
【滴一滴】詩人の石垣りんさんは昭和の初めに旧制の高等小学校を出てから40年余、銀行で勤め上げた。「定年」という詩がある▼〈ある日/会社がいった。/「あしたからこなくていいよ」/人間は黙っていた。/人間には人間のことばしかなかったから。/会社の耳には/会社のことばしか通じなかったから。〉▼たとえ黙っているとしても万感胸に迫るに違いない。「お疲れさま」の言葉を贈りたい。会社の制度によるものの、年度末は退職する人が多い時期である▼今、企業に希望者の雇用が義務づけられているのは65歳まで。それが新年度から努力義務ながら、70歳までになる。ゴールが遠のくことに戸惑いを覚えることもあろうが、年齢を重ねた後の働き方を考える上での転機にもなる▼石垣さんの退職は1975年、55歳の時。「まだこれから」の思いもあったろう。冒頭の詩には〈「あきらめるしかないな」/人間はボソボソつぶやいた。〉のくだりもある。84歳で亡くなるまで詩人として活躍した▼シニアの活躍は社会の要請でもある。65~70歳の働き方は今の継続雇用制度などに加えて、業務委託や社会貢献活動への従事も可能とされる。ただ、なかなか働く側の思い通りにならないのが実情のようだ。「あきらめるしかないな」で終わらずに、次に挑める「70歳現役社会」を目指したい。(山陽新聞デジタル・2021年03月31日 08時00分 更新)

本日は年度末です。明日からは新年度。今のぼくにはことさらの感想もありません。「定年」という社会の仕組みがまだ残っていますし、その日を迎えて一人、あるいは大勢で感慨に浸るということもあるのでしょうか。数日前に一枚のはがきが届き、「定年を迎えて、退職しました」という友人の消息でした。ぼくにもそれらしい退職の時期はありましたが、ほとんど意識しなかったし、取り立てて「定年(停年)」を感じ取る感傷もなかった。ぼくはよほど偏屈にできているようで、人並みに、「おめでとう」「お疲れさま」などと言われるのが実にいやでしたから、だれにも知らせないで、こっそりと勤め先を辞めたという風にしたかったのです。ある友人が奇特にも、職を辞するのを「記念」して、小さな会を開いてくれた。予想していなかったので、とても驚いたし、友人の好意をありがたく受け取りました。仕事務めは辞めましたが、特段、目新しい生活を送ろうという気分にもなりませんでした。
ただ、人並みにではなく、まず「余生」とか「老後」という言葉は使いたくなかったし、そのような「生活の仕方」を自分に課そうともしないままで、今に至っているのです。しばらくはこれまでとは違う生活に慣れるのに少し戸惑ったりしましたけれど、今ではなんの不都合もなく(とは言えませんけれども)、まあ「平凡に徹して」、滑ったり転んだりと、その日をなんとか暮らしています。

「定年」 石垣りん ある日 会社がいった。 「あしたからこなくていいよ」 人間は黙っていた。 人間には人間の言葉しかなかったから。 会社の耳には 会社のことばしか通じなかったから。 人間はつぶやいた。 「そんなことって!もう40年も働いてきたんですよ」 人間の耳は 会社のことばをよく聞き分けてきたから。 会社が次にいうことばを知っていたから。 「あきらめるしかないな」 人間はボソボソつぶやいた。 たしかに はいった時から 相手は、会社だった。 人間なんていやしなかった。

「高年齢者雇用安定法」が改正され、それ以前とはまったく異なった労働環境の時代が生まれようとしています。人生の新たな設計が求められるのでしょうか。これまでは希望者は六十五歳まで雇用されるようになっていましたが、この四月からは、更に最長七十歳までに延長されたのです(希望すれば、七十歳まで働くことが可能なようにという、努力目標が企業に対して設定されました)明治以降、早い段階から五十五歳定年制が普及しましたが、近年の高齢化社会の到来で、いつしかそれが六十歳となり、更に六十五歳にまで延長されてきました。長寿化は、一面では高齢者が働かなければならない時代でもあるのです。「人生百年時代」ともてはやされていますが、それはどんな社会なのか、人間が働くことに喜びを見出すことがとてつもなく困難な時代でもあるとされるのはどうしてでしょうか。コロナ化だけが直截の原因ではないでしょうが、「働く環境」は目を見張るほど素早く変貌しています。
少子高齢化時代・社会の到来は、きわめて早くから想定されていましたが、そのための社会福祉や労働政策を策定するという、当たり前の政治課題をほとんど考慮することなく、いたずらに高齢化社会の危機的状況を煽るような社会的な風潮が続いてきました。政治の貧困が最大の原因ですが、それ以上に、そのような人間を尊重しない政治にすべてをあずけたような経済セクターの無責任をも忘れることが出来ません。

非正規雇用の爆発的な拡大、それに歩調を合わせるように正規社員の雇用環境の激変、その本質は悪化ですが、それが加わって、さらに展望のない社会生活を映し出しているのです。終身雇用、年功序列などという労働慣行はとっくに霧消しており、いまではその日暮らしを余儀なくされるような、不安定な生活状況に、多くの人たちは苦しめられています。このような傾向は、昨年来の「コロナ禍」でさらに顕著になり、看過できないほどの「格差」「貧困」を産んでしまったのです。それを修復する気づかいは政治にはありません。
石垣さんの「定年」に出てくる「会社」は理不尽で非人間的な組織であり、それは紛れもなく国家の「一下請け」です。その下請け(孫請け)が学校だというと、違うよと言う非難が出るでしょうか。
「国家がいった。あしたから生きなくていいよ」「人間は黙っていた」「あきらめるしかないな」「 たしかに 生れた時から 相手は、国家だった。 人間なんていやしなかった」と、いい加減な替え歌を弄んでいるうちに、背筋が寒々としてきました。 考えるまでもなく、学校も会社も、みんな「国家」の先兵でした。そんな「国家」の時代を早く通り越したいものです。
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石垣さんの「詩を書くことと、生きること」の一部を引用しておきます。すっきりと清々しいという漢字を、ぼくはいつも彼女の詩から受けてきました。稀有ことですね。

私が就職したとき、象牙の印鑑を一本九十銭で、親に買ってもらいましたが、毎日出勤簿に判を捺している間に、白い象牙がすっかり朱色に染まりました。この間、印鑑入れを買いに行きましたら、これも年配の古い店員さんが「ずいぶん働いたハンコですね」と、やさしく笑いました。お互いにネ、という風に私には聞こえました。
それにしても一本のハンコが朱に染まるまで、何をしていたのかときかれても、人前に、これといって差し出すものは何ひとつありません。
一生の貯えというようなものも、地位も、まして美しさも、ありません。わずかに書いた詩集が、今のところ二冊あるだけです。綴り方のような詩です。
ほんとに、見かけはあたりまえに近く、その実、私は白痴なのではないかとさえ、思うことがあります。ただ生きて、働いて、物を少し書きました。それっきりです。(中略)

つとめする身はうれしい。読みたい本も求め得られるから。
そんな意味の歌を書いて、少女雑誌に載せてもらったりしました。とても張り合いのあることでした。
と同時に、ああ男でなくて良かった、と思いました。女はエラクならなくてすむ。子供心にそう思いました。
エラクならなければならないのは、ずいぶん面倒でつまらないことだ、と思ったのです。愚か、といえば、これほど単純で愚かなことはありません。
けれど、未熟な心で直感的に感じた、その思いは、一生を串ざしにして私を支えてきた、背骨のようでもあります。バカの背骨です。
エラクなるための努力は何ひとつしませんでした。自慢しているのではありません。事実だっただけです。機械的に働く以外は、好きなことだけに打ち込みました。(石垣りん「詩を書くことと、生きること」『ユーモアの鎖国』ちくま文庫所収)
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