
明治維新を達成した日本にとって、近代化に遅れた国として、西洋諸国が何世紀もかけて蓄積してきた「文明」を一年でもはやく仕入れることは至上命題であった。そのために学校で採用されたのが一斉授業だった。教師が話し学生・生徒はそれを記録する。教師の話を暗記するのが学生・生徒の勉強であり、収入(話された内容・量)と支出(記憶された内容・量)の符号の程度を調べるのがテスト(試験・考査)でした。「帳簿勘定」の学問といっていたほどです。試験の結果、優秀な記憶力の持ち主で、教師によって従順、優秀な学生・生徒だと判定された人材が引き抜かれ、大学生だったならば、国の費用で欧米に長期の留学を命じられたのです。(上は東京帝国大学の「講義」風景)
見事に欧米の学問を仕入れる(摂取する)(暗記する)ことができた段階で留学組は帰国し、それ以前のお雇い外国人に代わって大学の教壇に立ったのです。多くは二年や三年が当たり前の官費留学だった。本場の研究成果をそっくりそのまま、一切手を加えないで本国に持ち帰ったのです。このような留学、帰国の方法は、奈良時時代以来、この島の習い性となっていました。例えば遣隋使や遣唐使を考えれば、明らかになるはずです。当時は「留学生(るがくしょう)」と呼ばれ、死を覚悟しての外国留学だった。当地滞在も長短さまざまでしたが、多くは五年を超えるものでした。仏教や儒教などの、この島における普及は、すべてがこの留学生たちの仕事の結果でした。空海や最澄、道元や栄西などの傑出した学僧たちの業績は多言を要しません。彼らが元還ったのは、宗教というよりは「学問」でした。その学問を後生に伝えるために開かれたのが「五山」という、いまの「大学」、それもほとんどが「国立大学」でした。

○ 日本古代の朝廷が唐に派遣した使節。目的は国際情勢を知り,大陸文化を輸入することが主。使節団の構成は大使およびその使人,留学生・学問僧らの随員,知乗船事(ちじょうせんじ)以下の船員の3者。一行は240〜250人から500人以上に及び,ふつう4隻に分乗した。多く2〜3年で帰国。7世紀には朝鮮沿岸経由の北路,8世紀には東シナ海横断の南路が通例。後者は危険だったが速かった。遣隋(けんずい)使のあとを受けて630年の大使犬上御田鍬(いぬがみのみたすき)が最初。894年の大使菅原道真(みちざね)が唐の衰退,航路の危険などを理由に中止。その間の派遣は合計13回,中止は3回,他に使人を迎える迎入唐使(げいにっとうし)が1回。(マイペディアの解説)
自前で学問・芸術などを生み出すことはせず(金と時間の節約が原因だったでしょう)、「文明国」とされた地域や諸国の学問・技芸を直輸入する、それは今日まで続いている、島の「お家芸」であります。留学と言えば、殆んどが欧米であって、それ以外に出かけることはきわめてまれなことでした。「先進国」とみなしたところから、新しい学問や技術を学ぼうとしたのです。遅れていたからこそ、促成栽培という方法がとられたのです。明治維新は長期間の鎖国時代を継いでいたので、なおさら、「新文明」の受容・輸入には熱心でありました。その受け入れ機関となったのが、明治十年代以降に、国家によってつくられた大学だったのです。国を作る仕事を若い革新家ー維新の志士と言われる人々ー彼らが担った。その後国家が作った官営・官立大学によって、西欧知識の普及が始まり、その内容を島の各地域に広げるための役割を、中心的に担ったのが、明治半ば以降に創設された、各地の「帝国大学」と称された機関でした。

○ 東京大学=東京都文京区に本部を置く国立大学。起源は江戸幕府が設立した開成所と医学所(西洋医学所)。両者の後身である東京開成学校と東京医学校を合併,1877年日本最初の官立大学として東京大学を設立。1886年帝国大学となり,1897年東京帝国大学,1947年東京大学と改称。1949年一高(1886年創立),東京高校(1921年)等を統合,新制大学となる。2004年4月より国立大学法人へ移行。教養,文,教育,法,経済,理,医,薬,工,農の各学部(2012年4月現在)。史料編纂所,社会科学,社会情報,東洋文化,医科学,地震,生産技術,原子核,物性などの各研究所を付設。(百科事典マイペディアの解説)
この「西洋文明」受け入れ機関が「帝国大学」と称されたのは実に象徴的でした。 そもそも「帝国」とは、西洋列強をさして使われた言葉であり、日本がお手本とした英・独・仏などは、すべて他地域に植民地を有していたし、更に領土の拡張を目指して「侵略」を厭わなかったのです。つまりは「植民地」を持ち「領土拡大」を意図する国を以て「帝国」と呼びならわされていた時代です。(「ローマ帝国」「大英帝国」などと)この小さな島が、よりによって「帝国」を望んだのが滑稽でもあり悲劇でもありました。なぜ「帝国」であろうとしたのか。「侵略」や「植民地化」を恐れたからです。その帝国主義信仰を根底から支える役割(先兵)を科されたのが「帝国大学」だった。大学を手始めに、学校が継続して持ってきた不幸は創設期に始まっていたというべきです。教育は国家の管轄・管理の下に置くという「通念」が今でも継続しているのです。

この官立の東大にみられる講義(授業)風景が、それ以下の学校のお手本となりました。個人をじっくりと育てるのではなく、促成栽培で乱穫を期するのが習い性となったのです。教える・教えられるが教育となった時代、あるいは試験万能の学校教育時代の始まりです。それ以降、留学の仕方も授業の方法も、試験偏重の風潮も、ぼくたちの社会の根づよい伝統となってきたのは承知のとおりです。教育制度(明治五年)と軍事制度(明治四年)が同時に誕生したのは象徴的な出来事でしたし、学校教育は、最初から意図的に歪められた役割を持たされてしまったのです。ぼくは何の知識も持たない段階から「帝国」という語感にアレルギーを示していました。「ていこく」というのは、何も大学に限らないことで、島全体ん「帝国」観念はいきわたったのです。「帝国」は戦後には「国立」と名称変更されましたが、多少なりとも、本性たがわずという傾向は続いてきたのでした。
少々わき道にそれました。閑話休題です。
科学技術、科学文明、あるいは機械文明などという合言葉でもてはやされた二十世紀、そのような工業化を競った時代にはげしく求められたのが「教える」「与える」に特化した学校教育だった。文明開化に基づく「工業化」を推進した国家が求めたのは良質の労働者を大量に産出する教育装置だったのです。制度化された学校は一手にその要求を引きうけることになりました。その反動で「育てる」教育は無惨にも放棄された。「教」をたのみ「育」をつぶすような教育が生みだしたのはどのような人間(像)だったか。時間がかかることは経済的に割に合わないのは製品生産でも人材育成でもおなじでした。そこで求められたのは国家(教師)の要求に応じることができる人間、すなわち器用・素直な人材、いかようにも変更可能な「素材」としての大量の子どもたちだったのです。
この傾向は今も続いていると言えます。「大学の機能(役割)」というものは、一人一人の人間を時代社会の要求する製品に仕上げることです。帝国大学を筆頭に、各種の学校はこの機能を驚くほど忠実に果たしてきた歴史に偽りはありませんでした。別の角度から言えば、日露戦争の終戦まで、「明治という国家」を手作りで生み出した人々が存在していましたが、それ以降は、その国家が作った大学によって「加工生産」される人間が生み出されて、今に至っているのです。ものを作る人と、ものによって作られる人、その二種類の人間の差異はどこにあるのか。自分で工夫する能力と、与えられたものを吸収する能力は、類を異にしています。

欧米並みに「近代化」(工業化)するために求められたのは「与えられたものを吸収する能力」を多分に持った人材でした。「教えられる人」が、もっとも要求されたのです。おそらく明治後半から、あるいは「日露戦争」後と言い換えてもいいでしょうが、教師から教えられる優等生がこの社会を支えるはめになったし、彼や彼女たちは社会的には高い評価を獲得することが出来たのです。そこからはいろいろな間違いや失敗が生み出されたのは否定できません。教えられる教育、与えられる教育は「勉強」によって支配されていました。教える教師がいなければ、学校も教育も始まらないという、奇妙な事実がそれを示しています。「教える人」と「教えられる人」という役割分担で、この島の学校教育は安泰だったかもしれませんが、このままでは先の展望がない、そんな隘路入り込んで、かなりの時間がたったように思われます。政治も経済も、世界規模のランキングを気にするものではありませんが、目に見えて衰退している現状は何を教えているのでしょうか。学校化社会、教授万能時代の終わりはもうすでに、かなり前から始まっているのです。

出題範囲が決まっているという「試験」は、受験する側の何を測るんですか。「勉強」という言葉には、したくない、気が進まないのに、無理にさせられる「学習」というニュアンスがありはしませんか。学校はこの「試験」と「勉強」の二輪車で走って来たし、その二輪車に無理矢理に子どもたちを乗せ、「時代の要求・要請」に合うように子どもたちを加工してきたのです。でも、もうこのような問答無用の「強制教育」は通用しない時代になったと、ぼくは相当前から実感しています。昨今の大学の耄碌・錯覚ぶりは手に負えない事態に陥っており、そんな大学を目指すだけが高校や中学校の役割(使命)だということが、強烈な「時代錯誤」なのに、という事態に気が付かないうちに、この島はかなり沈没してしまっているのです。
学校用に養成される、「勉強」ができる人というのは、大したことではなさそうです。怠け者で劣等生だった人間が言うのですから、信用してもらえないでしょう。でも、ぼくは気(意識)は確かなつもりです。学校優等生は、あらかじめ決められた出題範囲を超えた「問題」には答える術をもたないのです。実際に生きていく道中には「出題範囲」が決まっている問題なんか、一つだってありません。ぼくにとって、「考える」というのは悩むということでした。「悩み」は時間だけが解決してくれるのかもしれないと、気長に「悩み(問題)」とつきあってきたというか、そうするほかなかったのです。どう生きるか、それも亦、学校で教師から教えてもらわなければならないのですか、それに気付けば、もう自分の足で歩くほかないのです。歩幅や速度は、誰も「自分流」に限るし、誰とも競争しないでいいのです。

面倒な言葉を使うと、それは「哲学」の核心だと、ぼくは悟った、「あっ、そうか」と合点が行ったんです。言うならば、哲学とは「自問自答」の積み重ね。終わりのない旅、目的地も定かではない旅行に出かけるような心持ちです。一時間以内で答えなさいとか、出された問題には「答えは一つだ」という、アホみたいな遊びなんかじゃ、太刀打ちできない問題が生きていく中に埋め込まれているんだね。この問題は学歴や出生・出身とは無関係に、ぼくたちに、時として生じてくるのです。(右写真は、長野県松本の「旧開智学校」)(この項、続く)
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