花に嵐のたとえもあるぞ

 2年分の花見【天風録】勝ち負けの話ではないと分かっていても、ちょっと悔しい。きのう福岡市や東京都内のソメイヨシノが満開になった。開花は広島市が全国で最も早かったのに、なんでまた逆転を許したのだろう▲もちろん花に罪はない。接ぎ木や挿し木でしか増えないソメイヨシノはそもそも、全国どの木も遺伝子配列が全く同じクローンなのだ。気象や土壌の条件が同じなら、示し合わせたかのように一斉に咲き、一斉に散る▲その見頃に合わせ、公園や川土手の名所は例年どこも陣取り合戦が熱を帯びる。しかもこの春は、自粛した昨年の分も含めて花見酒も弁当も2年分だと、妙に気がせくご同輩が多いかもしれない▲だからといって、飲んで騒いでとはいくまい。何しろ新型コロナは今やクローンとは対極の変異型が幾つも現れている。感染力が従来型よりはるかに強そうだと聞けば、「花黙(かもく)」とでも言うべき寡黙の花見がよさそう▲やぼついでに言えば、地球温暖化がさらに進むと開花は逆に遅くなったり、咲かなくなったりするらしい。花芽を伸ばす「休眠打破」には冬の寒さが必要なため。環境に強い変異株の出現を期待したくもなるが、地球を大切にすることこそ先決か。(中國新聞デジタル「天風録」・2021/3/23 7:09)

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(千葉県四街道市内・福星寺(ふくしょうじ)の枝垂れ)

 このところ、十年近くは、毎年のように出かけるのがこの「福星寺の枝垂れ」です。樹齢も三百年を超えているという。家康にゆかりのサクラだとも言われています。このサクラのいいところは、いつ行っても人が少ない。満開の折にも二十人ぐらいが関の山。市内の農家の家々がある、すこし奥まったところで、車もほとんど止められない。これがぼくのサクラを愛でる条件となります。ただ、さすがに近年は、いろいろと評判になったり、しなくてもいいのに、市が広報に努めているようです。御覧のように、見るからに痛々しいので、ぼくはもう今年が最後の見納めと決めています。植物だって、これだけ介抱ほうされているのだから、すこしは休ませたらどうですと、言いたくもなります。

 何時でしたか、鎌倉鶴岡八幡宮の大銀杏が台風で根元から倒れたことがありました(➡)。無残というのか、当然というのか。人間の感情を移入すれば、なんだって喜怒哀楽を感じるのでしょうが、それは人間の勝手な解釈だとも言えます。倒れても腐っても、根っ子からまた次代の目が出てくるのですね。この枝垂れも、いずれは倒木の定めにあるだろうけれども、これだけの長い間に亙って、生きていたことをこそ、ぼくたちは有難く思う必要があるのかもしれません。

(印西市内の吉高の大桜)

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 この吉高(よしたか)の大桜も見事でした。過去形になるのは、この数年は見に行かなかったからです。きっとまだ見事に花をつけていることでしょう。初めて見たのは、二、三十年前。それはひっそりとしていました。ごく近くまで車でもいくことが出来ました。今では手前一キロ以上で止められます。あとは細い道を歩くらしい。満開の折には、軽便まで出る始末だそうです。このサクラにもいわれがあるのですが、それは省略。初めて見たときはまだ支え(添木)はなかった。いまでは、このような痛々しさをもまた目にしなければならない。さらに余計なことと思うのは、ライトアップです。樹の方がアップアップしているのに。この地は、は近年の再開発とやらで、更に込み入ってきました。人間の、生活の便利を追及していけば、木でも鳥でも動物でも檻に入れられるか、囲いに閉じ込められてしまう。これではまるで、動物園じゃん。「あつ森」かよ。かくして、この島の名だたる(もともとは名もない、だったのに)桜木はすべて死んでしまうであろうし、それも仕方がないのかも。

 約十年ほど都内の本郷に住んでいましたから、上野は徘徊のコースでしたが、記憶をたどっても、たった一度の花見にもいかなかったと思う。開化時を外せば、何度も、それこそ数えきれないくらいに通いましたが。人混みは言うまでもありませんが、木の根っこに茣蓙を強いて、宴会やらも飲み会やら。これが木の根を痛めていることに頓着しなんですね。街路樹なんかも、すべて根元からコンクリート張りですが、木に対してこんなにえげつない暴力はないのに、それに気づかないのか。気づいていても気にしないということか。やがて、人間どもが住むところ、すべてがの生き物は死滅し、野蛮化した人間ばかりの荒廃の極地となるに違いありません。

 何度か触れましたが、ぼくはかなりの桜好き人間です。拙宅にも、何本か桜を植えています。昨年末には、大きな山桜を切ってしまいました。あまりにも成長が早いというか、その速度に驚愕してダメにしてしまいました。まだ、五、六本ありまして、苗木からのものでしたが、ようやく花をつけるようになったばかりです。枝垂れが数本、気持ちいい枝ぶりで、いい雰囲気で開花しました。(いずれ写真でもアップしますか)。これらが大きくなる前にぼくの寿命はつきますが、それもまたよしとして受容しながら、それぞれの木々、花々に感謝しなければならないようです。隣地である竹藪の傍に高さも二十メートルは越えようという山桜の大木があります。周囲の手入れがいきとどいていないというか、まったく放置されていますので、花のつきがよくありません。少し暇があれば、余計はひこばえなどを切り、時間をかけて世話をしようとしています。今年も開花の時期になりましたが、さて、どれくらい咲いてくれますか。一本、ひっそりとたたずんでいる、そんな桜の景色を、ぼくは最も好みます。

 「花に嵐のたとえもあるぞ、さよならだけが人生だ」(この詩を、ぼくはくりかえし口ずさむのです)

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