旅に病んで夢は枯野をかけ廻る

 【北斗星】江戸後期の紀行家・菅江真澄の旅日記「雪の秋田根」には、森吉山に登った際、灯火用の「竹」を切る人たちの小屋を見掛けたことが記されている。本紙に「菅江真澄 旅の伝記」を連載したドイツ文学者の故・池内紀さんによると、この竹はネマガリダケだ▼「乾燥させると軽くて持ち運びしやすく、油を含んでいて燃えやすい」ため、鉱山の坑道で「灯(とも)し竹」として重宝された。煙が出にくく、においがしない点も灯火とするのに適しているという▼ネマガリダケといえば、何といっても山菜として食すのが一番。用事のついでに秋田市の秋田市民市場へ立ち寄ったところ、まだ早いと思っていたネマガリダケのタケノコが並んでいた。山形県の羽黒山の産と表示した店もある。南の地方からシーズンが到来しつつあるのだろう▼値は張ったが食い意地は抑え難かった。早速、みそ汁にして味わった。独特のだしと歯ごたえ、香りを楽しみ、山の恵みに感謝した▼県内のタケノコ採りが本格化するのは大型連休が明けるころか。今から山に出掛けるのを楽しみにしている人は少なくないだろう。自分で採ったばかりのものを食べる時の満ち足りた喜びは何物にも代え難い▼一方で毎年心配なのが山菜採りの遭難だ。クマ被害も何とかなくせないものか。ネマガリダケが大好物なのはクマも同様。タケノコ採りに夢中になっているうちに鉢合わせしないよう、出掛ける前には人の存在を知らせる鈴などの用意を怠りなく。(秋田魁新報)(上の挿絵は真澄筆)

 昨日の駄文で「ノマドランド」という映画について触れました。定住ではなく漂泊、というよりは移動生活を送りつつ、新たな生活のスタイルを作り出している現代アメリカ社会の一面を描いたものとして、大きな評判を呼んでいる映画です。そのことに触れつつ、定住がまっとうな生き方だとする時代や社会の表側に背を向けながら、裏側に生きるかのように漂泊・放浪の人生を送った幾多の人々をぼくは思い出していました。おそらく数十人を数えるでしょう。その中でも特筆すべきは菅江真澄でした。彼についてはどこかですでに駄文を綴っていますが、今一度、真澄について書いて見たくなったのです。(真澄絵による「ナマハゲ」 →)

 菅江真澄の略歴については、下記の事典の記述を一瞥すればおおよその軌跡が辿れます。三十歳ころに郷里を出、七十六歳だかで秋田は角館で亡くなった。およそ半世紀に近い年月を異郷の地に送り、再び故郷に戻ることはなかった。旅立ちというよりは、故郷出奔とでも言いたくなるような出立でしたが、なぜ異郷の地に生涯の大半を送ったのか、その理由を真澄は書き残していないし、あるいは、最初からこのような生涯を生きるとは考えていなかったとも思われます。ぼくが若いころから親しく読んできた柳田国男さんにも真澄について書かれたものが何編かありますが、その一つの「真澄遊覧記を読む」に、次のように自らの師匠ともいうべき真澄を評しています。「天明8年といえば江戸でも京都でも、種々の学問と高尚なる風流とが、競い進んでいた新文化の世であった。然るにそれとは没交渉に、遠く奥州北上川の片岸を、こんな寂しい旅人が一人で歩いて居たのである。」このように書いた柳田さんは「菅江翁の淋しい一生」という評価を下しています。

 果たして、「淋しい一生」であったかなかった、誰にも分らないというほかありません。「旅に病んで夢は枯野をかけ廻る」と芭蕉は詠じました。でも、彼には還るべき家があったし、待ちわびている仲間もいた。菅江真澄一人は、還るそぶりも見せず(だったと思われます)、あるいはついつい旅先に長居してしまったという感覚ではなかったか。恵まれた境遇であり、教養人として漢学詩文絵画などをすでに学んだ挙句の故里脱出でした。一人の教養人が、何を好んで旅に憑かれ、ついには異郷の地で果てることを願ったのか。もちろん、菅江真澄は「ノマド(遊牧民)」だったとは思いません。しかし、生まれ故郷に錦を飾ることもできた環境にあったろうし、あえて家を出る必要もなかったというのは、赤の他人の干渉であり、感傷でもあるでしょうか。ここにもまた、一つの生き方の流儀があったことを銘記しておきたいのです。

 これもすでに亡くなってしまった高橋竹山を想起しています。ぼくは彼のライブを何度か聴いた。語りも三味線も、すべてが「旅という修行時代」に学んだ彼の至芸であったと思われます。石もて追われるような修行の話は、何度聞いても目頭が熱くなりました。差別や排除に負けないだけの至芸を竹山一代で築いたのですが、それは筆舌に尽くせない物語(人生)でもあったのです。竹山が漂泊の人でした、と言うにはあまりにも偏り過ぎているでしょう。でも、生まれた家に育ち、故郷を磁場にして生きる定住の人生が「正統」だとみなされる時に、それを外れた生活や人生は、世間からは「疑い」「非難」の対象になるのは避けられなかったでしょう。「三界(さんがい)に家無し」と言ったのは誰だったか。また「女、三界に家なし」とも誰かが言いました。そうじゃなく、すべからく衆生が身の置き所はどこにもないという意味ではなかったかと、ぼくは考えたりしています。

 真澄や竹山という傑出した才芸や教養を持たないままに「旅に病んだ」あるいは「旅に已んだ」無数の漂泊者がいたことは事実です。彼らは記録を残したわけでもなく、あるいは生きた証を刻んだこともなかったでしょう。でも確かに、異郷の地を歩き、また異郷の地で死に至った人生も、一つの人生であるという思いを、ぼくは強烈に感じるのです。これは決して感傷などではなく、生きるも死ぬるも、人それぞれであり、それぞれの人生に哀歓が点滅するのでしょう。いずれどんな人もきっと「無縁仏」となって、今生からは忘却されてゆくのです。

 どんな人生も、きっと「旅人」なのでしょう。また芭蕉ですが、「月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして 、旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり」という。ここにもまた、旅にあこがれた一人の俳人を見ているのですが、それはまたすべての「一人の生涯」でもあるとも、ぼくは愚考している。「月日は旅人」「人もまた月日なり」と言えば、言えるのです。

 旅に病んで夢は枯野をかけ廻る (芭蕉)

 人生そのものが「旅」なのだという感覚がぼくには強くある。だから「旅の恥は掻き捨て」と言うつもりはありません。何処に生まれようが、それは「途次」だということです。ほんの数十年の間、この旅先で暮らすのが人生の真髄であり、それには「ノマド」のようなというか、余計な荷物は持たない生き方(ハウスレス)がいいに決まっていると。地位も名誉も、もちろん家も土地も、それらすべて「余計なもの」です。せいぜい「旅に病んだ」時に、余計なものに存念を残さないためにも、身一つ(裸一貫)という出立(いでたち)が最良じゃないでしょうか。

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○ 菅江真澄すがえますみ(1754―1829)=江戸中期の国学者、紀行家、民俗学者。本名白井秀雄。三河国(愛知県)岡崎か豊橋(とよはし)付近の人。菅江真澄を称したのは、晩年秋田に定住してから。賀茂真淵(かもまぶち)の門人植田義方(うえだよしえ)(1734―1806)に国学を学ぶ。各地を旅行して、庶民生活と習俗を日記と図絵に記録した『真澄遊覧記』50冊余(1783〜1812)は、近世の民俗誌的価値がきわめて高い。真澄は、1783年(天明3)30歳で旅立ち、信濃(しなの)、越後(えちご)、出羽(でわ)を経て津軽に入り、1788年松前に渡った。その後、下北(しもきた)に3年間滞在し、津軽では各地の文人・医師らと交わった。この間、弘前(ひろさき)藩の採薬掛となり、山野に入って薬草採集を行った。一方、秋田藩の地誌の編集にも従事した。津軽関係の著作としては『津軽の奥』『外浜奇勝』『津軽のをち』、南部(なんぶ)関係では『奥の浦うら』『おぶちの牧』『奥のてぶり』、秋田関係では『月の出羽路』『花の出羽路』などが代表的である。これらの紀行文によって、当時の各地の年中行事、伝承習俗や庶民生活の実際を詳しく知ることができる。秋田仙北(せんぼく)郡角館(かくのだて)で没し、秋田の寺内に葬られた。(日本大百科全書(ニッポニカ)の解説)[長谷川成一 2019年2月18日]『内田武志・宮本常一編『菅江真澄全集』12巻・別巻1(1971~1981・未来社)』▽『内田武志・宮本常一編・訳『菅江真澄遊覧記』全5巻(平凡社・東洋文庫/平凡社ライブラリー)』▽『柳田国男著『菅江真澄』(1942・創元社)』

○ 高橋竹山(一世)=[生]1910.6.17. 青森,平内 [没]1998.2.5. 青森 津軽三味線奏者。本名は高橋定蔵。はしかが原因で2歳になる前に半失明。小湊尋常小学校に8歳で入学したものの数日で登校をやめる。 14歳で盲目の門付け芸人に弟子入りし,三味線を習う。2年後に独立してからは単独で北海道を中心に門付けして歩いた。第2次世界大戦後,津軽民謡の実力者,成田雲竹から声がかかり,三味線伴奏者として活動し,雲竹から竹山の名をもらう。独学でマスターした尺八でも津軽民謡の普及に貢献。 64年雲竹の引退を機に独奏者の道を進む。 73年からは東京・渋谷の小劇場「ジァン・ジァン」での定期公演を重ねながら演奏に工夫を加え,三味線を従来の伴奏楽器から独奏楽器へと高めた。 74年には日本民謡協会から名人位を贈られた。『自伝・津軽三味線ひとり旅』 (1975) は吉川英治文化賞を受賞。(ブリタニカ国際大百科事典)

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 ノマドランド、ここに「移動するホーム」があった

 【コラム・天風録】現代のノマドたち 観光地で休暇を楽しみながら合間にテレワークする「ワーケーション」は、今どきの働き方のお手本とされる。ただ、オンとオフの切り替え上手は少数派のよう。コロナ禍でも定着しそうにない▲一方、米国ではリーマン・ショックの頃から「ワーキャンパー」が増えているという。住宅ローンや家賃が払えず、キャンピングカーで移動しながら働く。かつての遊牧民になぞらえ、「現代のノマド」とも呼ばれる▲「ハウス」すなわち住む家はなくても「ホーム」つまり自分の居場所ならある。そんな自由気ままで誇り高い車上暮らしの人たちを描いた映画「ノマドランド」が前評判通り、今年の米アカデミー賞作品賞に輝いた▲メガホンを取った中国出身のクロエ・ジャオさんは白人以外の女性で初の監督賞も射止めた。ほかにも助演男優賞は黒人、助演女優賞は初の韓国人に。いわれなき差別に今も苦しめられている各地のマイノリティーの人たちを勇気づけたことだろう▲現代のノマドたちも格差社会の象徴。だが、大半は白人で、非白人はほんの一握りだそうだ。キャンピングカーにもワーケーションにも無縁の最貧困層の人たちの存在を知らしめる映画でもある。(中国新聞・ 2021/04/27 )

 【余録】 遊牧民を表す「ノマド」がポストモダン思想のキーワードとして注目されたのは1980年代だった。仏思想家ドゥルーズらは、画一的・閉鎖的な定住民とは対極的な思想や生き方を示すのにこの言葉を用いた▲ノマドロジーとは権力のくびきを脱し、あらゆる境界を自在に超えて多様性を生きる新時代の思想を表していた。だがその思想的未来像は、グローバル経済が人々を故郷から切り離し、世界を放浪させる時代の到来とも重なっていた▲それから数十年、グローバル経済はその本拠の米国でもかつての中間層を分解させながら、周縁部に放浪の民を作り出している。今日、ノマドとは車上生活をしながら、季節労働の仕事を求め移動をくり返す米国の高齢労働者をいう▲中国出身のクロエ・ジャオ監督の映画「ノマドランド」が米アカデミー賞の作品賞や監督賞を受賞した。金融危機の影響で住み慣れた家を失った60代の女性のノマド暮らしと、他のノマドとの交流を描いた異色のロードムービーである▲住宅ローンの破綻や製造業の海外移転で急増した米国のノマドだった。彼らは「定住」を破壊したグローバル経済の被害者だが、出演した実際のノマドたちの言葉は誇り高く、誰にも優しい。21世紀のノマドロジーとでもいえようか▲「この賞をお互いの善意を保ち続ける信念と勇気をもつ人たちにささげます」。むろん出身国で非愛国者呼ばわりされるジャオ監督自身もノマドである。現代文化の沸騰点を指し示す今年のアカデミー賞だ。(毎日新聞・2021/4/27)

(原作者・ジェシカ・ブルーダー)

 【筆洗】 映画館では、耳をそばだてることにしている。上映中ではなく、終映後のロビーで聞き耳を立てる。悪趣味は分かっているが、同じ映画を見た他の人がどんな感想を持ったか知りたい▼先日は四十代ぐらいの女性お二人が今終わった映画について語っていた。「もう少し年を取ったら、こんな生活もいいかも」。別の女性は「絶対にいや!」。映画は今年の米アカデミー賞作品賞に選ばれた「ノマドランド」。独特な映像美とそこに巧みに織り込まれた米国の「今」。順当な受賞だろう▼経済的な事情で家を手放し、車で旅をしながら生活する六十代女性の話である。米国にはこうした暮らしをする人が増えていると聞く。仕事は移動先で見つける▼頼りない浮草ぐらしをつい想像してしまうが、そうではなく、主人公はその生活の中から前向きに自然や国を見つめ直そうとしている。ノマド同士の助け合いもある。その暮らしにロビーの二人の女性の意見が分かれたのはもっともである▼「ホームレスじゃない。ハウスレスなの」。そんな主人公のせりふがあった。「ハウス」という建物はないが、「ホーム」という「人間的な営み」はあると言いたいのだろう▼車上生活には苦労もあれど、その旅と「ハウス」での決まり切った生活とどちらが人間的か。息苦しいコロナ時代だから、なおさら共感が広がったところもあるのだろう。(東京新聞・2021/04/27)

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○ 物語:家を失った女性は、キャンピングカーに人生を詰め込み旅に出た

ネバダ州の企業城下町で暮らす60代の女性ファーンは、リーマンショックによる企業倒産の影響で、長年住み慣れた家を失ってしまう。キャンピングカーに亡き夫との思い出や、人生の全てを詰め込んだ彼女は“現代のノマド(放浪の民)”として車上生活を送ることに。

過酷な季節労働の現場を渡り歩き、毎日を懸命に乗り越えながら、行く先々で出会うノマドたちと心の交流を重ねる。誇りを持って自由を生きるファーンの旅は、果たしてどこへ続いているのか――。

○ 監督:クロエ・ジャオ 役者から真実の演技を引き出す稀有な才能

映画ファンの間で傑作と称される「ザ・ライダー」の新鋭クロエ・ジャオが、監督・製作・脚本・編集を担当。本作が規格外である理由は、彼女の存在によるところが大きい。

出演者たちは、2人(フランシス・マクドーマンドとデビッド・ストラザーン)以外は“実際のノマド”なのだ。つまり演技素人の一般人。そんな彼・彼女らに、ジャオ監督は“自身のリアルな胸中”をそのまましゃべらせ、物語と調和させる手法を採用した。これによりフィクションとドキュメンタリーの境界を融解させ、映画という芸術の新たな側面を発掘したと言える。(以下略)(https://eiga.com/movie/93570/special/)

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 自宅から車で十五分ほどの隣町に映画館があり、そこに出向いて「ノマドランド」を観ようとはしているのですが、なかなか腰が上がらないうちに、今年のアカデミー賞受賞作品となった。世界に冠たる「映画賞」を受賞したから、この作品は素晴らしいというのではありません。そういうこともあり、そうでないこともあるというほかない。この作品が、悠久の歴史を持つ「ノマド(遊牧民)」の現代・現実の風景を描いたものであり、都市生活、あるいは資本主義という経済に至上の価値を置く社会の展望がまったく見失われようとしている時代と社会の周辺では、こんな生活のスタイルというか、生活の流儀が営まれているというところに、ぼくは、人間の新たな生きる道筋を見出したいような気がするのです。それはウキウキするようなものではないのは言うまでもありません。しかし、都市で暮らすのは無理であると考える人々の、もう一つ別の「ホームランド」として、このような生活のスタイルで自分を回復する人がいるのも否定できないと言えるでしょう。それはしかし、ことさらに何か目新しい生き方ではないというべきで、この島社会でも土地を持たない、土地に縛られない漂泊の生活をつづけた人々はいつの時代でもいたのです。

 定住と漂泊、古くは奈良時代から「公地公民」という軛の中で、土地に結びつけられて生きるのが本筋(正統)であった生活者から見れば、土地を持たないで、各地を転々とする存在は「異邦人(異端)」の如くに捉えられ、ある時期からは定住者によって差別の対象ともされてきた。現代の「ノマド」はどういう扱いを受けているのか。あるいは、この先、経済的な不況がさらに進行し、働き方が想定しないような過酷なものになりかねない状況にある今日、この島でも正真正銘の「ノマド」と言われる存在が生じてくることが予想されるのです。終身効用、年功序列、企業内組合という三点セットの「日本型雇用」はとっくの昔に破綻してしまいましたが、その後の新たな「働き方」を偽装した改革は「非正規労働」を合法化し、常態化させろような方向をたどっていますが、さらにその先には何があるのか、これまでに経験したことのないような過酷な労働状況が危惧されているのです。働くー金を稼ぐー生活を営む、そのために家族を持ち、一家を構える、世代間の交流が恙なく行われてゆく、こんな当たり前にみられていた生活の形(展開)が、今は崩れかかっており、その先に明るい曙光がさしていないのが大いに不安を掻き立てもするのです。

 そのような不分明な社会経済労働環境にあって、「ノマドランド」はぼくたちに何を示しているのか、アメリカ社会の現実を活写した一面でもあるだけに、他人事として看過することが出来ないようにも思われてくるのです。土地を持ち家を持つというのは、一面ではいつでも帰る場所(拠点)を確保するということになりますが、反面ではそれらを所有することによって、必要以上に呪縛されるという危険性をも持つことになります。無所有ということは無理だとしても、自由に(束縛されないで)、生きる姿を求める時、その一つが「ノマド(的)」なものであるのは大いにありうる姿でしょう。

 これを書いている瞬間に、この島でも古い昔から、旅の芸能者や旅回りの芝居集団、あるいはサーカスなどの興行一行など、相当数の「ノマド」と言えなくもない人々の集団があったことを思い出しています。一年の内、相当に長い期間を旅に過ごすのが当たり前の「生活の流儀」を形成していたのです。あるいはもっと新しいところでは、漂泊の俳人や詩人・歌人などの文芸に生きた人々、さらには脱俗の僧侶・出家者などにもかなりの数の漂泊者がいた。それらが、すべて「ノマド」と言えるかどうか、それには「ノマド」を限定(定義)する必要があるのでしょうが、ぼくはそんな難しいことを考えているのではない。生まれて生きて死ぬ(生老病死)という、生涯のサイクルをどのように送るかは、おのずから「産み落とされた」時代や社会の規定を受けるのは当然です。しかし、そこから意図して外れるような人生のスタイルを求めることもあって当然であり、またそのような生き方を求めた人が存在していたのも事実なのです。この問題についていろいろなことが考えらますが、実際に「ノマド」を鑑賞した後でゆっくりと愚考したいと思う。

 各地の新聞のコラム氏が、同時に同じ主題(テーマ)扱うのは珍しいことではないし、それがいろいろな意味で注目に値する事柄ならなおさらその傾向が出てくるでしょう。今回の「ノマドランド」を扱ったコラムは、ぼくが見た(管見の)限りでも五つも六つもありました。それだけこの島のコラム氏(記者)は「映画好き」だということでもあるし、そのような「通人」が紹介するのですから、きっとその「映画」は映画館に足を運ぶ値打ちがあろうというものです。ぼくは映画に関してはまったくの無関心派でしたし、今でもそうです。これは生涯の不幸・不覚であったと、これだけには後悔の想いがしきりに疼くのです。この映画はぜひ観たいと思っています。

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 夢に見るよじゃ惚れよが足りぬ

【余録】熱い湯に「ぬるい、ぬるい」と競って入り、あまりの熱さに「口きくな」「動くな!」とそろってせっぱ詰まる江戸っ子である。そのやせ我慢(がまん)や意地っ張りは「強(ごう)情(じょう)灸(きゅう)」はじめ落語の笑いの源泉となってきた▲明治の新作落語「意地くらべ」も、借金の貸手と借り手がそれぞれ勝手な理屈で意地を張り合うのがおもしろい。その中に出てくる「ネズミの懸賞」とは、当時の東京市が行ったペスト予防のためのネズミの買い上げのことだという▲参考にさせてもらった「web千字寄席」によれば、この施策もむなしく当時の東京ではペストの流行で300人以上の死者が出たという。意地っ張りの落語にも刻まれている江戸―東京の感染症とのたたかいの歴史の一こまである▲「大衆娯楽である寄席は社会生活の維持に必要なものだ」。こう緊急事態宣言下の営業継続を表明した東京都内の寄席4軒と落語家の団体である。もちろん感染対策をとったうえで、芸人らの窮状を背景に投げた意地の一石だった▲これには政府の担当相が再考を促すなど、批判の声が出たのも当然だろう。だがこの江戸っ子譲りの強情、落語ファンの支持ばかりか、政府のコロナ対策への不信や不満も取り込んで予想を超える応援の盛り上がりを見せたのである▲日ごろ落語にお世話になっている小欄だが、今はやはり人出の抑制を求める専門家に従いステイホームをおすすめするしかない。ただ、いつか誰かがとびきりの人(にん)情(じょう)噺(ばなし)にするかもしれぬ令和の「強情寄席」だ。(毎日新聞 2021/4/28)

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○ 古今亭志ん生(https://www.youtube.com/watch?v=3YPwfwVM7ro

▼ 5代・古今亭志ん生(1890―1973)=本名美濃部(みのべ)孝蔵。2代目三遊亭小円朝に入門して朝太。円菊、馬太郎、武生、馬きん、志ん馬と改名し、講釈師で小金井蘆風(ろふう)、落語に戻ってまた幾度も改名し、7代馬生を経て1939年(昭和14)志ん生を襲名。『火焔(かえん)太鼓』『お直(なお)し』『三枚起請(きしょう)』『唐茄子屋(とうなすや)政談』など演目も豊富で、独自の天衣無縫ともいうべき芸風により、8代目桂文楽とは対照的な昭和落語の一方の雄であった。残された録音も多く、青壮年時代の貧乏暮らしと酒を愛した生涯は『なめくじ艦隊』『びんぼう自慢』などの自伝に詳しい。長男が10代目金原亭馬生(1928―82)、次男が古今亭志ん朝(しんちょう)(1938―2001)。[関山和夫]『五代目古今亭志ん生全集』全8巻(1977~84・弘文出版)▽『これが志ん生だ!』全11巻(1994~95・三一書房)』日本大百科全書の解説)

○ 古今亭志ん朝(https://www.youtube.com/watch?v=MZboQrpu9Vg

▽古今亭志ん朝[1938~2001]=落語家。3世。東京の生まれ。本名、美濃部強次(きょうじ)。5世志ん生の次男。10世金原亭馬生の弟。入門から5年という異例のスピードで真打に昇進。明快、軽妙な語り口で人気を博した。得意の演目は「居残り佐平次」「愛宕山」「文七元結(ぶんしちもっとい)」「暁烏(あけがらす)」など。(デジタル大辞泉)

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 親子共演・競演です。お二人とも、すでに鬼籍に入られていますが、今聞いても「笑えます」といえるのは、なんともありがたいことです。ぼくは京都時代にも落語をよく聴きました。ほとんどがラジオでしたね。ラジオが新聞やテレビの役割を果たしていました。そのラジオでは浪曲や歌謡曲なども、時代の歩調にあった加減で、よく耳にしたのでした。もう七十年からの時間が経ってしまいました。何もない時代、まことに貧乏な時代でした。「贅沢」という言葉さえ知らなかったほどです。でもその「貧乏」が苦にならなかった。それは、多くの人々の生活のスタイルでしたから。それ以上に、何もないことの埋め合わせに楽しみや喜びの種を何かと撒いたものでした。

 よく世間では「だれそれの不遇時代」「なんとかさんの雌伏の時」などと言って、いかにもその後の名声や地位を高からしめんがための演出のように、「恵まれないこと」をことさらに強調する向きがあるようですが、ぼくはそんな物言いは好まないし、ぼくは「不遇」も「雌伏」も、ただの一度だって感じない(経験しない)ままで歳をとってしまいました。今風の「浦島太郎」です。「中からぱっと白煙」、人生というのは、きっとこんなものかもしれないと思ったりします。苦労は思い出すと「楽しさ」に変換さるのですかね。「若い時の苦労はカネを払ってでもしろ」とよく言われたものでした。金言じゃないですか。

 志ん生さんの生涯といったら、それこそ「貧乏」が「座布団の上で話をしてる」ような生き方ではなかったか。彼はよく、その「貧乏」をネタにした「まくら」を振っていました。落語家になったのはいいけれど、なかなか評価されず、くさった時(不遇時代というのかしら)もあったようだし、縁起を担いで改名を何度も繰り返した。しかし、ここが肝心なところであり、ぼくはとても感動しながら受けとめたのですが、どんなに貧乏を余儀なくされても、志ん生さんは「とにかく落語が好きだった」と言われているところです。「稽古だけは怠らなかった」とも。

 圓生さんといっしょに満州まで落ち延びていった。仕事もなく、銭はなくなり食うものにも困ったという。ある時など、道端で残飯をあさっている野良犬を脅かして、その残り物を二人で食べたと、実に愉快に話すのです。一つの語り物になっていました。見事な落とし噺でした。可笑しいと言ったら、今でもその光景を目に浮かべられるほどです。ぼくは今でいう「ライブ」では一度も。志ん生さんを聴いたことがなかったにもかかわらず、志ん生の話が記録され、残されたということをこの上なく喜ぶのです。おそらく聴ける範囲の落語をはじめとする「語り」はすべて聴いたと言っていいでしょう。(どこかで触れた、今は亡き友人の芸能プロデューサーだった麻生芳伸さんは、若いころに都内日暮里の志ん生さんの家に伺って話を聞いたと、ぼくに愉しそうに語ってくれました。そのお土産という志ん生さんの普段そのままを切り取った「写真」をもらって、今でも飾っては、折りに触れて眺めているのです)(「落語について」、「志ん生親子三人について」は別の機会に)

 現下の島の状況には「人情味」も「滑稽さ」も、微塵も感じられないのはなぜなのか。人間全体が利己主義に偏り過ぎているということが一つ、加えて、だから社会に余裕がなくなったという場面にしばしば遭遇します。「自分さえよければ」「今さえ満足するなら」「何は無くても金が第一主義」横行などなど、気が滅入るほどの幻滅を味わう羽目に陥っているのです。あるいは、それは同時に「笑いの消滅」を意味することにもなるでしょう。学校を核とした、「不真面目撲滅」運動が強烈に展開された結果でもあります。ぼくなどは「撲滅の大将」になって来たと、誇りを持ってではないけれども、言いたいのです。

 「惚れて通えば千里も一里 長い田んぼも一跨ぎ」と、何も知らないままで、志ん生に教えられました。「何事も惚れなきゃ」「ほれるってえのは、なんだよお、銭金なんかじゃないんだぞ」「(人間であれ、物であれ)好きになるって、大変なんだなあ」というてつがくとでもいう真実です。「惚れて通えば千里も一里、逢わで帰れば、また千里」というのは、その裏返し。「惚れた数から、振られた数を、引けば女房が、残るだけ」というのはどうでしょう。ぼくには足し算も引き算もいりません、実に単純な暗算ですから。こんな粋な、粋にすぎる「都都逸」は、学校では絶対に教えてくれない。あえて表現すれば、真面目というのか、くそ真面目というのか、遊びも余裕もないことおびただしいね、学校という「寄席」は。そんなつまらない授業は「よせっ」といいたくなりますよ。今は跡形もなくなった本物の「寄席」は、ぼくのもう一つの学校、そうです、「飛ぶ教室」です。

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 呑み屋では酒を提供するなという、こんなふざけたことが真顔で語られているのです。コロナ禍のA級戦犯は「呑み屋」だといわぬばかりの悪ふざけだし、そのふざけ方が半端じゃないんですね。思わず「ふざけるな」と言いたくなります。「酒を出すな」と言えば、恐れ入るだろうと思う、その根性が薄汚いし、腐った権謀のふりまわし過ぎでしかないね。ぼくは二十歳を過ぎたころから、呑み屋にはずいぶんお世話になった。いわば「呑み屋が学校」(ぼくの「飛ぶ教室」)の部類でした。いいことも悪いことも、すべて呑み屋で学んだといえる。授業料は実に高かったし、奨学金(顎脚付きの奢り)は一円ももらわなかった。すべて自腹というのか、自分のなけなしの金で呑んだ。だからこその「酒のうまさ」だとも言いたい。ぼくの呑み屋哲学(というものがあるとして)、それはいつでも自分の金で呑むという一則です。これは大体守れたかと思う。もちろん友人にごちそうになったことは数えきれないけど、それには理由があったのです。(今はそれは言わない)(左上の写真は、二十数年「惚れて通えば」とぼくが日をおかずに通った呑み屋です、都内新宿)

 「大衆娯楽である寄席は社会生活の維持に必要なものだ」というのはその通りと、もろ手を挙げて賛成とはいきません。まず「大衆娯楽」と言うには、あまりにも席亭が少ないし、あってもじっくりと話が聴けないのですから、きっと「大衆から遊離している」のが実情じゃないですかね。明治のある時期、あるいは昭和戦前期でも、東京の下町の、各町内には何軒もの寄席がありました。テレビが勃興してきて、寄席が駆逐されたのです。出かけなくて、店屋物で間に合わせるようなお手軽さが、長い修練や訓練の時期を奪ってしまうんですね。「流行り(売れっ子)は一時」を地で行くような時代の趨勢です。テレビ時代がやって来た当座、映画は斜陽産業だとされた。結果はどうか、いいものは廃れない。ダメなものはテレビでもダメと言う、当たり前の盛衰の運命ではないですか。

 ホール落語も一時期は散見されましたが、いまでは残されていない、儲からないのか、とにかく消滅してしまいました。「寄席は社会生活に欠かせない」というのも、にわかに賛成できません。今東西で、落語家を名乗っているのはどれくらいの人数になるのか。詳しく走りませんけれど、相当の数になるはずです。落語はブームと言い、いかにも隆盛を誇っているし、時代の風に靡いていると、暢気にいっていていいのかしらと、ふとさみしくもなるのです。素人に毛の生えた(といういいかたは美しくありませんが)程度で、落語家はないでしょう。芸風が認められるのは、幾星霜も要するのです。

 ものみな、促成栽培ばかりです。人間教育でも芸人養成でも野菜でも建物でも、なんでもかんでも、手間暇かけずにお気軽に。「早い・安い・不味い」、これが時代社会のキーワードですかね。だから、墜ちるんです。堕ちるところまで堕ちる。それは辛いことですけど、自分が蒔いた種は自分で刈らなければならないのも、薄情のようですが、ぼくたちが経験すべき掟です。コロナ禍は、稀に見る災厄であり、終わりがまったく見えてきません。だからこそというべきか、自分を鍛えるための時間を無駄にしたくないですね。

 遊びは心の余裕、気持ちのゆとりからしか生まれませんです。真面目一辺倒は怖いというのが、ぼくのこれまでに学んだもっとも大切な「人間という学問の成果」です。学校はまじめを促したのですから、ぼくはその促しに反対して生きてきました。「勉強」は余裕(精神の豊かさ・ゆとり)を人間から奪う、遊びはその奪われた余裕を満たしてくれる小槌(こづち)のようなものです。落語を聴いて、遊びの心を育てたい。そのためにはいい噺家を必要とします。悪酔いは「安酒」からで、旨い酒(値が張るのとは違う)のではない)は悪酔いしません。落語は「落伍」に始まり、「落伍」に終わらないから面白いんですね。

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 一度として学校では教えてもらえなかった、生きるための「遊びのすゝめ」「背伸びしてみた」粋な筋、四題。これを都では「都都逸」といったらしい。柳家三亀松師匠も、小学生のころから聴き続けてきました。

・白だ黒だと喧嘩はおよし、白と言う字も墨で書く  ・どうせ互いの身は錆び刀 切るに切られぬくされ縁

・しめじ松茸舞茸えのき 恐いきのこは首っ丈  ・夢に見るよじゃ惚れよが足りぬ 真に惚れたら眠れない

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 空きベッド、命を懸けた椅子取りゲーム

【地軸】絶望を絶つ

 「いくらでも下げる頭はあるけれど人手とベッドの両方がない」。大阪で新型コロナウイルス感染者の治療にあたる救急科専門医・犬養楓さんが詠む。31文字に緊迫の現場、当事者の苦悩が凝縮する▲今年の年明けまでの1年分、240首を収めた歌集「前線」(書肆侃侃房(しょしかんかんぼう))を刊行した。感染対策の長期化で注意喚起が響きにくくなる中、医療従事者側の声にならない声を率直な言葉にして発信する。言葉が持つ力を信じ、難局の打開につなげたいとの思いを込めて▲感染力が強い変異株の猛威で、列島のあちこちに緊急事態宣言が発令され、まん延防止等重点措置が適用中だ。大阪では重症病床が埋まり、事態は「災害級」に。あってはならないはずの医療崩壊が進む▲このペースでは1週間後には大阪と同じになりかねない―。松山市の3病院と県医師会が先週開いた会見は悲鳴そのものだった。県内入院者も初の100人台に突入。ここに至って病院側に余力が残されているはずもない。医療従事者と救える命を守るには、感染者を減らすしか手はないのだと胸に刻みたい▲間もなく大型連休を迎える。減少を確かなものにするには昨年の教訓をどう生かすかが肝心。いかに国民の心を我慢の方向で一つにできるか▲「赤信号点灯しても止まらないゴールテープのない持久走」犬養楓。医療現場の絶望を一人一人の心がけで絶つ、今度こそ確実なゴールを目指すときが来た。2021年4月27日(火)(愛媛新聞)

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 「地軸」氏は「絶望を断つ」と書かれた。さて、そもそも「絶望」とは「望みがないこと」であるといえるなら、それを「断つ」とはどういうことになるのでしょうか。言わんとすることは分かりそうですけれど、「 医療現場の絶望を一人一人の心がけで絶つ 」と言われるとなると、どういうことだろうかと、改めて考え込んでしまうのです。「絶望するな」というのなら、そうしようという気になるのですが、「医療現場の絶望を一人一人の心がけで」という時、その一人一人とはだれを指して言われるのでしょうか。もちろん医療従事者を言うのは当然として、さらに、患者となった人もその「一人」に数えられるでしょうし、さらには、まだ感染していない「私」もまた、その一人に入るのでしょう。(写真左上は犬飼医師)

 犬飼さんが出された歌集のタイトルは「前線」です。文字通り、医療現場の最前線ということでしょう。前線があるなら、参謀本部も当然ありますし、大本営もどこかにあるはずです。ところが、「緊急事態宣言」を発令した現在、この国には大本営も参謀本部もありません。いかにも首相官邸にありそうですが、見当たりません。何処にも責任者がいないのです。どこを探しても見当たらない。それぞれの担当者がそれぞれ勝手に言いたい事を垂れ流し、嘘八百を云い触らしているばかりで、責任感があるようなそぶりをしている人間はどこにもいない。なんとも奇怪な事態ではないでしょうか。確かに「前線」は劣島各地域にあり、その(窮迫)程度はまちまちです。敵の姿はっきり見えず、見ようともしない様子が明らかに見て取れます。この戦いはミサイルでも効果はないし、ましてや核攻撃も何の役にも立ちません。嘘も張ったりも通じない。

 まさか、無手勝流というわけにはいかないでしょうが、ならば、またしても「竹槍」か、という疑問が出てきます。いやそれは疑問でも何でもなくて、せいぜいが「竹槍」程度の武器しかぼくたちは手にしていないのでしょう。待望していた「ワクチン接種」はいまだに先行きは不透明で、前方視界は不良を窮めています。ここにおいて「絶望を断つ」とはどういうことか、と改めてぼくは考え込んでしまうのです。持つべきは絶望ではなく希望だとでもいうのか。希望というと聞こえはいいが、絶望と五十歩百歩です。どちらも「無根拠」という点ではまったく同じなのです。

 「前線」はまさしく防戦一方であり、それもあちこちで防御の陣地は破られています。遠くから、「死力を尽くす)「必ず戦いには勝つ」と、誰の声だか、思い出したように何かを叫びはするけれども、いっこうに何をするのか、何をしようとしているのか、判然としない。内閣はあって、無きが如し、担当大臣も一人や二人ではないのですから、始末に悪い。「船頭多くして、船陸に上がる」という惨状です。参謀本部も大本営もまったく形影すら見えないのです。死闘を繰り返しているのは「前線」のみ。その前線に連なるのは、民兵ならぬ、武器を持たない人民独り独り、です。実に不謹慎な比喩ですが、こうでもいわなければ、腹の虫も治まらないらないのです。

 あちこちから不穏な報道ニュースが飛び込んできます。ワクチンは利かない、運ばれてきても、いつ接種できるのかわからない。いや、接種しても変異種のウィルスには効き目がない、インドでは異様な事態が発生している、それがこの島にも入ってきたなどと、これでもかといわぬばかりの「絶望的な知らせ」が届きますが、この島の愚劣極まるテレビや新聞は、「日常風景」を淡々と、何事もなかったかし、何事も起こらないかのように、時間を無駄にしてかつ電波をも浪費している。ただただ、ひたすら愚かな番組を消化しているにすぎないのです。

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 各地の、特に大阪を中心とする関西方面では「前線基地」に異常事態が発生しています。医療現場の人員の補給もままならず、まったく見通しが立っていない。病院に入る必要があるのに受け入れてもらえない感染者、それも重症者が陸続と増大化してるのです。その反対に、国立病院や地域医療の中核を担う「公立・公的病院」は,積極的にコロナ感染者を受け入れているとは言えないといわれています。具体的な受け入れ人数は明らかにされていませんが、ある資料によれば、極めて限られた人数だということが記されています。

 この島は「ただ今、戦時中」です。敵はどこに潜んでいるのか、あるいは自分の身の内にいるのかも定かではないのに、「闘い」だけは続けられている。誰もが戦地に駆り出されるし、銃後の「守備隊」も、決して安閑とはしておられないのです。「コロナに打ち勝った証」というのは、どこのどいつだか。

 このところ、どこからともなくでしょうね、「トリアージ」という語が耳につくのです。いったいどうして、こんな言葉をこの時期に聞かなければならないのでしょうか。「命の選択」などと気軽に言ってはいないかもしれないのですが、実際にはそうしている(する)に違いはないのです。この責任はだれがとるのか、と今は問うまい。それは言わなくてもわかっているのですから。しかし当の本人たちは気付いていないか、気づかないふりをしてこの責任から逃げるのです。必ず、そうするはずです。この無責任の連鎖もまた、「敗戦時」にいやになるほど見てきた気味の悪い景色です。

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○ トリアージ(triage)=災害時など,医療資源に対して多くの傷病者が存在する場合,治療の優先順位に応じて医療関係者が患者を分類すること。一般に,治療しても救命の見込みがない者,治療しなくても生命に別状がない者,救命治療を要する者に分類する。救命の見込みのある重症患者を優先して治療することで,不要不急な治療に時間をとられることを避け,最大多数の人命を救助することを目的とする。かぎられた資源で多くの負傷兵に対応する野戦病院で始められ,今日では災害時や伝染病流行時,救急救命室などで行なわれる。優先度は短時間の診察で判定されるため,緊急性が低いと判断された患者は,状態を定期的に再確認する必要がある。日本においては,1995年の兵庫県南部地震の教訓から,災害現場などでトリアージの結果を示すトリアージ・タッグが定められた。トリアージ・タッグは患者の手首などに装着され,ひと目で医療関係者が判断できるよう,色によって以下の四つのカテゴリを示す。(1) 最優先治療群(重症群) 赤,(2) 待機的治療群(中等症群) 黄,(3) 保留群(軽症群) 緑,(4) 死亡群 黒。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説)

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 水ぬるむ、人の心地は寒々と

(静岡県内、駿府学園・茶畑)

 【越山若水】「水温(ぬる)む」の季語はもともと池や沼の早春の様子を指す。ただこんな句もある。「いつからとなく水道も水ぬるむ」(右城暮石)。コロナ禍で毎日手洗いに励む身には実感が伴う▼学校の手洗い場に温水設備はまだ行き渡っていない。冬の間、子どもたちは先生の手洗いの指示をけなげに守りつつ、冷たさに歯を食いしばっていただろう。ここしばらく暖かな日があったから、ようやく解放されたはず▼コロナ第4波は県内も厳しい状況にある。マスクはもちろん必須アイテムながら、基本は症状の有無にかかわらず「うつさない」ための道具だと心得たい。「うつらない」機能もあるが、どちらかといえばみんなが正しく着けることで、うつす機会を抑えていくもの▼「うつらない」ためにはやはり、こまめな手洗いもしくは手指消毒が大事だ。「マスクをしていたのになぜ」。感染についてそんな疑問も目にするけれど、一つの対策で万全ということはなく、マスクも手洗いも組み合わせていくしかない。これらのことは内閣官房のサイトに比較的分かりやすい問答集がある▼変異株は児童も感染しやすいという。怖い話だが、今は幸い、ぬるんだ水が手洗いを容易にした。子どもたちを学校に送り出すときに声を掛けたい。「車に気を付けて」「それから手洗いをしっかりね」。子どもらはきっと、ちゃんと分かってくれる。(福井新聞ONLINE・2021年4月26日)

 茶摘 文部省唱歌

1.夏も近づく八十八夜
野にも山にも若葉が茂る
あれに見えるは茶摘ぢやないか
あかねだすきに菅(すげ)の笠

2.日和つづきの今日此の頃を、
心のどかに摘みつつ歌ふ
摘めよ摘め摘め摘まねばならぬ
摘まにや日本の茶にならぬ

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 コロナ禍、二年目の夏が近づきつつあります。まもなく「八十八夜」。立春から八十八日目に当たる、今年は五月一日だそうです。「野にも山にも 若葉が茂る ♪」と、「せっせっせ」と女の子と手を打ち当てながら遊んだ記憶がかすかに残っています。本来は女の子の「遊戯」だったそうですが、ぼくが小さいころは女の子といっしょに遊んだ。「君はませていたな」というのではなく、この時代(小学校の低学年頃までは)、男も女もない、まだジェンダーが始まっていない時期だったと思う。人間の短い生涯の中でも「平和な」「差別のない」、そんな幼年時代だったと思う。やがて陽水の「少年時代」になると、何処かしらよそよそしくなり、大人びてくるのではなかったでしょうか。(https://www.youtube.com/watch?v=yVHtEXiWYDU

 もう十年以上も前になります、ある夏の時期に、静岡に行きました。「駿府学園」という国立の教育施設でした。そこの責任者(園長)と親しくしていただいたこともあって、お招きを受けたのです。収容されていたのは男子ばかりでした(全寮制)。自給自足というのではなかったけれど、炊事・洗濯・掃除などはすべて子どもたちでやっていました(授業料は無償)。その園の裏山が「茶畑」で、生徒たちの丹精をこめた成果が何とも豊かに実っていました。ぼくも一杯、お相伴に与った。「お茶」は各地で栽培されていますが、それぞれが「名産」を競っています。今は辞めていますが、京都の姉は「お茶」のお店を出していたことがあります。その縁からか、ぼくはお茶にはうるさい方の人間になったようです。

 ぼくは一人前に「お茶」が大好きです。今でも一日にかなり飲みます。起き掛けに朝日にむかいながら、まず一服。それは何年もずっと「静岡産」です。これでなければならぬというのではありません。飲みつづけているうちに何十年も過ぎているという、まあ言ってみれば「浦島太郎」です。なんでもかんでも「パット中から白煙」「太郎はたちまちおじいさん」というわけで、「だれのあこがれにさまよう」のではなく、「青空に残された私の心は晩秋」なんですね。

 夏が過ぎ 風あざみ
 誰のあこがれに さまよう
 青空に残された 私の心は夏模様

 「少年時代」は二度と戻ってこないことを、陽水さんはとても素敵な声量と声音で歌いきっています。ぼくはそれほど彼の歌に入れ込んだことはないのですが、この曲をはじめとして、よほど心に響くように感じ入ることがあります。若い女性からしきりに勧められたことを覚えています。多分、女性にはたまらないのかな、陽水調は、きっとそうなんでしょうね。

 現下のコロナウイルスには「季節性要因」というものがあって、夏と冬に猛威を振るうとされています。地球ではしたがって、一年中、どこかしらで猖獗を窮めることになる。劣島の各地では「第三次緊急事態宣言」が発令されました。「灯火管制」「酒類販売禁止」、更には「歌舞音曲」もだめとか、まるで戦時下、「一億一心」で「コロナ撲滅に突撃」という勢いです。かつての戦時同様に、要路に立つ面々は、感染は必ず防ぐ、一人の国民も犠牲にしないと言いながら、日々感染者は増大し、それによる死者は増え続けているのです。昨年の今頃は「コロナはただの風邪」「病院に行くな」「検査はしない方がいい、やると感染者が増える」と、およそ医者や科学者とは思えない口吻を吐いていた面々が、まことしやかに「自粛、自粛」と吠えています。どの面下げて、いえるのかね、と言いたいですねえ。「誠実のかけらもない」とはこういった連中です。大事なことはきっと、どこかに隠されているんです。

 情けなくて「涙も出ない」という心境に、ぼくは置かれている。あるいは、腸(はらわた)が煮えくり返るとも言いたい。いつでも口を開けば「嘘を吐く」、そんな連中の「要請」「お願い」にだれが耳を傾けるというのでしょうか。さらに問題になっているのが、ワクチン接種が遅々として進まないという事態です。ここにも「嘘」がばらまかれています。しかしすでに接種した人の感想は「痛くなかった」と報道ばかりがされていました。どうしてですか。それ以外の感想はなかったのかどうか。「まったく痛くない」「そんなに痛くない」と、ことさらに言い触れるのはなぜか。

 ところが、ここに来て、感染研や厚労省は「副反応」・発生・発症の異常な高確率を、まったく目立たないところで発表しています。その報告書の見づらいこと、読みづらいことは、半端ではありません。ここにも真面目さが見られないのです。何のため、誰のための報告なんでしょうか。

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 予防注射やワクチン接種が、何の反応も起こさないということはあり得ません。まして体内に「抗体」を作るのですから、外からの異物に対して身体は反応するのは当然ですし、それが場合によっては危険な場合もあるのは、これまでのワクチンや予防接種の事例を見れば直ちに理解できます。ワクチンは安全であるというのではないし、それなりの副作用(副反応)が生じるのは避けられないのです。今回のケースでもかなり重い部類に入る「副反応」が相当程度に出ている。「痛くなかった」というのは嘘ではないとして、その後にどのような症状が出て、治るまでにいかなる経過をたどったか、どうしてその部分をも丁寧に知らせないのだろうか。知らせたくないのか、知らせる必要性を認めないのか。「倚らしむべし、知らしむべからず」とは、なんと生意気な態度かと思う。

 薬害問題は、これまでにも深刻な事態を引き起こしてきました。それに対して厚労省はじめとする担当部局は事前の通知や事後の報告を怠って来たし、行ったとしても偽りに満ちていたのが、いくつかの裁判で明らかになっています。一日も早く、コロナ禍から解放されたいのは、だれしも同じです。それなのに、他国と比較して、この島では対策はうまくいっていると言い募りつつも、人民を見殺しにするという、みたくもない風景があちこちに蔓延しています。緊急事態宣言と言えば、コロナは気を利かして(権力に忖度して)、あるいは降参したくなったといって、殊勝にも退散などはしてくれないのです。

 やがて立夏(五月五日)です。屋根より高く鯉のぼりが泳ぎ、茶摘みは最盛期を迎えるというのに、「自粛と要請」に任せきりで、コロナ禍をよそに見て、ひたすら自己拡大を図っているのが、殆んどの政治家です。守らないのは人民のせいだというのです。ぼくたちは、こんな不誠実な連中に、この島の政治を略奪されていたのですね。昨日、広島で参議院補欠選挙がありました。買収資金をたらふくばらまいた政治家を擁していた政党の、今回立てた候補者が対立候補に「惜敗」したと報じられています。広島の選挙民だけがとやかく言われるのではなく、この劣島は、「大きな広島」なんですよ。選挙がすべてとは思いませんが、腐敗と税金泥棒を容認するような選挙民であるなら、この島は沈没してもいいんじゃないですか。

 投票率が低いのは、政治に少しも期待しないという人が多いことを意味するでしょうし、そういう無関心は、かならず「政治」をあらぬ方向に導いてしまうのは避けられないし、それでもいいじゃんという選挙民が沢山いるという証拠にもなるのでしょう。「あらぬ方向」とはどこを指しているのか、ほとんどの人は知っているんです。その多くは「いつか来た道」と言うに違いありません。

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 わが身に似よや男子と 空に躍るや鯉のぼり

 つい数日前には近所の家に、例年のように二十メートル以上もあるような孟宗竹の棹に、いくつもの鯉のぼりがつながれて、勢いよく空に泳いでいました。今年はそれがなんと、二本もたてられていました。きっと新しい男の子が生まれたのでしょうか。昨日、車で通りかかったら、おじいさんらしい方がしきりに写真に収めていました。実に雄大なもので、敷地も田圃一反ほどもある所に、毎年のように竹竿を新調されているようです。この家のほか、近辺では、こんな豪勢な鯉のぼりを泳がせているところはみられませんので、ぼくまでなんだか「わが身に似よや男子(おのこご)と」いう励ましに誘われるような気分になるのです。

 この季節になると、ぼくの想いは遥かな昔、まだ小学校の頃に戻ります。(そんな時代があったんだと、実に不思議な気がします)ぼくの家には男兄弟が三人、下に弟、上に兄貴です。ある日、玄関先に大きな声がしたので出てみると、おふくろがリヤカーに長い竹棹を載せて帰ってきたのです。「どうしたのか」、と聞くと、「見ればわかるやろ、鯉のぼりや」と、ビックリするほど長く太い竹竿に、鯉のぼりのセットを買ってきたのでした。兄は七つ上で、弟は四つ年下でしたから、すでに小学生だった。おふくろは思い切りがいいというか、好きなように自分の想いを発散させる人で、いい時もあれば、もちろん悪い時もあるのですが、この時ばかりはどうしてなのか、この年恰好の男のためにとは考えられなかった、だから、にわかには、ぼくには理解しかねたのです。

 男の子が三人もいるのに、鯉のぼりも立てられないのは気に入らないというのだったか、あるいは、おふくろ自身が、これまでのさまざまな思いを鯉のぼりに託して、「スカッと」したかったのか。どうも後の方のような気が今でもしているのです。余所ではあげているのに、うちでは何でのぼりを立てられないんやと言う気分だったかと思ったりしています。そのおふくろも亡くなって六年以上が過ぎました。ぼくはこの駄文を書いている今も、幻の中に、京都の嵯峨にあった小さな家の、さらに小さな庭に「鯉のぼりが泳いでいる」のを、古希をはるかに過ぎたのに、鮮明に見ているのです。(https://www.youtube.com/watch?v=ORO9_KMVy44

 承知のように、「鯉のぼり」という唱歌は二曲あります。一つは「甍の波と雲の波」であり、他の一曲は「屋根より高い鯉のぼり」です。ぼくは、「甍」の方がよほど好きです。「屋根より高い」鯉のぼりは、都心のタワーマンションの屋上にでも上がっているのでしょうか。また、「甍」も少なくなりました。トタンやスレートでは雰囲気も出ないし、鯉は泳ぐ気がしないかもしれません。いずれにしても、この歌詞を篤と読んでほしい。男の子は、こうあってほしいというのか、男は「昇り龍」の如く、勇敢であり、堂々としているのだという、いかにも「男子はこうあってほしい」という一族・一国の祈願を歌っているようでもあります。「単なる唱歌じゃないか」と言うなかれといわぬばかりの、心意気が感じられます。でも、これもまた、今ではとっくに「時代遅れ」になりました。「物に動ぜぬ」などという男がいつの時代にいたというのか、いなかったからこそ、歌によって鼓舞したんですね、きっと。(大学の傍に「昇竜軒」という中華そば屋があり、在学中にはよく通いました。その時、「昇竜」について考えたことを思い出した。亭主は登山家だったそうで、最高峰にも登攀するような人でした)(左上は弘田龍太郎さん)

 文部省が学校教育に歌を導入したのは極めて早い段階でした。いろいろな材料を寄せ集めて、それぞれの専門家による議論を重ねて歌詞が作られ、曲が作られたのです。作詞作曲は不詳が多いのは、それがためです。しかし時間が経つにつれて、徐々に作詞作曲者の名前が判明してくることがああります。「甍」の曲は、初めは不詳でしたが、その後に弘田龍太郎が学生時代に作曲したものと判明したのです。

 弘田さんは、ぼくのもっとも好きな作曲家です。先年、ある用件で土佐に行きましたが、どうしても弘田さんの所縁の地を訪ねてみたくなったのです。しかし土佐(安芸)には三歳までしかいなかったので、詳しいことは調べる時間がありませんでした。彼の作曲では、下記にあるように「浜千鳥」は、ぼくががもっとも好んで歌う曲です。作詞をした鹿島鳴秋は深川生まれ、雑誌「少女号」の編集発行に関わる。同僚に清水かつら(「雀の学校」「叱られて」「くつがなる」などの作詞家)がいた。房総半島の和田海岸には、幼くして亡くした娘の晶子さんを偲んで書かれた「歌碑」があります。(https://www.youtube.com/watch?v=heNu6oroMD4)(https://www.youtube.com/watch?v=JzAGh3Srdag

浜千鳥 作詞:鹿島鳴秋 作曲:弘田龍太郎
青い月夜の 浜辺には
親を探して 鳴く鳥が
波の国から 生まれ出る
 
夜鳴く鳥の 悲しさは
親をたずねて 海こえて
月夜の国へ 消えてゆく
銀の翼の 浜千鳥

○ こいのぼり ①日本の唱歌の題名。作詞者不詳、作曲:弘田龍太郎。発表年は1913年。歌いだしは「甍の波と雲の波」。②日本の唱歌の題名。作詞:近藤宮子、作曲者不詳。発表年は1931年。歌いだしは「やねよりたかい こいのぼり」。2007年、文化庁と日本PTA全国協議会により「日本の歌百選」に選定。(デジタル大辞泉プラスの解説)

○ 弘田 龍太郎(ヒロタ リュウタロウ)昭和期の作曲家 生年明治25(1892)年6月30日 没年昭和27(1952)年11月17日 出身地高知県安芸市 学歴〔年〕東京音楽学校ピアノ科〔大正3年〕卒 経歴大正9年から東京音楽学校で教え、昭和3年ドイツに留学、ベルリンでシュミットに師事。4年帰国後教授となるが2カ月で教授を辞し、作曲家として独立。後、中野保育大学教授、ゆかり文化幼稚園主宰となり、幼児教育に尽力した。作品には日本的旋律を用いた歌曲と童謡が多い。代表作にオペラ「西浦の神」、仏教音楽「仏陀三部作」、歌曲「小諸なる古城のほとり」、童謡「春よ来い」「金魚の昼寝」「叱られて」「くつがなる」「雀の学校」「浜千鳥」などがある。(20世紀日本人名事典)

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 これまでにも繰り返し書いたように、学校唱歌にはさまざまな表情があります。ぼくは、「歌が旗になる」のは好まないし、場合によっては、それは「国粋教育」にもなり、集団主義を指嗾することになると考えています。その典型は「軍歌」です。「勝ってくるぞと勇ましく、誓って国を出た」のなら、手柄を立てないでは還れないと、まるで「名誉の戦死」「敵兵殺戮」を美化し、「帝国軍人」の蛮勇を身中に持たせる趣もあったのです。これまでには触れてきませんでしたが、戦時中に唱歌が「軍歌」になった例がいくらもあるのです。(それについて、いずれは触れるかもしれません)

 唱歌が大好きな人が沢山います。ぼくもその一人であることを否定しません。でも合唱・斉唱は好きではないし、黙って独り口ずさむのをよしとしているのです。まちがっても、舞い上がることがないような唱歌、いつでも静かに自らの過ぎ越し方を思いいずる縁になっている、そんな唱歌たちをことさらに懐かしむのです。(「思いいずる故郷」、それがぼくが心底から願う唱歌です。「故郷」は「わが想い」の中にこそあるのでしょう)

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