毒を喰らわば皿まで、一蓮托生は御免だね

【有明抄】横断歩道 信号機のない横断歩道で、小学生の男の子が道路を渡ろうと立っていた。車を止めると、男の子は渡りきったところで、くるっとこちらを向いて頭をぺこり。「ありがとうございました」と元気な声でお礼を言った◆礼儀正しく、すがすがしい姿を見送りながら「止まってあげてよかった」と善行をしたような気分になる。でも、ちょっと待てよ◆本紙「ひろば」欄に分かりやすく説明した投稿(2日付、古川安市さん)が載っていた。お礼をするのはマナーの範疇(はんちゅう)だが、車が止まるのは交通ルールだと。横断歩道を渡ろうとする人を確認したら、車は一時停止しなければならない◆JAF(日本自動車連盟)は毎年、信号機のない横断歩道で一時停止の状況を調べている。昨年の調査によると、一時停止した車の割合は全国平均で21・3%。約8割は歩行者が渡ろうと待っているのに停止しなかった。佐賀県は全国平均を下回る18・1%。最近は停止する車が増えたような気もするが、まだ認識は低いようだ◆春の交通安全県民運動(15日まで)が展開されている。この時季は通学に慣れていないピカピカの1年生もいる。夢と希望にあふれた命が渡っていると思えば、止まらないという選択はない。律儀におじぎをする子どもたちを前に「止まってあげた」と、いい気になっていては恥ずかしい。(知)(佐賀新聞Live・2021/04/09)

 ほとんど毎日のように、車を運転します。何処に出かけるにも、行先までは最短でも十キロはありますから、歩道が完備されているならともかく、体すれすれに車が疾走するような道は歩きたくないからです。これまでに何回か、実際に道を歩いていて、車に接触された(した)こともあります。ぼくは車に乗る人間ですけれども、歩行者としては車は大嫌いになっているのです。時には、蹴っ飛ばしてやりたいと思うこともしばしばです。田舎だからではないと思いますが、運転の程度や態度が話にならないくらいに低劣な輩が多いし、所かまわずゴミを捨てる、大小にかかわらずに放棄する奴も多くて、ほとほと呆れています。

 「有明抄」氏の指摘はその通りで、「止まってあげた」はいい気なものでしょう。「売ってあげた」といって、客が「ぺこりと頭を下げた」と、いい気になるのは商売人の風上にもおけない。もちろん法律順守が当然なのだから、とやかく言うこともない。でも歩行者が渡ろうとするのに止まらない不届き者が目に余ります。また、交通安全教育が行き届いたせいか、「律義にお辞儀」する(させる)のもどうかと思うぜ。「手を挙げて横断歩道を渡ろうよ」という標語は、きっと官製(国家公安員会とか)だと思いますね。官に忖度したか。「欲しがりません 勝つまでは」、「注意一秒 怪我一升」。なんという無機質な、あるいは非人間的な「標語」だろうか、ぼくはいつもそのように感じてしまう。戦時中の「国家総動員」風の「交通事故撲滅」や「違反全滅作戦」が仕向けた、標語乱発でしょうか。もっと明るく朗らかに、そういうものが欲しいですね。以下のものは、ぼくには意味不明のせいもあって、理解するのに時間がかかりそうです。だから、これを運転中に見るのは、かえって危険か。

 「法律を守ったからどうだ、えらいだろ!」という気になるのはどうだ、と言いたいね。そんな運転手にお辞儀させる「交通安全教育」というのもふざけてるじゃないですか。もちろん、法律は無条件で守るのが当然とは思いません。どうしようもない法律もあり、それを認めない人が増えれば、やがて法律は消えるか変えられるのです。このところ、そんな出鱈目な法律が多すぎる。状況や事実があって、それが社会に害悪をもたらすと見れば、それを停止させるために立法措置が取られるのでしょう。法律も条例も、制定の基本条件は同じです。ところが、現実には、そのようにいかない、場当たりなものが目に付くし、作る側の勝手な意向が働くだけのものなど、じつはそれはとんでもない「治安維持」「公共の福祉」を理由にするための網の目の一つだったということになりかねないのです。実際、職業選択の自由が抑圧されかかる(営業自粛命令)のは、「公共の福祉を害し、公共の安寧を乱す恐れがある」とでもいう屁理屈を持ちだすからではないかと、いいたくもなります。正直者を懲らしめるのは「悪政」「圧政」そのものですよ。

 「マンボウ」などというわけのわからない名前があるけど、法律でも条令でもないのに、違反(というのもおかしいが)すれば過料を取るという、へんてこで「憲法違反」の「お触れ」が幅を利かせているのです。どうなっているんですか。「まん延防止等重点措置」なる、効果も法的根拠もあいまいなままの、中途半端な「お触れ」のことです。「緊急事態宣言」では効果がないからと、先頃、それは解除されたばかりです。それなのに、今度は「特別措置」だという。条例でもないのに、知事は「命令」できるし、それに応じなければ「過料」が伴う。なぜ、こんなお手軽とも思える疑似「条例まがい」を出したのか、背景や理由はいろいろでしょう。しかし、好き放題を政治家や官僚行政側がやっても、この島の住民はおとなしいから、問題はないとでもいうのでしょう。気が付いてみれば、がんじがらめに、出鱈目な法網にとらえられていたとなりかねない。

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 「例えば、対象を全ての飲食店にするか、酒を提供しない店は外すのか。知事は命令発令前に『専門家の意見を聴かなければいけない』という規定を設けるというが、集中的に一定期間の時短営業をすればまん延防止を確実に達成できると、感染症の専門家でも立証できるのか。未知のウイルスが相手だ。科学者の判断が絶対に正しいと言えないままに政治家が最終判断するところにこの法律の難しさがある」「過料をムチ、財政支援をアメとすれば、十分な支援措置で時短命令に応じるよう事業者を誘導できるならアメだけを使いなさいというのが憲法解釈上の必要最小限度だ。アメとムチをいつでも両方使えるのではなく、ムチはあくまで最終手段。そうした配慮を欠けば、過料が過剰規制として『営業の自由』を侵害し、違憲と判断される可能性がある」(「上智大・高見勝利名誉教授に「まん延防止等重点措置」を聞く)(東京新聞・https://www.tokyo-np.co.jp/article/83153)

 このコロナ禍はまだまだ続きます。少なくともまだ二年や三年は「我慢の時」を送らなければならないでしょう。それがいつ終わりになるか、この島の為政者(いるのですかね)の「無能ぶり」が癒えるならば、時間がかかってもやがて終わりになる。しかしそれはまるで「夢」です。馬鹿に付ける薬はないと言いますけど、「無能」は莫迦よりも始末に悪い。「無能」は、金銭欲も名誉欲も権力欲も、常人の何倍も欲しがる。それだけ強欲なんですね。そのためには戦争でも始めかねないのです。それくらいに始末に負えないと、ぼくは見ています。「無能」栄えて、国滅ぶ、そんな経験をこの島人は何度か経験してきたはずなんですが。

 「新型コロナ」が中国で発生した。野蛮な国だから、ざまをみろ、と。そんなものは大したことはない。この島に来る前に防止するから、心配はいらない。大型クルーズ船で「感染者」が発生した。横浜に来たが水際作戦で防止できる。隅田川の屋形船で「感染者」が発生した。まったく大したことはない。各地で少しずつ感染者が増える。この道の専門家は「これはインフルエンザみたいだから、怖がることはない」「その内に消える」「病院内で感染、クラスターが発生」。でも大流行にはならないと専門家。「病院に行くな」「PCR検査は無用」。イソジンで治る、と関西圏の「無能知事」いわく。劣島中に、徐々に感染拡大、全国の学校を休業。「緊急事態宣言」発令、これで感染を防いだ。日本型モデルは世界に冠たるものだ、と「無能総理」。「無能総理」が寸足らずのマスクを、税の無駄遣いで配布する、これで万全といいたげだった彼の無能度は完璧でした。

 以来、一年経過しても「無能総理」のレベルに改善の兆しは見えないどころか、さらに悪化しました。莫迦をはるかに超えた「無能」が権力掌握をはたしています、やがて島民の息の根を止めるでしょう。万事休す、です。バントすべき時に、バットを振りまわす。見逃せと言われたのに、あえて悪球に手を出す。「この一球だ」という肝心要の際に、みごとな空振り。これが野球なら構わない、負けても命は取られないからね。監督が無能な野球チームはいくらでもあるから、無能・無力の監督がいてもいいでしょ。しかし一国のソーリが無能・無知なら、その影響(被害)は止まるところを知らないのです。原発政策一つとっても、その危害や災厄は果てしもないことを知るべきです。

 莫迦だ無能だと言いた放題に悪態をついているようですが、それは人民の災厄を最小限にとどめるには、そいつらでは到底無理だと考えるからです。一日でも、一時間でも早く辞めてもらいたい。では、その次はだれに、と言われるでしょうが、それはいらないさ。いるだけで危険極まりないのなら、いない方がまだましというものです。下手な鉄砲も数撃ちゃ当たるらしいが、標的と反対方向に撃っても、一発も当たらないのは確実です。現職の「権力亡者」はその類の典型です。まるで火事場泥棒で、人民の苦難を利して、己の権力の保持・維持しか狙っていないのだから。いったん握ったら、死んでも放さない、まるで木口小平さんだ。人民の不幸、この上ないね。毒を食らわば…、というのか、そんな愚連隊に付き合っていられないさ。

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投稿者:

dogen3

 語るに足る「自分」があるとは思わない。この駄文集積を読んでくだされば、「その程度の人間」なのだと了解されるでしょう。ないものをあるとは言わない、あるものはないとは言わない(つもり)。「正味」「正体」は偽れないという確信は、自分に対しても他人に対しても持ってきたと思う。「あんな人」「こんな人」と思って、外れたことがあまりないと言っておきます。その根拠は、人間というのは賢くもあり愚かでもあるという「度合い」の存在ですから。愚かだけ、賢明だけ、そんな「人品」、これまでどこにもいなかったし、今だっていないと経験から学んできた。どなたにしても、その差は「大同小異」「五十歩百歩」だという直観がありますね、ぼくには。立派な人というのは「困っている人を見過ごしにできない」、そんな惻隠の情に動かされる人ではないですか。この歳になっても、そんな人間に、なりたくて仕方がないのです。本当に憧れますね。(2023/02/03)