よく見れば薺花咲く垣根かな

<あのころ>国会前で麦作り 戦後の食糧難

1947(昭和22)年4月1日、戦後の食糧難は国会議事堂前まで麦畑に変えた。限られた配給米だけではとても足りず、誰もが空腹を抱えていた。都会では空き地や道路のいたるところが畑や田んぼになり、米や麦、芋などを植え付けて飢えをしのいだ。厳しい取り締まりがあっても農家で闇米を買う人は絶えなかった。(2021/04/01 08:00共同通信)

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 四月一日の配信ですから、おそらくこれはフェイク写真だろうと思いました。四人の女性の服装、いで立ちが、どうしても麦畑に似つかわしくないからでした。議事堂前が畑だったのは事実で、もちろん戦時下においても野菜などが作られていた。どう見てもこの写真(右)は「ヤラセ」だと思いますね。(インスタ映えとは言わないでしょうが)いや、そうじゃないこれは本物の写真で、歴史的な一齣なのだと言われれば、「そうですか」と答えておくばかりです。

 国会議事堂の建設から今日までの歴史を観れば、いろいろなことが浮かび上がります。その点については、いずれどこかで概観してみたいと考えています。左に、もう一枚の写真を出しておきます。これは戦時中のものです。ジャガイモやサツマイモなど、コメ不足をしのぐために野菜つくりに精を出しているのは、都会の住人でした。

ぼくは大学生の頃、高名な評論家だった室伏高信というひとが、どのような背景だったか忘れましたが、「いずれ、銀座になすび畑ができる」というような記事を書いていたのを見て、一驚したのを覚えています。彼は戦時中も活躍した人でした。それが戦後も数年もたって、なお「銀座に畑が」と言っていたのです。今でも、だから、よくよく目を凝らしてみれば、議事堂前には畑があり、何かを育てているのでは、と思わないでもありません。国会議事堂とはよくも言いなしたものだと、ぼくは呆れます。人民の不幸や悲しみには一瞥もくれず、ひたすら国の行く末を過つ方向に舵を取り続けてきた、場所そのものでした。戦争を始めたのも、ここにおいてでした。戦後の出発に当たって、アメリカの属国になるという選択をしたのもここにおいてだった。昭和11年(1936)十一月竣工。その年の二月には二・二六事件が勃発しています。また完成時の十一月には「日独防共協定」を締結。この島の将来を予想させる暗雲たれ込める中での「議事堂誕生」でありました。

 議事堂の中はとにかく、その前では戦前戦後、さまざまな出来事が間断なく続いたのでした。六十年安保反対運動の大動員を皮切りに、各種の抗議活動が陸続と繰り広げられてきましたが、その結果は、しかし、この島社会の堕落と頽廃に拍車をかけるだけだったという気にもなります。国会は国権の最高機関を言われるのですが、その真意は「謎」です。国会というところに、ぼくはたった一度だけ呼ばれて出かけたことがありました。何年前になりますか、「衆議院憲法調査会」で「教育を受ける権利」について意見を求められたからです。普段からあんな場所は敬遠していたのですが、勤め先の友人が声をかけてきたので、魔が差したみたいでしたけど、やむなく出かけたのでした。やはり行かない方がいい場所でしたね。権威主義というのか、ぼくの感覚には馴染まない、当たり前の庶民(人間)感覚とは、まったく異質な空間という感想を持つばかりでした。

 食糧事情が極度に悪化して、都心の真ん中で畑作業をというのは、一つの典型事例、何かの象徴だったように思われます。当時だって、農地はいくらでも探せばあったのですから。それでは議事堂前で畑作業をする意味はどこにあったのか。戦時下と戦後では、その示そうとした内容は異なっていたはずです。いずれにしても、国家の「非常(異常)事態」であるという認識は一般化されていたから、そのような事態が進行したのだと思います。戦後もしばらく経てからは、時の政治権力に対する抗議運動の示威場所となったのですが、そこにもある種の象徴的な意味合いがあったでしょう。いまでは、従来有していた「議事堂前」の象徴性は失われたのかと思いたくなるような、いささか寂しい状態が生じているようにも、ぼくには見えているのです。

○ 国会=一般的には議会と呼ばれる国の機関のことで,この言葉自体は明治期にも用いられた(〈国会開設〉請願運動等)が,日本国憲法(1946公布。以下原則として憲法と略す)によって議会を指す公的名称となった。憲法前文は〈日本国民は,正当に選挙された国会における代表者を通じて行動〉すると記し,さらに国政の権威は国民に由来し,国の権力は国会が行使し,その福利は国民が享受すると定め,国民に国政を決定する最高の権力があるというたてまえ(国民主権)を実質的に生かす主要なルートとして国会は位置づけられている。(世界大百科事典 第2版の解説)

 再び議事堂前が畑になる日が来るのでしょうか。おそらくそれはないと断定します。今では議事堂の内も外も雑草ならぬ「ぺんぺん草」が生えているのではないかと言いたくなるような不毛の地と成り果ててしまいました。ぺんぺん草は「薺(なずな)」の別名です。これは大変に丈夫な草で、どんな荒れ地にも生育するといわれています。まるで「弘法大師」のような草です。(弘法筆を選ばず・薺土地を択ばず)その薺ですら生(は)えないのですから、さぞかし荒れに荒れた土地なのでしょう。ぼくはこの薺という草が大好きです。ぺんぺん草というのは、葉の形が三味線の撥(ばち)に似ているからで、それでぺんぺんと弾くからです。三味線草とも言います。いったい庶民のために、庶民の幸せになるために国会はどんな種を撒いてくれたのでしょう、くれているのでしょうか。その国会前は「主権者」ですら立ち入れない「治外法権」の地になった感がします。

○薺(なずな)=〘名〙 アブラナ科の二年草。各地の路傍、原野などにふつうに見られる。高さ三〇センチメートルぐらい。葉は羽状に深裂し根ぎわに密生する。春から初夏にかけ、茎頂に総状に多数密集した小さな白い四弁花を開く。果実は扁平で三味線の撥(ばち)に似た倒三角形。春の七草の一つで、早春、若葉をゆでて食べる。漢名、薺。ぺんぺんぐさ。《季・新年》 〔新撰字鏡(898‐901頃)〕※曾丹集(11C初か)「み園生のなづなのくきも立ちにけりけさの朝菜に何を摘ままし」[語誌](1)挙例の「曾丹集」によって、朝の菜として食したことがわかる。ただし、この詞書には「三月終」とある。(2)「万葉集」には見えず、八代集でも「拾遺集‐雑春」の「雪を薄み垣根に摘めるからなづななづさはまくのほしききみ哉〈藤原長能〉」の一首が見えるだけであるが、これは「なづさふ」を導き出す序詞なので、平安前期は和歌の景物、春の七草という意識はなかったらしい。(3)その後、和歌に用いられる時は「摘む」物として取り上げられ、平安後期になって「君がため夜ごしにつめるなな草のなつなの花を見て忍びませ」〔散木奇歌集‐春〕のように、七草の一つと考えるようになったらしい。(精選版 日本国語大辞典の解説)

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  「なずな」の句を三つばかり、花の名に恥じない「普通の」「平凡な」「とりとめもない」句だと、ぼくには思えました。  

 ・妹が垣根三味線草の花咲ぬ  蕪村

 ・よく見れば薺花咲く垣根かな  芭蕉

 ・君知るや三味線草は薺なり  子規

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投稿者:

dogen3

 語るに足る「自分」があるとは思わない。この駄文集積を読んでくだされば、「その程度の人間」なのだと了解されるでしょう。ないものをあるとは言わない、あるものはないとは言わない(つもり)。「正味」「正体」は偽れないという確信は、自分に対しても他人に対しても持ってきたと思う。「あんな人」「こんな人」と思って、外れたことがあまりないと言っておきます。その根拠は、人間というのは賢くもあり愚かでもあるという「度合い」の存在ですから。愚かだけ、賢明だけ、そんな「人品」、これまでどこにもいなかったし、今だっていないと経験から学んできた。どなたにしても、その差は「大同小異」「五十歩百歩」だという直観がありますね、ぼくには。立派な人というのは「困っている人を見過ごしにできない」、そんな惻隠の情に動かされる人ではないですか。この歳になっても、そんな人間に、なりたくて仕方がないのです。本当に憧れますね。(2023/02/03)