新入生の健康と安全を考慮し、「入学式」は中止

 新年度が始まりました。気分一新という具合にはいきませんが、各地では桜の見ごろが駆け足で北上する春のうららに新年度の出発式が行われつつあります。まずは学校の入学式。これはきわめて重要な儀式らしく、あだやおろそかには取り扱えない代物のようです。昨年はコロナ禍の始まりで軒並みに「中止」されました。もし強硬に開こうものなら、何を言われるかわからない事態だと受け止められたのでしょう。一生に一度の晴れ舞台(かね?)が台無しになったのですから、その穴埋めをしなければと関係者は無い知恵を絞り(ない知恵は絞れないのが本筋)、あの手この手で理屈をこねて開催したのです。もちろん、現下の社会情勢を鑑み、中止のやむなきに及んだところもあります。(「大学の式」を材料として駄弁ります)

 とにかく入学式を開きたいというのか、開催した大学が圧倒的に多い。あえていえば、それはまことに「不見識」だと、ぼくは思います。反対に中止にしたのは、それだけで「見識」があるということです。その基準でいえば、この島の大学には「見識」が著しく欠けているという話です。詳しいことは知りませんが、是が非でも儀式をやりたいのは大学の当局者ではないでしょうか。その証拠を、ぼくは小さな経験として何度か垣間見たことがあります。上の写真は本年度の京都(元帝国)大学の入学式の壇上(雛壇)の面々です。

 なんでこんな人たちが(入学式に)顔を見せるの、と言いたくなる人までが列席しています。これはなんの呪いなのか、「のろい」ではなく「まじない」と読んでください。ぼくは小さいころから「式」と名のつくものは大嫌いでした。結婚式はもちろん入学式や卒業式、時にはお葬式も含めて、「形式ばった」「心ない仕業」、そんな「空・虚・無」が大嫌いだった。まともに、入学式や卒業式に参加した記憶はありません。自慢したいのではない、ホントに人混みがいやなんです。中・高の入学式は仕方なく出た気がします。(昨年は関西地方では、感染者が十人や二十人程度で、危険だからと「入学式」は中止(正解でした)、今年は九百人にもなろうか(大阪)というのに、「安全を担保」して「強硬に挙行」という愚行ぶり(まったくの不正解)、なんというボケか。あんたら、「アホか」と言葉の礫(つぶて)を投げてやりたい。また、のこのこ出かける新米の学生もどうかと思うね。判断力はあるか)

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 「…詩人高村光太郎の『道程』という約100年前、大正3年に書かれた詩は、「僕の前に道はない。僕の後ろに道は出来る」という有名なフレーズで始まります。これからみなさんが自由な心で自ら切り開いて進んでいかれる後には、みなさん一人一人の歩いた道が必ずできるはずです。そのために京都大学は、できる限りの支援をさせていただきたいと考えています。」(京都大学湊長博総長「式辞」)

(わが身をを棚に上げておいて、無体なことを「いわはる」総長ですね。「まず隗より始めな」、といいたい)

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 事ほどさように、儀式というのは形式だけを売り物にし、中味はまったくの虚です。その証拠には事欠きませんが、昔から大学の総長や学長の「識字」じゃない「式辞」などが文字化されたのを目にする機会がありました。ある時期のものに「太った豚になるよりも、痩せたソクラテスになれ」といったと新聞が騒いだことがありました。さすが旧帝大の総長だとか、なんとか。そんなアホらしいことを、わざわざ記事にしなくてもいいでしょうと、ぼくはその時も感じました。

 ぼくはこれまでに、なんですか、これはと、驚愕してしまうような「浅薄式辞」を何度も目にしました。(耳にしたことはない、理由は簡単です。危うきに近寄らなかったから)こんな大学に入らなくてよかったと、しばしば胸を撫でたものでしたが、アッと気が付いたとたんに目が覚めました。ひどいもので、その(驚愕式辞の)当人から本をもらいましたから、探せばどこかにあるかも。つまり一世一代の「演説」「説教」「講演」「恥さらし」=「顔見世」というお芝居をやりたく、お客を満員にして(入場料は戴いたし)見せ場を作りたいと念願しているのは、実は大学の総長やその他幹部連中だというのが実態でした。今でもこの犯罪的行為は続いていると邪推しています。学生も誰も収容しないで「無観客」でやればいいじゃない。客も選手も集めない、東京五輪のように、さ。去年の分までやった大学がありました。いったい、どういうこと。「空無な式辞」を聞かせたいからですか。

 右の写真は京都の南座です。南座では毎年末に恒例行事として(顔見世興行)を挙行していました。ぼくは実際に観たことはありませんが、ニュースでは馴染んでいました。「顔見世(読み)かおみせ=歌舞伎の興行用語。江戸時代,各劇場が毎年11月から1年契約で俳優を雇う制度だったとき,新契約の俳優を披露する11月興行のこと。江戸中期〜幕末まで劇界最大の行事として続いた。明治以後この制度はすたれたが,名のみ残り,京都南座では毎年12月,さらに東京歌舞伎座でも11月を顔見世と称し,人気俳優を大勢集めた興行を行っている」(百科事典マイペディアの解説)同じく辞書の解説です。「…江戸では新座組が定まり,10月17日の夜〈寄初(よりぞめ)〉の式が,楽屋3階または芝居茶屋の2階で開かれた。中には同じ座に居すわる役者もあり,これを〈重年(ちようねん)〉〈居なり〉と称えた。俳優の振りわけは江戸三座の太夫元,金主らが列席しての談合で定められ,場合によってはくじ引きできめられた」(世界大百科事典 第2版の解説)

 この部分について、もうすこし駄弁りたいのですが、場違いですから止めておきます。ぼくは歌舞伎は数回しか劇場に足を運びませんでしたが、落語で「歌舞伎もの」は堪能するほど聞きましたので、事情は知っているつもりです。ようするに、「役者の顔見世」で金儲けも兼ね合わせていたというのが実情でした。大学の入学式も、なんだか「顔見世」興行的じゃないでしょうか。儀式の舞台に並ぶ猛者連を「役者」と言っていいかどうかわかりませんが、教場その他で、それなりの「いい芝居」をして渡世を送っている面々ですから、まんざら嘘でもなさそうです。ある大学など「四月一日」が入学式の恒例日でしたが、その「顔見世」で、総長がどんなに自らの大学の「優秀性」「世に冠たる。私学の雄」と(自分の大学を、そのように)言い讃えても、誰も信じなかったとされます。四月二日でもダメでしょう。

 優秀性、卓越性というのは、どの大学もが虚勢を張って騙りたい(売り込みたい)メッセージでしょうか。入学式はその絶好の商機です。ぼくは、この旧帝国大学のキャッチコピーというのか、己を省みず、凄いことを言ってるねと、取り上げてみたくなりました。その意味するところは、ぼくにはよく理解できませんが(大学が言っていることと、卒業生や、教師たちがやっていることとがまったく異なっているのですから。しかし、これはなにも、この大学には限りません)、とにかく自惚れ(別言すると、他人を馬鹿にするということ)の凄さは群を抜いているでしょうね。ちなみに、この旧帝大は近々、日本武道館で入学式を虚構(挙行)するそうです。なお、現総長は「コロナに感染」で欠席されるのかも。あるいは「総長選挙」で怪文書などが飛び出したり、選出過程に疑義ありとされたための心労から、「免疫力」が落ちていたのかもしれません。ご回復を祈ります。

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 本学総長の新型コロナウイルス感染について     2021年4月5日

本日(令和3年4月5日)、本学藤井輝夫総長が新型コロナウイルス感染症の陽性と判定されました。/ 都内病院に入院し療養  濃厚接触者等の情報については調査中です。 / 今後、保健所と連携を取りながら、感染拡大防止策を適切に行う所存です。/ 本学は、今後も「東京大学新型コロナウイルス感染防止対策強化指針」に従って、感染防止に努めます。    (本件担当) 東京大学本部広報課

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 現下のコロナ禍の進行具合は、おそらくこれまでになかったほどの速さと広がりを持って、劣島に蔓延することでしょう。飲食をはじめ、各業界は政府や行政の無能・無為・無策もあって、死命を制せられるばかりの苦しみに喘いでいます。「死者」も、いっこうに減少する気配がありません。この時期、企業もテレワークを推進し、可能な限りで人が集まり、混雑するのを避け、「蜜状態」回避に躍起になっている最中です。入学式や卒業式に出なければ、あるいは開催・挙行しなければ、人間(男・女)が廃るというのなら、そんなの廃ればいいじゃないか。「中止」にされたから、この世は闇にでもなるはずのものでもないのですから。

 上にも言いましたが、大学当局が現下の状況から、「式は中止」と言えば、誰も来ない。だから、どこのどなたが「式」をやりたいのか、一目瞭然です。生命の危険を可能な限り少なくするという義務・責務を果たせばいいだけだし、入学式に出たから、向学心が湧くとか、大学が好きになったなどという手合いがいるとも思えません。もしいるなら、今からでも入学を取り消した方がいい。自分で学ぶ、自分の頭で考える、そして自分の足で歩いて生きる、これは大学なんぞに行けば、きっと損なわれてしまう能力です。今からでもいいから、入学するのを止めたらどうですか、余計なおせっかいを焼くようですが。災厄に見舞われている最中の「入学式」などという無意味な「顔見世」は止めるに越したことはない。急いで顔を見ないでも、見せないでも、そんな「愚顔」など、これからいやになるほど(教師にも学生も)見せつけられるのですから。見る機会は一回でも少ない方がいいに決まっているし、「自宅」学習なら、もっといいんです。自学自習が何よりです。「自由」という言葉は知っているけれど、縛られたい人が多すぎる世の中って、変ですね。

 「 自由な心で自ら切り開いて 」というのなら、学生を集めないこと、のこのこ出かける連中に「自由な心」と言い聞かせるのは、なんとも悪い冗談です。これを冗談で言う学長なら、この大学は、まだ救いがあるかも。大学の「終わりの中頃」を目の当たりにするようです。大学の終焉という最期が迫っています。

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。