年月経ても絶えぬ仲らひとも成らめ

 妻(め)といふ物こそ、男(をのこ)の持つまじき物なれ。「いつも一人住みにて」など聞くこそ、心憎けれ。「誰(たれ)がしが婿に成りぬ」とも、また、「いかなる女(をんな)を取り据ゑて、相ひ住む」など聞きつれば、無下に、心劣りせらるる業(わざ)なり。殊なる事無き女を、良しと思ひ定めてこそ添ひ居たらめと、賤しくも推し量られ、良き女ならば、この男をぞ、らうたくして、「吾(あ)が仏」と守り居たらめ、例へば、然ばかりにこそと、覚えぬべし。まして、家の中(うち)を行ひ治(をさ)めたる女、いと口惜(くちを)し。子など出(い)で来て、傅(かしづ)き愛したる、心憂し。男、亡くなりて後、尼に成りて、年寄りたる有様、亡き跡まで、あさまし。

 いかなる女なりとも、明暮(あけくれ)添ひ見んには、いと心付き無く、憎かりなん。女の為も、半空(なかぞら)にこそ成らめ。余所(よそ)ながら、時々通ひ住まんこそ、年月経ても絶えぬ仲らひとも成らめ。あからさまに来て、泊り居などせんは、珍(めづら)しかりぬべし。(「徒然草」第百九十段」)(島内既出を参照)

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 男なら、妻などいうものを「持つまじき」ものだと、兼好さんは言う。男のくせして妻を娶るとはなんということか、それは断じてあってはならぬ、と。「いつも、ぼくは独り身なのだ」と聞くと、なんといい気分だろうと、喝采せんばかりです。兼好さんは無妻無子でしたから、これは彼の心情というか人生観だったのでしょうが、いったい、どうして結婚反対者として生きていこうとしたのか、不思議に思わないでもありません。神職家の次男坊、あるいは好いた同士の結婚を反対されたことがあったか、なかったか。かなり女性に対して遠慮気味というか、すっきりしません。女性を偏見でみるのではなく、むしろ今流の表現ではフェミニストだったという感想が沸くのです。また家の問題、後継ぎ問題など、今日でも見られる制度的な煩わしさを、結婚という仕組みを通して厭うということだったか。

 本日も田圃道や雑木林の中の細道を歩きながら考えました。考えながら歩いたというか。彼の履歴の詳細は分からないのですが、三十頃に出家というか、出奔したとあります。男盛りと言えばいいのか、壮年の血気さかんな時期であったとも言えます。「世を捨てた」理由や背景は分かりませんが、ぼくは、半俗半隠の生活だったと考えています。いわば、身過ぎ世過ぎの身軽な生活を求めたのかもしれません。当時、意外にこのような表白に近い人たちは多かったのではないでしょうか。さらに疑問に感じるのは、彼は賄いというのか、生活の糧をどのようにして確保していたのか、これもぼくには謎みたいに残っています。資料に当たっても詳細は判然としません。

 おそらく、今でいうスポンサーがいたのかもしれません。豊かな育ちであったとはいえそうにありませんし、相続財産があったという記録も見ませんから、きっと他者からの寄進というかお布施というか、彼の才能を評価するパトロンがいた可能性もあります。なんにしろ、生存に困らない程度の糧食は付いて回ったと思われます。また出奔後は、定住するのではなく、各地に足を延ばしていますから、ますますスポンサー(支援者)の存在を考えたりするのです。

 妻帯などしてたまるかという勢いですが、彼が女性嫌いだったとは思えません。いくつかの「徒然草」のいくつかの段では女性論も展開しているのです。それでも、結婚した男に対しても女に対して「反感」を抱いているのじゃないかとさえ言いたくなるような批判を述べる。彼にしてみれば、結婚という呪縛が受け入れられなかったのかもしれません。漂泊の生活の流儀を求めたかに見えますから、これはそれなりに筋が通ると言えそうです。

 「 殊なる事無き女を、良しと思ひ定めてこそ添ひ居たらめと、賤しくも推し量られ、良き女ならば、この男をぞ、らうたくして、「吾(あ)が仏」と守り居たらめ、例へば、然ばかりにこそと、覚えぬべし」どうという取柄もない女を、これはいいと勝手に決めて同棲するというのは、なんとも「賤しくも推し量られ」る。なんという嫌なことかと思われてくる。反対に、いい女なら、相手の男を愛でて(らうたし)、「我が仏」などと大事にするし、男もそうなんだといい気になる、まあ、そんな程度の婚姻だったのかと考えれば、つまらないなあと感じてしまう、と兼好さん。

 「 いかなる女なりとも、明暮(あけくれ)添ひ見んには、いと心付き無く、憎かりなん」この部分は、あるいは兼好さんの経験談か。遠距離恋愛をすすめるような口ぶりです。そう考えたくなるほどに、単純に女性を遠ざけてはいないのです。「どんな(素敵な)女性であっても、明け暮れ(四六時中)面と向かっていれば、気に染まないことおびただしく、いやになるだろう」という。確かにそうかもしれない。このあたり、ぼくには未知の世界であり境遇でありますけれども、四六時中、いっしょというのは気詰まりだなあという気はいつでもしますから。多くは日がな一日、互いに見合っているのですから、ときには、息抜き、ちょい家出か、そんなことがしたくなるのですね、きっと男も女も。 ぼくは自分の部屋に閉じこもりますけれども。

 「中空」とは、よくわかりませんが、間が空洞になる、つまりは男女の間が空っぽというのでしょうか。毎日顔を見せあっているうちに互いに気にいらなくなるし、愛も冷めてしまうというのかもしれません。だから、余所(よそ)に住んでいながら、時々、通い婚の如くに、いっしょになるのは、「 年月経ても絶えぬ仲らひとも成らめ 」と、まさしく、彼の持論のようでもある言いぶり・口ぶりです。

 七百年前の兼好さんにして、この結婚観ありと言えば、想い半ばにすぎます。狭い家に居ながら、互いに角突き合わせるというのも、考えるまでもなくしんどいことだし、互いの領分が侵食されるのを避けられないのですから、気まずくなるのは当然です。と、ここまでは何の疑問も持たないで結婚一般について書いたのですが、さて、兼好さんの時代、男と女の関係は、今とは全く異なっていたであろうし、ある種の身分制の中に在って、男社会が断固として支持されてもいたのですから、逆に、女性に対して、今様のフェミニズム的な発想が垣間見える兼好さん、それなりに飛んでいた人だったかもしれません。

 いくつになっても男と女と言います。しかし、この時代、とみに結婚に関する人々の意識は急展開を見せています。結婚をしないという選択をする男女も増加しているようです。あるいは、もっと増加しているのが、婚姻関係の長い夫婦の離婚が増える傾向にあるといわれる。事実婚と法律婚の差というか違いは必要だとして、それはどこまで認められるべきなのか。こんな問題もまた、今日の社会問題として十分に考えられる必要があります。一方において、男と女に限定しない人生問題としての「結婚」がはっきりと大きな主題になりつつある社会が出現しているということでしょうか。

 兼好さんのこの段における記述は、一面において、これは当時の結婚についての批判とも読み取れます。まるで夫にの生死に殉職するが如き、「専業主婦」という閉じ込められ方についての、兼好法師の嫌悪でもあったのです。

「家の中(うち)を行ひ治(をさ)めたる女、いと口惜(くちを)し。子など出(い)で来て、傅(かしづ)き愛したる、心憂し。男、亡くなりて後、尼に成りて、年寄りたる有様、亡き跡まで、あさまし」家政を取り仕切るなどというのは、(女性として立派だなどとは)とてもよからぬし、だから、それを無条件に認めるなどとは言えない。子どもが生まれ愛しながら育てるというのも、愉快なことじゃないですよ。夫が亡くなった後、 さらに尼になって年を取るというのは、なんと興醒めすることよ、というのは兼好さんです。彼は女権尊重論者だったというべきか。

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● 兼好(読み)けんこう(弘安6・1283?―観応3・1352?)=鎌倉時代末期~南北朝時代の歌人,随筆家。俗名は卜部兼好 (うらべかねよし) 。卜部氏は神道の家。京都吉田に住むところから吉田氏をも称した。出家後は音読して「けんこう」と号した。父兼顕や兄兼雄も朝廷に出仕していたが,兼好も 20代は後二条天皇に仕えて左兵衛佐となり,その間豊富な有職故実の知識を得るとともに,歌を二条為世のもとで修練した。 30歳前後に出家して山城国小野庄に住んだらしい。『兼好法師家集』 (1346頃) や『徒然草 (つれづれぐさ) 』によると,その後関東にも下っており,また比叡山横川や京に住んで,南朝と北朝の対立する社会変動の激しい時代に傍観者として自己の真実に従って生きたらしいことが知られる。『徒然草』は『枕草子』とともに随筆文学の代表作。歌人としては二条派に属し,頓阿,浄弁,慶運とともに和歌四天王と称された。上記の家集のほか『続千載集』以下に 18首入集。(ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典の解説)

○ 余話、あるいは蛇足として 今から百十年余前の青年たちに寄せられた与謝野鉄幹の詩です。ぼくも、何度か蛮声を張り上げたことがありますが、つまりは、儚い青春の蜃気楼だったと、今では痛切に感じられます。その鉄幹の詩に対する「返し歌」の如くに詠みこまれた、妻の短歌です。晶子さんは鉄幹との間に、十二人の子どもを出産しました。両者の歌の間に刃が刺さっているような気がします。それにしても、晶子都市う人は小人的なスケールで生きたと、強く思われてきます。彼女からすれば、「青鞜」派の動静は、まるでお嬢さんのお遊びに見えていたかもしれません。

明治38年7月6日発行の『鉄幹子』による本文                                         

人を戀ふる歌(三十年八月京城に於て作る)
 

 妻(つま)をめとらば才たけて
 顔(みめ)うるはしくなさけある
 友をえらばば書を讀んで
 六分の俠氣四分の熱

 戀のいのちをたづぬれば
 名を惜むかなをとこゆゑ
 
友のなさけをたづぬれば
 義のあるところ火をも踏む

 くめやうま酒うたひめに
 をとめの知らぬ意氣地あり
 簿記(ぼき)の筆とるわかものに
 まことのをのこ君を見る(以下略)

やは肌のあつき血汐にふれも見でさびしからずや道を説く君(与謝野晶子・歌集『みだれ髪』(明治34年・1901)

○ 「変わるシニア婚活、入籍せず通い婚選ぶ人も」https://style.nikkei.com/article/DGXMZO86608800R10C15A5NNMP00/            

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投稿者:

dogen3

「上を思えば限りがないと、下を見て咲く百合の花」になれるものなら、という想いです。それこそ、「高嶺の花」ですが。「昨日は俗人 今日は僧、生涯胡乱(うろん)これがわが能」と自称した一休さんは、一面では「相当な人物」だったと、歳をとるとともに思わされています。