春風そよふく 空を見れば

 「朧月夜」は大正三年に発表されました。作詞は高野辰之 作曲は岡野貞一。このコンビで数えきれないほどの唱歌を生みだしています。いわば、小学校音楽教育の最大の貢献者の一方の傑物でもあったのです。どうして「唱歌」が教科として導入されたか、以下に簡単な解説を示しました。この導入期に尽力したのが、前に触れた伊沢修二です。彼はさまざまな領域において尽くした人ですが、学校教育の草創期にはこのような百科全書的才能と勇猛果敢な行動力を兼備した人材は不可欠だったのです。彼がアメリカに学んだ際(森有礼初代文部大臣の好意があった)、いろいろな教育施設を訪ねています。養護学校、幼稚園・小学校、教員養成学校など。その中で、学校における唱歌に大いに興味をそそられたようで、それをこの島にもたらそうとしたのです。音楽の効用というものを直感したといってもいいでしょう。音楽がなければ、何ができないか、あればどんなことができるか、伊沢さんはそれを知悉していたといいたいほどでした。

 「歌が旗になる」ということはいくらでもありました。ぼくは戦後に育った者だったのに、「軍歌」を歌うと奇妙な気分に侵されましたし、学校で「校歌」を斉唱させられたのは、「心を一つにして」、全員一丸となるという魂胆が見え見えでした。後年、伊沢さんは初代の東京音楽学校(言東京芸術大学音楽学部)校長を務めます。「学制」草創期、彼は音楽取調御用(いまでいう文部官僚です)に抜擢され、獅子奮迅の活動を展開し、明治十四年には「小学校唱歌」を敢行します。その間、様々な人材を登用し音楽教育の進展を図るために、いくつもの施策を実施したのです。その中に、上の二人もいたのでした。唱歌は世に連れ、世は唱歌に連れて、学校教育の秩序維持の為に大きな威力を発揮したのです。

 

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○ 唱歌(教育)(読み)しょうか唱歌教育 英語のソングsongまたはスィンギングsingingにあたる「唱歌」ということばが、日本の学校教育において最初に用いられたのは、1872年(明治5)の学制によって、小学校における一教科として「唱歌」が規定されたときである。その後、それに伴って『小学唱歌集』『中学唱歌』『尋常小学唱歌』など学校唱歌のための教科書が刊行された。したがって唱歌といえば、授業において「歌うこと」(歌唱)、および歌うための教材つまり「歌曲」の両方を意味していた。その後1941年(昭和16)に小学校が国民学校と改称され、それまでの「唱歌」という教科名が「芸能科音楽」と改められた。それ以後は、「歌曲を正しく歌唱し」というように、音楽の授業において歌うことは「歌唱」とされ、「唱歌」ということばは、「平易なる単音唱歌を課し」また「文部省唱歌」などというように、主として歌唱教材としての「歌曲」を意味するようになった。(日本大百科全書(ニッポニカ)の解説)

○ 伊沢 修二(読み)イザワ シュウジ=明治・大正期の教育家 東京師範学校校長;東京音楽学校校長;貴院議員。生年嘉永4年6月29日(1851年) 没年大正6(1917)年5月3日 出生地信濃国伊那高遠(長野県高遠町) 別名号=楽石 学歴〔年〕大学南校(現・東京大学)〔明治5年〕卒 経歴郷里の藩校で和漢の学を修め、明治初年東京に出て大学南校に学び文部省に奉職。7年に愛知師範学校の校長に就任。翌8年米国に派遣され声楽、視話法を習得。11年帰国後、東京師範学校長、12年音楽取調御用掛になり、教員養成の改善、唱歌教育の推進に精力を注いだ。14年「小学唱歌集」を刊行。20〜24年東京音楽学校初代校長をつとめる。一方、文部省編集局長として教科書検定制度を実施。23年国家教育社を結成。日清戦争後、台湾総督府学務部長となり、植民地教育を行う。30年帰国後、貴院議員、32年東京高師校長。36年楽石社を設立し吃音矯正事業に尽した。作詞作曲も多数、作曲に「紀元節」があり、著書に「教育学」「進化原論」「教授真法」「視話法」などがある。(20紀日本人名事典の解説)

○高野辰之=1876-1947 明治-昭和時代の国文学者。明治9年4月13日生まれ。上田万年(かずとし)に師事,明治43年東京音楽学校(現東京芸大)教授となる。日本の歌謡,演劇史の学術的研究をおこない,「日本歌謡史」で昭和3年学士院賞。「春が来た」「朧(おぼろ)月夜」「故郷(ふるさと)」などの文部省唱歌を多数作詞した。昭和22年1月25日死去。72歳。長野県出身。長野師範卒。号は斑山。著作に「日本演劇史」「日本歌謡集成」など。(デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説)

○岡野貞一=大正・昭和期の音楽教育家,作曲家 生年明治11(1878)年2月16日 没年昭和16(1941)年12月29日 出身地鳥取県鳥取市 学歴〔年〕東京音楽学校〔明治32年〕卒 経歴東京音楽学校教授の傍ら、文部省嘱託の教科書編纂委員を務め、第1期国定教科書「尋常小学読本唱歌」「尋常小学唱歌」の編集を担当。唱歌として広く歌われた「故郷(ふるさと)」「春が来た」「児島高徳」「水師営の会見」「朧月夜」「橘中佐」「三才女」「紅葉」「春の小川」などを作曲。(20世紀日本人名事典の解説)

(*https://www.youtube.com/watch?v=LORWSwhU-5Q 歌は鮫島有美子さん)

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 今でも歌われているのでしょうか。ぼくの小学校時代は「唱歌」の代表のような位置づけでした。歌詞は若干の変化をみましたが、この歌に表現されている、そのままの春の小川で遊びに専念したのでした。ここに登場する生き物は、その多くが絶滅したか、それが危惧されています。たかだか百年の時間において、この島国がいかに環境に負荷を与え、取り返しのつかない破壊を遂行してきたか、それをあからさまに明示しているのが、「唱歌」ではなかったか。それを歌うのは、懐かしさや思い出などではなく、むしろ歴史の中に刻印された人間の、ある種の「愚かさ」を忘れないための記録としての記念歌なんですね。この歌は、歌うか歌わないかは別にして、「国歌」と称される偏頗な歌よりもよほど、人間の姿の来た道をはっきりと教えてくれるように、ぼくだけは考えているのです。

 この「春の小川」、発表は大正元年。当時、作詞をした高野さんが代々木に住んでおられたので、その付近を流れている河骨川(こうほねがわ)をテーマに書き上げたとされています「河骨」とは、スイレン科の植物で、この川には豊かに育っていたからだといわれています。別名に「センコツ」とあります。(*スイレン科の多年草。小川や池沼に生え、葉は長さ約30センチの長楕円形で、基部は矢じり形。夏、花柄を水上に出し、黄色の花びら状の萼(がく)をもつ花を1個つける。かわほね。《季 夏》「橋の下闇し―の花ともる/青邨」)(デジタル大辞泉の解説)

 この川は、前回の東京五輪(1964年開催)のための都市再開発によって「暗渠(あんきょ)」化され、地上から姿を消してしまいました。ぼくは当時、上京していたので、この「暗渠」工事をいたるところでみかけたものです。川が潰され、姿を消し形を変えたら、それは川ではなくなります。その上に、人間は暮らしているのです。ぼくに言わせれば、都市化=文明化(civilization)というのは、自然破壊決行を意味します。例えば、首都高速道路、これもいたるところで工事中の現場に遭遇していました。鴎外のいう「普請中」でした。鳥も虫も魚も、駆逐され、やがては人間も、その生活世界が暗渠化され、地上から追放されようとしています。それが文明社会の進み行きです。

 早春賦ならぬ、壮春賦、あるいは晩春賦とでも名付けるべき唱歌は無数にあるようです。それを取り上げて何かを語るつもりも能力もありません。ただ思いつくままに、二、三を数えて、ぼくの記憶力の試験台にしているだけの、いわば徒然草であり、枕話です。唱歌というものが、今の時代に生まれにくくなっている理由ははっきりしています。歌にしたくなる四季や風情や労働が消滅してしまったからであり、それだけのことですけれど、唱歌が遺物になるような社会には欠けたところがあるように思われます。唱歌が失われるというのは、なにかぼく自身の大切な一部を抜き取られてしまったようで、居たたまれない気がするのです。

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。