知らしむべし、倚らしむべからず 

〈長崎で、長崎から〉 【水や空】東日本大震災が発生した2011年3月11日は金曜だった。その週末、県内最初の“異変”は献血ルームで起きた。春まだ浅いその時季には珍しく、献血用のスペースも待合室も市民で埋まった。「最大2時間待ち」の記事が週明けの紙面にある▲今、長崎にいる自分にできることは-と皆が考え、たどり着いた答えの一つが献血だったのだろう。すぐに自治体による被災地への職員派遣や支援物資の取りまとめが始まった▲紙面に〈東日本大震災 長崎で 長崎から〉という帯を登場させたのは10日後。「帯」は関連の記事をまとめて掲載するための間仕切りだ。記事の量に応じて左右に動かす▲支援の動きが多様化し、被災地から戻った消防隊員や医療関係者が現地の様子を語る。記事量が増えるにつれ「帯」は縦の長さが伸び、やがて紙面の右寄りの場所が定位置になった。ページ全体が震災関係の県内記事で埋まる日が長く続いたからだ▲震災発生からきょうで10年。地震の日に生まれた赤ちゃんは4月から5年生になる。決して短い時間ではない。帯も紙面から消えて久しいけれど▲被災地の復興や災害への備えに、都合のいい節目や区切りなどないと胸に刻むこと、長崎で今すべきことを探すこと。午後2時46分、目を閉じながら考えるべきことは多い。(智)(長崎新聞・2021/03/11)

 右の「政府広報」は「突き出し」と呼ばれる広告であり、毎年、ほぼ同様の文面で出されています。これに限らず、政府が全国民に知らせたいコトやモノがあれば、このような形式をとるのが慣例のようです。この広告は全国の新聞紙上に出されているはずです。すべてを確認したわけではありませんが、、本年度は全三十七紙に掲載されたようです。これのどこに可笑しいところがあるというのか。奇妙な部分があるというのか。そのように訝られる方がほとんどではないでしょうか。テレビでも時として「政府広報」としてCMが流れることがありますから、取り立てて、新聞だからいけないというのは、どうかしていると思われるでしょう。

 政府がその責任において必要と判断して広報することが問題なのではありません。たとえば、上掲の記事も当たり前に受け止めればそれでいいように思われます。ぼくは新聞を購読していないのでよくわかりませんが、このような記事はおそらく毎年、この時期に掲げられていたのでしょう。しかもそれを政府広報として、民間が請け負っていた。だからこそ、ぼくは、あれっ、と違和感を覚えたのです。これが全国の民間紙に「突き出し広告」として、という意味は、各新聞社がなにがしかの広告掲載費を政府から取っていた(いただいていた)ということです。「東日本大震災」の犠牲者への追悼の呼びかけだからいいじゃないかというのでしょうか、新聞社側も。この政府広報を無料で掲載していたら、どうでしょう。完全な官報でしょう。民間新聞は、まさに政府広報機関であり、それ以外の何物でもありません、ということになっていたでしょう。政府の広報(つまりは官報)なら、いっそのこと、報国新聞、翼賛新聞と改称したらどうですか。

 仮に「追悼」「黙とう」を読者などに勧めたいのなら、各紙がみずからの判断で、読者なり人民に呼びかければいいのではないですか。ぼくが違和感を覚えたのは、犠牲者への追悼を、だれあろう政府から言われるのは筋がちがうと感じたからです。細かく言えば切りもないのですが、福島原発はこの「突き出し広報」記事からは消えています、というより、そんなものはなかったかのように扱われています。それには、一瞬だけ目を瞑るとして、何かについて、ああしろ、そうするなと、政府からとやかく言われなければならない義理をぼくはまったく感じないし、それを唯々諾々と民間紙が掲載し、広告料を取る(商売だから当然という意見もあるだろうが、金になるなら何でもというのなら、寒気がする)、これはいささか言論機関として言論の自由とか何とかという観点からも、一言あってしかるべきじゃないですか。きっと、テレビやラジオもそうだったかもしれない。いずれにしても、この種の広報代として年間、およそ七億円余の予算(税金)が組まれているという。まるでマスコミは、疾うに政府機関の下請けだと自認しているんですね。

 少し前にこんな話題がありました。

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 中曽根氏に「弔意表明」文科省が教委などに通知 合同葬1 7日に行われる中曽根康弘元首相の内閣・自民党合同葬儀を巡り、弔意表明について知らせる通知を、文部科学省が国立大学や都道府県教育委員会などに送っていたことが14日、文科省への取材でわかった。総務省が都道府県知事と市区町村長に対し、葬儀中に黙禱(もくとう)するようお願いする文書を7日付で出していたことも判明した。

 政府は2日の閣議で、各府省で弔旗を掲揚して葬儀中に黙禱することを了解し、加藤勝信官房長官が萩生田光一文科相と武田良太総務相に、関係者らに周知するよう通知していた。文科省は藤原誠事務次官が13日、国立大や文科省の機関、日本私立学校振興・共済事業団、公立学校共済組合などの各トップに「この趣旨に沿ってよろしくお取り計らいください」とする文書を送った。

 都道府県教委に対しては、弔意表明について「参考までにお知らせします」とし、さらに市区町村教委への参考周知を依頼した。/ いずれの文書にも、明治天皇の葬儀で使われた弔旗の揚げ方を図で示した「閣令」や、黙禱時刻が午後2時10分であることを知らせる文書が添えられている。(以下略)(朝日新聞・2020年10月14日 )

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 元総理であろうがだれであろうが、一私人として亡くなったのです。それに対して弔意を表わせ、黙禱しろというのは、要らぬお節介だというのです。日本政府として、政治権力の最強者として、国民に命令を下す、それに盲従しろといわれても、分かりました、かしこまりましたというわけにはいかない。まったく取るに足りない、ちっぽけな人間ですが、それでも、ぼくの日常生活圏内に、権力がむやみに介入する余地はないのです。ことこの問題に関しては、ぼくはそのように考えている。どうして、そうしなければならないのか、ぼくにはとても理解できない話でした。偉い人物だったから、弔意を示すのは当然だろ、という思い込みがあるのでしょうか。

 さらにいえば、「大震災」の犠牲者というが、元をただせば、福島原発事故の原因は何だったのか。終わりのない、深刻な事態を引き起こしたのは誰だったのか。それを問わないままで、一分間の黙とうをしろとは、いかに嘘と誤魔化しで固まっている、バカな政治権力のやりそうなことだからこそ、ぼくはこの違和感を膨らませたいし、それを失いたくないのです。この問題に関連していいたいのは、「日の丸・君が代」問題です。今では当たり前に、「国家・国旗」を主役にして卒業式(近年、これを「卒業証書授与式」というらしい。だれが、どういう権限で「授与」するのか)とやらが執行されているのでしょう。この問題も、いつの間にか有耶無耶にされてしまいました。きっと、この権力行使は、装いを改めて、あちこちに出張ってくるはずです。

 ぼくは、否応なしに、この島社会の一員です。そこからさまざまな恩恵や保障をうけている、そのことを否定しません。しかし、だからと言って、お上の言うことには逆らうなといわれれば、何でやねんというほかありません。社会の一員であって、国の一部ではないんです。部品ではない。また、ぼくはすでに学校教育の埒外にいるものですが、それにもかかわらず、国家の束縛を受けなければならない子どもたちの側に立っていたいし、外部からの強制力が働く教育を認める立場には立ちたくない。国家の取ろうとする政治政策に対して、あくまでも自らの判断において、反対したり批判したりする力を育てる学校教育を守りたいと念願しているのです。誰彼にかまわず、おかしいことはおかしい、まちがいはまちがいであると、みずからの意見を表明し、批判する権利を行使する人間ための教育が、これまた学校という場所で求められているのです。

 ぼくたちの日常生活には、いかなる国家権力と雖も、無断で容喙することのできない領域があるのです。ぼくにかぎらず、私的な部分は譲り渡せない権利の基盤でもあるのです。ここを拠点にして、ぼくたちは社会において、自己を表現する姿勢や態度を維持できるのです。

 そのことを日々気づかせてくれるのが報道の役割ではないでしょうか。ことに新聞は、ぼくたちが自己表現できる権利行使の手段であり、それだけの期待があるのに「帯に短し、襷に長し」であっては、まず無用の長物であるほかないし、もっと危険な、権力の先兵になりかねないと思います。「倚らしむべし、知らしむべからず」という権力の陥穽を突き抜ける「木鐸」であることを思い起こしてほしいね。人民に刃を向けないでほしいと、心底願っている。

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投稿者:

dogen3

 語るに足る「自分」があるとは思わない。この駄文集積を読んでくだされば、「その程度の人間」なのだと了解されるでしょう。ないものをあるとは言わない、あるものはないとは言わない(つもり)。「正味」「正体」は偽れないという確信は、自分に対しても他人に対しても持ってきたと思う。「あんな人」「こんな人」と思って、外れたことがあまりないと言っておきます。その根拠は、人間というのは賢くもあり愚かでもあるという「度合い」の存在ですから。愚かだけ、賢明だけ、そんな「人品」、これまでどこにもいなかったし、今だっていないと経験から学んできた。どなたにしても、その差は「大同小異」「五十歩百歩」だという直観がありますね、ぼくには。立派な人というのは「困っている人を見過ごしにできない」、そんな惻隠の情に動かされる人ではないですか。この歳になっても、そんな人間に、なりたくて仕方がないのです。本当に憧れますね。(2023/02/03)