〈いわせてもらお〉

■高齢出産 娘(27)のバッグを借りて、電車に乗った時のこと。満員だったので立っていたら、目の前の若い男性が席を譲ってくれた。座ってしばらくして、その理由に気付いた。バッグに「おなかに赤ちゃんがいます」というキーホルダーが……。お産を終えたのだから外して欲しかった。 (静岡県磐田市・おなかの脂肪が育ってます・56歳)
■ARASHI 英会話教室で「私は昨日、嵐のビデオを見ました」と英語で話した。すると外国人講師が自分のまつ毛を指さし、「コレ?」と聞き返したので、「日本の有名な歌手グループです」と説明したら、通じた様子だった。家に帰って辞書でまつ毛を調べたら「アイラッシュ」とあった。 (福岡市・なるほど、発音が似てますね・59歳)
■セレブ 9歳の息子が「怪獣で一番、人気があるのは?」と聞くので、私は「お父さんが好きなのはウルトラマンに出てくるゼットンだけど……」と言うと、息子は首を振った。「そうじゃなくて、世界中で一番人気があるのは誰?」。「せ」が聞こえなかった。 (東京都八王子市・レディー・ガガ……とか?・50歳)
■追い込み 高校3年で受験生の娘が、テスト期間中だというのに、早い時間からベッドに潜り込んで寝ていた。「具合が悪いの?」と尋ねると、娘はか細い声でこう答えた。「『文字酔い』した……」 (川崎市・受験生が文字に負けるなんて~・55歳)(朝日新聞・12/12/15)
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今でもあるのかしら、「いわせてもらお」欄は。ぼくは紙製の新聞は読まなくなって何年にもなります。読まない理由は「詰まらないから」という一事に尽きます。記事の対象がつまらないというのもあるし、そのつまらなさを忠実に書くというつまらなさーつまらない文章表現でと、言う意味ですーもあるでしょう。でも、そのほとんどの理由は書く側の力不足です。同じ景色を描いても、素人と玄人では雲泥の差があるのが当たり前。とすれば、今どきの記者は「素人」さんですね。どんな教育を経験してこられたのか、親の顔ではなく、大学の顔が見たいといっても、無意味ですね。そんなつまらぬ記事の満載と、匹敵する量の広告が掲載されただけの新聞に金を払うなら、べつのところに寄付しますよ、というくらいに新聞の内容も記事も軽薄になり、陳腐になっていたと感じ入ったからでした。
しかし、そんな新聞でも、「川柳」「俳句」「投書欄」などがおもしろければ、じゅうぶんに購読する理由にはなります。この「いわせてもらお」もその一つ。考え抜かれたというか、直感でひらいめいたのか、とにかく「おもろー」というのが出ているのでよく記事を保存していました。こんな古い証文のような記事だけはPCに保存しているのですが、どれくらいの量があるのか。おそらく三十年以上も前からの悪習ですから、きっと埃をかぶり、パソコンの速度を遅くする原因になりながら、まだ「出番」を待っているのかもしれない、そんな気がしてちょっとPC内の倉庫から取り出し、埃を祓ったという風情です。いかがでしたか。いまもなお、新鮮ですね。新聞の本領たる「政治・経済・社会記事」など、二日もたてば、文字通り「旧聞」となり果(おお)せるのに対して、「おかしさ」というのか「ユーモア」というのか、これはいつも新しい。政治面は、いつの時代でも他人を出し抜いて利権を貪るという、古典的陳腐の一芸専門が売り物ですから、またか、もういいよと、敬遠したくなるのです。記事にしたとたんに読む値打ちが消えるものばかりです。それにしても政治に携わる御仁の魂が汚れ切っているのは、どうしてですか。「利権」というのはウィルスのことで、多くはこのウィルスに感染しているのです。PCR検査も有効ではなく、もちろんワクチン開発はどこもやっていないから、やりたい放題、感染し放題というのでしょう。この感染症は変異しないで増殖する、対峙・退治不能なウィルスに起因するものなんですね。そして政治を志向する方々は、ウィルスに感染したがるという摩訶不思議な人種です。

川柳は言うまでもありませんが、俳句は元来が「おかしみ」を指していった表現でした。「俳諧の句」が「俳句」になったのですし、その俳諧は、「こっけい・おかしみ・たわむれ」という薬味が効いた、洒落た「ことば遊び」でした。無駄話はよしますけれど、要するに、ぼくたちの日常に「おかしみ・こっけい・たわむれ」がないと、途端に角突き合わせ、喧嘩沙汰になりかねません。夫婦でも親子でも、事情は変わらないでしょう。赤の他人なら、なおさらそうなりやすい。「角突き合わせ」が骨身に染みる人(ぼくも入ります)、殆んどじゃないですか。「一見まじめ」の風を装うのは、「社会的規制」というか、「公衆道徳」とでもいうのか、いずれにしてもそれは、多くの人に共通する短所かもしれません。コロナ禍で「自粛警察」というお節介が言われたりするのも、その一つともいえます。余裕というか遊びがないというのは、考えてみれば、恐ろしいことですよ。何時だって「問答無用」となりかねないのですから。俳諧の効用とは、ごく小さな言葉表現に吹いている微風のようなものです。十七文字に吹く風のさわやかさ。それをこそ、「和風」というのではないですか。
「いわせてもらお」のこころも、「おかしさ・こっけい・たわむれ」で、これもまた不定形の俳句であり、川柳だとも言えます。真面目な俳句や謹厳実直な川柳というものがあるとすれば(そんなものはないに決まっています)、それはきっと床の間に飾られている「解読不明」の書であり絵ではないでしょうか。まるで血が通わない骸骨のようなもの。「わからないから、有難いのじゃ」と、ふところに計算機を忍ばせている葬式坊主のお経のような、そこには人間の不実・不誠実が透けて見えます。可笑しければ何でもいいとはいかない。今時のテレビの「お笑いオンパレード」を見るが如し、です。「枯れ木も山の賑わい」とはいいながら、いかにも寒々しいし、空々しいと言いたいね。空であり無です。(「人があつまれば賑やかになる」と解するのが近年では過半数を超えたと文化庁。かくして「言葉」は狂う、いや言葉を使う「人間」が狂う。「世は言葉を載せて変わる」といったのは徂徠だったか)
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同じ保存庫に「小沢昭一的こころ」がありました。ぼくは、たった一度だけ小沢さんにお目にかかったことがあります。数十年前でした。いやすれ違っただけというべきか。鳥打帽を被り、コソ泥のような恰好をして、あるところに出入りされていたのでした。この駄文集のどこかでも触れたと記憶しますが、彼の俳句が川柳すれすれの境地で、ぼくは偏愛していました。小沢さんは酒はダメだそうで、独りこっそりと押し入れに入って「塩せんべい」を齧るのが至福の時だという人でした。実に滑稽、おかしみが滲み出てきそうな存在でした。友人(今は亡き麻生芳伸さん)は、小沢さんと同じ句会につらなり、これも川柳なのか俳句なのか区別のつかない作を連発されていたのが、懐かしい。麻生さんの一句。「夕立や…飛び込むラブホテル」がありました。
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「天声人語」 小沢昭一さんは、変哲(へんてつ)の俳号で句作をたしなんだ。〈夕刊をかぶり小走り初時雨(しぐれ)〉。その夕刊の、雨よけに使えば真っ先にぬれる1面に、83歳の訃報(ふほう)が出た。怪しげな役で光る名優として、民衆芸能の語り部として、まさに変哲だらけの、代えの利かない才人だった▼〈竹とんぼ握りたるまま昼寝の子〉。永六輔さんや桂米朝さんらと楽しんだ作には、たくまざるユーモアの中に、小さきもの、弱きものへの優しさがにじんでいる。〈手のなかの散歩の土産てんとう虫〉▼40代から集めた大道芸や露天商、見せ物小屋などの記録もまた、消えゆくものへの惜別だろう。名も無い人々が放浪しながら、食べていくための「地べたの芸」だ。担い手と共に絶える間際、辛うじて映像や音声に拾われたものも多い▼研究者としての業績に、朝日賞が贈られた。2時間近い記念講演の終わり、都心の駅でハーモニカを吹く芸人を語ると自らも一曲。取り締まりに気づいて逃げ出す演技で舞台袖へと消え、喝采を浴びた▼TBSラジオ「小沢昭一の小沢昭一的こころ」は約40年、1万回を超えた。3年前、「ぼちぼち」のしゃれでお墓を取り上げた回に、「千の風」になるのは嫌だと語っている▼「ちっちゃい石ころ一つでもいいから、私の骨のある場所の目印、あってほしいな。そこから私ね、この世の行く末をじっと見てるんだ」。目印は大きめでお願いします。暖かくなったら、世相の笑い飛ばし方を教わりにお訪ねしたいのこころ、である。(朝日新聞・12/12/11)
《…私の好きな川柳で、「本妻のほうが美人で不思議なり」というのがありますが、これは風刺、また落語などによく出てくる雑俳で、「くちなしやはなから下はすぐにあご」というのがナンセンス、小林一茶の「春雨に大あくびする美人かな」という句なんかがユーモアにあてはまるのではないでしょうか。/ ただし、これははっきりいっておかなければなりませんが、だからといってユーモアが一番上等な笑いだとは限らないということです。風刺、ナンセンスも笑いとしては同等のものです》(小沢昭一「ユーモアって」)合掌。
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小沢さんに限らず、そこにいる、それだけでおかしみが溢れるような、なんだか「ポカポカ」するような心映えの人がいなくなりました。ぼくが知らないだけなのかもしれませんが、どうしても、この時代の多くの人が「おしなべて真面目風」と言いたい気もします。真面目は誠実とは違う。真面目は怖いという感覚がぼくにはある。戦争では「真面目に人を殺す」ごとく、まるで「殺気だった真面目さ」がこの世に満ち溢れているようで怖いですね。「一服の清涼剤」とか「癒し系」などとことさらに言うのではなく、そこに座っているだけでおかしい、温かい人、これは人徳なのかどうか。政治にも余裕というか遊びが欲しいと常々思っているのですが、無いものねだりでしょうね。「利権や利殖」に真面目な政治とは、積載量違反車のようで危険この上ありません。
「器の大きい人は、決して他人を軽蔑しません。」(俊)だからか、ぼくは政治家たちを罵倒し通しています。「器」が小さすぎますね。「度量が広い」という言葉がある。度は物差し、量は枡 (ます)を表わします。あるいは「器量」とも。どちらも容れ物などを指し、広さや深さの程度を言い、それを人間に準(なぞら)えてもいるのでしょう。「一寸の虫にも五分の神(たましい)」と先人たちは言い残しました。一寸の「器」は小さい、けれども、その半分が「神(たましい)」だというのですから、いかにも厳かで雄大ですね。
願わくば一寸の虫に変わりたし(無骨)しかも、おかしみがつまった「神・魂」になりたいですね。
椋鳥(むくどり)と人に呼ばるる寒さかな (一茶) 田舎者と侮(あなど)られる一茶が、「寒心」に堪えない気分を詠んだ句。
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