正社員採用も終身雇用も終末、学校は?

 学校教育を支配している原理は「競争主義」だといわれます。誰にでも同じ負荷をかける競争であるなら、初めから勝ち目のないものがいるはずなのに、それは無視されるのです。個々人の能力や努力にのみ選別化の基準をおくという立場です。一見すると合理性があると思われそうですが、はたしてそうか。人それぞれだという意味は、いろいろな利点や欠点をもちながら、一人一人が生きているということでしょう。生活環境や成育歴も異なる。したがって「競争」に有利な子もあれば、不利な子もいるのです。それなのに、その違いや個別性を無視して、同じ基準で競争させる。学力が高い、成績が優れているとされる子どもはそれだけ能力を発揮したからであり、反対に成績の振るわない子どもは能力や努力の面で劣っているとされ、その結果については本人も、否応なしに納得させられる、そのような理不尽といいたくなるような場面があちこちにみられるのです。ぼくも、言うまでもなくそのような理不尽な競争に参加させられてきたのですが、早い段階から、その競争で勝とうとは思っても見ない子どもだった。成績なんて、いつもそんな科白(セイフ)を吐いていました

 「だれだって、やればできる」と教師はいう。自分がそうだったから、そう言いたいのでしょう。さもしい根性ではないですか。「できなかったのは、自分がやらなかった、怠けたからだ」と、子どもは弁解を封じられます。競争原理とはそのような成績の差を正当化する威力をもっているかのように個人に対して作用する。どの子も同じ条件で50メートル競走をしているのだから、結果に遅速の差が出るのはあたりまえだというわけです。要するに、学校や教室は競走場であるのです。それ以外に居場所がないとすれば、どの子にも、つらいところですね。競馬場のパドックというか、いやコースほかなりません。どの子も「ゲートイン」しなければならないとは、なんという因果でしょうか。

 「能力主義の社会秩序とその教育体系は抜きさしならない二律背反を含んでいる。なぜというに、大多数は敗者となる定めであるにもかかわらず、全員が同一のイデオロギーに与しつつ競い合うことが求められているのだから」(P.ウィリス)

 だれでもが一番になれないことは明白であるにもかかわらず、「やればできる(だれでも一番になれる)」という決まり文句を教師は口にしがちです。やればやっただけの成果があらわれる、そのような場面はいくらでもあるでしょう。しかし、コンテストではだれかが一番になれば、だれかはけっして一番にはなれない。学校の「勉強」もコンテストになっている。試験の結果を他人と競うコンテストであるなら、とにかく勝負に勝たなければならないということになる。勝てば誰彼となく評価してくれる期待感があるのでしょう。賢くなるための学習ではなく、だれかに勝つための勉強とはいかにも経済競争に似ています。点数稼ぎは金儲けに重なっている。いやな場面ですね。

 学校の内外で必要以上に数字が重んじられるのを手はじめに、どこまでいっても競争原理がはたらいているのが学校教育の実情だとおもわれます。くりかえしになりますが、産業経済体制の価値観こそ学校が信奉(しんぽう)する教義となっているのです。個々の子どもたちがどれだけ多量にこの価値観を自分のものにするか、それを競わせるための競争主義だといってもいいようです。まるで食うか食われるかの生存競争の闘争場(アリーナ)となっているのが教室だといっても過言ではありません。実に嘆かわしいな。

 でも、従来、頑強な原則だとみなされていたこの競争原理も、どうやら終焉を迎えていると、ぼくには思えます。教育の本来が何であるかは議論のあるところですが、いい意味で一人に向き合う教育というなら、この競争原理の終わりへの接近は歓迎すべきです。でも、本体である経済社会の減速が揺らいできたことから、学校における成績主義も風前の灯火となっているように見えるのでしょう。成績は点数のことだという、勝ち負けを評価するあまり、あまりにも個である子供の内面をも押し潰してきたのです。そのことを深く見つめなおさなければ、きっとまた、愚かな点取り競争を関係者は煽ることになり、いたずらに子どもたちは苦しむのです。(毎年くり返される入試、この風景は授業においても見られる。頽廃の絶景です)

 資本主義的の経済システムが機能すればするほど、原理的にも実際的にも経済資本の分配において不平等を産出することはさけられません。産業経済体制の諸々の制度は、根本的には、社会的・経済的不平等をもたらすような構造になっているのです。市場をめぐる利潤獲得競争が資本主義の真骨頂だとされるなら、勝者と敗者が明確に生みだされるのは当然の道理です。しかし、現状は純粋な競争主義に基づいてはいない。大きな力をもつ企業は、さまざまな政策上の便宜を得てさらにいっそう大きな力をもつように仕組まれています。しかし、そのような傾向が無限大に拡充され、企業間の格差が広げられた結果、自由な競争は阻害され、その挙句に、優遇されてきた企業群の中でも格差が生み出されてきています。資本主義の誤謬、避け得ない過ちだとも思われます。さらに言えば、最終的には僅少の大企業のみが一瞬の光を見せますが、やがてはすべて崩壊過程に入るのです。資本主義もまた、国家社会主義の方向を取るのでしょうか。

 学校でも同じような現象が見られます。成績競争に早い段階で勝利する子どもは、その勝利によってさらに競争を有利に展開することができます。その反対に、成績が振るわないと判断された子どもはその判断によっていっそう不利な競争を強いられる。この勝者と敗者の差は、学校が認めた範囲での、狭い領域の点数の差です。その点数(成績)の差は、生活の行く末を保障してくれているとみられたのですが、もはやそこには明るい展望はないという事態が進行しています。もっと言えば、大学は就職予備校として価値を持っていたけれども、その大学自体が暗闇に入った状態に置かれている。いろいろな理由に依るのですが、大学は従来の教育価値を使い尽くしてしまったのです。

 さまざまな学校段階に一貫している性格があります。それはどんな学校もさらにその先にある学校への準備教育が主流となっているという点です。そして最終的には就業のための準備教育こそが学校の最大の機能であることになります。これがその時々の学校教育が本来的に求められる必要・必然性(子どもの要求)をいちじるしく阻害していることはいうまでもありません。小学校は中学校のための、中学校は高等学校の、高等学校は大学のための下請け教育を担わされきたのです。まるで明日のために今日があり、明後日のための明日があるといわぬばかりです。そのように長く続いてきた「準備教育」も、準備が何のためかという最大の目標を奪われたかの感があるのです。懸命に偏差値や成績を上げ、優等生になって大学を終えたが、その先は道がなくなっている、そんな事態をこの島社会は経験し始めているのです。

 これまで通りの学校教育は、この先も継続されるのでしょうか。ぼくには決してそうは思えないのです。学校において成績がいいというのは、必ずしも人間の賢さや誠実さを測る尺度にはならないと、これまでの百五十年の学校教育の歴史は、一面においては示してきました。相変わらず、受験や進学をめぐる点取り競争は継続しているようには見えますが、そのような点取り競争を求めてきた経済セクターが驚くべき衰退を始めており、従来のような学歴信仰に翳りが見えてきたのです。経済社会あっての学校教育という依存関係が崩壊しかかってきたのです。物証はいろいろとあります。終身雇用制や正規雇用制度が驚く速さで壊されてきた状況を見るだけで、これは元に戻らないほど打撃を受けていると判断されるのです。正規社員の週休三日制や副業の容認、それはこれまで通りの仕事内容や賃金を賄えない状況を企業が迎えたことを表わしています。将来の「経済成長」は幻想であり、この島社会の売りであった「終身雇用」は夢物語だったという現実に、学校教育はどう対応していくのか。

 年功序列、終身雇用、企業内組合という三点セットは、バブル崩壊後には完全に消滅しました。かろうじて残存しているかに見えた、正規雇用も今では危機的状況にあります。この島社会の経済モデルはどこにもお手本を見出せなくなったのです。生涯を文化的にも豊かに暮らすという、従来、安心制度と思われていたものは社会・経済システムの崩壊とともに、根元から崩れているのです。公的年金問題、公的医療保険問題などの社会保障・福祉制度と言われてきた生命安全ネットは、完膚なきまでに打ち壊されようとしてます。この先十年、さらに崩壊の速度は早まることは間違いないのです。その時、学校教育は、はたして、別の道を見出せるのでしょうか。すでに見出していなければならないような緊急事態にあります。

 パソコンやそれを介したインターネット時代、すべての社会経済の基幹部分をAIが請け負う時代です。この方向はまったく新たな生活の変容を求めてきましたし、一層その要求は強くなります。それを十分に学校教育の内部に取り込み、これまでに見られなかった学習機会を構築する可能性が開かれているとみるべきだし、確かに飛躍するための好機(スプリングボード)であることは間違いない。そこに、如何にして学校は到達できるのでしょうか。

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 時は春、「友」との、あるいは「敵」との別れがやってきました。今もなお歌われているのでしょうか、「仰げば尊し わが師の恩」それって何のことと言われるのかもしれません。ぼくも歌った記憶はないのです。「教えの庭にも はや幾年」と、心にもないことなどとは言いません。やはり、学校は教師の職場、「教える庭」だったんだね。教師にしても児童・生徒たちにしても、別れることは悪いことではありません。いまは、卒業式も省略する時代です。なにによらず「式」はだれのためにするのかという、疑問や不信の念が、ぼくにはついて回りました。別れは悲しいという人もいれば、無常の喜び、これにすぎるものはないという手合いもいるでしょう。学校が学校であることは極度に困難になりつつあります。どこかで、それぞれが学びあうという、新しい「姿」が始まっているでしょう。

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。