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「早春賦」作詞の吉丸一昌氏は大分出身。東京音楽学校教授。国文学者でした。他に知られているのには「故郷を離るる歌」の訳詩があります。ぼくはこの歌を中学校だったか、音楽の時間に聞いて、なんとも新鮮は気がしたことを長く忘れなかった。じつに固い歌でもあるという印象も同時に持ったのでした。よくその理由はわからなかったが、きっと原曲(原詩)がドイツ語だったことに依るのかもしれないと、やがて理解しました。(吉丸さんの訳詩を以下に掲げます。一番のみ。ドイツ民謡(あるいは歌曲か)の原題は「最後の夜」)

園の小百合 撫子(なでしこ) 垣根の千草
今日は汝(なれ)をながむる 最終(おわり)の日なり
おもえば涙 膝をひたす さらば故郷
さらば故郷 さらば故郷 故郷さらば
さらば故郷 さらば故郷 故郷さらば
こういう歌を聴いたり歌ったりして、どんなことを思っていたのか、今ではすっかり忘れてしまいましたが、歌詞の部分だけは覚えています。いかにもハイカラな景色を描いているということだったかもしれないし、「さらば故郷」という実感は、ぼくにはまったくなかった、この繰り返し(リフレ―ン・ルフラン)が、野蛮な少年にも強烈な余韻を残していたのでした。かたわらでは、流行り歌にうつつを抜かしてもいたのでした。
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主題は「早春賦」です。発表は大正十三年。作曲は中田章さん。「早春」は分かります。それに「賦」が付きます。言うならば、早春を謳う、早春を詠むということでしょうか。「早春に賦す」です。「賦」については下記を参照してください。いかにも大正期というのか。ハイカラ、翻訳調ですね。
○ 吉丸一昌(1873-1916)=明治-大正時代の国文学者。明治6年9月15日生まれ。41年東京音楽学校(現東京芸大)の教授。42年文部省唱歌教科書編纂委員となり,明治末期から大正初期にかけて「お玉じゃくし」「早春賦」「木の葉」「故郷を離るる歌」(ドイツ民謡)などおおくの唱歌を作詞した。大正5年3月7日死去。44歳。大分県出身。東京帝大卒。(デジタル版日本人名大辞典+Plusの解説)
○ 中田(なかだ)章(あきら)(左下写真)(1886〜1931 東京)明治から昭和初期にかけて活動した日本の作曲家,オルガニストです。彼は明治19年に東京で生まれ,東京音楽学校で学んだのち,この学校でオルガンや音楽理論を教えました。作曲家としては,春を待ちわびる思いを歌った唱歌「早春賦」によってたいへん有名になりました。この曲は,大正初期に,同じ東京音楽学校で国語を教えていた吉丸が詩書き,同僚だった中田章に作曲を依頼したことによって生まれたものです。また彼は,「夏の思い出」の作曲者,中田喜直の父でもあります。(教育芸術社)

○ 賦=1 詩や歌。「惜別の賦」2 「詩経」の六義(りくぎ)の一。比喩(ひゆ)などを用いないで感じたことをありのままによむ詩の叙述法。3 漢文の文体の一。対句を多用し、句末で韻をふむもの。「赤壁賦」[常用漢字] [音]フ(呉)(漢)1 税を取りたてる。租税。「賦役・賦税/田賦」2 割り当てる。割り当て。「賦課/割賦・月賦・年賦」3 授け与える。「賦活・賦与/天賦・稟賦(ひんぷ)」4 詩歌を作る。また、詩歌。「賦詠・早春賦」5 古代中国で、韻文の一体。「辞賦・赤壁賦」(デジタル大辞泉の解説)
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「春は名のみの 風の寒さや」「 氷解け去り葦は角ぐむ 」「 今日もきのうも雪の空 」「 春と聞かねば知らでありしを 」「 聞けば急かるる胸の思いを 」「 いかにせよとのこの頃か 」いかにも漢文的な詩です。それがいいという人もいるでしょうし、なんという歌なのだという批判もあるでしょう。ぼくは、どういうわけだか、これが大好きです。季節はいつごろか。春は名ばかり、まだ雪の空と言っていますから、ようやく「立春」を過ぎたところか。まだまだ寒い、懐はなお寒い。身が凍えるような寒さが続くが、「鶯」でさえ、まだ啼くのが早いと感じている。そんな時期でしょう。春になったねと聞かなかったら、これほど気も急かないのに、と。今なら二月の初旬。旧暦の正月頃です。

作詞を担当した吉丸さんが大正初期に長野の旧制大町中学校の校歌を依頼されて出かけた際につくった詩と言われます。その大町には石碑があります。ぼくもかつて訪れたところです。どういうわけか、ぼくは信州・信濃には縁があり、何度となく遊んだ地でもあります。右の写真は、同じ長野の安曇野にある記念碑です。(いつも、この「碑)に触れるときに、奇妙な気分に襲われます。いったいどうしてこんなに行さんの「碑」を作るのでしょうか。碑は墓であり、だから亡き人を「お祭り・お祀り」するのだというので、とやかくいうすじはないのでしょう。けれども、この自然に還ることもできないコンクリ製はいかにも薄情じゃないですか。故人に対して無礼だとぼくは考えています。そのほとんどは取り巻きがきずくのでしょうが、その取り巻きもいなくなれば、無用の記念碑となり終わるのです。一考を要しますね。
いろいろな背景から、長野(信州)が名だたる教育県であることが知られています。信濃教育、上田自由大学など、今なおその痕跡を残し、現に赫々たる伝統が続いているのです。学校音楽に関して言えば、伊沢修二です。出身は高遠。「血染めの桜」で名が知られている地です。ぼくもかなり前に、その高遠城を訪れました。伊沢さんは、この島の学校教育には欠かせない人で、いくつもの貢献をなされた人です。若いころ、ぼくは必要があって彼の事を調べたことがありました。(彼については、早い段階で触れたように記憶しています)

○ 伊沢修二=(1851-1917)明治-大正時代の官僚,教育者。嘉永(かえい)4年6月29日生まれ。伊沢多喜男の兄。大学南校にまなび,明治8年アメリカに留学。12年東京師範校長。のち文部省にはいり,「小学唱歌」の編集や教科書検定制度の確立につくす。東京音楽学校初代校長,東京盲唖(もうあ)学校長を兼任。23年国家教育社を設立した。大正6年5月3日死去。67歳。信濃(しなの)(長野県)出身。号は楽石。著作に「教育学」「学校管理法」,作曲に「紀元節」など。(デジタル版 日本人名大辞典+Plusの解説)

この伊沢さんとのつながりで、その後の学校唱歌、童謡の作曲家が長野から輩出します。一々は記しませんが、この長野派を除いて、学校唱歌・教育史は語れなくなるほどです。この島で最初の「教育学」の著書をも書かれています。いずれにしても、何事によらず、このような何十人力の人物が生まれなければ、事は始まりもしないし、展開もしないのだと、ぼくは彼の事績を見て実感しました。
じつは、本日は「春を謳った」唱歌や童謡を何曲か出して材料にしてみようと予定していたのですが、時間切れです。午前中にかみさんと少しばかりドライブに出かけ、(数日前に続いて、二度目ですが。千葉県四街道市在住の)福星寺の「枝垂れ桜」を観に出かけたのです。樹齢およそ三百六十年余。なんとも老齢いちじるしい趣で、見るのが辛いという気分がありました。見物者は、かみさんとぼくの外、たった二人でした。少し寂しく見えたのですが、今年も無事に咲き切ったというようにも見えました。もう一度会えるかどうか。
出かける前にいつものように歩きました。二時間ほどの間、山間部や田圃道をあちこち回りながら、そこここに、何本もの桜を確認しました。いずれも立派なもので、だれ一人、気にする風もない木々ばかりでした。なかには、もし今はやりのネットに掲載すれば、群衆が訪れるのは間違いないと思われるものもあります。こんな桜が、人知れず咲いて散る、まあ、ぼくのもっともこいねがう生涯の送り方ですね。

春は名のみの…、と言っているうちに、春酣(たけなわ)になりました。気がはる、芽がはる、根がはる、…と、命をかぎりにおのれを育てる時節になったようです。「春の歌」の二曲目は「朧月夜」になるのでしょうか。「菜の花畑に入日薄れ」。拙宅の前には、今を盛りに菜の花が咲き誇っています。背丈は一メートルもあるでしょう。生命力というものを痛感させられています。しかし、最盛期を思わせる中に、すでに衰えが花から葉に来ているのが見えるようです。生と死は一続きですね。(*https://www.youtube.com/watch?v=lZawuVwTxvo この地には何度か出かけました。彼方の山にも登坂したことがあります。高い山に初めて登ったのは「白馬山」でした。三十年以上も前になります)
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