管と官と電の出来レースさ

【筆洗】季節外れな話となるが、イソップに「セミとキツネ」という話がある。セミを食おうと狙うキツネがセミに木から降りるようそそのかす。「とてもいい声だ」「この声の持ち主はどんな生き物かな」…▼警戒するセミは試しにと、一枚の葉を落とす。勘違いしたキツネは葉に襲いかかり、セミはたくらみに気が付く▼われわれにも「木から降りておいで」と声がかかっているようである。新型コロナウイルス感染対策の緊急事態宣言。菅首相としては宣言が延長されていた東京など首都圏の一都三県についても二十一日をもって解除したいらしい▼解除となれば二カ月半ぶり。そう聞いても晴れやかな気分になれないのは本当に大丈夫かという心配のせいだろう。セミを誘うキツネの甘い声を聞いている気にもなる▼なるほど、病床使用率は下がっている。半面、肝心の新規感染者の減り方は胸を張れるほどではない。感染力が強いと聞く変異ウイルスの影響も恐ろしく、解除で感染再拡大を招けば、今後、ワクチン対応に集中したい医療機関にまた大きな負担をかけることになる▼生活上のストレスや経済を思えば、いつまでも宣言を続けるわけにはいくまいが、せめて、解除の場合は安全を確かめながらゆっくりと木を降りる慎重なセミとなりたい。浮かれ、元の生活を急げば、コロナというたちの悪いキツネの思うつぼだろう。(東京新聞・2021年3月18日 08時00分)

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 コロナ禍、二年目の最中です。このところ、官僚の接待問題が喧しく議論されている、あるいは、ごく一部でだけ騒がれているようにも思われます。表に出ているのは「氷山の一角」というわけで、この島社会で業者と政治家・官僚が疚しいところをいつでも内在させながら、いわば「政治と行政」を飛車角と偽りながら、それを隠れ蓑にして、技術立国・殖産企業を仕組んできたのですから、いまさら慌てる話でもありませんなどと、超然としてもおられないから、小なりと雖も、怒りが沸騰するのです。でも、「接待し、接待され」という関係ばかりが取り上げられていますが、問題の核心はそこにはない。大騒ぎしているのは、いわば、海面上の風波であって、深海では密かにえげつないことが企まれているのです。その悪辣さたるや、キツネどころの騒ぎではないし、そもそも、キツネはそれほど悪くはないさ。

 ぼくは政治家を志願したことも、官僚になって国士を気取ろうなどという野心というか邪心など持ったことがありません。情けない話ですが、実にささやかな、蝸牛のような生を送りたい、あるいはトンボのような儚い、そんな人生を願ってきました。「少年よ、大志を抱け」と言った人がいるのは知っていますが、その叱咤激励に鼓舞されたことは一度もありません。第一、ぼくのなかに「大志」が育つはずはあり得ないことでした。目立つな、余計なことに口出しするな、生来の不出来であると知れ、勉強なんかできないでいい、なまじ勉強ができると思い込んだら、碌な人間にならないと、小さい時から肝に銘じていました。これには嘘偽りはない。立身出世とは、ぼくには無縁の主張でした。身を立て世に出る、そう考えただけで、ゾッとしました。いったいそれは何を意味しているのか、皆目見当もつかないで、ちゃらい青年になっていたという不甲斐なさであり、虚弱で無恥を地で行くような塩梅でした。恥を忍んでいうのです。

 イソップにはさまざまな寓話(Αισώπου Μύθοι、Aesop’s Fables)があります。アリとキリギリス、王様の耳はロバの耳、うさぎとカメ、 ありとはと、 嘘をつく子ども(オオカミ少年)、雄鶏と宝石、 からすときつね、 北風と太陽 、などなど数限りなく上げられます。この島に宣教師が持ち込んだとかで、早い段階からよく知られるようになりました。いわば教訓話や説教譚と言った趣をもって語られたのです。これはまことに便利な(だれにとってか)教育・道徳の方法でした。「勧善懲悪」「因果応報」をとにかく身に沁み込ませるための道具となったのです。今でも有効な方法としてあらゆるところで多用されているのです。

 「筆洗氏」が出されているセミとキツネは、その通りで、ここでは人民がセミで、権力を持ったと自認している輩がキツネだそうです。狐にはかわいそうな気もしますね。それほど悪いことを企んだか、人間ほどの、あるいは権力者ほどの悪はなしえないとキツネは嘆いていることでしょう。狐に顔つきまで似ている権力の所有者(期間限定ですよ)はたくさんいて、特定できそうにもありませんし、男狐、女狐、更には野狐と多彩、豊富です。確かに、この例はよく言い当てているなと感心もしますが、もっと好例になるのが、「ずるいキツネ」です。(また、キツネの登場です)二匹の猫が肉をめぐって争っている。そこにやって来たキツネは、肉の塊を二等分するがいいといった。しかし実際に分けてみると片方がちょっと大きくなる、同じようにしようと、大きい方を齧ると、片方が大きくなる。そうこうしているうちに、一人で肉を「全部食べた、おいしかったとさ」というのはどうでしょう。これが、「私腹を肥やす」というのでしょうか。

 ここからの教訓、その一。バカな争いは決してするな、獲物は他人に召し上げられてしまうから。あるいは「漁夫の利」とも。政治家や官僚はキツネであり、漁夫であるのか。あるいはセミや猫は人民なのでしょうか。悪い奴ほどよく眠るといいます、睡眠薬なしで。泣く子と地頭には勝てぬ、とも言います。官僚や政治家は泣く子であり、地頭でもあるのですかね。ようするに、楽をして大枚を巻き上げる(トンビに油揚げ)というのは、贈収賄(贈賄と収賄)ということになるでしょう。この島だけではなさそうですが、とにかく魚心に水心、ですよ。阿吽の呼吸とも。一時、忖度、忖度とさかんに話題にされましたが、いつだって、他人より金が欲しい、他人より仕事が欲しいという人間がごまんといるのですから、その間に付け入るのは手もない業だし、それを熟知しているのが政治を生業(稼業・家業)にしている人々でしょう。なんだって口利きをし、それによって金品を懐に入れる、こんな手合いが永田町に殺到しているのでしょう。

 独占はいけないと、民営化を装いながら、とどのつまりは元の木阿弥、携帯料金は四割値下げさせるなどと、勇ましい号砲を炸裂させていたが、勝負がついてみると、NTTは昔の「電電公社」に先祖帰りしていたという寓話です。のど元過ぎれば、熱さをを忘れる。覆水は盆に返らず、正月に帰るとも。許認可権を握るというのは、どんなものでも権力者の金儲けの手段にできる権限と言い換えてもいいでしょう。いい年をして、つまりは、古希を過ぎて、なおかつ、うたかたの権力にしがみつき、崖の淵に立って権勢をふるいたい、人民は眼中にあるはずもなく。結局は、何事もおのれ一個の利益にしてしまうだけという人間たちが、この島社会を食い潰してきたし、もう残り僅かもないところまで食い千切ってしまいました。寄らば大樹の陰、と言いますが、その大樹を切ったり削ったりして、切り倒したうえに、それを燃料にして燃やし尽くそうという魂胆だった。

 セミとキツネと言いますが、何のことはない。NTTとSUGA一派が積年の悪行を仕上げたというのが、その前景は今回の接待問題であり、中核部(見せ場)は「ドコモの子会社化」でした。バカバカしすぎるから止めにしますが、接待というのは、政治であり、行政であり、経済なんですね。こんな塵芥のようなママごとをして、私権を貪り、私腹を肥大化させ、公を無にしただけの悪態でした。電電公社民営化(偽私会社化)がなされたのは、一九八五年が皮切りでした。以来三五年、この間着々と揺り戻しが企まれていたことになります。国益や国民益ではなく、ごく一握りの関係者の私的利益の拡大のためだったということになるのです。

 「 浮かれ、元の生活を急げば、 コロナというたちの悪いキツネの思うつぼだろう 」、なんという愚かしいことを言っているのでしょうか。コロナは質の悪いキツネだというのなら、もっとアクドイ、性悪キツネがいることをなぜ暴かないんですか。君も同じ穴のキツネだからか。永田町では、野党も与党もないとぼくは見てきましたし(すべては永田町の共犯的住人)、お隣さんは霞が関のずる賢い官僚たちであり、一方の報道に携わる風を装っているマスコミもすべてが、亡国の徒たる、無慈悲な一味郎党なんだといいたいね。これを「江戸幕府」の崩壊に例えることもできそうです。暇な折に、少し書いてみましょうか。官軍と賊軍と言いたい気がします。でも官・賊同根だったとは、なんとも悔しいじゃないですか。

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 巨大化の道を選んだ国策会社たるマンモスNTTは、やがて氷河期や間氷河期を生き残れないことは、国境を越えてしまっているGAFAの圧倒的な牙城の放つ猛威を見れば一目瞭然です。つまり、国策会社化は、けっしてGAFAに太刀打ちできないのであって、だったら、小さな島の中で贈賄収賄のやりっこ、取りっこをしているのが身のためだと政・官・業の悪辣トライアングルが、はっきりと「国」というか「島」(任侠の世界でいう「縄張り」です)を売ったという話です。つまりは、接待は「売国奴物語」の序章であり、背景であり、通奏低音でした。かかる国潰し物語の顛末はまだ終わらない。米国に売られ、中国に買われ、自国内で売り買いしているという、おぞましい舞台はさらに暗転を迎えます。

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