國語は帝室の藩屏なり 國民の慈母なり

○ 滝廉太郎[1879‐1903(明治12‐36)]=作曲家。東京生まれ。高等師範付属音楽学校(後の東京音楽学校)在学中からピアノと作曲の才能を示し、研究科卒業と同時に母校の教師となり2年間勤務。この時期に、ピアノ曲『メヌエット』、組歌『四季』、中学唱歌『箱根八里』『荒城の月』、幼稚園唱歌『鳩(はと)ぽっぽ』『お正月』などの今日よく知られる作品を書いた。1901年(明治34)ドイツに留学し、ライプツィヒ音楽院で和声法や対位法など本格的な作曲技法を学んだ。しかし病気のため02年帰国し、翌明治36年郷里の大分で23歳の若さで亡くなった。彼は明治の洋楽揺籃(ようらん)期において、初めての本格的作曲家として近代西洋の作曲技法を用い、その後の山田耕筰(こうさく)以後の日本の歌曲の創作に大きな影響を与えた。(日本大百科全書(ニッポニカ)の解説)

 「花」という曲名で有名すぎるほどの唱歌になった、そのもとの形式は、組歌『四季』という「歌曲集」の第1曲でした。曲名も「花盛り」とされていたものです。彼はこの曲を弱冠二十一歳で作曲した。今では組曲全体が演奏されることはめったにありませんが、本格的な楽曲として評価されてしかるべきものだと、ぼくは思います。滝廉太郎は、この島のける西洋音楽接種の第一走者でした。(早逝した)廉太郎を先駆けとして、ようやく山田耕筰などの後進が続く道が開けたのです。一方、作詞の武島羽衣は、歌人であり、詩人、国文学者でもあった人。新進の作曲家と国文、とりわけて和歌に秀でていた作詞家のコンビが「花」一曲を残したという意義は、いろいろな意味で大きいものがあると考えます。滝廉太郎は、二十四歳を前にして没。一方の武島は九十四歳と長命でもありました。早い段階から学校教育の中に「唱歌」が取り入れられたについては、長野出身の伊沢修二の存在は特筆大書してもいいと、ぼくは考えてきましたが、この唱歌が学校に導入された背景や理由は何だったのか。(https://www.youtube.com/watch?v=jQc65H5KvUshttps://www.youtube.com/watch?v=8G1EKV9ASjU

○ 武島羽衣(1872-1967)=明治-昭和時代の歌人,詩人。明治5年11月2日生まれ。帝国大学在学中に「帝国文学」の創刊に参加。塩井雨江,大町桂月との共著「美文韻文花紅葉」などを刊行し,大学派(赤門派)とよばれる。唱歌「花」「美しき天然」などの作詞がある。ながく日本女子大教授をつとめた。昭和42年2月3日死去。94歳。東京出身。本名は又次郎。歌集に「美しき道」など。(デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説)(武島の作詞による「美しき天然」きっとどこかで聞かれたことがある曲です。余計なお世話ですが、いかがでしょうか。https://www.youtube.com/watch?v=8G1EKV9ASjU この作曲者は田中穂積さん。ぼくはよく調べたことがありませんが、彼は海軍で軍楽隊を指導した軍人で、同時に作曲家でもありました。この曲調はワルツそのもので、もっとも早期に作られたものとして流行した。歌っているのはたぶん「寅さんの妹」だった女性。「わたし、Bさんとはある音楽学校で同級生だった」とかみさんから聞いたことがある))

 いろいろなものが考えられますでしょう。しかし、中でも大きい理由となったのは、歌を通して「国語」教育を推進するということだったとぼくはみています。明治初期、この島ではあらゆる地域に地生えのことば(その多くは、「方言」とさげすまれ、「帝国」の政策によって順次撲滅の対象になった)にとって代わって、いまでいうところの「共通語」「標準語」というものを創出する必要性に駆られていたのが文部省当局でした。その中心人物が上田萬年という国語学者だった。詳細は省きますが、彼は国費留学生として渡独・仏、現地で五年だったか、滞在して、彼の地の「国語」教育(「ドイツ語」教育)の現実に激しく打たれたのでした。国家が自立するには「まず国語から」と、帰国した彼は「国語」という看板を、初めて帝国大学の研究室に掛けたのです。後年、彼は自著に「国語は帝室の藩屏」と述べたが、新しい「国語」創作の誇りや矜持と苦悩焦燥などが、いったいとなって上田氏の中に育っていたと、ぼくは言いたい気がします。作詞の武島は大学にあっては上田の高弟だったの。「春の小川」「朧月夜」などの作詞家だった高野辰之もまた、帝大時代に上田の薫陶を受けていた。「国語」教育は、「音楽」教育を介して実践されたといえます。

○ 上田萬年=国語学者。現代の国語学の基礎を確立した人。帝国大学和文学科卒業後、ドイツ、フランスに留学し、言語学を修めた。帰国後、それまでの国学者の研究に対し、西ヨーロッパの言語研究方法を紹介。従来の研究を再検討し、新しく国語学史、国語音韻、国語史、系統論などの研究を開拓、他方、国語調査委員会の設置(1900年。1949年に国語審議会に改組)に尽力して、国語政策、国語調査にかかわるとともに、多くの優れた後進の育成に努めた。東大教授、文部省専門学務局長、神宮皇学館長、国学院大学長などを歴任。著書に『国語のため』全2巻(1895、1903)、『国語学の十講』(1916)や、松井簡治(まついかんじ)との共著『大日本国語辞典』(1915~1919)などがある。作家円地文子は娘。(日本大百科全書(ニッポニカ)の解説)

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*与太話として ぼくが結婚をしたのは今から四十八年前の三月でした。自分の性分としては、どんなものでも「式」と名がつくものは嫌いでしたから、そんなもの(結婚式など)はしないと決めていたのに、かみさんの母親が「そんなふしだらは許さない」とかなんとかいったので、仕方なく「神前式(Kカソリック教会 で⇦)、さらにお茶の水のYホテルで「披露宴」なるものを開いた。決めたのは数日前だったと思う。(泥縄式というのでしょうか)きわめて少人数の集まりでした。その宴の中で、ぼくの友人が四、五人で肩を組んで「大学校歌」なるもの歌い出した。実に野蛮だという気がしたし、アカペラで、蛮声を張り上げたのがまことに恥ずかしかったのを、今でも思い出す。かみさんの友人が四、五人で「じゃあ、私たちも校歌を歌おう」と言って、実に見事なハーモニーで、さっそうと歌い切った。ピアノ伴奏もかみさんの親友。それが「花」だった。ぼくは、「えっ、これが大学の校歌か」と深く驚いたのです。そんなバカな、と思ったが、ひょっとして滝廉太郎は出身大学の校歌を作ったんだと、思わされたという気がしたのです。「春のうららの墨田川」と耳にするたびに、冷や汗まじりの記憶がよみがえります。(バンカラ男の一人として、実に恥ずかしい思いを、しみじみ感じたことだった。それを若気の至りとは言うまい。どちらにしても、「花」という唱歌は、新たに強烈な印象を刻印してぼくの脳裏に棲みついた)

 「國語は帝室の藩屏なり 國語は國民の慈母なり」(「國語のために」)上田萬年(カズトシ)はこのことをいかなる意識で、時代認識で言ったのか、ぼくは、しばしば考え込んでしまいます。「國語」は天皇が支配する国家たる「帝国」の防波堤であり、あるいは「橋頭保」であるとまでいうのでしょうか。それ(「國語」)はまた、国民の「育ての親」(あるいは揺り籠だとも)であるというのでしょうか。「日本語」ではなく「国語」と言わなければ済まないという、国体意識が言わせたとも解することが出来そうです。日本人ではなく「国民」を作るための教育には「國語」が不可欠だといったのです。しかも、まだ「國語」そのものが未生だった時代においてです。気宇壮大というべきか、荒唐無稽というべきか。

 たかが「國語」という事勿れ、だったんですね。この「國語本位」という教条は今もなお健在であるらしい。国民ー国語―国史…、「國」というものの重量が時とともに、人民の頭上に重くのしかかってくることになるのですが、それほどに国に絡め捉えた結果、人民の意識もまた「国家意識」に付着させられてきたのです。唱歌もやんぬるかな、そのような国家への密着状態を醸し出す貴重な契機となってきたのです。民族と言語と歴史は、たがいに依存しながら、その威力を強めて、ついに無敵の三角形(トライアングル)を作り上げたとも言えます。国家国民意識というのか、民族意識丸出しの「近代化」を唱歌や教育勅語と轡(くつわ)を並べて、国語教育に導かれながら推進してきたのが、この百五十年でした。ぼくたちは、その軛(くびき)から解放されるために、いまでも戦っているのかもしれません。このトライアングルが異様に強化されて美化されていたのが学校教育の場でしたから。そして国家という幻想の縛りが解体しかかっている状況にありながら、の意識ばかりは旧態依然なんです。旧習に馴染んで百年一日の如く、いまここで、ぼくたちは滅びるのを座視するのか、ぼくだけはそいつは、ご免ですね。

言語はこれを話す人民に取りては、恰も其血液が肉体上の同胞を示すが如く、精神上の同胞を示すものにして、之を日本国語にたとへていへば、日本語は日本人の精神的血液なりといひつべし

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