最高の生き方は自然と合一すること、…

 【越山若水】越前市出身の絵本作家、かこさとしさんが自著「子どもと遊び」で書いている。わんぱく、おてんば盛りの子どもがエネルギーを発散させるには楽しむこと、それが「遊び」である▼同市には、子どもたちのためにかこさんの作品をモチーフとした、てんぐちゃん広場やだるまちゃん広場があり人気スポットだ。「あそび」をテーマにした企画展が武生公会堂記念館で開かれているというので足を運んだ。現代から過去まで多彩な遊びを堪能できた▼中でも囲碁。同市ゆかりの紫式部の「源氏物語」に描かれていることが紹介される。中国の歴史書には、7世紀に日本人が囲碁で遊んでいたという記載があるという。遊びから日本特有の文化となった「合わせ物」の中でも貝の美しさを競う「貝合(かいあわせ)」は興味深い。ブラジル人のじゃんけんなども取り上げている▼「遊」といえば、「知の巨人」ともいわれる、漢字学者の白川静さんの一番好きな文字として知られる。生誕の地の福井市大手3丁目にある記念碑には、「遊」の直筆が刻まれる。白川さんのいう「遊」はこう解釈される▼神様が自由に行動するという意味だったが、後に人間が心のおもむくまま行動し楽しむ意味となった。また白川さんは、最高の生き方は自然と合一することで、自然になるには遊ぶのがよいと説く。重苦しいコロナ禍の中、せめて遊び心は忘れまい。(福井新聞ONLIHE「越山若水」・2021/03/14)

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  ごくたまに、友人が電話をかけてきてくれます。たいていは、昔のよしみで「呑みに来ないか」というのだったり、「すこしは話に来ないか」というのだったり。せっかくのお誘いですのに、ぼくはまず断ってしまいます。第一、面倒が先に立つからであるし、都会に出向くとなると、どこに行こうと人混みは避けられないからです。そんななかで、数日前に、京都の友人が「山中の詫び住まい」で、やせ我慢男も、さぞかし無聊を託っているだろうという思いやりからだと愚考するのですが、わざわざ電話をくれました。何を話すでもなく、それぞれの近況を確かめあったり慰めあったり、そのなかに驚くばかりに、なんと「かこさとし」という人の名前を聞きました。耳を疑うというのはこのことです。聞き間違いかと聞き返したほどでした。世間ではかこさんは絵本作家としてとみに盛名を持っておられましたが、ぼくの印象において、本業は技術者として出発した人。その後にさまざま理由から絵本を書き始め、長い生涯にたくさんの作品を残された。ぼくはその大半を読んではいないにもかかわらず、かこさんはなんとも懐かしい人、その人柄のやさしさに魅かれてきたのでした。

 生まれは福井でした。少年時に東京に移住。その後東京帝国大学の工学部だったかに入り、科学や工学を学ぶ。卒業後に昭和電工に入社。その後の作家活動はよく知られています。かこさんの子供に向けるまなざしの強さは、大学在学時の「セツルメント」活動に育てられたものだったといえます。ここではたくさんの(教育)紙芝居を創作、各地で実演しました。神奈川県川崎をはじめ、県内各地での活動がその後の方向を示しているようです。この「セツルメント」活動は、今でいえばボランティア活動となるのでしょうが、特に帝大の学生は熱心な人が多かったという印象をぼくは持っています。ぼくが知っているだけでも何人もがこの活動に熱心だった。(かこさとし公式webサイト:https://kakosatoshi.jp/)

○ セツルメント=宗教家や学生などによる社会の下層に属する人々に対する社会事業の一つ。主として宗教的,教育的立場からなされるものが多い。その事業内容はさまざまであるが,一般に,保育,学習,クラブ,授産,医療,各種相談などがある。 1884年,ロンドンでケンブリッジ,オックスフォード大学の学生らが A.トインビーを中心として労働者たちの教育にあたったトインビー・ホールがこのセツルメント活動の最初である。日本でも外国人宣教師によって明治時代に始められたが,片山潜が 1897年にキングズレー・ホールを中心に活動したのを一般に始めとする。その後この活動は社会主義運動とともに活発化し,1925年東京本所に東京帝国大学の学生セツルメントが生れ,学生による活動のさきがけとなった。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説)

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 上にも触れましたが、意外だったのは、かこさんは福井県の出身であったということでした。東京でないことは直感していましたが、福井県だったと知って、二度びっくり。あるいは東北の人じゃないかと、まことに勝手な思い込みを持っていたからでした。良く知るようになると、出身地はどこであれ構わないようにぼくは思いますけれど、それでもちょっとした関心が膨れることもあるのです。だから言うのではないと断ったうえで、これはぼくのある種の偏見かもしれませんけど、福井の人は「芯の強い、粘り強い」、そんな特質があるのではないかと推察しています。福井のだれを知っているのかと言われそうですね。かこさんからの連想で白川静さんを考えたのです。ぼくは、この漢学の碩学には面識はなかったのですが、実に多くの事柄を教えられたと思います。いまでも、机の周りには白川一色と言いたいほど、白川さんの業績が無学のぼくを取り巻いています。(今回の「コラム氏」には感謝しています。かこ、白川両氏を並べられていたのですから。

 白川さんは京都嵐山の桂川のほとりに住んでおられた。「桂東雑記」というエッセイをぼくはこよなく愛読していたのです。この白川さんも福井の出です。幼くして大阪だったかに奉公に出され、やがて機会を得て中学校に進み、苦学して立命館の夜間に学びます。後年は漢字・漢学の研究に没頭され、驚異的な業績を挙げられたのは言うまでもありません。六十年代、七十年代に学生運動が過激化し、学生による大学封鎖がつづいた時にも、活動家の学生たちは「白川先生の研究室だけは封鎖しない。封鎖が一日続けば、一日研究が遅れるから」と言ったとか。かくして、白川さんの研究室だけが終夜に及んでも煌々と灯りがついていたという。

 話せばいくらでも出てきますが、無駄話は止めておきます。ぼくはかこさんと白川さんで福井を代表させるつもりはないのですが、どういうわけだか、お二人ともご長命であった。九十歳をはるかに超えて生きられたのです。人生は短いといわれますが、このような人を見ていると、いかにも長い人生というものもあるのだと、非才のぼくは痛感するのです。人生の意気に感じつつ、ということか、ぼくは生きることのこの上ない喜びを、お二人の福井出身者に教えられたと言っておきます。(かこさとしという名前について、かこさんは俳句を嗜まれておられ、その俳名が「加古里子」だった。時にはテレビキャスターも務められたようです)

○ 加古里子(かこさとし)=1926-2018 昭和後期-平成時代の絵本作家。大正15年3月31日生まれ。東大工学部で応用化学をまなぶ。卒業後化学関係企業の研究所につとめるかたわら児童文化運動にかかわり,たのしみながら科学をまなぶ本や絵本を多数生みだす。平成20年菊池寛賞。福井県出身。本名は中島哲(さとし)。作品に「かわ」「海」「地球」「かこさとしかがくの本」,「だるまちゃん」シリーズなど。(デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説)

○ 白川静=1910-2006 昭和-平成時代の中国文学者。明治43年4月9日生まれ。昭和29-56年母校立命館大の教授。文字文化研究所所長。甲骨文,金文を解読し,漢字の起源や,日本の国語として漢字を摂取する過程を解明。その成果を「字統」「字訓」「字通」の漢字辞典三部作にまとめた。平成3年菊池寛賞,9年朝日賞,10年文化功労者。13年井上靖文化賞。16年文化勲章。平成18年10月30日死去。96歳。福井県出身。著作はほかに「甲骨金文学論叢(ろんそう)」「稿本詩経研究」など。(デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説)

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 幕末の越前藩主松平春獄を、ぼくは大変好んでいました。「英明の君主」といった趣で、彼に重用された橋本左内や由利公正にも大いに関心をそそられていたのです。なぜ福井(越前)なんだ、偶然のいたずらでしょうけれども、殖産興業や幕政改革、さらには幕府瓦解後の新政府でも重きをなした。橋本左内は早逝したのですが、大きな役割を定められた人生を生きた人だったし、あるいは東の吉田松陰よりよほど開けた人物だったように思われます。彼は二十五歳で、安政の大獄に連座、死罪でした。由利はまた、若くして横井小楠の知遇を得、更には左内らと国事に奔走し、死を逃れ、明治維新期の「五ヶ条の誓文」を起草したことで知られる。後年には東京府知事をも務めた。これらの人々を調べていた時にも、福井(越前)に興味を持って、地理や歴史について、少しは資料に当たったことがありました。今、福井と言えば、原子力発電所のデパートなどと非難されています。隔世の感、政治家の器量ということを考えさせられます。

 それにしても、偶然、電話で告げられた「かこさとし」という名前に魅かれて、脈絡のない連想に遊んでしまいました。もう一度、かこさんや白川さんを読んでみたく、書いて見たくなりにけり、です。一本の電話でもいろいろな働きかけをするものですね。デンワイソゲ、といいます。それにしてもNTTの回線を使うしかないのは腹が立つけれど、独占だから仕方ないか。糸電話は、京都まで引くのは不可能だしね。ぼくはいまだに携帯は使っていないし、万が一、使うことがあってもドコモではないことは明らか。じゃあ、どこか?どこも?どっちにしろ、要らないものです、ぼくには。

 *追加です (加古さんの長女・鈴木真理さんのインタビューから)

 「父は小さい頃から、自然の景色でも人間でも、周囲をよく観察する人でした。よく観察しているからよく覚えているんですよ、昔のことを。そうやって観察していると、見えてくるものってあるじゃないですか。例えば、普段から自分の子どもの様子をよく見ている。だから、ちらっとしか通らなくても、子どもの様子をパパッと見てすぐ気が付くわけです。それで「これやってごらんなさい」とアドバイスを言ってくれたりしてね。本は「読みなさい」とは言わないけれども、よく買ってきてくれて、「この本は面白いよ」と勧められたこともありました。」(文春「本の話編集部」編・https://bunshun.jp/articles/-/5227・
2016/12/05)

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投稿者:

dogen3

 毎朝の洗顔や朝食を欠かさないように、飽きもせず「駄文」を書き殴っている。「惰性で書く文」だから「惰文」でもあります。人並みに「定見」や「持説」があるわけでもない。思いつく儘に、ある種の感情を言葉に置き換えているだけ。だから、これは文章でも表現でもなく、手近の「食材」を、生(なま)ではないにしても、あまり変わりばえしないままで「提供」するような乱雑文である。生臭かったり、生煮えであったり。つまりは、不躾(ぶしつけ)なことに「調理(推敲)」されてはいないのだ。言い換えるなら、「不調法」ですね。▲ ある時期までは、当たり前に「後生(後から生まれた)」だったのに、いつの間にか「先生(先に生まれた)」のような年格好になって、当方に見えてきたのは、「やんぬるかな(「已矣哉」)、(どなたにも、ぼくは)及びがたし」という「落第生」の特権とでもいうべき、一つの、ささやかな覚悟である。どこまでも、躓き通しのままに生きている。(2023/05/24)