何事にも「サバを読む」、いやな風潮ですね

 魚好きの心配【卓上四季】 釣り好きで、酒をこよなく愛した作家の開高健は、当然ながら魚に目がなかった。エッセーにこうある。「魚の内臓で食えないのは胆嚢(のう)と脾臓(ひぞう)だけで、あとはことごとく食べられるし、絶品である」▼さらに魚の内臓からつくった塩辛にも言及し、アユがウルカ、ナマコがコノワタなどと例を挙げて、「こんなことをかぞえているとムズムズしてたちあがりたくなる」とも。ときには、近くの魚屋で内臓をもらってきて、酒としょうゆで煮たり、きざみショウガを散らして、みそとしょうゆで味付けしたりして、舌鼓を打ったようだ(「地球はグラスのふちを回る」新潮文庫)▼日本人の魚介類の消費量は、2001年度に1人当たり年40キロ強と過去最高になったのをピークに減る傾向にある。それでも魚好きはなお健在だ▼ただ安心して食するには心配な事態である。大きさが5ミリ以下のマイクロプラスチックを、日本人は年間で13万個も摂取している恐れがあるという。英国の大学などの調査では、世界の平均は5万個を超えるそうだ▼微小プラを食べた魚介類を、人が食事を通じて摂取するらしい。だが体内に入ったものが排せつされずにどれほど残るか、人体への影響がどの程度かなど、分からない点は多い▼いずれにしろプラスチックの使用量を減らさないと根本的な解決にはなるまい。開高のように魚を存分に楽しみたい。対策は急務だ。(北海道新聞。電子版・2021/04.11)

 時実利彦さんがまだ学生時代、試験で「人間はなにからできている?」と問われて、人間の身体を構成している物質を元素記号で書いて、零点を付けられたという話を読んだことがあります。時実さんは脳生理学者で、多くの業績を上げられた。「脳の話」「人間であること」(岩波新書)などはベストセラーになりました。ぼくも素人ながら、書かれたものをたくさん読んだ記憶があります。人間=H2O+N+Na+Ka…と言えなくはないけど、その等式には書かれていないところに、ある意味では「人間の真価・真髄」があるともいえるのでしょう。やがて、いやすでに、人間は「マイクロチップでできている」と言われているのかもしれません。環境破壊と言って、自分の外的世界の問題だとみているなら、なんとも迂闊で、わが身そのものがもっともも身近な環境だということを忘れない方がいい。誰が悪いのか、と犯人探しをしても始まらないようですが、そこから出発しなければ、事態が改善されないことは確かだし、もうすでに手遅れなのかもという気もするのです。

○ 時実利彦(1909-1973)=昭和時代の脳生理学者。明治42年9月4日生まれ。昭和31年東大教授。のち東大脳研究施設長,京大霊長類研究所教授を兼任。筋電図学会,日本脳波学会を設立,脳生理学の発展と啓蒙につとめる。45年脳波学会としての脳死判定基準をまとめた。昭和48年8月3日死去。63歳。岡山県出身。東京帝大卒。著作に「脳の話」「脳と人間」など。(デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説)

 便利さと効率、あるいは採算性と利益・利潤率というのか、そんな経済的な目標を躍起になって追いかけ、それを「経済の進歩」だと錯覚したことが、まず初めの大間違いでした。量的拡大を進歩というのなら、体重の増加は進歩かねえ、といいたくなる。間違いは元から断たなければならないのは、ものの道理です。環境破壊の原因を多く作っているのが人間の経済活動と消費活動=人間存在そのもであることは言うまでもありません。生産と消費が見合って(手を取りあって)、滅亡の急坂を転げ落ちているのが目に見えます。それでも、かかる活動、生活を停止しないのは、滅亡を自覚していないというか、自分が生きているうちは滅びないという儚い願いがあるのかもしれません。バカバカしいほど、悲しい話です。

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 開高さんも懐かしい人です。ある時期、開高で夜も日もなかった時期がありました。ほとんどすべてに読み耽ったと思います。今もかれも全集その他が埃をかぶっています。彼が亡くなる直前だったと思いますが、一度だけ地下鉄の電車内で見かけたことがあります。もちろん面識はありませんでしたから、ぼくひとりが驚いただけでした。午前中の、割と空いている車内で、真ん前から「轟音」といってもいいような「鼾(いびき)」が聞こえたのです。それを目にした瞬間、開高健がいびきとともに「崩れている」と直感したのです。大きな体を座席からずらして床に落ちんばかりの状態でした。瞬間的に、「すごいものをみた」という気がしました。その時から間を置かずして、開高健さんは六十前に亡くなられた。

 体重も若いころの倍はあったかもしれません。美酒と美味をたらふくいただいて、世界の奥地を駆け回るには、あまりにも体重が増え過ぎていたことと思われたほどでした。それから間もなく、彼の訃報を目にしたのです。(開高健・1930-1989)即座に「電車内の「轟音とともに崩れた」姿を思い出しました。徹夜で呑んだ朝帰りだったか、あるいは仕事疲れの睡魔に襲われた爆睡だったか、いずれにしても「疲労困憊」の態で、実に奇妙なものを見たという気がいつまでも続いたのでした。すでに三十年以上も前のことです。

○ 開高健(1930-1989)=昭和時代後期の小説家。昭和5年12月30日生まれ。昭和29年寿屋(現サントリー)に入社,広告コピーに才能を発揮。33年「裸の王様」で芥川賞。ベトナム戦争特派員の体験をもとに「輝ける闇(やみ)」「夏の闇」などを発表。ルポルタージュ,エッセイなども精力的に執筆した。牧羊子の夫。平成元年12月9日死去。58歳。大阪出身。大阪市立大卒。作品はほかに「日本三文オペラ」「もっと遠く!」など。(デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説)【格言など】成熟するためには遠まわりをしなければならない

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 さばを読む 【卓上四季】秋に旬を迎えるサバは、今が産卵期。回遊しながらえさを採り、たっぷり脂の乗った秋サバは「嫁に食わすな」と例えられるほど。誰もが欲しがるものは、人の冷静さを失わせるのだろうか▼傷みやすいサバの取引は時間との勝負。市場でサバを数えるとき、わざと急いでその数をごまかしたことが、「さばを読む」の語源とされるが、取り扱いの難しいものほど慌てず、間違いのないよう数えたい▼65歳以上の高齢者を対象とした新型コロナウイルスのワクチン接種が12日から始まる。ただ、供給量が限られ、希望者全員の2回接種は早くても6月以降となる見込みだ▼政府は6月までに3600万人の高齢者分を調達できるとの見通しを示すが、先行きは不透明。今年前半までに全国民分を確保するとした政府計画の達成は難しい情勢にある▼見通しというものは外れる方が不満も高まり、混乱を招くもの。自治体の接種の実施計画はたびたび見直しや一時中止を余儀なくされてきた。必要なのは、会場設置や人員確保の調製に忙殺される自治体職員の負担を軽減する確実な情報提供だろう▼そもそも現在のワクチンは、感染防止より発症を防ぐことが主目的だ。温度管理も難しいワクチンには副反応の懸念もある。安全第一で接種を進めたい。そういえば秋サバを嫁に食べさせないのは、食あたりの恐れがあるからともいう。大切な配慮だろう。(同上・2021/04/10 )

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 サバを読むといいます。まあ、誤魔化すという風に使われたりします。「サバ」には気の毒ですが、人間の勝手次第という成り行きですから、お許しを。しかし、そんな出鱈目な使われ方をされると、時にはサバが叛乱を起こします。ぼくは小学生のころ、〆サバを食べて、猛烈な蕁麻疹(ジンマシン)に襲われたことがある。「サバを読んだ」のではなく、「サバに中(あた)った」のです。初めての経験だった。見る間に、体中に凸凹ができ、その痒さと言ったら、いまだかつて見たことも聞いたこともないような代物でした。蕁麻(ジンマ、別名イラクサ)という植物の葉に触れると痒(かゆ)みを伴う湿疹が皮膚に表れるからというので「ジンマシン」と呼ばれた。どうしたわけか、イネ藁を燃やした火に体を使づけろと言われて、その通りにしました。それが薬になったのかどうか。その時、ぼくは「カツオのたたき」寸前(藁焼き)だったという気がしました。

 ○ 蕁麻疹=▼かゆみを引き起こすヒスタミンが、何らかの原因によって体内に放出されることで起きると考えられています。▼特定の食物、薬品、植物などに対するアレルギーや他の疾患が関与しているものもありますが、ほとんどの場合、直接的な原因は特定できません。▼蕁麻疹の発症や悪化の背景因子としては、ウイルス・細菌感染、疲労・ストレス、食物、運動発汗、日内リズムなどが知られていますが、複数の原因が重なって発症することもあり、特定は困難です(https://hc.mt-pharma.co.jp/hifunokoto/solution/741)

 以来、ぼくはある特定の物や人に接近したり触れそうになると、ジンマシンが出る予感がして困った思いをしてきました。アレルギーというのは厄介なもので、心身が硬直するというか、言うことを利かなくなるんですね。今でいう「フリーズ」する状態ですね。この蕁麻疹やアレルギーは、医学的にはほどんど解明されていない部分が多い。科学や医学というけれど、まだだま未知の部分や探求するには途方もない時間と費用がかかるものが山積しています。「風邪」という症状一つに悪戦苦闘しているのを見れば、神秘は人間の身体の内外に充満している言ってもいいほどでしょう。それをわかったつもりになんかなると、きっと「蕁麻疹」が出るのです。新型コロナというインフルエンザウィルスに、世界中の英知たちが、手もなくやられているのをどうしますか。

 本筋のようなところへ戻ります。「嫁に食わすな」という俚諺のお里を知ろうという魂胆でした。この島において、嫁さんという存在はよほど「割が合わない」位置しか持たされていなかったに違いない。とにかく、何でもかんでも「嫁に食わすな」というのですから、たまらない気持ちになった「お嫁さん」もたくさんいたと思います。まずは「茄子」思いつくままに挙げてみると、五月ワラビ、秋の魳(かます)、秋の鮗(このしろ)、その他。なにしろ「食欲の秋」というくらいですから、いくら食べてもきりがないくらいにおなかがすく、そこへ「旬の物」とくれば、嫁さんばかりか、親やも子どもでも、誰にだって食べさせたくなくなるのでしょうに。それなのに「嫁に食わすな」という表現ばかりが残っているところをみると、そこには驚嘆すべき事情が隠されていたと疑ってみたいのです。

  実は、…と言いたいところですが、この駄文では、止めておきます。「嫁に食わすな」とは、「嫁いびり」「嫁いじめ」だったんだというのが世間の相場です。そういう面もあったんでしょうが、それだけではなさそうだという見当は、ぼくにはついているのです。なぜなら、今だって「嫁いびり」ならぬ「女房いじめ」が後を絶たないからです。ぼくに新説や陳説があるわけもなく、ただ、この島社会において「嫁」という存在がいろいろな問題を抱えていた、そこにこそ、ことわざ(言葉遊び)の所以があるのではないですか、とぼくはみているのです。今でも「嫁に出す」「嫁を取る」「嫁を貰う」などという古語が使われているのかどうか。それが何の違和感もなしに使用されていた時代を想像することは困難になったのです。「嫁」を「やりとり」して、家と家が結合する。これが「結婚」のいわれでした。家と家をつなぐ「道具」(というのはあまりにもひどい言い方ですが)、そのような用いられ方をしていた時代は長かったのです。家制度です。(明治民法というものが、どんなに根強く女性の位置や「戸主」を中心とする「家制度」を保持していたかがわかるのですが、ここでは触れません。大まかに言えば、「籍を入れる」というのは、他家の戸籍に入るという意味(入籍)です。今は婚姻したもの同士が新たな戸籍を作るんですね)

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○ 嫁=息子の妻。家父長制下にあった日本では,いわゆるシャモジワタシを受けて主婦となるまでの期間の妻をさす呼称であった。当時の嫁が,一家の主婦となるまでには,長い試練の生活を強いられるのが普通で,新潟県佐渡の「添うて7年子のある仲だ,嫁にしゃくしを渡しゃんせ」という民謡などにも,その間の事情はうかがわれる。しかし,家父長制の崩壊した新憲法下の今日では,嫁と主婦との間に,かつてのようなへだたりはなくなってきている。(ブリタニカ国際百科事典の解説)

 「嫁」は、かつては「主婦」になる前の呼称だった。「家刀自」(いえとうじ・いえとじ)などと呼ばれたのは一家の主婦で、嫁と主婦とは別の物という理解があったのです。いわば、嫁は半人前の位置づけでした。跡取りを産み、育てて、やがて世代交替というか「主婦の座」を占めるところまでは苦労や忍耐は当然視されていたのでした。(「嫁して三年、子なきは去れ」などとも言われていました)だから「嫁に食わすな」というのは、嫁から主婦へ、そのような経路が厳然と存在していた時代に生み出された諺(ことわざ)ではなかったでしょう。この家刀自は相当に古い使用例があるようです。

○ 家刀自=女性に対する古風な尊称。現代でも旧家の女性に対して使われる。古代の后妃(こうひ)の称号の一つである夫人(ぶにん)も和訓はオホトジである。戸主=トヌシの約かともいうが不詳。7~8世紀の石碑・墓誌に豪族層女性の尊称としてみえ、『万葉集』にも「妣刀自(ははとじ)」等の例がある。さまざまなレベルの人間集団を統率する女性が原義か。族刀自的なものから家刀自へと推移するが、古代には里刀自や寺刀自もいて、後世のような主婦的存在に限られない。後宮(こうきゅう)の下級女官(にょかん)にも刀自がいた。(ニッポニカの解説)

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 「刀自」(あるいは「杜氏」とも)という語についても語りたい気がするのですが、長くなりそうなので我慢します。併し、そのさわりの部分だけを少しばかり出しておく。「蟀谷(こめかみ」と呼ばれる部分が人間の身体(顔面の両側)にあります。米を噛むという行為は、太古ではきわめて神聖な行為でありました。主として女性が司っていたのです。米を噛むとは、何のためか。言うまでもありません、神にお供えするための「お酒」を造るためでした。(ここまで)

○ 顳顬・蟀谷(読み)こめかみ〘名〙 (「米噛(か)み」の意)=耳の上、髪の生えぎわの部分で、物を噛むと動くところ。こうがめ。しょうじゅ。〔十巻本和名抄(934頃)〕※金貨(1909)〈森鴎外〉「右の外眦(めじり)から顳顬(コメカミ)に掛けて、大きな引弔(ひっつり)があるので」(精選版 日本国語大辞典の解説)

 今の時代、右も左も上も下も、すべが「サバを読む」時代です。いったいどうしたというのでしょう。一口で言うと、「誤魔化す」というのです。なぜ誤魔化すのか、その理由はそれぞれでしょうが、自分をも偽りながら他人をだますのが人生の流儀というか、そんな流儀が「主流」になったのかもしれません。「サバ」には悪いのですが、人間はとめどなく悪くなるし、反対によくもなりますが、しかし今は間違いなく「サバ読み時代」です。「人が悪くなった」んですね。老いも若きも男も女も、サバを読むのに飽きることがないのかしら。サバに飽いたら、「鰯(いわし)を読もう」「秋鰯は莫迦に食わすな」とわいわないが、今では鰯は高価な魚になったんですね。

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投稿者:

dogen3

 語るに足る「自分」があるとは思わない。この駄文集積を読んでくだされば、「その程度の人間」なのだと了解されるでしょう。ないものをあるとは言わない、あるものはないとは言わない(つもり)。「正味」「正体」は偽れないという確信は、自分に対しても他人に対しても持ってきたと思う。「あんな人」「こんな人」と思って、外れたことがあまりないと言っておきます。その根拠は、人間というのは賢くもあり愚かでもあるという「度合い」の存在ですから。愚かだけ、賢明だけ、そんな「人品」、これまでどこにもいなかったし、今だっていないと経験から学んできた。どなたにしても、その差は「大同小異」「五十歩百歩」だという直観がありますね、ぼくには。立派な人というのは「困っている人を見過ごしにできない」、そんな惻隠の情に動かされる人ではないですか。この歳になっても、そんな人間に、なりたくて仕方がないのです。本当に憧れますね。(2023/02/03)