天、黄土を雨らし、昼夜昏霾す

 本日は「余録」二編。このコラムを扱うのは久しぶりですが、これに限らず、こいつは「秀逸」というものには出会えなくなりました。なぜですかね。コラムの対象とする事象が、そもそも下品であり、卑しいものだから、どんなに加工しても内容や記事は品が落ちるということか。ぼくは、毎日、全国各紙の「コラム」を斜め読みします。全部で約四、五十です。いろいろと感想や批評はありますが、ぼくにその資格があるとは思えませんので、それは止めておきます。北海道から沖縄まで、コラムの良し悪しに偏りがあるのではないでしょうが、ぼくの好みから言えば、冬型の天気図の気圧配置の如く、「西高東低」です。あくまでも、ぼくの好みでいうのですから、何の根拠もない判断です。とすると、いわゆる全国紙なるものは、西か東か。おそらくどちらでもない、「中央」とか言いたいのでしょうね、ご自身では。さらに言っておけば、政府広報紙・機関紙のような様相はとみに増していますし、まるで官報に等しいものまで出現しています。

 談論風発、議論百出などという潮目はどこかに消えてしまった感が深いのはどうしてか。ぼくの知人や友人にも新聞記者やジャーナリストは何人かいますが、おしなべて平板なところに立っておられるようです。もちろん、反権力を貫いてこられた先輩も健在ですが、おしなべて、新聞は死の床に横たわっているか、風前の灯火だといいたいほどの為体(ていたらく)だとぼくは感じてきたのです。

 そんなに言うなら、新聞に目を向けるのを止めればいいじゃないかと言われるでしょうし、ぼくもそう思わないでもありません。でも、こんな状況にある新聞でも、眼にすれば、何かが発見できるという「余禄」だか「余得」があります。(だから「余録」ではないんですが)それは何か。それなりの時代状況や世界情勢、そんなものがなんとなく読めるというのは、怠け者のぼくには好都合なんですね。この島の政治状況に関してはほとんど役には立ちません。権力の軍門に下ったからという以上に、権力の列に伍しているという風情なんです。つまりは仲間だというのですね。両者なれ合いで「会食」「懇談」は言うまでもありません。なかには「検事長とかけマージャン」に浸った新聞人もいました。

 困ったものだ、といっているだけでは済まない事態がこの十年近くの間に進行してきました。(テレビは論外です。「いうこと聞かないと、免許を取り消すぞ」と恐喝されたのかねえ。テレビはとっくに滅んでいます)

 今日は天候が実にいい。風もなく陽光が眩しく指しています。こんな時は歩くに限るというのは、世間。ぼくは草取りです。年中行事で、なかなか骨が折れます。少しずつ、日にちをかけて抜いていきます。数日すると、もう新しい草の芽が頭を出しています。可愛いね、と言いたいが、抜かねばならぬ。いや抜くべしという法律があるわけでもなく、放置しておいてもいいんですが、草叢に拙宅が埋もれてしまう恐れがあるので、仕方なしに抜くのです。これがなかなかの苦労で、除草剤を散布すればいいのに、と世間は言います。ぼくは断じてそれを禁じています。草や根を枯らすというのは、それだけ毒性が強いだけのこと、草には害があるが、動物には無害ということはあり得ない。というわけで、朝からはじめて三時間ばかり、猫と遊びながらの草取りを中断して、「余禄」に与ろうという次第です。

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 【余録】ちょっと辛口だが、「つちふるや嫌な奴との生きくらべ」という藤田湘子(ふじた・しょうし)の句がある。「つちふる」とは文字通り「土降る」で、漢字で表せば「霾」。毎年春、大陸から飛んでくる黄砂をいう俳句の季語である▲空は黄色くかすみ、大気はほこりっぽく、家の中もざらざらする。いらっとした時に「嫌な奴」の顔が浮かんだのか。歳時記で「霾」をみると、副題に「黄砂」のほか「つちぐもり」「よなぼこり」「霾(よな)晦(ぐもり)」「つちかぜ」などがある▲うち「黄塵万丈(こうじんばんじょう)」は中国でのそのすさまじさを表した言葉である。古くからの中国の史書にも「天、黄土を雨(ふ)らし、昼夜昏霾(こんばい)(暗く曇る)す」というふうに「霾」の文字が登場する。その中国・北京でもここ10年で最大の黄砂という▲おととい、北京や山西省、内モンゴル自治区などを襲った「黄塵万丈」である。北京ではPM10(粒径10マイクロメートル以下の微粒子)の濃度が国際的な基準の約160倍を記録、黄色いかすみで「火星のような景色」の声がネットで飛び交った▲原因はモンゴルで多数の死者を出した強風により舞い上がった表土という。現地は気温が高く、雪氷が例年より早く解け土ぼこりが立ちやすい状態だった。黄砂は濃度を薄めながら日本列島にも到達し、いらっとする方もありそうだ▲「霾(つちふる)や空海(くうかい)越えし海一つ/有馬朗人(ありま・あきと)」。今回の黄砂はモンゴルよりもさらに西方の中東の砂粒混じりの大気が影響していたという専門家の分析もある。日本の春の「いらっ」をも左右する地球環境問題である。(毎日新聞 2021/3/17)

 果たして、「地球環境問題」だけで終わるはずもないほどに、中国由来は、黄砂ばかりか、他の輸入品までも偏見の目で見られています。と、時期を同じくして、アメリカから別の黄砂じゃなかった、閣僚がやってきました。国務・国防長官。米新政権閣僚初の訪問国がこの島だという。きっと魂胆があるのでしようが、それを人民に明らかにするほど、この島の腐敗堕落政府は誠実ではない。

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 日米2プラス2、異例の「中国名指し」批判へ…首脳会談は「4月9日」軸に

 (前略)両政府は、首脳会談に先立ち、16日に東京で開く外務・防衛担当閣僚による日米安全保障協議委員会(2プラス2)後に発表する成果文書で、東・南シナ海で現状変更を試みる中国を名指しで批判する方向で調整に入った。両政府が成果文書で中国の国名を挙げてけん制するのは異例だ。/ 成果文書では、沖縄県の尖閣諸島周辺で海警船による領海侵入を繰り返す中国を批判し、米国の対日防衛義務を定めた日米安全保障条約5条が尖閣諸島に適用されることを明記する見通しだ。海警船などの武器使用条件を定めた中国の海警法についても「深刻な懸念を共有する」と盛り込むことを検討している。(読売新聞・2021/03/14)

 石橋湛山という政治家を、ぼくは深甚の敬意をもって評価しているのですが、この湛山さんがなそうとした最大の課題は日中友好でした。その志は頓挫しましたが、繰り返し、両国の対話、両者の交渉を、彼は執拗に述べてきました。それがある時期から「敵視」とまではいわないまでも謙中というのか、隣国に対して勇ましいことを言うだけの政治になってしまいました。それに付和雷同する群衆を頼りに政治を行う結果が、こういう事態を招いたのです。どこまでいっても「対話」ですのに、敵国視、敵視という内容空虚な強がりが政治の方向を決めているのです。政治経済をはじめ、あらゆる分野の交流がなければ、この四等国の島社会は立ちいかなくなっているという自覚が働いていないんですね。黄砂は「黄塵万丈」ですが、終わりの見えない、上辺だけの強がり「対華」敵視政策もまた、行く末は「波瀾万丈」を免れません。

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 【余録】サクラの語源を日本国語大辞典でみると13もの説が列挙されている。最初に桜の霊とされるコノハナサクヤ姫に由来するという説、次にサキムラガルが約されたという説が掲げられ、以下諸説花ざかりである▲その最後が、サは穀霊(稲などの霊)の意で、クラは神のよりつく座、サクラは穀霊の神座の意味だという説である。実際に桜の開花は農事と深く結びつき、各地には花の咲き方の多少で当年の豊凶を占う「作見(さくみ)桜(ざくら)」があったという▲「予(よ)祝(しゅく)」とはその年の豊作を祈って行う前祝いの儀式で、実りの先触れである桜花の下で飲食を共にする花見も予祝という。今の人の花見へのこだわりも、桜の下で新しい季節のサイクルの幸福を願った昔とどこかでつながっている▲広島、福岡に続き東京、松江、長崎からも桜の開花の知らせが届いた。いずれも観測開始以来もっとも早い開花(東京は昨年とタイ)という。今冬前半の寒さと後半の暖かさとが桜の開花を促進する絶妙の組み合わせとなったらしい▲なのに、昨年の花見シーズンから1年を経てなおも居座るコロナ禍である。花見の飲食やお祭り騒ぎは、今季も遠慮してもらわねばならない各地の桜の名所となる。むろん桜に罪はないだけに、人々の胸のもやもやはかえって募ろう▲「世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし」。在(あり)原(わらの)業平(なりひら)の歌だが、今初めてその気持ちが分かるという方もおられよう。心の古層に潜むさまざまなものを意識にのぼらせるコロナ禍である。(毎日新聞 2021/3/16)

 幼いころから、ぼくは桜好きでした。その傾向は少しも変わらずに今に続いています。なぜ好きなのか、それは簡単です。山笑う、という季語の通りに、文字通り、一本の桜は山におさまっていながら、いかにも「破顔一笑」という趣そのものだからです。ぼくは桜並木は好みません。八重桜も苦手です。脂身一杯のトンカツを天ぷらで揚げたような、投げ出したくなるような騒々しさです。今では山桜もなかなか見られなくなりましたが、昔は車で見に出かけたほどです。楚々とした咲きぶりがいかにも鮮やかだという印象を持ったのです。

 「世の中に…のどけからまし」は、どんな桜をイメージして読めばいいのか。「サクラを観る会」のサクラなら、そんなのない方がよほど「のどけからまし」だったろうね。桜について語るときりがありません。いずれ近所の、人気のないところに咲いている(笑っている)桜を愛でたいと念じていますし、また書きたくなるかもしれません。

 それにしても、集(たか)るというのか、強請(ゆす)るというのか、はたまた「相見互い」というのか、「魚心に水心」というのか。嘘つきは泥棒の始まりというのか。この島では権力亡者は、ことごとく泥棒だったんですね。

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 美味しいね飲んでも食っても人の金 北九州 りっしん偏 (毎日新聞 2021/3/17・仲畑流万能川柳)

 七万で二人ひと月食べてます 飯能 藤代陽子(毎日新聞 2021/3/16・仲畑流万能川柳)

 歯が立たぬ煮ても焼いても食えぬ芥(飯野無骨)

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投稿者:

dogen3

 「名もなく貧しく美しく」、ぼくにとって、それは生きる姿勢(流儀)の理想型ではありますが、現実には「名もなく貧しく醜悪に」、せいぜいがそんなところでしたね。「美しく」どころではなかったけれど、「名もなく貧しく」は断固として一貫してきたと思う。とても自慢できませんがね。