
<コートジボワールの地方の農村で、ソーラー・リュックを背負って歩くマリー・フランスさん(右)と姉>(2018年9月17日撮影)。(c)Sia KAMBOU / AFP)
西アフリカのコートジボワールで、子供たちが、バックパックにソーラーパネルが付いた「ソーラーパック」を背負って通学している。

電気が通っていないへき地で、夜でも、子どもたちが自分の宿題をするために必要なLED照明の電源を賄うためだ。勉強する時間を確保することで、学力の向上を目指す。
片道1時間かけて通学する間、バックパックについたパネルに蓄電、夜はUSBケーブルのコンセントを通じて電池に接続、LEDランプを3時間使うことができるという。
以前は鞄の代わりに米袋やプラスチックバッグを背負って通学していた子どもたち。鞄を持つ余裕もなかった。コートジボワールの少女たちの教育支援団体「イオ・ゾーン」が、ソーラーパックを提供するための基金を創設。日本円で1つ約2500円のソーラーパックを生徒たちに配った。


アルジャジーラ英語版によると、この鞄を製造した「ソーラーパック」創設者で、コートジボワール人のエバリスト・アクミアンさんは2015年、自分の車が日没後に故障した際、子どもたちが家に帰っているのをみて、通学用のソーラーパックを考案したという。
AFP通信によると、ソーラーパックはマダガスカルやガボンなどですでに販売され、5万5000個に達しているといす。アクミアンさんは高まる需要に追いつこうと、国内に製造工場を設立し、さらに生産できるよう、援助や融資を求めている。(https://www.huffingtonpost.jp/2018/11/17/ivory-coast-solarpak_a_23592552/)(2018年11月18日 )
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教育を受ける権利、これを高らかに、あるいは誇らしげに「宣言」しているのは(憲法制定当時は、多くの方面からそのように思われていた)、なにもこの島の憲法だというだけではなく、子どもがいる場所では当たり前の「子どもの権利」なのだということを示しています。その言わんとするところは、生まれたものはすべからく、教え育てられる「介助・介護」を必要としているのであり、年長者はその「保育や養育」の任務(責任)を子どものためにこそ果たすべきであるし、そのような立場に自らを置くことを期待されてもいる、またそのようにすることが求められていもいるのです。

もちろん、「子どもの権利」というだけで、それが実現できるわけではありません。言葉だけでは話にならないのであって、それを政府や親をはじめとする、子どもの成長に関心を持ち、それを保障する立場にある人々に課せられている(と認められた、とぼくは言いたいんです)「義務」が確実に遂行されて初めて子どもの権利は成就されるのです。子どもは誰かの所有物なのではなく、その集団社会の「宝」であり「光」なのだと、そんな意識を持てるならいいのになあ、というぼくの強い願いでもあるのです。生まれてきたのは何かの因果でしょうが、生まれた以上は、他者に対する、その程度の敬いの心を持ちたいではないですか。
数年前から、この「ソ―ラーパック」は注目されていましたが、実際には、驚くばかりの「光明」になっている地域や受益者がいるのです。電気がすでに当たり前に使われている社会と、それを自分の側の余力で生み出して使う社会、そこには何という差があるのでしょうか。一人一人が「良心の電力会社」みたいですね。
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エバリスト・アクミアンさ んは言います。<コンピューターを販売していたエバリスト・アクミアン(Evariste Akoumian)さんが2015年、ソーラー・リュックのアイデアを思い付いたのは、夜が近付く中、スブレ(Soubre)近郊で車が故障してしまった時だった>
「ちょうど、子どもたちが学校から戻ってくる頃だった」と、アクミアンさんは振り返る。「子どもたちが勉強できるよう、明かりをつけなければ。地方の子どもたちが、明かりがなくて勉強できないことが普通であってはならないと思った」「地方の子どもたちは貧しい。コメの袋やプラスチック袋を通学バッグ代わりに使っている」とアクミアンさんは言う。「リュックサックに太陽光パネルを付けて、通学用バッグにすれば一石二鳥だと思った」(https://www.afpbb.com/articles/-/3196543?pid=20645660))
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子どもは「希望」であり、「光」でもあります。さらに言えば、子どもという存在は、大人たちの「過去」でもあり「未来」でもあるのです。面倒なことは言いませんけれども、子どもが「生まれてきてよかった」という思いを一瞬でも抱けるような、信頼に足る生活の基盤を築いていく仕事(役目)が大人たちに期待され、求められているのです。その役割を果たしたものは、教師と言っていいでしょう。
ソーラーパックで車を走らせることはできないし、エアコンを稼働させることもできない。あるいは湯を沸かすことも、洗濯機を回すこともできません。それはあたりまえです。しかし、目の前を照らす、足もとを明るくする、本を読む、そのような必要を満たす光明にはなる。これ以上の機能を望むならば、それはまたもう一つの、これとはまったく別種(自家発電なんかでは追っつかない)の生活を求めることになるでしょう。現代社会に生きているぼくたちの感覚から言えば、アフリカの子どもたちは豊かでないかもしれません。しかし、都市化された「文明の最果て(終夜たがわず、煌々と灯りが点いているのを不思議と思わない)」のような生活から見れば、ぼくには、そのような生活(歩きながら発電した「光」を使うような)は、かえって人間の生きる方向としては誤ってはいないと思われるのです。ぼくたちはどこでまちがえたのか、そのターニングポイントを明示してくれているようにも受け取られるのです。

彼や彼女たちは貧しいのではない。彼らを見て、自分の方が「豊か」だと思い込む方が貧しいのではないでしょうか。豊かさというのは、物品で満たされることでもなければ、好き放題の贅沢ができることを言うのでもないのはわかっている、そのようにぼくたちは思いがちですが、どうでしょうか。豊かさは、どこかに貧しさを秘蔵しているのです。貧しさが密着しているといってもいいでしょう。「貧しさを断ち切れない」、そんな不安から逃れるための足掻きのうちに、「豊かさ」という物性が忍び込んでしまうのでしょう。貧しさをしこたま抱え込んだ上での豊かさだとするなら、豊かになるというのは、価値のあることですか、そんな疑問ともつかない心持が消え去らないのです。
(弁解がましくなりますが、この駄文は文明論でも教育論でもありません。「文明と文化」という、いつに変わらずぼくたちに差し迫っている課題を考える、大いなるヒントになると愚考したから、「充電しながら歩く子どもたち(人たち)」を例示したにすぎません。「歩くとは考えることだ」というのに加えて、さらにその上を行くであろう「歩くとは充電することです」という教えを認めたくなったのです。それはまた、「電力」の充電だけではないのは言うまでもありません。あるいは、これからぼくも、「一日漫歩(万歩)」の際に実践したくなったといいますかね)

(本日は午前中に所用ができ、それが終わるまでに少しばかり時間が空きました。どこかでやり過ごそうと考えたのですが、読むための本ももたず、眼鏡(老眼鏡)も忘れたので、じゃあ「歩こう」という気になり、なんと三時間半ほどあちこちを歩きました。これだけ歩けば、かなり「充電」できるだろうなあと考えながらの彷徨(うろつき)でした。途中で喫茶店が見えたので入りましたよ、店名はなんと「あるく」でした。JR外房線の新茂原駅前にありました)
この「歩行の流儀(歩くとは充電すること)」もまた、ぼくがひそかに描いている「飛ぶ教室」の一要件となり、その特徴をなすものかもしれません。
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