
【談話室】▼▽このところ雲や雨に遮られているが、晴れた日は職場からの眺めを楽しみにしている。西の窓辺に立つと正面に朝日連峰の長い稜線(りょうせん)が飛び込んでくるからだ。どこまでも純白の山容は、この時季ならではといっていい。▼▽連峰は左端に見える主峰大朝日岳から西朝日岳、竜門山、寒江山、以東岳と続く。作家深田久弥は「日本百名山」でその連なりを評価した。同じ東北の名峰と比べても鳥海山、岩手山のように主峰だけが抜きんでているのではない。「朝日の価値は連峰全体にある」と記す。▼▽深田が縦走を果たしたのは1926(大正15)年、大学1年の時だった。朝日連峰が山岳界にようやく知られ始めた頃である。重いテントを背負い、友と2人で主稜線を大朝日から北へ辿(たど)った。まだルートがない所もあり、大鳥池からは時に臍(へそ)まで川に漬かりながら下った。▼▽半世紀をかけ数百の頂に立った。その経験を基に品格、歴史、個性を重視して選び、執筆したのが「日本百名山」である。今も山好きを魅了するゆえんだろう。生涯を通じ山に入れ込んだ深田が山梨県の茅(かや)ケ岳を登山中、頂上を目前に病死したのは50年前の3月21日だった。(2021/03/14付)
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残念なことですが、ぼくは山形方面の山には登ったことがありません。というより、山形をふくめて、この島の山々のほとんどに登った経験がないのです。なんどか、猪苗代や蔵王(⇦)の山にスキーに出かけたことがある程度です。これまでの生涯で後悔したくなることは山ほどありますが、山登りに積極的でなかったのは、その代表ではないかと思います。昔から、学習(勉強)は山登りに似ていると考えてきましたし、そのように言ったりしてきた。その言うところは、自分の脚で一歩一歩と登らなければ、一ミリも先に進めない、でも意欲して登れば、いろいろな経験が得られます。登山に要した費用というか、疲労はだれにでも同じです。同じ疲労でも、得るものがちがうとなれば、いいものが得られる経験をしたいではありませんか。山は動かない、いつでもそこにある。問題は登るという意欲だけです。

ずいぶんと昔、友人夫妻と山梨に赴き、一、二の山に登りかけましたが、天候だったか何かの事情で途中でやめにして、茅ヶ岳に登ったことがありました。なだらかな稜線だったので、そんなに大変な山だとは思いもしませんでしたが、いざ登りだしてみると、なかなか骨が折れたという実感が残りました。前後の記憶はあいまいですが、下山の途中で深田さん追慕(終焉の地)の碑がたっていたのを思い出しています。「百の頂に百の喜びあり」とは、彼の百名山の証明でありました。今になれば、いい登山をしたなという喜びが残っているのです。
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山の雑誌の案内には、以下のように書かれています。(上掲の写真も合わせて、掲載されていました)
JR中央本線韮崎駅の北方に、大きな裾を延ばしている休火山である。姿が八ヶ岳に似ているので、「ニセ八ツ」なる俗称もある。/ 一般的にはバスで柳平まで行き、大明神開拓地から登る。帰りは隣の金ヶ岳を経て明野村(現・北杜市)に下りる。あるいは南に防火線をたどり、深田公園に出てもよい。マイカーを使うときは後者が便利である。穂坂町柳平から3時間30分で山頂。(以下略)(https://www.yamakei-online.com/yamanavi/yama.php?yama_id=357)
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● 深田久弥(1903-1971)=石川県生れ。東京帝大哲学科入学。在学中に「新思潮」同人、改造社の編集部員となり、大学は中退。1930(昭和5)年『オロッコの娘』で認められ、文筆生活に入る。1933年小林秀雄らと「文学界」を創刊。1935年『津軽の野づら』を刊行。戦後は、小説から遠ざかり、ヒマラヤ研究や山岳紀行に活躍。1964年『日本百名山』で読売文学賞受賞。『山の文学全集』(全12巻)がある。(新潮社)

1903年、石川県江沼郡大聖寺町(いまの加賀市内)に生まれた。 1971年、山梨県の茅ケ岳山頂近くの尾根で、脳卒中のため急逝。 68年の生涯だった。本光寺にある墓の裏面に、「読み、歩き、書いた」 と刻まれている通り、歩きに歩いた人生だった。 スタンダールの墓碑銘「生き、書き、愛した」にちなんでいるのは、 久弥が生涯スタンダールを敬慕していたからだ。 世俗を嫌悪し精神の高さを求めて生きるという心を共有した。 久弥の「山」は、内なる精神を世俗から解き放つ場であった。 精神の開放の場として山々を歩いた。 戦前、鎌倉文士時代に小林秀雄を誘って雪山に入っていたのも、その一端だ。 戦後は小説よりも山の文章を多く書いた。 読売文学賞を受けた『日本百名山』をはじめとする山の文学は 日本文学史に独自の地歩を築いている。なかでも故郷の山、 白山を描いている幾多の文章は山の文学の白眉である。 山の文化館館長 高田宏
いっしょに茅ヶ岳に登った友人には、白山に誘ってもらったことがあります。山頂にある室堂のおみくじや絵馬がにぎやかに風に吹かれていました。その絵馬のなかに「家内安全、愛人ともうまくいきますように」という、まことに山の神を恐れぬ戯言(たわごと)を念じているのに吃驚したことでした。「いろはにほへと ちりぬるをわかよたれそ つねならむうゐのおくやま けふこえてあさきゆめみし ゑひもせす」といういろは歌にある通り、「有為の奥山」と「奥は山の上」に位置しています。山の上=山の神と、ぼくなんか「かみさん」を恐れ奉る根拠にさえなっているのに、絵馬の主は「山の神」を欺いていると、えげつない奴がいると、白山の印象は強烈でした。また、登山の途中で出会った老婦人は、今日で50回目の山登りだとか言っておられたのにも肝を冷やしました。いるのですね、金時娘のようなご婦人も。

この山は深田さんの故郷の山でもあり、高田宏さんが書いておられる通り、深田さんにして白山の記述ありと言わしめたもので、それは「山の文学の白眉」だとまで賞賛されている。今でも、深田さんの名著を道案内に「百名山」に挑戦される人が沢山いるそうです。また実際には登らないけど、著書を片手に百の山頂に立つ喜びを語る人も後を絶たないようです。ぼくは、道案内を頼りに何かをすることをまったく好まない人間でしたから、百名山などには見向きもしませんでした。ぼくのは登山というよりは丘に登るといった按排で、これは小さいころから学校を飛び出すようにして、北嵯峨周辺の名も知らぬ(ぼくが知らないだけ)山々を駆け回っていました、そんな庭遊びのような為体(ていたらく)でした。。
京都には高い山もありませんが、どんな小高い丘に登っても、市内は一望できました。ぼくは、それが好きだった。雑木林の間から顔を出すと、眼下に京の町が静かに盆地内におさまっていた。その中でも、堂塔伽藍といわれる名刹(というのか知らん)が、いたるところに見えていました。どうしてこんなにも、世間を睥睨するように威容を競っているのかしらと、大変な不信の念を持ったのもそのころでした。その伽藍堂塔の中で何をしているのか、よくわからなかったが、京都は抹香臭い街と言われるだけのことがあると思いました。あるいは「がらんどう」だったかもしれませんね。ぼくが京都を逃げ出した理由の一つでもありました。今では見る影もないほどに、高低様々な建物が脈絡もなく入り組んでいるのでしょう。けばけばしい限りというのか、浅ましい街になったようです。

本日は、久しぶりに好天に恵まれて、約二時間半ほど歩いてきました。(八時半から十一時まで)およそ一万五千歩ほどでした。距離でいうと、およそ十二キロ程度でしょうか。季語に「山笑う」という表現があります。そのいうところは以下の通りです。
● 新緑や花などによって山全体がもえるように明るいさまになる。《季・春》 〔俳諧・滑稽雑談(1713)〕※俳諧・続俳家奇人談(1832)下「山笑ひ谷こたへたる雪解かな」(精選版 日本国語大辞典)
拙宅は標高約百メートル。だから山間とはいえませんが、まあ、丘のようなところです。周囲は畑と田んぼに、雑木林。でも、こんなところでも「山笑う」が如くに、青葉・若葉に鳥が鳴く、と詩心ならぬ邪心が騒ぎます。「若葉沁み 青葉匂うや 里の道」(無骨)(無骨といい勝負の、子規・虚子師弟の句を参考までに)
・故郷や どちらを見ても 山笑ふ (子規) ・腹に在る 家動かして 山笑ふ (虚子)
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壮年時代に山登りに同道してくれた友人は京都にいます。このところあまり行き来もしませんが、時々電話があります。人生、塞翁が馬というのかしら、禍福は糾える縄の如しというのか。如何にも、どんな人も、生きているというのは、「山あり谷あり」という浮き沈みに齷齪して、加わる年輪を錬磨しているのだ、そんなことを実感したりしています。いずれにしても、年相応に、成長したいと、ぼくはいまだに願っているのですが、京都の友人はどうでしょう。怠け者のぼくには、彼に対して、及び難しという強い思いがあります。そして、山に登っていたころの颯爽とした容姿が眩しく思い出されます。
「春山淡冶にして笑ふが如く、夏山は蒼翠にして滴るが如し。秋山は明浄にして粧ふが如く、冬山は惨淡として眠るが如し」とは、中国」とは、中国宋時代の画家・郭熙の『山水訓』にあるの詩です。
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