は絶えて作らなかったのは当然でした。ぼくは、若いころには「暮らしの手帖」を愛読していたことがあります。広告費に頼らない雑誌、それを出すことがいかに大変な仕事であるか、これも若いころに小さな雑誌の創刊に際して、応援の一助っ人(枯れ木も山の賑わい的な)に呼ばれた経験からも、すこしは知っているつもりです。(その雑誌は数号で潰れました)その「手帖」が今もなお、健在であるのが確認できて、言い知れない気分になりました。いまでも「広告なしですね」と念を押すように尋ねたら、「(電話に出られた編集者は)それしか「売り」はなくなりました」と謙遜(だったと思います)を言われたのです。なお、意気軒高か。

###########

<(花森安治は)1945(昭和20)年、終戦後に『日本読書新聞』の編集長で高校時代からの親友だった田所太郎のもとで、カットを描く手伝いをした。この時、編集部に在籍していた当時25歳の大橋鎭子を紹介される。大橋の、女の人をしあわせにする雑誌を出版したいという志に感心し、「戦争をしない世の中にするための雑誌」をつくることを条件に、この誘いに応じた。
『暮しの手帖』の初代編集長として、創刊当初から編集作業に全身全霊を傾け、画期的な誌面をつくりあげる。広告を載せず、実名をあげて商品を評価する「商品テスト」は大きな反響を呼び、『暮しの手帖』を国民的雑誌に押し上げた。あわせて高度成長期における環境問題などにも警鐘を鳴らし、暮らしに対する独自の思想をわかりやすい言葉で読者に伝えた>(「暮らしの手帖 会社案内・http://www.kurashi-no-techo.co.jp/company)

_________________________________________

  

投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。