【有明抄】別れはつらいけれど… 花散らしの雨に誘われるようにして、先日、父が逝った。86歳だった。生老病死は人の常。覚悟はしていたが、肉親との別れはつらく、悲しい◆三十数年前、佐賀新聞社に就職が決まった後、マスコミ関係の本をよく読んだ。「新聞記者は親の死に目に会えない」との一文が記憶に残った。事件事故の現場から簡単には離れられないという心構えを説いた言葉だったが、筆者は幸い、父の最期にも立ち会えたし、1週間の休みももらった。休みの間は(知)さんにカバーしてもらった。支えるより、支えられる時が多い気がする。全ての人に感謝である◆熊本地震の「本震」からきょうで5年。あの日、予期せぬ別れを経験した人もいるはずだ。覚悟していてもつらいのに、突然の別れを受け止められるはずはなかっただろう◆昨年10月の本紙「ひろば」欄に、唐津市の北原まど佳さん(当時肥前中3年)が「人は物理的な死と、忘れられての死と、2回死んでしまう」という意味の文章を投稿していた。よく分かる。人は亡くなっても、誰かの心の中で生き続ける◆生死の境は紙一重。熊本地震をはじめ、災禍や闘病の中で助かった人には、生かされた意味があるのだと思う。ただ、寡黙だった筆者の父が大きな期待をしているわけでもないだろう。ただ一言、「今を大切に」という声が聞こえる。(義)(佐賀新聞。LIVE・2021/04/16)

本日は別の雑文を予定していたのですが、「有明抄」を読んで、気が変わったというか、テーマ(というほどでもありません)を別の物にしました。「突然の別れ」を、ぼくも経験してきました。いったい、これまでにどれくらいの「別れ」を忍んできたことか。「惜別」という語がいつでも身に染みるのです。上に引かれていた「人は物理的な死と、忘れられての死と、2回死んでしまう」と書かれた中学三年生の文章が胸を突く。昨晩、ぼくの友人と、どういうわけか、「2回死ぬ」というような事柄について電話で話しました。彼は京都在住です。人はどんな経験でも、それを記憶しています。何年、何十年経とうが記憶として残されているのです。
しかし、年を取るとともに、多くの人は「記憶力」の衰えを嘆いたり託(かこ)ったりします。本当に忘れたのを嘆いているのか、ぼくは怪しいとみているのです。記憶したものは、脳内のある部分に貯蔵されている。整理されて残されているのです。問題は、必要な時に、必要な場所から取り出す、いってみれば「掴み取る・思い起こす・想起する「能力」が働かなくなってしまうから、肝心なことが「想い出せない(記憶している内容を取り出せない)」ということになるのでしょう。
先日ある会社の営業の方と電話していて、石油の埋蔵量がいくらあるか、その量如何で経済成長が図られてきたとかいう話になった時、埋蔵量は無尽蔵とは言わないが、年々増えてくるはずだ、それは埋蔵地域の発見、発掘技術の「進歩」等が可能となるからで、などと喋っていたが、その次にそんな問題を研究した文書(ローマクラブ報告書)が半世紀前に出されている、それはイタリアのオリベッティという会社がスポンサーとなった研究で、その会社は「ある商品が当時は世界的に評判になっていた」と言って、その商品名が出てこなかった。自分でも驚いたが、単純な機械名が出てこなかったのです(今でいうワープロです)。相手が助け舟を出してくれたので、ようやく一見落着しましたが、じつにみっともないことだったな、と冷や汗が出たと思いました。相当に焼きが回っている証拠ですね。

毎朝のように親父とお袋の「位牌」に線香をあげています。取り立てて信仰心があるわけではなく、だれも位牌を守る身内がいないので、習慣的にしているだけです。たったそれだけのことでも、ぼくは毎日、両親に出会っているという微かな感覚がある。それでいいことをしたとか、いいことがあるというのではありません。誰もがする(と思います)、そんな朝の挨拶をしているにすぎないのですが、気分としては「両親」に見られているなあ、という瞬間ですね。ぼくはお墓参りも好きではないし、お葬式もできれば失礼したいと、何時でも出かけるのに消極的になるのです。しかし、だからと言って「惜別」や「永訣」の想いを否定するのではないのです。家に居る猫とも死別を重ねてきました。其れでも相当に参ってしまいます。比べようもありませんが、友人・知人・親類縁者さらには肉親と「死別」には、当方との関係の遠近濃淡がありますけれども、「つらい」「哀しい」「だめだったか」「悔しい」という思いは変わりません。
ここまで書いてきて、どうしても「永訣の朝」が記憶の底から立ち上がってきました。なぜか、ぼくには説明できません。だから、それをここに、詩(「心象スケッチ 春と修羅」)のまま出しておくことにします。

宮沢賢治 「永訣の朝」(『心象スケッチ 春と修羅』より) 永訣の朝 けふのうちに とほくへいつてしまふわたくしのいもうとよ みぞれがふつておもてはへんにあかるいのだ (あめゆじゆとてちてけんじや) うすあかくいつそう陰惨(いんざん)な雲から みぞれはびちよびちよふつてくる (あめゆじゆとてちてけんじや) 青い蓴菜(じゆんさい)のもやうのついた これらふたつのかけた陶椀(たうわん)に おまへがたべるあめゆきをとらうとして わたくしはまがつたてつぱうだまのやうに このくらいみぞれのなかに飛びだした (あめゆじゆとてちてけんじや) 蒼鉛(さうえん)いろの暗い雲から みぞれはびちよびちよ沈んでくる ああとし子 死ぬといふいまごろになつて わたくしをいつしやうあかるくするために こんなさつぱりした雪のひとわんを おまへはわたくしにたのんだのだ ありがたうわたくしのけなげないもうとよ わたくしもまつすぐにすすんでいくから (あめゆじゆとてちてけんじや) はげしいはげしい熱やあへぎのあひだから おまへはわたくしにたのんだのだ 銀河や太陽 気圏などとよばれたせかいの そらからおちた雪のさいごのひとわんを…… ……ふたきれのみかげせきざいに みぞれはさびしくたまつてゐる わたくしはそのうへにあぶなくたち 雪と水とのまつしろな二相系(にさうけい)をたもち すきとほるつめたい雫にみちた このつややかな松のえだから わたくしのやさしいいもうとの さいごのたべものをもらつていかう わたしたちがいつしよにそだつてきたあひだ みなれたちやわんのこの藍のもやうにも もうけふおまへはわかれてしまふ (Ora Orade Shitori egumo) ほんたうにけふおまへはわかれてしまふ あああのとざされた病室の くらいびやうぶやかやのなかに やさしくあをじろく燃えてゐる わたくしのけなげないもうとよ この雪はどこをえらばうにも あんまりどこもまつしろなのだ あんなおそろしいみだれたそらから このうつくしい雪がきたのだ (うまれでくるたて こんどはこたにわりやのごとばかりで くるしまなあよにうまれてくる) おまへがたべるこのふたわんのゆきに わたくしはいまこころからいのる どうかこれが天上のアイスクリームになつて おまへとみんなとに聖い資糧をもたらすやうに わたくしのすべてのさいはひをかけてねがふ (一九二二、一一、二七)


「死別する」とはいかなることを指して言うのか。「永訣の朝」を読みながら、しみじみと考え込んでいます。トシさんは賢治とは二つ違い。優れた才能を開いた人でもありました。賢治にはトシさんがどうしても必要だった、奇妙な言い方になりますが、賢治の中に「トシ」がいたから、「宮沢賢治」であることが出来たともいえるのでしょう。
○ 宮沢トシ(1898-1922)=明治-大正時代,宮沢賢治の妹。明治31年11月5日生まれ。大正9年花巻高女の教師となる。兄賢治の最大の理解者であったが,11年11月27日結核のため死去。25歳。その死は賢治に「永訣の朝」「松の針」「無声慟哭」などの詩をかかせ,「銀河鉄道の夜」「双子の星」などの童話のモチーフとなった。岩手県出身。日本女子大卒。(デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説)

「私は人の真似はせず、できるだけ大きい強い正しい者になりたいと思います。御父様や兄様方のなさることに何かお役に立つように、そして生まれた甲斐の一番あるように求めていきたいと存じて居ります。」(母に宛てたトシの手書きの中に一説)
素晴らしい教師でもあったと、元の生徒たちは言っておられます。二十四歳を一期の生涯というのは、今から思えば、いかにも悔しいことでした。分かった風なことを言えば、人生は「生きた時間」がすべて、長い短いではないとも言われる。よくわからないことです。欲張りを言えば、他者の「死」に接するたびに、いつまでも元気でいてほしかったという思いが却って強くなるほどに、ぼくたちはみずからの人生をつかみなおそうとするのかもしれません。「無声慟哭」は、トシを送った検事の三部作の一つです。それを要までもなく、ぼくは、肉親や友人たちの死に際して「慟哭」し、機会あるごとに「まだ慟哭している」「無声慟哭は続いている」と気づくのです。
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