桜の花の 栄ゆる御代に

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○ ちょうちょう=日本の唱歌の題名。スペイン民謡に基づくとされる。作詞:野村秋足、作曲者不詳。発表年は1881年。歌いだしは「ちょうちょう ちょうちょう 菜の葉にとまれ」。(デジタル大辞泉プラスの解説)

○ 野村秋足 のむら-あきたり(1819-1902)=江戸後期-明治時代の国学者。文政2年生まれ。尾張(おわり)名古屋藩士。鈴木朖(あきら),植松茂岳にまなぶ。明治元年藩校明倫堂の教授となる。のち愛知師範,岐阜師範などでおしえた。明治35年12月29日死去。84歳。本姓は大橋。初名は正徳。通称は八十郎。号は蔦廼舎,琢斎,橘西など。著作に「伊勢参宮道之記」「外舶瞬覧」など。(デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説)

 野村秋足は愛知師範学校時代に伊沢修二の知遇を得、その命で「唱歌」の採録に着手し、「蝶々」の詞を得たとされます。

歌詞:「小学唱歌集」(1881年)
蝶々 蝶々 菜の葉に止れ (作詞 野村秋足)
菜の葉に飽たら 桜に遊べ
桜の花の 栄ゆる御代に
止れや遊べ 遊べや止れ

おきよ おきよ ねぐらの雀 (作詞 稲垣千頴)
朝日の光の さきこぬさきに
ねぐらをいでて 梢にとまり
あそべよ雀 うたへよ雀

1947年以降の歌詞
ちょうちょう ちょうちょう
菜の葉にとまれ
菜の葉にあいたら 桜にとまれ
桜の花の 花から花へ
とまれよ遊べ 遊べよとまれ

 「蝶々」の出自は明らかではありませんでした。スペイン民謡とされたり、ドイツ民謡とされたり。今ではドイツ派が優勢です。明治十四年編集、翌十五年に発行された最初の小学校唱歌集(初編)の一曲として採用されました。学校唱歌の一番バッターだったんですね。他には「見わたせば(むすんでひらいて)」、「霞か雲か」、「蛍(蛍の光)」、「菊(庭の千草)」など全九十一曲が収録されていました。多くは外国産の曲でしたが、音楽教育(唱歌)の伝統のない社会でしたから、一面では当然でもありました。この唱歌集編纂にも、伊沢修二氏は多大な働きをしました。東京音楽学校校長(初代)として、西洋音楽の採用・輸入にも力を尽くし、そこから日本の歌曲ともいわれるものが生まれてきたのです。詳細は省きますが、これまでにまったく経験しなかった、音階や音調の曲が小学校をはじめとする学校教育に浸透する手がかりを作ったのでした。

 いまでも「蝶々」がよく歌われるのではないでしょうか。春の花盛りを唄の面から愛でる趣を持った曲調だし、年齢を問わず歌えるという唱歌の基本に忠実に日本化された嚆矢となったのも、じゅうぶんにうなずけると思います。この数百年、あるいはもっと前から、蝶々は「花から花へ」と著しい活躍をし、受粉作業を引き受けてもいたのです。いまでも拙宅の周りに、あるいは小さな庭に蝶々が舞い降りてきては花から花へと「遊び」に夢中です。しかし、この愛すべき昆虫も、やがては絶滅するのかと思えば、人間のこの先は決して明るくないことをしきりに感じてしまうのです。それをも考えさせてくれる「蝶々」ではあります。

  「菜の葉に飽たら 桜に遊べ 桜の花の 栄ゆる御代に 止れや遊べ 遊べや止れ 」という歌の心は、あきらかではなかったか。これが麗しい「伝統」になったとは言いませんけど、桜の花に寄せる、いわば偏愛ともいうべきものの背後にどんなものがあったか、それを類推させるに足る「唱歌」ではあったでしょう。

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○ さくらさくら=日本の唱歌の題名。作詞者不詳。江戸時代から伝わる筝曲に基づく。筝曲としての採譜は1888年。歌詞がつけられたのは1941年。歌いだしは「さくらさくら 野山も里も」。2007年、文化庁と日本PTA全国協議会により「日本の歌百選」に選定。(デジタル大辞泉プラスの解説)

 「野山も里も 見わたす限り かすみか雲か 朝日ににおう さくさくら 花ざかり」とこの歌を耳にして、ぼくは宣長さんの「しき嶋のやまとごゝろを人とはゞ朝日にゝほふ山ざくら花」の和歌を想起します。「朝日ににおう」山桜を、いったいどれだけの人が見たというのか。朝日に照り輝き、まるでにおうさくら花をみて感動する「私の心」を宣長は歌ったのだとすれば、それ大和民族の心なのだと、どうしていえるのか。ここに、本歌取りというのか、宣長の心持こそが、大和心なのだという観念が住みついているのがわかると、ぼくは考えるのです。おそらく、この歌が歌われようとしていた当時、つまりは明治初年以降でしょうが、目にできる桜の大半が山桜だったと思われます。

 桜には数えきれないくらいの品種(数百種・バラ科です)がありますが、もっとも単純な分類は「ヤマザクラ」と「サトザクラ」でしょう。山に咲く、里に咲く、その違いだけで種類も異なっていました。根拠を示すのは難しいが、この唱歌に詠われているのは「山桜」だと、ぼくは推定しています。これは日本に自生する、かなり古いもので、たぶん宣長さんが詠みこんだのもこれだったでしょう。樹高は二十メートルにもなる大木で、樹齢千年も生きるものが今でも各地にあって、その華麗な輝きを誇っています。(右はソメイヨシノ)

 この唱歌について何かを言うつもりはありません。ただ、歌を仲立ちとして、それに加えて、日本の学校の庭に植樹された木の多くがサクラ(ソメイヨシノ)だったことをも考えると、桜好きの傾向は「教育的産物」だったとは言えませんか、その程度の語るに落ちた話柄を持ちだしただけのことです。

 今春は実に桜を堪能しました。まだまだ桜の季節は続きますが、天気のいい日は、毎日のように二時間、三時間歩く、その道筋に、おそらく大小数百本の桜木がありますが、その中でも遠くにかすんで見えるものや、目前の小振りなものまで、百本を数えるばかりの桜を見ているのです。新しい発見もありました。いいなあと、ぼくが感心するものの多くは、山桜でした。もちろん、これにも多くの種類がありますが、素人にも見分けがつきます。匂いや樹形、あるいは花の開花時の葉と花のコラボなど、おそよ「ソメイヨシノ」とは比較できません。どちらが好きか嫌いか、それは人それぞれの好みです。もちろん、ぼくは「山桜」派です。(左は山桜)

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。